人生で初めてライブに行った時私は十四歳で、中学二年生の夏をそれまでただ無気力に過ごしていた。一人でチケットを取り一人で電車に乗り一人で会場を探しあて、私は一人でぶっ飛んだ。なにも後悔はしていない、私の全てはそこから始まった。最愛のバンドと共に。





毒牙





 ふらふらになって私は向かった時と同じように、電車を乗り継ぎ地元に帰ってきた。かつてない幸せが私を包んでいた、こんなに簡単だったのだ。樋口一葉一枚以下のチケットを買い、電車にさえ乗れば、私はぶっ飛べる場所に迎えられる。こんなに簡単なことを何故今までためらっていたのだろう。ツアーの最終公演であったその日から一ヶ月後、私の最愛のバンドはあっさりと解散した。偶然にも私はそのバンドの、ラストライブを観た幸運な人間の一人となったが、そんなことを知るよしもなかった当時の私はただただ幸福に包まれ、また行こう、すぐにでも、とひたすら考えながら車窓から、真っ暗な中に点々と光が灯る、街並みを眺めていた。初めて乗った終電だった。
 私の住む街にはなにもない。都会でも田舎でもないけれどこれといった名物があるわけでも、有名なお店があるわけでもない。だからこんな時間に、わざわざここにやってくる人というのは殆どおらず、駅に着いて電車を降りた時、構内はがらがらで同じ駅で降りた人も数えるほどしかいなかった。私含めたその全員が、ただの帰宅者であったのは間違いない。残業しまくりだったようなスーツのサラリーマン何人かと、遊んできた帰りのような金髪の若者、酔っ払っているらしい二人組の女、揃って疲れた顔をしたこの街の住人だ。会場の照明、音、匂い、全てに酔っていた私はこの寂れた駅にがっかりとしている。どうして終わってしまったんだろう。ずっとライブであったならよかったのに、このまま死んでしまえたらいいのに。そう思ったけれど最終電車も行ってしまった今、線路に車両がくることもなく、ホームから飛び降りたって私を轢き殺してくれるものは何もない。誰もいない、暗い線路の上で一人、ぽつりとたたずむ私を想像するととにかく悲しくて、改札で割り込んできたサラリーマンに腹を立てながら私は歩いた。帰りたくない。そう思うのに足だけはせかせかと動き、確実に家の方向へと進んでいる。これから暑くなりそうな予感のする、初夏のある一日の夜だった、カエルがどこかで鳴いているようにも、トラックがどこかでクラクションを鳴らしているようにも聞こえたが、あまり気にはしなかった。その時の私の両耳はなにかが詰まったように聞こえが悪かった、初めて行ったライブハウスのバンドが生み出す爆音に、私の耳はすっかり参ってしまっていた。ずっと低い耳鳴りが続いているような状態で、それは私にとっていやな感じではなかった。周囲を遮断できる爽快さを私はいつでも歓迎する。歩道橋の階段を一つ上がる度、ふくらはぎの疲労を実感していた。私の買ったチケットの整理番号は遅く、もう一番最後といっていいくらいのものだったけれど観客の隙間を縫うように私は会場の中腹まで辿り着き、ジャンプしたり叫んだり恍惚としたりしてライブを楽しんだ。跳ぶ度に見えたステージ前は、手という手が挙がりその上を人が流れていきぎゅうぎゅうのすし詰め状態になっていた。あの中にもしいたら私の耳は、聴こえなくなってしまったかもしれない。耳が聴こえないのだけは絶対に嫌だ、音楽が聴けなくなってしまう。いくらライブハウスでスポットライトを浴びたって、人波に揉まれたって、それだけでは満足できない。音がなければ。今度はバンドの新曲が出る度に静かな部屋で一人、歌詞カードを眺めている自分を想像し私はまた、悲しくなった。運動部になんて絶対入れないという自負がある私の足はもしかして悲鳴を上げていたかもしれないが、それを無視して車通りの少ない道路の上を見事に歩き終え、下り階段が見えた時。歩道橋の曲がり角の隅にもたれて煙草を吸っていたのは仁だった。
 仁という男はその頃から煙草を吸っていた。それでその頃から背が高く、その頃から白い蛇のような、神々しく冷たい雰囲気を常にまとっていた、十四歳ながらにして。ずっと下を向いていた私は突然目に入った長身の男に驚き、それが仁であることに更に驚き、そして次第に静まっていった。たまに通り魔だとかに刺される自分をイメージしては恐怖に慄いたりするばかな私であったから同級生である仁であれば、まあ私を刺したり誘拐したりする理由もないだろうとふっと安心したのだった。仁の方も幾分驚いた顔をして、私を見ていた。こんな時間にクラスメートに会うだなんて考えてもいなかったのだろう。
 「おつかれさま?」
 疑問形の、時間を考えない挨拶を送ってきたのは仁だった。私は仁が、自分に対してこういう風な口を利くことにぎょっとして立ち止まってしまった。ふくらはぎがぴきりと音を立てたかもしれないが、また無視をした。仁というのは私の知る限り、気軽に言葉をかわせるような男ではなかったはずだった。だって神々しい白蛇が私達人間と口を利くものだろうか、それもなんだかかわいらしく、おつかれさま?だなんて。仁というのは無口な男であったはずだ、その外観からいやに目立つので存在は誰もが知っているが物静かで、同じクラスでありながら殆ど声を聞いたことがない。目付きが悪く、完全に不良で、ばか騒ぎしないような男だ、その仁が。私に自ら声をかけてきた、これまで仲良くしたことなんか一度もない私に、しかも似つかわしくない言葉を。へんなの、呟く私に、仁の返事はなかった。
 「疲れた。なにしてるの」
 そう言った私の声は詰まった耳に、おかしな音量と音質でもって届いた。今日誰かと喋るのはその時で初めてだったかもしれない。私は一人でライブに行って一人で帰ってきたのだ、どきどきしながら物販に並んだ時も、売り子に対して指をさす、首を縦横に振ることで意志を表明しTシャツを購入したのだった。イヤホンを持ってこなかったことを多少後悔したりもした、ライブ前の会場は騒がしく、ややうんざりとした。帰りたくなくて。仁はそう呟き、勝手に私は痛いほどその気持ちがわかったようになっている。このふらふらの、ふわふわの幸せは、家に帰る頃にはすっかり消え去ってしまうだろう。そう思うと途端にこの仁が、仁という生き物が愛しくなって、ライブ行ってきた、と私は事情を説明した。
 「ライブ?」
 「そう」
 「誰の」
 「言っても知らないと思う」
 「あ、うんとりあえず聞いただけ」
 へへへ、私は嬉しくなってしまい仁の隣に、ゆっくりともたれかかった。金属でできた歩道橋はほんのり冷えていて心地良かった。私達の下を車が通る度、隣の仁の顔は青白く、またはオレンジ色に照らされ私の冴えない耳には、しゃーという濁ったタイヤの音が響いていた。仁は私をじっと見下ろし煙草を吸っている。吐く煙は白く、先端の灰は時々、赤く火が灯る。
 「お前なんか性格違くね?」
 「めっちゃ楽しくて。でもあんたも変だよ」
 「そう?」
 「うん、いつももっとケンケンしてる」
 「ああ、」
 なんか今腑抜け、と仁は言った。いまふぬけ。腑抜けという言葉がこの男から飛び出たことに私はそわそわとする。そわそわして、ざわざわしている。頭の中をぐるぐると仁の言葉が回っていた。いくら外見が白蛇だからって、神々しくたって、きっとその辺に転がっているばかな男子と同じ中身なのだろうと私は仁を、それまで捉えていた。つまりマジで?とかやばくね?とか超だりーとか、そんな言葉しか生み出せないのだろうと思っていた。仁から今出た腑抜けという言葉が、その選びが、この男がばかでなく至極まともかそれ以上であること、不良であるただそれだけの理由で帰宅を保留しているわけではないかもしれないこと、私と仁が今ここで出会ったのはなにか偶然以外の物質によるのかもしれないことを物語っており、私は震えた。時々生暖かい風が下から吹き、仁の金属みたいな色をした髪を揺らすのを、十秒から二十分かけて、私は震えながら眺めていたように思う。
 「寒い?」
 歩道橋の手すりを握る私の手が、小刻みに振動するのをちらりと見て、尋ねた仁に帰りたくなくて、と私は答えその声を、頭と不十分な機能の耳と腹の底で聞いている。怪訝な顔で私を見ていた仁は、震え続ける自分がおかしくてへらへら笑う私を見て更に眉根に皺を深く寄せ、ぽいと煙草を歩道橋から投げ捨てた。合図はそれであったかもしれないし、元からそうなるものと決まっていたのかもしれない。私は両手を仁の方へ伸ばしていた、同じ頃同じように仁も、私の方へと両手を伸ばしていたわけだ。私達は自然に抱き締め合い歩道橋の上で、しばらくそのまま互いの匂いをかいでいた。
 「あー、なんか捨て猫拾った気分だわ」
 愛護して。私は呟き、仁はおそろしいほど優しく、私の唇に自分のそれを押し付けた。それでも震えている私の背中を仁が撫でていた。それは今思い出すと笑ってしまうくらい健全で、初々しかった。


 家に帰った時、私はこれまでライブに行くことをためらっていた理由をはたと思い出す。玄関の鍵は開いていなかった。暗がりで苦労しながら鍵穴を見つけだし解錠に成功したけれど、そこにはがっちりとドアチェーンがかかっていた。閉め出された。私の両親の厳しさと干渉は、異常なものがあった。ふと我が家を見上げてみる。両親の寝室がある二階の窓には、しっかりとカーテンが閉められていてまだ起きているのかどうか、わからない。静かな夜だった。まるで仁といたさっきまでがなかったかのように、私は絶望している。私の両親は異常だ、今日ライブに行くのだって、まだ中学生だし女の子が一人で行くものではないだとかお前の聴く音楽はくそだとか、散々反対され結局許可は下りず、勝手にチケットを取り勝手に学校を早退し勝手に電車に乗って行ったのだった。私の両親は異常だ、私はライブに行くことも夜中に一人で終電に乗ることも根本から言えば、クラシックやポップでない音楽を聴くことを両親が望んでいないのを知っていたしそれを実現することで、彼らがどんな仕打ちを私にするかも知っていた。だからこれまでずっと、どんな近場でライブが開催されようと私はそれに行かなかったのだ。でも今日は。今日だけは行ってやるとためらいながらも腹を括ったのがそれは、電車で一時間の会場で最終公演をやったのが最愛のバンドであり一週間前に母が、そのバンドのCDを窓から投げ捨てたからだった。私の怒りは頂点に達し、その後ものすごい悲しみとなり、気付いた時にはコンビニへ行って店頭端末のタッチパネルを連打し、チケットを取っていた。この激情を晴らすには母親によると下衆の極みであるこのバンドを、生で観るしかないと思ったのだ。行ってよかった、両親に殺されても構わないと思っていた。だが現実にこうして家から閉め出されてしまうとライブも終わってしまったわけだし私を、爆音が包んでくれることはなくただただむなしいだけだった。はあと溜め息を吐いてみる。それは白くなったりしない、そんな時期だった。それでも肌寒いように感じポケットに手を突っ込むと、指先に携帯が触れた。電源は朝から切ったきり、今この瞬間まで一度も入れていない。門限である18時半までに、家に帰らなかった時点で散々それが鳴ることは予想していた、だから会場に入り携帯電話の電源をお切りくださいとアナウンスされた時ははちきれそうに嬉しかった。私は今、携帯の電源を切ることを認められている、むしろ切るようにと念を押されている。このままでいい、このままでいいのだと私の幸福は、更に跳ねあがった。しかし今その幸福感は一つもない。木端微塵に消え去ってしまった。私はその場にゆっくり座り込み、玄関の戸を背にして星空を眺めていた。携帯の電源を入れる気にはならなかった、家の電話や両親の携帯に連絡を入れる気には全くならなかった。大体二人はそれに出ないだろうし、出たところで家には入れてくれないだろう。そうなると今あの二人と、一切言葉を交わしたくない私に携帯を起動させる理由もなく、黙って空を眺めるほかなくなった。膝を抱えて後頭部をドアにつけ、背中を丸くしているとなんとなく落ち着いた。
 翌朝4時に突然私の背もたれであったドアが開き、同じ姿勢のままうとうとしていた私はそれに押されて前のめりに崩れ落ちた。青白い顔をしてこめかみに血管を浮かせた母は私を散々罵倒しながら私のシャツの肩のあたりを引っ掴むと自分の娘である私を、家の中へ引きずり込んだ。リビングには父も起きてきていて、粗大ごみのように連れてこられた私を拳で殴った。左頬にじんじんと熱い痛みを感じながら私はシャワーを浴びた。殴られようと説教されようと廊下を引きずられようと私は眠く、ずっとぼんやりしながら水滴に当たっていた。私は、自分が両親に好かれる自分であったならどんなによかっただろうとたまに強く思う。だけどそうした場合私はくだらない音楽だけを聴く人間に成り下がってしまいあの、爆音と光の中を体験できない。つまり私は幸せになれないことになってしまう。好きになってしまったもののせいで何故こんなにも非難されなければならないのか。人殺しが好きなわけじゃねえんだからいいだろうが、と気付いたら何度も何度も叫んでいて、相変わらず青白い顔をした母がバスルームに飛び込んできて私を黙らせた。顔面に熱いシャワーを当てられると目と鼻と、打たれた頬が痛かった。
 その日学校へ向かえたのは10時を過ぎてからで、絶対に寄り道せずに帰宅するよう母親に百五十回は言われ、私の耳はまた変になりそうだった。遅刻したことを先生に完全に自分が悪いのだと自分の口で説明しなさいと、母親は毅然として玄関で私に言った。私は黙って頷き、黙って家の外に出て、イヤホンを耳につっこみ最愛のバンドのファーストアルバムを聴いた。一度ライブに行ってしまうとCDの音はどうにも、柔らかく整ったものに感じられたが、それでも少しは私を現実から、引き離してくれた。
 「なにそれ?」
 めちゃくちゃゆっくり歩けばあと二時間くらいは学校に着かないかもしれないと思い立ち、本当に足の親指くらいの歩幅で歩いていた時、私の腕を掴んだのは仁で、不機嫌に振り返った私の耳のイヤホンを指で、器用に取りはらったのも仁だった。私は自分が発狂すると思っていた、音楽を聴いている時に邪魔する人間なんていうのは地獄に落ちればいいと思っている、ましてイヤホンをしている人間に対してそれをやるなんて、お前の目は節穴かと言ってやりたい。見りゃわかんだろ音楽鑑賞中だぼけ、と大声で叫びだすはずだった。それなのに私の狂気は私を引き止めた仁の顔を見た瞬間、あっさりと消し去られすっと平坦なものへと変わってしまった。昨日の夜もそうだったかもしれない、夜中に仲良くもない仁に出会って、本来なら怯えて逃げ出すはずだった私はへんな具合に安心し、あの場にとどまってしまった。私の左頬を注視する仁に、殴られた、私は簡単に答え、仁もへえ、と簡単に頷いた。
 「おはよう、どうしたの?」
 「歩いてたから」
 「うん。顔、びっくりした?」
 「男?」
 仁は。立ち止まった私の前に立ちはだかる仁は、私の腫れた左頬にとても自然に触れてきた。その長い親指で。私は撫でられる度にそこがひりひり痛むのを感じながら、男、父親だけど、と笑ってしまった。仁の目が冷たく私を見下ろしていて、仁は今日も真っ白で、それで今日も遅刻してきたんだろう、だからこんな時間に私と通学路で会ったんだろう、そう思うと笑ってしまった。それで私が彼氏か、そういう誰かに殴られているのだろうと想像した仁を思うと、顔がにやけて仕方なかった。そういうのって遊んでいる男か、簡単に人を殴る男の発想だよな、と思ったからだった。私に男なんてものはいない、私を殴る父親以外の男なんていうものも存在しない。父親以外の男は私に関心がないのだと思っていた、それでいいのだと私はそれまでずっと思って生きてきた。バンドが唄うラブソングは好きだけれど、それは自分の実感とはまるで一致していなかった。
 「俺お前と一緒にいたいかも」
 仁があっさりそう言って、私の頬を執拗に撫でていたその時から、私のラブソングへの共感が初めて現実味を帯びた。効果音も体を流れる電流も熱い涙もなかったが私はその時また震えだした。仁が私に関心を持っている、そして私自身が、仁という男に関心を持っていることに私は打ち震えた。また震えてる、と仁は笑い、笑うんだ、と私は答えた。この男が笑っているところをしっかりと見たのはその時が初めてだった。なんて綺麗な笑い方をするのだろう、細くなった目だとか綺麗に上がる口角だとか、ちらりと見える歯だとか目じりに寄る皺だとか、私のラブソングへの現実味が高まる一方で私は、目の前の男の笑顔にまるで現実味を感じられない。
 「だって笑うだろ捨て猫みたいだぞ」
 「昨日も聞いたよ」
 仁がふざけて私の顎の下をくすぐってきた時、私は猫なんかではなく、もちろんごろごろと喉を鳴らしてみせることはできなかった。その代わりに喋りづらいながらに、私も一緒にいたいと呟いて、頭を撫でてもらうことに成功した。学校行こうよ親に殺される、私がそう言うと仁は素直についてきた。時々煙草に火を点けては吸いきって道端に捨てた。私は何度かイヤホンを耳につっこもうとして仁に却下され、仁を殺害する気も起きずにへらへらと笑っていた。やはり仁といるとなにかいつもと違うことが起きるのだろうと確信を持つ。音楽のない通学路をこんなに平然と歩ける日がくるとは思わなかった、私はいつもこの道を、世界中の人間全員を呪い殺す気で歩いてくる。帰り道は私の家か嫌いな担任の家に、隕石が落ちるようおまじないをかけながら歩いている。いつもその願いは叶わず、叶わないことがまた私を苛々させ、そんな時は8ビートを聴いてなんとか車道に飛び出しそうになる自分を押さえ付けてきた。今私は、車道に飛び出す気なんてさらさらない、イヤホンを耳につっこまなくても平気だ。仁が気軽に私の手を握るので、それに応えてイエスタディを鼻歌で歌っていた。
 私と仁が一緒になって遅刻して、教室に入ってきたためにクラスは軽いパニックに陥った。その時数学を教えていた教師は授業後職員室にくるよう冷淡に私達に言い、私と仁を席に着かせた。仁は一番前の廊下側、私は教室のど真ん中という席で、私はさっそく壁にもたれて眠りはじめた仁の背中を眺めていた。教師が黒板に向き直り数式を書きはじめた時、私は周囲から小声の質問を土砂崩れのように浴びせられた。いつから?付き合ってる?どっちから?どうして?知らなかったんだけど?私は質問にうーんという言葉で返すことを貫いたけれど、次第に腹が立ってきて、周囲の人間全員がサルかカボチャに見えてきて、どいつもこいつも動物園に帰るか畑に捨てられるかしろよという気分になってしまった。そうなると返事をする気も起きなくなって、真面目に授業を受けている風を装って無視をすると、周囲も徐々に静まっていった。大体どうしてこういう時だけ親しげに友達面してくるのだろう、隣のお前、今まで二度しか喋ったことねえじゃねえか斜め前のお前、私の悪口言ってるの知ってんだからな、あと後ろのお前、いつもプリント回収が雑なんだよ、私はノートに乱暴に数式を書きとりながらどうやってここから抜け出そうかと考えていたが、そうすると両親がやっぱり私を生かしてくれないだろうと思い落ち込んだ。ぐるぐると黒いものが胸の中で渦を巻き出すのを感じた。そうなってしまうと私は、シャーペンを持つ力もなくなって、机に突っ伏すしかなくなってしまう。イヤホンを耳につっこめたらよかったかもしれない、でもその力もなくなっていた。自分が萎れていくのをひしひしと感じた。
 私達は四時間目の終わりに職員室に呼ばれ、二人並んで担任教師から説教を受けた。私も仁も担任に対して一言も口を利かなかった。反抗心も、反省する気もなかった。私も仁も何故怒られているのだろう、という感覚でそこにいたに違いない。だって私達は昨夜、家に帰りたくなかったのだ。本当は眠いのに帰りたくない状況がそこにあり、ベッドに入ることができなかった。だから今朝眠かったとか、シャワーを浴びなければならなかったとか、親に殴られなければならなかったとか、そういう理由があって遅刻に至ったのは仕方のないことに思えた。ずっと黙ってただ彼の事務机を見つめている私と、ずっと黙ってただ窓の外を眺めている仁に、学業のどうのこうの道徳のどうのこうのを説くのはやりきれなくなったのか面倒になったのか、とにかく担任教師は突然説教を取り止め、教室に戻るよう私達に言い付けた。仁が先に動き、さっさとドアの方に歩き始めた。私はそれを目の端で捉え、一度教師の顔に視線を向け、彼が散らかった机に向かって沈黙しているのを確認してからドアに向かった。昼休みが始まって十数分、私は空腹を覚えない。いつだってあまり空腹を覚えないのだ、昼休みは音楽を聴くか眠るかして過ごす。昨夜ほとんど眠れなかったからか今はむしろ胃の中が気持ち悪く、固形物なんて受け付けられないような気がした。
 「煙草吸いに行かね?」
 職員室を出てポケットからイヤホンを取りだそうとした私の手を、やはり遮って仁が言った。待ってたの?訊いた私に、仁は不思議そうな顔をした。そういうことすると思わなかった、私は言って、突然に胃がすっきりしたのを感じた。仁は首の後ろを乱暴に掻き、来いよ、と今度は有無を言わせぬ風に言いきった。誰に向かって命令してんだよと私は言わない。仁に対してそんな風な口を利こうとは思わない。行く。私は一つ頷いて、歩き始めた仁の後ろをついて行った。昼休みの廊下は騒がしく、教室の前を通る度に笑い声が聞こえた。その全てをシャットアウトしたくてこっそりまたポケットに手を突っ込んだけれど、唐突に振り返る仁に止められた。私はエモを聴きたかった、くだらないテレビの話や恋愛相談やばか騒ぎや、連なって歩く私達へ向けられる視線から逃れたかった。ギターの音を欲していたのだ。廊下の向こうから千石くんという、テニス部の明るい男子が歩いてきて、仁に笑いかける。すれ違い様 彼女?と彼が尋ね、仁が頷くのを見ていた。こんにちは彼女、と笑う彼を私は無視した。エモ、エモ、エモ。彼みたいな底抜けに明るい同級生を見ると私をエモを聴くしかなくなってしまう。鼻の奥がつんとしていた。しかし段々教室の並びを離れ、なに飲む?と静かな東階段の踊り場にある自販機の前で仁が尋ねた時、私のエモへの欲求は消え去っていた。仁はポケットをあさりいくつかの小銭を取り出した、私も自分のポケットをあさり小銭を取り出す。二人で手のひらの中身を見せ合いながら、お釣がでないように銀貨と銅貨を選びだし、缶コーヒーを二本買った。私はカフェオレで、仁はブラックだった。それぞれ自分の缶を持ち、私達は階段を上っていった。三階、四階を越え更に上ると、屋上につながる閉めきりのドアにぶち当たり、行き止まりだ。仁が煙草を取り出し火を点けたのを見て、授業中に突然いなくなったりしていつも、ここに来ているのだろうと私は察した。とても慣れた様子で仁が、階段の一番上に座り込み、視線で私に座るよう、訴えたからだ。私は素直にその隣に座り、煙を吐く仁を眺めながら缶コーヒーのプルを開けた。飲んだカフェオレは予想外に甘く、じわりと唾液が溢れ出た。
 「煙草って」
 「いる?」
 おいしい?と訊きたかっただけの私に差し出されたパッケージは赤と白だった。なにも考えずに私は一本こちらに飛び出した煙草を、慎重につまみ取った。見よう見まねで口にくわえると、仁が火の点ったジッポを私に向けた。静かな場所だった、ジッポの炎が燃える低い音が、しっかり聞こえるくらい静かな場所だった。吸って。先端に火を寄せた仁がそう言って、私は息を吸い込んだ。煙が口に流れ込み、私の肺と喉を満たした。むせた私の咳も、そこにはよく響いた。仁が笑ってジッポをしまい、くわえ煙草でコーヒーを開けている。
 「吸ったことない?」
 「あるわけないじゃん親鬼だよ?」
 「慣れてるみたいに見えた」
 仁が私の頭を撫でている。私は捨てることもできず指先に挟まった煙草をまた口にした。喉で止めな、と仁が言い、私はそれをやってみた。今度はむせず、私は焼き魚の味で喉から上がいっぱいになる。夏になるのに、私達の吐く息が白い。ねえ吸えた。得意気になって見上げた仁は、柔らかな顔で私を真っ直ぐ見下ろしている。
 「ふにゃふにゃだよね」
 「俺?」
 「そうもっと、無口で乱暴でしょいつも」
 「だって俺腑抜けだもんお前といたら」
 お前もそうじゃん、そう言って仁が唇を寄せてきた。それに応えていると煙草とコーヒーのにおいを感じた。もう終わるかな、と思った口付けは長く、仁の舌が私の唇を押し分けて入ってきた。どうしよう、悩んだのは一瞬で私は仁の舌を探っている。温かく、濡れたそれを。煙のにおいが濃くなって、半分開いた目で仁の指先の煙草が床に擦られ潰されるのを見ていた。仁の指が私の右手に触れ私の煙草も、そこから奪われ同じように消火される。また濃いにおいを嗅いだ時、仁の両腕は私の脇に伸びてきて、互いの舌を舐め合ったまま私は引っ張られるように、仁の膝の上に移動した。知らぬ間にはしたない息遣いをしている自分に気付き、しかし仁がそれを好いているのにも私は気付いた。どこが腑抜けだ、腑抜けのくせにこんなキスができるのかと、幸せな気分になり仁の側頭部を両手で撫でていると仁が小さく笑いだした。私もただならぬ欲望の中で爽やかに笑ってしまい、息が漏れた。仁の腕がずっと私の腰に回されている。しばらくしてそれが太ももに移動した時、脱がされるのだろうかと私は思った。仁はやっと唇を離して突然後ろに倒れた。仁に体を預けていた私も一緒に、倒れ込む。私達は笑い合い、お互いをぺたぺた触りながら寝転がっていた。俺の家ならよかったのに、仁は転がったまま囁いて、私の頭を乱暴に撫でた。この男が性欲の塊でないことに私は安心し、もう一回煙草吸いたいと、仁の胸に額を擦り付けた。
 昼休みが終わって私は教室に戻ったけれど、仁は戻らなかった。どこに行くとも私は聞かなかった、散々転がってじゃれ合い、煙草を吸った後、私達は電話番号とアドレスを交換し屋上前を後にした。じゃあね、と私は自然に挨拶していたし、仁も軽く頷いてそれに応えた。五時間目から別行動になると、なにも言わずにどうして私達はわかってしまったのだろう。仁といた時間と教室で過ごす空っぽな騒がしい時間の落差にうんざりしながら、私は黙ってノートをとっていた。


 私は言いつけを守り午後四時には家に帰り、携帯とiPodを没収され自室に閉じ込められた。私の部屋に外から鍵を付けられたのは一年前で、私が音楽を聞き始め勉強をしなくなったのはその頃からだった。ギターが弾きたいピアノじゃなくて、とピアノ教室に行くのを拒んだ私になんとしてでもピアノを弾かせる為に、両親がとった行動はそれだった。今、私の部屋にあるピアノは埃を被って調律も狂っている。中一の秋にピアノは辞めた。学校帰りにピアノ教室に行くのが嫌で嫌でしかたなく、全てを無視して近所の公園で、夕暮れが夜になるのを待っていた。ロックを知った当時の私に、バイエルだとかそういうのは完全にくだらないものに映っていた。ビリージョエルやスティービーワンダーを聴けばピアノもカッコいいんだなとも思えたけれど、私にはまずもってピアノの才能もやる気もないことはずっとわかっていた。夜家に帰った私を待ち受けていたのは母の平手打ちと、さぼったレッスン一時間分を自習しろという通達と、外から鍵をかけられるがちゃりという乾いた音だった。私は一時間一寸もピアノに触らずベッドで過ごし、一時間と一秒で部屋に入ってきた母親に首を絞められた。ピアノを続けるくらいなら死んだ方がましだから殺してくれと暴れ続けると母親は諦め、翌日私が辞めることを教室に電話した。あの時の勝ち誇った気持ちを思い出すと朗らかになったが、すぐにiPodを没収された事実が私を完全に立腹させ、ペン立てに入っていた鉛筆を順番に折っていくことで気を紛らわせた。ばきばきに折れた鉛筆が床の上に散乱し、その木くずなんかを見ていると途端に命を刈り取られた木が可哀想になり、肩を落としてそれに触れていた。鉛筆の芯は触るとぱらぱらになって私の指の腹にくっつき、指先でこするとなんだか温かな気持ちになってきた。私は立ち上がり、ラックから古いブルースのアルバムを数枚取り出しプレーヤーに入れ、音を最小限に絞って耳をすませた。長い前奏の後にボーカルが唄いだし、それと共に私は机に向かった。要は勉強をしろと母親は言いたいのだ、ライブなんかに行かず真面目に、中学校生活を送ってほしいのだ。じゃあやってやろうじゃねえかと私は思ってペンケースをあさっている。途端に煙草が吸いたくなった、まだ人生で二回しか吸っていない煙草を、私はもう欲している。ニコチンの依存性が高過ぎることにふと笑い、それから両親の言いなりになっている自分を憐れみ机に突っ伏した。煙草、音楽、仁。そればかりが頭を回っている。昨日の夜からなにも食べていないのに腹が減らない。ああ、死にてえ。呟いてみると案外すっきりし、私は体を起してノートを広げた。窓の外はとっくに暗くなっていた。


毒牙 / 毛皮 / 爪痕


6years after
白蛇 / 赤狐 / 黒猫