平たくいうと仁という男と繋がることができて幸せだった私は、彼が私の中に入ってきた時には泣いていた。彼はひどく困惑した様子を見せ、私の頬を伝う体液を指で触って何度か確認した後、いやなの?とかなり頼りなさげに尋ねた。ううん嬉しくて、私は湿った声で答え、それを聞いた彼は表情をこわばらせ、私を強く貫いた。声は簡単に漏れた。というよりずっと前から、堪えてはいなかったように思う。
 「怒ってる?」
 「めちゃくちゃ」
 「なんで?」
 「俺いただろ、ずっと。ばかじゃねえの」
 仁は言い、心配してた、と耳元で囁いて私の頭を撫でた。今さらなに、という思いとこんなに幸せでいいのだろうか、という思いが交錯したのは一瞬で、また私は声を漏らしている。




    者流




 もうやめて、その言葉はあの時のものとはまるで違う。単なる甘えしか含まれておらず、仁も頼りなさげな顔ひとつ見せず、決してやめない。やめて、やだ、やだ、やめて。募り、それしか言わない私の頭を仁はまた撫でる。いいとか好きとか言えよ、そう言われたら。私はそれに従うしかない。好き、もっと、仁。
 もっとしたい、ねえ、もっとして。何度もいったのに、私は仁に馬乗りになってそうねだる。汗をかき、ベッドに仰向けになって私が動くのを手伝っていた仁はふいに真面目な顔になって、お前なんか変、と私の頬を触った。お前じゃない。私は甘えたが、仁は気丈にもそれに、のらなかった。
 「なんかあった?」
 「なんかってなに」
 「なんか」
 「なに?なにが言いたいの」
 「乱暴された?」
 仁のその言葉は。私の内部の本当に深いところを突き、私は彼にまた泣かされている。された、この間の?、そうだよ。仁は私の頬を撫でるのをやめ、おいでと上半身を起こした。泣いているのに。あの男のことを思い出し腹の底が重いのに私は、仁のそれが私の内臓深くまで届いたことを感じ、声を上げている。かわいい、仁はそう言って私の腰に腕を回した。私は仁の首に腕を回し、彼の耳の下のあたりに顔をこすりつけ、そこで涙を拭いている。
 「だから待ってろって言っただろ」
 「だってが」
 「ああ、やってる時に他人の名前出すなよ冷めるだろ」
 「あんたもあの男のこと訊いてきたじゃん」
 あんたじゃない。仁のその甘えに、私はまんまとのってしまう。仁、仁、好き。うん、仁は呻くように頷き、私の腰を揺らした。いく。またかよ。仁は笑うが、私は笑えない。好きって言って、私はすがるように言い、耳元で仁が発したその言葉は、私を何度でも昇らせ何度でも甦らせた。
 「あの時無理矢理連れて帰ってればよかった」
 「いいよ、平気」
 「まだそんなこと言うのかよ」
 「平気だよ、もう」
 ありがとう、そんな言葉は吐きたくなかったが、自然と口をついていた。悪い一回いかせて、仁のその囁きに、私は安心を覚えている。「やだ足りない」、「欲張り」。仁は消え入るように笑い、私の中で果てた。

 暑い、そう言いながらも仁は私の体に腕を回してくる。暗闇の中床に放り投げられた彼の携帯が、幾度となくぴかぴか光るのを私は見ていた。けれど仁は決してそれに触らない、光るランプを気にする様子もない。時々、ぱっと画面が明るくなってよく見えないが、何者かの電話番号もそこには表示された。電話出ないの、と尋ねる勇気は私にはない。そんな彼女みたいな言葉を吐く勇気は。私も暑く、投げ出した足をシーツの上で滑らせては冷たい部分を探していた。
 「やばい頭おかしくなりそう」
 「そんなに暑い?」
 「ちげえよずっと好きだったから」
 「うん」
 「うんじゃねえだろ散々我慢させといて」
 「えらかったね」
 「しんどかった」
 ずっとしたかった、仁は呟き私の鎖骨のあたりに顔を押し付けている。仁の汗がじんわりと私に伝わってくる。暑い、それでも私も、仁に腕を回している。あの最初に会った夜、本当に大変な努力をして我慢していただとか次にアーケード下で私達を見かけた時、自分から声をかければ嫌がられるような気がしてきよすみに行かせたとか、まるで素知らぬふりを私がするものだから死ぬかと思ったとか、そういうことを仁はぽつりぽつりと言い、私はたまらなくなっている。彼の後頭部のあたりしばらくの間撫でていた、整髪料で固められていたはずの髪は汗とまじり、シーツにこすれて、中途半端な硬さを保っている。仁はずっと大人しくされるがまま、時々目を閉じ、開けては私をじっと見ていた。
 また仁の携帯の画面が明るくなり、ベッドの上からでは読み取れない名前と番号を表示している。ねえさっきからしつこいのは誰?それとも全部違う人?あの若いバカの集まりを作ってる友達?それとも女の子?私は訊きたいが、やはり訊けない。
 「もう一回したい」
 すべてを無視しながらも、不安を抱いている私に言えたのはそれだった。電話やメールの相手が誰であろうと今、彼を目の前にする私にしか言えないのはそれだった。
 「わかってる」
 仁は唸り、私を強く引き寄せた。傷はなかなか癒えたりしない。こうして仁に抱かれながらも時々は、あのくずみたいな男の幻想が私に近寄ってくる。痛みや苦しみを思い出している。お前が嫌がることは絶対しないって決めてた。仁がそう打ち明ける。清めてくれ。私はそう願っている。

 翌朝仁は起きていて裸のまま、私の隣で煙草を吸っていた。起き抜けの、ふらふらの頭とくたくたの体を持つ私の第一声は「学校」、だった。体を起こして携帯の時計表示を眺める私を
 「今日土曜」
 と仁は笑った。ねえ帰ってくれない?その言葉は一夜明けて冷えた私の体から、いやにまっすぐに飛び出した。
 「は?」
 「満足したでしょ?帰って」
 「なに言ってんだよ」
 「あんたがなに言ってんの、大体なんでまだここにいるの?帰るでしょ普通」
 ねえ勘違いしないでよ付き合う気とかあんたのこと好きとかそういうの全然ないから私、わかったら早く出てってよなんで私が、中学生の相手すると思ってるの?私の言葉を煙草を吸いながら、仁という男は大した動揺も見せずに聞いていた。その姿勢に、また私は冷えていく。どうして。中学生のくせにガキのくせにあんなに素直に私の言うことをずっと聞いてきたくせにそれで時々我慢しきれなくなって私に触れようとしてきたくせにどうして、そんな子どもを見るような目で私を見るのか。帰って。私はもう一度言い、仁は応じなかった。
 「全部演技だったとか言いたいのかよ」
 「そうだよ、演技だよ」
 「なにガキみたいなこと言ってんの」
 「うるさい、帰って、嫌い」
 「嫌いとか。嘘でも言うなよ結構落ち込む」
 仁が笑って私に手を伸ばした。触んな、叫びに近い私の声にも、彼は応じない。おいで、そう言われたが冷えた体と心は動けずに、結局仁が私にぎゅっと詰め寄った。意地でもメールしてこなかったり、俺のこと覚えてないふりしたり顔も見たくないようなふりしたりなんとも思ってないふりしたり、昨日あんな顔してたくせに俺のこと、嫌いなふりして、お前はなにがしたいんだよほんと素直じゃねえよな。仁が耳元で囁いている。だって。
 だってが。私のかわいい女友達のが、あんたのことを好きなのだ。あんなに美しい私の女友達が、私の大好きな女友達が、私なんかを好きになるような男にあしらわれ、悩み、構われたいだとか思っているのだ。それなのに私は昨夜の、ただの怯えそれだけに甘えこの男に救われたように感じ、そして欲望のままにこの男とやってしまった。昨日まであんなにも自分の女友達の幸せを願っていた私が。こんなことが何故許されるだろう。かわいく、かわいそうな目に遭ってきた私のよき友人を私はどうして、無下にしたりできるだろう。彼女の気持ちを無視してこの男とこのまま好き合うだなんてことを、誰が許すだろう。私が守らずして一体なにが、彼女を守るだろう。私はこの男が好きだ、もう耐えられない、隠しきれなかった。けれどそれを私はこの男に、忘れるようにと訴えている。と付き合ってよなんでふったんだよあんなかわいい子いないよ私よりずっといいよ、私はそう言い、仁は腹立たしげに灰皿に煙草を押し付け、覗き込むようにしてこちら睨んだ。
 「うるせえな余計なお世話なんだってかわいいとかかわいくないとか好きとか嫌いとかそんなん俺が決めるんだよお前は黙って好かれてろよ」
 頭冷やせば。言いきって仁は私を離れ、立ち上がった。茫然とする私を放り投げて昨日と同じ服を、その体に次々とまとっていった。帰るの?私の死にそうな声を仁は無視し、寝室を出て行ってしまった。

 「服くらい着ろよ変態か」
 十分後に仁はあっさりと私の前に戻ってきて、自身がここを出て行った時と同じ格好同じ体勢のまま固まっていた私を見て吐き捨てるように笑った。それでも私は動けない、仁はあまりそれを気にした様子もなく、ベッドに腰かけて手に持つコンビニの袋を私に見せてきた。なんか食う?パンだとか飲み物だとかがふたり分入ったビニール袋のその中に。マルボロと、私とが吸うメンソールの煙草のパッケージを見つけ、買えたの?と私はやっと声が出た。
 「なにが?」
 「煙草」
 「普通に買えたけど」
 「そこのセブン?」
 「そう」
 「私。いっつも売ってもらえない」
 「だってお前ガキっぽいもん」
 私は。仁のその言葉に急に胸がえぐられたような気になり、体が熱を持ったのを感じた。ああもう泣くなよ、仁が眉間に皺を寄せこちらを見ている。食えと言われて差し出された惣菜パンをかじると、涙はさらにぼろぼろとこぼれた。頭冷えた?仁の穏やかな声に、私は乾いたパンを咀嚼しながら頷いている。
 「好き」
 「知ってる」
 仁は私の告白を、予知していたかのように受け止めた。
 「私どうしたらいい?」
 「なにが」
 「のこと」
 「どうしたらって、なに」
 「だってはあんたのこと好きなんだよ」
 「それが?」
 「それが?って」
 「お前は俺のこと好きなんだろ」
 「うん」
 「じゃあそれでいいだろ、別に」
 「そうだけど、私ずっとあんたのこと好きとか、に黙ってたから」
 「言いたいなら言えば」
 「そうだけど」
 後の言葉が続かない。そうだけど。今まで散々黙っておいてそれでふいに仁とこうなってしまったことは、裏切りみたいなものではないだろうか。今朝目を覚ました時に私が、昨夜を思い出して急に冷たくなり仁に帰れと吐きかけたのも、私がずっとかばい続けてきたはずのに対し、こんなことをした自分が情けなくて仕方がなかったからだった。はあ、ため息を吐く裸の私を彼は、パックのコーヒー牛乳などを飲みながら眺めていがしばらくすると、真面目な顔で口を開いた。
 「まだあいつがどうこうだからって俺のことほったらかす気?」
 「違うけど。でもに全部言わなきゃ」
 「だから。言いたいなら言えって」
 「そうだけど」
 「大体お前ら仲良いふりしてこんなことでだめになるような人間関係しか築いてこなかったのかよ」
 大丈夫だって。仁にそう励まされ、私は静かに頷いていた。でもまだ付き合えない、私は言い、いいよ俺待つのだいぶ慣れた、と仁が余裕を見せてきた。





----------
2014.7.13


 鳥籠 / 籠城 / 城楼 / 楼閣 / 閣筆
  筆癖 / 癖者 / 者流 / 流雛 / 雛鳥