痛いやめて、言うまいとしていた言葉はあっさりと出てそれに気付いた時、涙がこぼれた。
 私の地元は田舎で、近くにはろくな高校がなかった。小中とクラスが学年にひとつしかなく、ずっと同じ顔触れで義務教育を過ごしてきた。うんざりだった。
 こっちの高校に行きたいと言った中三の私を両親は簡単に認めた。それが私の地元近くにある普通科と変わりないレベルの高校で、目立つ特色もない、ありきたりなただの公立校であるにも関わらずあっさりそれを応援した。私の為に学生向けの小さな部屋を借り、家賃を払い住まわせ、長期休暇に自分達の娘が里帰りするのを楽しみにしている。ごくたまにこちらに顔を出しては私に手の込んだ夕食なんかを作って食べさせ、の失敗話なんかを聞かせるとわあわあ笑って、ある程度好きにやるのも学生の醍醐味ではあるが、ちゃんと卒業するようにと念を押す。テストの点が悪かろうと出席日数がぎりぎりであろうと、大体の場合おおらかに対応した。
 今、私はその両親の加護であるこの部屋で愛してもいない、ろくでもない男に抱かれ痛みに泣いている。死にたい。助けてほしい、以前なら、こんなことなんとも思わなかったのに今日は、ひどく全てがつらかった。頭の中にあの彼が浮かんで消えないのは何故なのか。彼が助けに来るのを描いているのは何故なのか。彼を思うほどに、今の自分が苦しくて仕方ないのは何故なのか。もうやめて、言う度に男は乱暴になり、今さらになってテキーラのダメージを受けた私は、割れるように頭が痛かった。




    筆癖




 翌朝目が覚めた時ベッドの隣が空であることがどれほど私を安心させたか。もしそこにまだあの男がいたら、私は耐えきれなかっただろう。耐えきれないのに消えやしない男にさらに耐えきれず、めちゃくちゃになったに違いない。男はいない、きっと夜が明ける前に帰ったのだ。つまりそれは私に一度きりで見切りをつけたということだ。喜ばしいことだった、万が一あの男に執着されでもしたら私は、あの男に自宅を知られてしまった私は、健やかな生活を送ることができなくなる。
 妙に痛い体を無理に動かさないようにゆっくりと、床に落ちていた携帯を拾い上げる。9時15分、テスト一日目の一教科目は始まってしまった。私はのことを考えている。大嫌いなはずの勉強を自分なりに続け、結局は前日にそれを投げ出し、ばかみたいに酔っ払った私の女友達のことを。彼女は登校できただろうか、二日酔いの程度はどうだろう。いやそれよりも昨夜、ちゃんと家まで帰れたのだろうか。あの、山吹の整った顔の彼はしっかり任務を果たし、彼女の家を見つけ、せめてその門の中まで、彼女を連れて行ってやっただろうか。思い出したのはここにいろよと言った彼の言葉で私は、あの後もしかしてあの場まで、を送り届けた彼が戻ってきたのではないかと思うと、胸が痛い。
 できることならそうしたかった。助けてだとか言いたかった。けれど私はの暮らしを脅かすであろうあの男に、対応するしかなかったのだ。あれ以上あの男を刺激して、私自身がさらにひどい目を見るのもごめんだった。

 「うあー今起きた、ねえ今日テストだよね?もう学校?」
 なんか耳ん中バクバクいってんだけど。五分後に少しは落ち着いた頭を使い電話をかけると、私の着信で起きたらしいは眠そうな声でそれに出た。おはよう。おはよう。私もさっき起きて、学校どうする?あたし行かなきゃ、親に捨てられる。じゃあ私も行くよ。私達はぼんやりした声のまま、簡単な打ち合わせをして電話を切った。ゆっくり、ゆっくりと起き上がるとシャワーを浴びた。体がぼろぼろになったような気がしていたが不明瞭なバスルームの鏡に映る私の裸は、昨日となんら変わりないように見えた。
 互いの家の中間地点にある小さな交差点で待ち合わせをした、朝一緒に登校する時、私達は必ずここに集まる。今日からテスト、惰性で私は昨夜から滞っていたきよすみのメールにそう返信し、遅れてやってきたの顔を見てうろたえた。彼女の右頬骨のあたりがうっすらと青くなっていて、昨夜あのくずみたいな男から確かにを遠ざけ、ひどい目を見たのは確かに私であったのに、まるでがあの男に乱暴をされたかのような、そんな錯覚にとらわれた。どうしたの、尋ねた私の声は強張っていただろう。お待たせーといつも通りにやってきたは驚いた様子で立ち止まった。
 「顔のこと?親だよ、昨日酔って帰ったから、めっちゃ怒って」
 昨日大丈夫だった?痣が両親から受けたものなのを知り、行き過ぎた娘の行動にこぶしによる叱責をするのが彼女の両親の常であること思い出すとかわいそうながらに私は安心し、大丈夫だよと答え学校へ向かって歩きだした。
 「ごめんあんまり記憶なくて、あの子に最後送ってもらったのは覚えてるんだけど、誰か知らない人いたよね?あれどうなったの?」
 「私のこと送って、帰ったよ」
 「そうなんだ、知ってる人?」
 「ううん、クラブで知り合って」
 「やったの?」
 単刀直入すぎるの質問に私は笑ったが、うまく笑えたかどうかの自信はなかった。それで、まあそんな感じ、とその質問をやんわり肯定した。やはり飲みすぎて頭が痛いらしい私の美しい女友達は、頬を青くしながらそっかあと呟き、何度か頭を掻いていた。首を傾げたりして。あたしねえ、と彼女はしばらく歩いてから声を上げた。
 「たぶん結構甘えたんだよ、あの子に。べたべたしたりして。でも全然、手ごたえなかったっぽくて、あんまり覚えてないんだけど。すっごい悔しくて、その後家入ったら親に引っぱたかれるし、バチ当たったのかなあって感じ」
 ねえどうしたらいいんだろう嫌われちゃったかな?がなんでもない顔で私を見上げ、相談をしてくる。好きなの?私は遂にそう訊いた。彼女は、よくわかんない、と嘘偽りのないであろう答えを寄こした。
 学校へ着いた時、テストは三教科目が終わる寸前だった。私達は生徒玄関で不運にも生徒指導長の体育教師に見つかり、捕えられ、職員室へと連行された。試験中でほとんどの教師が監視員として出払ってしまった静かな職員室で、私達はまずその体育教師から精いっぱいの声で怒鳴られ、監視員を終えて戻ってきた担任にくどくどと説教をされ、それで今日最後の、四教科目の数学のテストを受けるようにと言われそこから解放された。ねえ現文と化学と家庭科はどうなんの?職員室を出る間際は私達が受けられなかった今日の三科目について担任に尋ね、もう一発叱りの声を飛ばされた後、後日追試を受けるようにと説明を受けた。追試って放課後やるやつじゃんだるくね?疲れきった顔で言うと別れ、私は自分の教室へ入っていった。痛い頭と、だるい体と、ずきずき痛む胸をひた隠しにし、きたる数式達に私は、立ち向かわなくてはならない。これまでにないほどの両親に対する申し訳なさが、今私の中で募っていた。

 ここにメール送ると幸せになれるよ、きよすみからそういうメールが届き、一緒に送られてきたのはいつかも見た、白い彼のあのアドレスだった。しあわせだからいらない、私はそう返事をし、疲れたーと伸びをしているにお疲れ様と言っていたわってやり、立ち上がった。私達はここ三日間、課せられた追試試験三科目を一日一科目ごとに分けて放課後に受けておりその日、最後の科目を無事終わらせて部活をしている連中で騒がしい校舎を夕暮れになってから、やっと出ることができた。
 もう、ほんと疲れた今回は、もういや、なんにもしたくない。ぶつぶつ呟くと一緒に、私は当てもなく通学路でもなんでもない通りを歩いている。クレープを食べる気にも、ゲーセンに立ち寄る気にも、カラオケに行く気にもならなかったが、家に帰りたいわけではなかった。私はあの男があの家で私を抱いてからというもの、家に帰るのが少しだけ怖くなってしまったしは、あの夜遊び以来両親との関係が過去最悪らしく、いやだいやだと言いながらいつも私に見送られて自分の家に入っていく。いやだいやだ帰りたくないと言いながら今彼女は、夜遊びをする気もない。私の女友達はあの一件で本当にきつく両親に叱られたようで、自粛期間への突入宣言もせず、ただしおらしくなって毎日門限よりもずっと早い時間に家に帰るようになった。彼氏でもいたらいいんだけど、は言い、私はあの白い子でいいじゃんと答えていたのだが。そう言うとがさらにしおらしくなるのに最近気付き、私から彼のことを口にするのはやめてしまった。は恐らくあの彼が好きなのだろう、あの時好きだと認めなかったが、とても気になる、くらいの気持ちにはなっているはずだ。その恋路みたいなものがいつも以上にうまくいかないこと、そして両親からひどく叱られ続けていることが重なって私の女友達には、今元気がない。ねえなんか食べない?私は提案し、彼女の返事はそうだねえという、気の抜けたものだった。
 寒気がし、一瞬足取りがふらついた。ひとつも声を上げなかった自分をえらいものだと褒めてやりながら、隣のを見る。彼女はぼおっとした顔で前を向いたまま、ねえ現文の一番最後なんて書いた?と私に尋ねている。覚えてない、私は答え、黙りこんだ。あそこに。この通りを真っ直ぐ行った先のオープンテラスのカフェの前のベンチに。腰かけて携帯をいじっているのは確かにあの、テキーラの男だ。
 このまままっすぐ通り過ぎるべきだろうか、けれどそうするとあの男の視界に入るかもしれない。方向転換した方がいいのだろうか、しかしそんな私を見てがどうしたの?だとか大声を出したりしたら、やはりあの男がこちらを向くだろう。私は、自分がどうしてそこまであの男を恐れているのかわからなかった。あの男はあの朝確かに部屋から消えていた、電話番号の交換や、名前を尋ねることさえもしなかった。あの男は私にもう興味がない、一夜で見切りをつけたはずだ。だからこうして街中で私を見かけたところで、声をかけてくるだなんて野暮なまねはしないだろう、大体私のことなんて覚えていないかもしれない。それなのに。私はあの男を恐れている。抱かれることが怖いと思わされたからだろうか、私の家を知っているからだろうか、どうしよう、そう思うのに次の行動を決められず、ずいずい歩いていくと足並みをそろえて進むことしか、私にはできない。
 覚えていなければいい、そう思ったのに男は私とがベンチの前に差し掛かった瞬間、顔を上げてまじまじと私達の顔を見た。それで私達が通り過ぎた時に、ゆっくりと立ち上がったのを私は、目の端で捉えている。走り去りたい、逃げ出したい、ぎゃあぎゃあ叫びたい、そう思うがそれもできない。隣の、まだ現代文の最後の問題についてなにごとか言っているはこの男を覚えていないのだ、覚えていないのなら、そのままでいてくれと私は思う。私がここで騒いで、逃げたりしたら私は、に全てを話さなければならなくなるだろう。まあそんな感じ、では済まされないことが私の内部で起きていたことを説明してやらねばならなくなるだろう。そうしたら。私の美しく優しい女友達は絶対に、自分を責めるのだ。ただでさえしおらしくなっているというのにさらに自分を責めて、落ち込んでしまうだろう。それにこの私達の後ろを歩き始めた男は私の女友達に手を出そうとしているのかもしれない。私がなにか間違った行動を起こして例えば声ひとつ、私達にかけてきたりしたらあの夜ああしてまで守ったとこの男が接点を持ってしまう。そうしたら私は、またこの男がもたらす彼女の不幸に恐怖するだろうしそんな不幸は、許されない。に悟られないように、怯えていることを男に悟られないように、なるべく自然にふるまおうとし、私は携帯を取り出した。もっとしあわせになれるよー、届いていたきよすみからのメールに、電話番号おしえて、と私は送った。いつでもどうぞー、きよすみのメールは驚くくらいすぐにそう返ってきて、090から始まる番号もそこに、記されていた。ためらいなく、私は発信する。
 「誰?」
 聞こえた声はきよすみのものではない。きよすみ?それでもそう問いかけた私を、私の通話に今気付いたらしいが隣で、きょとんとして見上げていた。きよすみの友達、そう言ったその声が、さきほどの誰?という冷えた声が、あの白い彼のものであることに私は気付いた。
 「きよすみの携帯じゃないの?」
 「俺のだけど。誰?」
 「私、の友達。わかってるでしょ」
 うん、と向こうで言った彼の声が穏やかに笑っているのを私は感じている。感じて、それでふわふわとした気分に今は、なれない。気が付いたらの制服の袖をしっかり掴んでおり、きよすみと電話してんのー?という彼女の呑気な問いかけに、無理やり笑顔を作って頷いた。
 「今平気?」
 「もう酔ってんの?」
 「違う。でも来て」
 「どこ」
 男はまた簡単にそう訊いた。私は周囲を見渡し、一番最初に目に入ったファミレスへとを引っ張るようにして入り、駅前通りのファミレス、と答えきよすみか誰かと一緒に来て、と続けた。急ぐ?急いで。そういうやりとりをしている最中に店員が私達に近寄ってきたのを見て私は通話を切り、ふたりで、あとでもうふたり来ますと言った。席へと案内されながら小さく後ろを振り返る。男は店内まではついてこなかったが、全て見通したような顔で出入り口の外から、こちらを眺めていた。
 「ここでなんか食べよう、おごるよ」
 私は席に着き、向かいに座ったに当たり前のように提案した。どうしたの?誰かくる?はなにをどうとらえたのか、今日初めて嬉しそうな顔をして私に尋ねた。きよすみ達、私は答え、仲良くしてんだねーと彼女は笑ってメニュー表を広げた。鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で。私はちらりと通りに面した窓から外を見る。あの男の姿は見えなかった。

 「ごめんすっごい会いたくて」
 私は、しばらくしてあまり急いだ様子もなくやってきたあの中学生ふたりに、そう説明するしかなかった。がうそでしょーとげらげら笑い、私に見つめられてそう言われたきよすみは驚いた後へらへらと笑い、私は彼の顔を、見ることができなかった。私がきよすみだけを見て話しかけたからだろう、流れとしてきよすみは私の隣に、白い彼はの隣に座った。食べて、おごるから。私は自分以外の三人に笑うこともできず、真面目に食事を促した。できるだけ長く、四人でここにいたかった。心臓が高鳴っているのにずっと気が付いていたが、それを今日も隠し続けている。
 腹減ってないんだよねーときよすみが言い、もそれに軽く同意し、デザート食べようかなあとメニューをまた広げている。彼女の隣の彼はというと、黙っていた。斜め向かいになって座った私の女友達と彼の男友達は、あのカラオケの時のように次第ににぎやかになっていった。テストどうだったの?散々だよ死ぬかと思った。めっちゃ疲れた顔してるもんね。そうだよあたし痩せたでしょ?それはわかんないけど。そんな風に。出された水だけを飲む時間がしばらく続いたが、その内きよすみとのなんか喉乾かない?という意見が一致し、私達は食事を決めないまま、とりあえずドリンクバーの使用だけを店員に申請した。なに飲む?私は尋ね立ち上がろうとしたが、おごってくれるんだから座ってなよとに言われ、またそこに腰を下ろした。きよすみが立ち上がり、がそれに続いた。彼女が白い彼の前を、身をよじってよいしょ、とか言いながらすり抜けるのを見ていた。彼は大げさに足をどけるしぐさも、からかって邪魔をするしぐさも見せなかった。私達、押し黙るふたりはいつかのように、取り残されている。
 「触りたい」
 唐突に白い彼はテーブルの上に投げ出された私の右手をじっと見て、呟いた。じゅわっと音がしたかのように、手首が熱くなったのを私は恥ずかしく思い、ぎゅっとこぶしを握りたいのを堪えて右腕の力を抜き続けた。
 「我慢して」
 私は彼にそう釘を刺す。うん、男が呟き、頬杖をついたのがテーブルに目を落としたままでも、見えた。なんで待ってなかったんだよ、沈黙の後に男はそう言った。それがあの夜の、と彼を送り出した時のことだと、私はすぐに感づく。平気だったから。私はそう言った。
 「なに言ってんだよ」
 「そっちは?」
 「は?」
 「ちゃんと送ってくれたの?」
 「本人から聞いてんだろ」
 「あの子酔ってたんだよ、覚えてないって」
 「お前、あんなやつのこといいから自分の心配しろよ」
 「のこと悪く言うの?」
 「違うだろてめえはあの男になんかされなかったのかって聞いてんだよ」
 されてたらなんかあんたに関係あるの?私は呟き、男はそれを聞いて言葉をなくした。ココアあったよーときよすみが戻ってきて、私と彼が会話をしていたこの一、二分なんて、なにひとつなかったかのような空気が流れた。





----------
2014.6.29


 鳥籠 / 籠城 / 城楼 / 楼閣 / 閣筆
  筆癖 / 癖者 / 者流 / 流雛 / 雛鳥