九月。五年間遊ぶ暇もなく働いていた為二人で貯めた貯金が物凄い額になり、使わないと悪い目に遭いそうな気がした貧乏人気質の私達が、良い家に引っ越そうと部屋探しをしていた時、仁は車を新しく買い替え、キツネくんは地方に出張、私はストレスにあおられ今月に入って三回目の生理きた。





    黒猫




 これで仕事を辞められるかもしれない、そんな私の期待は見事に裏切られ、病院で処方された薬を飲むと血はぴたりと止み、独特の腹痛も憂鬱な気分も治まってしまった。仁は私を心配してくれ、頭痛薬を買い足したり寒がる私を抱き締めたりしてくれたけれど、それはどこかぱっとしなかった。当然だろう。男である仁に生理が何度も何度もくる恐怖と異常性がわかる筈がない。だから仁から、仕事辞めたら?という言葉はなかった。仁は私が今の職場を好いていないことは察しているようだったけれど、例によって仁の前では冷静な、吐露をしない猫でいる私が、本当はどれほどそこから逃げ出したいかは知らないままだった。私は仁にそれを言われた時、本当にすんなり仕事を辞められるかどうかの自信はない。仁に冷静さをもたらされる私は、いざ言われてしまえば大丈夫と答えて仕事を続けるかもしれない。それはわからない。ただ私は、返事がどうなるにせよ仁に、辞めたっていいのだという許可をされたかった。
 あまりに毎日がしんどかった為、私は仁以外の人間と接する気が殆ど失せていた。だからキツネくんへのメールも九月に入ってから、ずっと滞ったままだった。その頃北の方へ出張に行っていたらしいキツネくんは、私の返事がないにも関わらずほぼ毎日私にメールをくれた。それは出張先での日記のような内容が多かった。居酒屋で食べた白い焼き魚がおいしかっただとか、出先で会った老夫婦の生きざまが見習いたいほど素晴らしかっただとか、見知らぬ街のビル群の写真が添付され今日の戦場です。と書かれていたりだとか、そういうものばかりで、文末の言葉がお忙しいようですね。から体調崩したりしてない?。に変わり、もしかしてメールしないほうがいい?。に変わり、最終的に今こうしてなんでもない自分の気持ちを書ける相手はあなたしかいないけれど、嫌がることはしたくないのでいつでも僕を拒否してください。になった時、私はやっと病院に行きホルモンバランスを整える薬を手に入れた。読んでたよ、ちゃんと、と返事を打ち始め、返信が遅くなったことを詫び、彼の日記や写真のいくつかにコメントをして、一番最後にずっと体調が悪かったけど治ったよ、とだけ私は記した。キツネくんへのメールに生理、という単語を入れたくなかったのと、キツネくんも男だからこの恐怖にいまいちピンとこないだろうと思ったのと、心配をかけたくなかったからだ。吐露をする時私は、キツネくんが自分を心配するかどうかに気をかけない。私の抱えたなにかが私に全く非がなく、周囲の極悪さによって生まれたものではないと私も、キツネくんもわかっているからだ。私は吐露をする時完全な被害者意識でメールを打つが、この悪しき職場に気を病んでいる私自身にも、悪しき職場を作った原因はあるとわかっているし、私が改善すべき点も少なくないと理解している。私は吐露をする時キツネくんに甘えているのだ。全てわかっているのに被害者面して泣き言を言いたいのだ。キツネくんもそれをわかっているからこそ私の吐露に、返事をしたりしなかったり、正直今回のメールを読むのには苦労が要りました、と素直に述べたりする。だけどストレスによる体調不良となると、キツネくんが本気で私にかかってきて、心配してしまうのではないかと思うと詳細は記せなかったし、治ってしまったと過去の話にするしかなかった。キツネくんから返ってきたメールはたった一行、あなたはがんばりすぎなのだといつも思っています。というもので私は、それを読んだ瞬間に不安定なまま、確信を持つ。キツネくんが好きだ。
 まるで体調不良なんかなかったよそおいで仕事に出ていた私は、休憩室のカレンダーの25、26を囲む赤い丸印を見てはそわそわとした。キツネくんがコネで取った二枚のチケットはまさかの、初めて見る一桁、5と6の連番だったけれど会場は県外で、私達はそこに泊まりがけで行くことが先日、決定した。私は初めて仁に、笑えない嘘を吐いて、このライブには一人で行く、カプセルホテルにでも泊まって帰ってくるだろうと言った。私のライブ狂いを知っている仁は、過去にも何度か県外に、たまに飛行機に乗らなければ行けないほど距離のある会場まで足を運ぶ私を知っている仁は、いつも通り、気の抜けた返事を寄越した。違ったのはその後、仕事休んでゆっくりしてこいと、体調不良だった私を慰めるような台詞を吐いたことだった。私は初めてキツネくんと関わる自分を、仁に対して悪いと思った。ずっと血だらけだった私の腹部を気遣いセックスを求めない仁に、自分がしたこと、していること、これからしようとしていることを思うと体が冷えて冷えて仕方がなかった。それでも私は今日職場に出向き、二連休の希望を申し出た。
 その日キツネくんからきたメールは月末のライブでまた私に会えるのが楽しみであるということ、仕事を休ませてしまって申し訳ないということ、出張からもうすぐ帰ること、恋愛観、今自分が奥さんと、良好な関係を保っているということが書かれていて、仕事帰りにそれを読み私は震えた。キツネくんが私に会えることを楽しみにしている、素直に嬉しかった。キツネくんが奥さんと不満なく暮らしている、妙な気持ちになった。私は勝手にキツネくん、奥さんの関係は冷えきっているのだと思っていた。冷えきっているからこそ愛人を、作るのだと思っていた。でも実際はそうでないらしくキツネくんは、こうして奥さんと、なにも問題がないと言い切った。キツネくんが奥さんと不仲であると、言ってくれたらそれでよかった。だから他の女の子と遊ぶのだって、言ってくれたらそれでよかった。キツネくんはそれを否定する。私はだから、震えている。キツネくんがまるでわからない、私に言葉を送り付けてきたキツネくんの神経が今私には、わからない。私とキツネくんはただ単純に、なにかを抱えた者同士でだから惹かれ合うのだと思っていた。抱えたものを他の誰にも言えないからこうして、長い文字をかわし合うのだと思っていた、私が仁と不仲でないにしろ、吐露ができないようにキツネくんも、奥さんに伝えられないことを私に宛てるのだと思っていた。「僕の奥さんはいい人です。」、その文字が、彼女が、キツネくんの奥さんがキツネくんの全てを許し見守っていることを物語っている。大学在籍中に崩れてしまったキツネくんを、遠からず近からずの距離でずっと添ってくれていたらしい奥さんが結局は、いまだにキツネくんを包み込んでいることを物語っている。私は仁に多くではないがなにかしらの、言い出せないことを持ち合わせているというのにキツネくんは。対等ではない、その事実に私は震えながらヘッドフォンを耳に当てた。私は仁の名前をメールに載せたことがない、その時点で、私と彼が対等である筈がなかったのだ。隠し怯えている私と、晒し開けているキツネくん。音楽が一切、脳みそに届かない。


 楽しんでこいよ。仁は仕事に出かける前、ベッドに横になったままの私にそう声をかけた。携帯で家見ておくね、と私は二連休中も、家探しを続けるという意志を表明した。仁は薄く笑い、私を撫で、部屋を出ていった。私は夏でも秋でもない季節の陽があたりを暖めるまでベッドでうつらうつらし、携帯を見るまいと決め込みながらゆっくりと準備を始めた。泊まりがけでライブに行く時の為の大きめの鞄を探しながら私は初めて、ライブに行くことを迷っている。もし今日このまま家に留まったら、帰ってきた仁は驚くだろう。ライブじゃなかったっけ?と自分の記憶違いを疑いながら質問し、行くのやめたと言う私にまた疑問を抱くだろう。けれど根本的にライブというものに興味のない仁はすぐに気持ちを切り替えいつも通り、私と夜を過ごすだろう。私は仁のことが手に取るようにわかる。わかるから、行くことを迷っている。私が仁といた時間の長さや、育んだ全てや、好きだという変わらない気持ちが仁への分析につながっているからでこんな仁を、私は裏切ろうとしているからだ。別に同じ部屋に泊まるわけでも、愛人になってくださいと言ってきたわけでもないキツネくんと、生き甲斐であるライブに行くだけなのだといってしまえばそれだけなのだが、それだけなのだったら、どうして私は今日までの間、初めて吐いた嘘を吐き通してしまったのだろう。迎えにいきます。昨日のキツネくんのメールにはそう書かれていて、私は二回目の、一行で終わる返信をした。11時に駅前のローソン。
 キツネくんの運転する車に乗ってしまえば、私の抱く罪悪感は薄まった。というよりも家でマニキュアを塗り始めた時点でもう、薄まっていたのだろう、悩みながらもライブに行く準備をしていたのだから。
 「俺ねえ二、三年前に北海道に行って、やっと本物のキツネ見たよ」
 久し振り、という前回と同じ挨拶の後に彼はそんな話をし始めた。北海道で車を運転している時に道路に飛び出してきたというキツネは、高校生であった私や仁やキツネくんがビデオで見たものと違い、痩せて毛艶も悪く色が濃かったという。ふわふわになるのは冬だけなんだって、と地元住民に聞いた話を残念そうにキツネくんは教えてくれた。
 「冬毛ってさ、首回りが特にふかふかで。チャラい感じになるよね」
 ビデオの記憶を話すキツネくんに、だからそっくりなんだよ、と私は笑った。ほんと、気違いだったよなあ、と彼は、まるで他人の昔話をするように感想を漏らす。キツネくんは変わったのだ、病の前後ですっかり変わり、どちらが正しい自分であるのか、むしろ正しい自分なんていうものがあるべきなのか、よく悩むのだと一度メールに書いてきた。仁の昔言っていたあいつ考え過ぎなんだよ、の言葉を当時は信じられなかった。今私は、キツネくんが本当に物事を深く考察する人間だと実感している。変わらない仁、変わったのにキツネのままの彼、その二人の間をうろうろする不安定の私。二、三分ごとに後悔と期待が交互になって私を責め立てた。期待?一体なにに?そう思うと余計に苦しくなって、私は黙々と煙草を吸い、窓の外を眺めていた。その景色が段々、段々と私の住まう街から離れ、段々、段々と見知らぬものに変わっていくにつれ私は、苦しみから逃れ浮かれ気分になっていった。ライブ前の興奮はこうでなくてはいけない、何故これからライブに行くというのに、くよくよしたりふつふつしたりしなければならないのだろう。仁にヘッドフォンを貰った時もそうだった、私は、ライブ前に周囲から受ける視線や音に捕らわれたくない。だからいつも一人で歩く時、ライブ前は特に気合いを入れて、頭に音楽を装備する。キツネくんの横でヘッドフォンをしてやりたいという、最低な感情が生まれたけれどなにを考えていたのだろう私は、荷物にヘッドフォンを含めていなかった。途端に苛々し、爪を噛んだりしてみたけれどなんの味もせず、ミルクティーでも指の先端から出たならどれほど幸いかと考えていた。先にチェックインしちゃおう、とキツネくんが言ったのは県境を越え、会場のある市に入ってすぐだった。キツネくんの運転する車は開場の二時間前に、何事もなくホテルへ到着した。
 私とキツネくんは静か過ぎるホテルのフロントで、それぞれチェックインを済ませた。チケットにしろ宿にしろ、今回は全てキツネくんに任せっきりだったのだけれど、そこが普通のビジネスホテルで料金も安いことに私はほっとしている。ルームキーをいじりながらここよく仕事で使うんだ、とキツネくんはエレベーターの中、私に微笑んだ。愛人とよく利用するの?と聞きたかったが黙っていた。つまりいつもこういった手口で、ビジネスの部屋を二つ取り、結局は一つの部屋で夜を過ごすという手段を取るのかと言ってやりたい、そんな乱暴な気持ちに私はなっていた。夜にたくさん話、できますか?。というキツネくんからのメールに喜んでいた私を抹消したい。私とキツネくんの部屋は隣同士で、どうする?と鍵を開けながら訊ねた彼に、17時にロビー、とだけ告げて私はさっさと自分の部屋に入った。バスルームで腕捲りをしてカミソリを探す自分に気付いた時、我に返った。何故死のうとしていたんだろう、これから整理番号一桁のライブに行くのに。次第に私は愉快な気分になり、セブンイレブンのCM曲を鼻歌で歌いながら煙草に火を点けた。その後ホテルの白い灰皿が非常に小さくヤニで黄ばんでいるのがとても不憫に思えさめざめと泣き、今度はファミリーマートのテーマソングを歌いながら鞄をあさり、タオルやドリンクホルダーを探し出し、窓を開けたら鉄格子がはまっているのを見て、ホテル側に飛び降り自殺を予め防がれた自分を哀れみ自粛モードに突入した。生きろ、とホテルが私に訴えてくる。結局バスルームにもカミソリはなかったし、クローゼットを開けても長い紐はなく、当然練炭も用意されていなかった。生きろ、生きてキツネくんとライブに行けと、初めて入った安いビジネスホテルが私に言っている。うるせえなわかってるよ、私は叫び、もう一本煙草に火を点けた。
 私はまた物販に並び、ツアーTシャツと、このバンドの新商品である携帯灰皿を二個買った。仁は全くこのバンドを、恐らく名前さえ聞いたことがないだろうけれどせっかく遠出をしたのでおみやげに、と思ったのだ。一つは仁に、一つは私の寝室にある、ライブグッズの為のショーケースに飾ろうと思った。なんにも知らない仁が貰ってしまったから、という気持ちで携帯灰皿を使い、バンドを知っている同僚なんかに亜久津このバンド好きなんだ?とか言われて、ぽかんとする様を想像すると笑ってしまった。キツネくんは私が物販に並ぶ間、ずっと駐車場に停めた自分の車の中で煙草を吸っていた。着替えるならどっかいなくなるよ、Tシャツを持って戻った私にキツネくんはそう言ったけれど、私が服の上からTシャツを被り、その中で服を脱ぎ着替えるという芸当を見せると感嘆し、慣れてるねえと感想を漏らした。挑むぞ。ツアーTシャツを着る度に私はそんな気分になる。
 整理番号一桁の方、ゲート前にどうぞ。そう言われて二列を作らされ、キツネくんと隣同士に並ばされた時から私はそわそわとして彼の話を殆どまともに聞いていなかった。寒いねとか暑いねとか人凄いねとか暗くなってきたねとか、そういうことをキツネくんは言っていたのだと思う。だけど私の返事はそれら全てに対し、うーんだけであった。私は私の前に並ぶ四人の男女が気になって気になって仕方ない。1と2の番号を持つカップルは静かに、先頭である自分達に打ちひしがれているようで、2と3の番号を持つ男達は他人同士のようでずっと無言で、一人は携帯を眺め一人は自分の腕を抱き寒そうに体を小刻みに上下させていた。この四人の中の誰か一人でも、チケットチェックの後ドリンクを買いに行ったりしないだろうか。そんな愚者がいれば私は、もう一人分早く自分のスペースを確保できるのだが。後ろに並ぶ五人グループの男達も気になる。会場で私の後ろに陣取られたりしたら、開演までかなりうるさそうだし始まった途端に割り込みをされそうだ。どうやりきるか、どう生き抜くか。ライブ前、私は生死の決断をしている戦士のようになる。
 最前行きたい?スタッフの一人がゲートに手をかけた時、私は唐突にそう言った。それはまるで独り言に近かったのだけれど隣のキツネくんは、しっかり聞きとったようで是非、と頼もしい答えをくれた。
 「私、必死になるけどいい?」
 いいですよー。キツネくんの呑気な返事が聞こえて私のチケットの半券がスタッフから戻された。私は走り出した。
 すごい、真ん前で真ん中だ、とキツネくんの声が隣で聞こえた時はぎょっとした。私は彼を振り切るつもりでここまできたのに、呆気なく隣に陣取られるとは思いもしなかった。チケットチェックが終わった観客達が後から後から入ってきて、私の背中を押した。私とキツネくんは今、キャパ1000人のライブハウスのステージ前、ど真ん中にいる。嬉しい、爆発しそうに嬉しい。だが私は今精神を乱さない。ただ黙ってバンドを待っている、心が真っ直ぐ体を突き抜けているのを感じていた。死ぬよ。私はちらりとキツネくんの長袖姿を見て、喚起した。開演一分前になった時、流れるBGMが途切れる度に私の心臓は高鳴った。スポットライトを見上げてみると、人々から昇った湯気が天井のあたりを漂っていた。
 メンバーが現れ後ろから何十もの観客にぎゅっと圧された時、私とキツネくんの間に背の高い眼鏡の男が挟まってきた。私は自分の右手首が、温かい手のひらに掴まれるのを感じた。始まる、始まる、始まる、負けられない。私の体は、心は、それだけだった。
 「ここにいて」
 「いやだ」
 私はキツネくんを拒否し手のひらをすり抜けると、眼鏡の男を受け入れ柵にしっかりと腕を回した。キツネくんなんか、知らない。ライブが始まる、ギターが、ベースが、ドラムが一つ、音を立てた瞬間私はぶっ飛ぶ。ぶっ飛ぶ為に生まれてきたのだ。恋愛?不倫?浮気?どうでもよくて、私はバンドの差し出す音に全身全霊、応える為だけに今が在る。ぎゃああ、叫んでいたのは無意識だった。


 「シャワーが必要だ」
 ライブが終わり会場内から人々が散らばり、やっと身動きが取れるようになった時柵にもたれて息を整えていた私は、キツネくんのその声で現実に引き戻される。汗だくのキツネくんは確かにそこにいて、私を見て笑い、ホテルに戻ってシャワーを浴びることを提案した。そうだね、と返した私の声はまた枯れていて今日は、両耳の聞こえが悪くなっていた。キツネくんは今までどこにいたのだろう。私の隣はずっと眼鏡の長身の男だった。喉乾いた、というキツネくんに、ドリンクホルダーから下がった中身の少ないペットボトルを私は与えた。キツネくんはそれを飲み干し、マジ暑かった死ぬんだと思ったと、また笑う。
 私とキツネくんはホテルに戻り、それぞれの部屋でシャワーを浴びた後、またロビーで待ち合わせをして近くの、居酒屋に入った。キツネくんとビールで乾杯をする日がくるとは思わなかった。夢にも見たよ、とキツネくんはそれを称えたが、私の頭の中はシャワーを浴び服を着替えた今もライブの音でいっぱいいっぱいだった。私は例によって少食を貫き、冷奴一皿でビールを三杯飲んで夕食を終わらせた。キツネくんはビール、焼酎、日本酒を二合飲み、魚やサラダを限りなく食べた。その量は成人男性の平均的なものであっただろうけど、ライブ上がりの私には、限りない食欲に見えた。
 ロマンチックな話でも始めるのだと思っていたキツネくんは、しかし私の部屋に来てもありきたりな、出しては途切れる話題しか持ち出さない。備え付けの小さな椅子に座って喋るキツネくんとベッドに寝転び話を聞く私の間にはなにかが起きるようには思えなかった。一緒に寝ましょうか。キツネくんが言って、眠くなった私が頷き、キツネくんの部屋のベッドに移動するまでは。
 「おいで猫ちゃん」
 そう言ってキツネくんが私を抱き寄せた時、私は強く仁を想いたかった。六年以上、私を猫とし愛でてくれていた仁を想い、キツネくんをぶん殴るかなにかしたかった。だけどキツネくんの発した猫ちゃんというフレーズが全く仁のものとは違って、仁が猫に私を見ていて、キツネくんが私に猫を見ていること、仁のいう猫は甘ったれで気まぐれな雌猫でありキツネくんのいう猫は気性が荒い爪のしまえない子猫であることを察し、身を任せるしかなかった。仁とキツネくん、それぞれに違う男がそれぞれ、違う私を見て私を好きだと言う。私はきっとそれぞれに、違う私のまま抱かれるべきなのだと悟った、それぞれの私が、しかしどちらも本当の私であるからだった。


 あなたは味気ない電波のやりとりの時、まるで酷い目にあった野良猫のように凶暴で、荒々しく、なにものも傷付け信用ならないという風を僕に見せますが、実際に夜を共にすると常に、なにかに怯え、隠し、時々野生を片鱗をちらつかせる子猫のようになります。あなたの抱くものが僕に対して、顔の見えない時にだけ、大っぴらになること、嬉しいです。いざ目の前に姿を現すとしゅんとして、しかしあっさりと、笑いかけ僕を包んでくれるあなたが愛しい。どうしようもない僕にいつも構ってくれてありがとう。
 眠っているキツネくんを置いてホテルを出て、バスを乗り継ぎ家に帰った私に、届いたメールはそれだった。私はキツネくんと裸で眠りこけ、まだ日の昇らない内に目を覚まし、その途端に携帯で自宅まで今すぐ帰れる方法を探した。電車はなく、夜行バスに近いものがあと一時間でこの市から、私の街まで動くのを知った瞬間私は起き上がり、キツネくんの部屋の鏡台にあった、メモ帳とボールペンに手を伸ばした。先に帰ります。バスがあったので。走り書きしたのはそれだけで、私は服を着ると自分の部屋に戻り、荷物をまとめた。ありがとうとか楽しかったとか、私には書けなかった。それをしてしまったら私は完全に、キツネくんの愛人と化してしまうようで恐ろしかった。バスの中80年代のパンクを思い出しなから目を閉じると涙が出た。仁への罪悪感からか、キツネくん恋しさからか、わからなかったし、考える気もなかった。
 今日も休みだ、今日も休みで、明日は仕事だ。家に着いたのは夕方で、私は仁のいないベッドの真ん中に一人、倒れ込んだ。仁がいない、夜になればなに食わぬ顔で仕事から帰ってくるだろうが今、仁がいない。昨日の夜仁はこのベッドに一人寝たのだろう。私がその時なにをしていたか知るよしもなく。かわいそうな仁、それが今いなく、私の手元にはキツネくんからのメールがある。キツネくんが私を愛しいと言う。昨夜言わなかった言葉をメールで私に言う。仁は私が愛しいだなんてメールを、寄越さない。寄越したことがない。突然に幸福感が訪れ、ふわふわしている間に絶望感がやってきた。私はキツネくんとメールを続ける。そう思った。


 パンフレットやチラシ、コピー用紙ばかりが増えていく。全て私達が忙しない仕事の合間に、見つけてきたアパート、マンション、貸家などの案内だった。晩ご飯を食べ終えお風呂にお湯が溜まるまでの間、テーブルにそれを並べてテレビを見たりしながら、寝転がりながら、ぺらぺらとめくるのが日課になっていた。ペット可、ペット可、と呟く私に対し、仁は駐車場有、の文字を探しているようだった。携帯が一つ、震える。私は黙ってそれを手に取り仁は初めて、「またキツネ?」と冷えた声を出した。「たぶん」、私は私にメールをくれる人が今、キツネくん以外にいないとわかっていながら肯定は、しない。
 大切な女性が各地にいます。各地にいて、ふらりと訪れる俺を迎えては、やさしく、おだやかに接してくれます。犯罪と世間に叫ばれるような年下も、不倫と世間に憎まれるような年上も、淫乱と世間に睨まれるような同い年もいます。貴女も俺を、死にそうに人恋しくもやもやとし、若い頃ばかり思い出して狂いそうだった俺を、さらりと自然に暗闇から、泥沼から救ってくれた大切な女性です。貴女は俺の特別な人です、そして俺をキツネくんと呼ぶ、唯一の人です。俺は貴女を拒否しません、あなたの抱えるものを見せられしんどい時もありますがその時に、貴女本人にしんどいと言える、貴女と俺に流れる空気が好きです。俺に身の内の闇をさらけ出す、貴女の開けた心が好きです。
 メールを読み終えた時、私を包んだのは幸せではなく、屈辱感と虚無感だった。キツネくんが時々送ってくるこれが愛情であるのか、皮肉であるのか、言っておくけど、という隔たりであるのかはわからない。わからないけれど。
 不一致なのだ。私にとって彼はかけがえのない存在であるが、彼が私を大切な女性というくくりの中にまとめてしまった瞬間に、不一致は生まれた。私なんか要らないじゃないか、私がいなくなったって、あんたには他に私と同じだけの値を持った、女の子がいるんだろう、私にはあんたしかいないのに。私はずっとそう思ってきたのに。もし私があんたから離れたって、あんたは少しくらい痛がるかもしれないがあんたには、その痛みを吐露できる相手が各地にいるんじゃないか。最終的にいってしまえば、奥さんという絶大な保護があんたには、あるじゃないか。
 嫌いだと言ってやろうか。さよならを告げようか。私はキツネくんが他の女の影をちらつかせる度に、認め誇る度にこうして投げ出したくなるが、でもだめだ。私は彼の言う特別がその他何人かにも言っているであろう特別が、それでももしかして私だけなんじゃないかっていう期待を、捨てきれない。
 私はキツネくんとどうしたいのだろうか。ずっとキツネくんは特別だと思い込んでいた。恋でも、不倫でも、駆け引きでもない、言い表せないなにかだと思い込んでいた。キツネくんが離婚をしたって私はキツネくんとは結婚したくないし、付き合いたくもない。私には仁なのだ。私には仁なのに、私はキツネくんが好きだと言っている。言っているのに、彼を、彼とどうしたいのかわからない。
 私は混乱し、久し振りに仁の前で泣いた。テレビではいまいち笑いどころがわからないアメリカンコメディが流れていて、仁は新居のチェックを諦めぼんやりとそれを眺めていたけれど、しゃくり上げた私を振り返ってぎょっとしたようだった。しげしげと私を見た後に体を起こし、私の両脇の下に手を入れ持ち上げると引きずるように、その腕の中に私を納めた。私はもしかして三年ぶりくらいに泣きじゃくりながら仁に、全てを喋った。キツネくんと浮気した、一回やった、それが言えた時私は自分の犯した罪に、あの夜の事実に、消えてなくなりたくなった。仁の返事は私が話し終えるまで、うん、とそれで?しかなかった。煙草を吸わない仁がそこにいる。じんといっしょにいたい、それが最終的に仁に告げた、私の究極のわがままだった。
 「お前、俺がいないと駄目だからな」
 そう言って仁が、笑っている。頭を撫でられながらその顔を見上げていたら、私は静かに落ち着いていった。仁が熱気を削がれて腑抜けになるのを察したからだった。
 「俺がいないところで、ふらふらになって、違う奴のところ行っても仕方ねえっていつも思ってる」
 いつでもそばにいてやりたいけど。その言葉の後にごめんな、はなかった。だけど確かに私は感じ取る、仁が今私に対して、妻がいる自分の友人と世間的に言う浮気をした私に対して確かに、謝っているのを。
 私は白蛇に抱かれたい、真っ白い蛇に抱かれて、愛されて、許されて、一致して、この蛇の前でだけ冷静に跪き、私というものを確立させていたい。
 「猫、飼ってもいい?」
 私の望みに仁は、猫は一匹でいい、と私の額にキスをした。仲間がほしいと更にねだると、ちゃんとしつけてなと笑った。私は仁が私を、そして清純くんを許したのを知る。だって彼は、犬アレルギーなのだ。


白蛇 / 赤狐 / 黒猫



6years before
毒牙 / 毛皮 / 爪痕



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2013.11.27

渾身の妄想未来話完結
都合よく愛されて許されてえなってはなしです