後から急いでコンビニの一般発売で取ったキツネくんのチケットと、最前列目指して先行予約で電話をかけまくって取った私のチケットの整理番号が連番であるはずもなく、照明が落ちて会場内のBGMが止んだ時私は前から二番目で人に圧され苦しんでいてキツネくんは、最後列で優雅にビールを飲んでいたらしい。




    赤狐




 爆音が耳を貫く。青から赤へと変わり今度は赤から青へまた戻るスポットライトにたまに照らされ、両手を伸ばし、叫び声を上げでまかせに歌い飛んだり跳ねたりして人波に乗っている内に、いつの間にか私は最前列にいる。これがいつものパターンだった。どんなに整理番号が遅くても1000人程度のキャパの箱であれば二曲目までに、最低五列目までに私は行ける。今回は必死でチケットを取ったので一曲目の内にステージ前の柵にもたれることができた。ライブ中の私はぶっ飛んでいる。確実にそう思う。仕事も、人間関係も、仁のことさえ忘れてただただ笑い、叫び、躍り狂っている。幸せだった。仁と共に過ごす日々とは全く正反対の幸せが、私の全てを包みギター、ベース、ドラム、声となって私にぶつかってくる。どうでもいい、今だけでいい、心底そう思いながら私は、人の汗と自分の汗にまみれ、体を圧され、ダイバーに頭を蹴られている。人間は嫌いだと時々強く思う情緒不安定な私が今だけは、隣の人に肘鉄を食らわされても笑っている。
 会場前で待ち合わせをすることが決まったのは今朝のことだった。私は仁を送り出した後部屋の掃除をし、洗濯機を回している間に缶コーヒーを飲み、煙草を吸っていた。明るい時間に家にいるのが久し振りで、窓から見える青空になんだか感動したりしていた。テレビをつけてみたけれどつまらないワイドショーばかりですぐに切り、音楽を聴く気にもならず洗濯層から聴こえる水の跳ねる音を聞いていた。床に投げてあった携帯がぴかぴかとランプを光らせているのに気付いたのは、洗濯物を干し終わった後だった。
 「なんとか開場に間に合いそうですが恐らくぎりぎりかそれともアウトなので、現地集合にしましょう。」相変わらず長いキツネくんのコラムともいえるメールの最後はそう締め括られていた。キツネくんとやりとりをするようになって一ヶ月、彼はいつも仕事をしているような感じだった。感じだった、というのは私が彼の仕事の詳細を一ヶ月やりとりしながら全く知らないことと、早くてもお互い返信に丸一日かける私とキツネくんのスタイルが理由だった。彼のメールは最初、現況を元にした近頃の思考、というものだったけれど一ヶ月経った今は、とある人が発した何気ない一言から察する現代人の在り方であるとか、とある本を読んで感じた自分が心身を壊す以前、以後の考え方の違いであるとか、学生時代の私を見ていて当時、そして今の彼が抱いた素直な気持ちであるとか、とにかくそういうコラムとか、告白とか、訴えとか、詩とか、そういうものに変貌を遂げていた。だから私は一ヶ月彼とメールをしていて、キツネくんの抱くなんらかのわだかまりは理解できるようになったけれど彼が生身の人間として、現実問題どう生きているかはいまいちわからないままだった。彼の今の状態というのは、メールの最後におまけのように記される場合が多かった。今日はあと二時間社会奉仕です!。とか、アカデミー賞受賞を逃したような顔の奴等と飲み会なのである。とか、霧島を一口だけ飲んで寝るよ〜しあわせ〜。とか、そんな程度で、それが何日かおきにしか届かないのであれば、私はキツネくんがどういった仕事をして、いつ休んでいるのか、まるでわからなかったけれどキツネくんから、今日は休みですという言葉が送られてきたことは一度もなかった。ともすれば私は、キツネくんが毎日働いているように思う他ない。
 ふ、と溜め息を吐いた後、チケットがあるからなるべく急いで、と初めて私は、キツネくんに対して一行で終わるメールを打ち、そのまま一息に送信した。受信後一時間足らずで返信をしたのも、長い文章を丸々無視したのも初めてのことだった。私は多分戸惑っていたのだろう、キツネくんから俺もライブに行きたいとメールがきたあの日から、ずっと戸惑っていたのだろう。そして今仁が仕事に行き、私は仕事を休み、久し振りに日中家にいて、夕方には家を出て、変わってしまったキツネくんに会わなければいけない。昨日の夜までは、なんとか平気な気がしていた。それはいくら仕事中にキツネくんに返した、チケット取っておくね、というメールを思い出し嘆き悲しんでも、夜になって家に帰れば仁がいて、私に冷静さを与えていたからだ。今夜私は仁に会えないまま、キツネくんに会わなければいけない。それがあと数時間で実現するのだと思うと溜まりに溜まった戸惑いが爆発し、今度はひどく空しくなって、次にふつふつと怒りがわき、煙草を持つ手が震えた。どうして仁がいないんだろう、どうして仁は私にキツネくんを差し出したのだろう、どうして仁は仕事に行ってしまったのだろう。しばらく仁を責めている内に仁が私と同じ労働者であることを今度はとてつもない幸福であるように感じはじめ、手の震えが止まった頃に私は笑いだした。楽しくて楽しくて仕方がなくなってしまい私はiPodを鞄から引っ張りだすとヘッドフォンを繋ぎ、両耳でパンクロックを聴きながらライブに行く準備を始めた。動きやすいパンツと、大判のタオル、ドリンク代500円にチケットは財布。髪をまとめるヘアゴムを選び、ピアスを小さいものに付け替え、ドリンクホルダーを用意した。蛍光色のマニキュアを十本の指爪それぞれに色違いに塗り付け乾いた頃には眠たくなって、アラームをセットしベッドに寝転ぶとものの五秒で夢を見れた。キツネくん?知らねえよ、という気分だった。枕から仁の匂いがするのを五秒間、感じていた。
 目が覚めた時あと一時間で家を出られるだろうかと不安になり、私は眠る前の自分を殺害しようと躍起になったがそれは叶わず、しかし丁寧に枕元に、ライブに行く為の服や小物や鞄一式が揃っているのを見て眠る前の自分が可愛くて仕方なくなり泣いてしまった。ひとしきり泣いた後時計を見て無駄な時間を食ったことに歯ぎしりするほど腹を立て、乾ききらなかったらしい左手小指のマニキュアが半分落ちていることに苦しくなりまた泣いた。私はめそめそしながら服を着替え、ランプの光らない携帯に安心と絶望を覚え、財布の中のチケットに記されたバンド名と整理番号36という文字にへらへら笑って家を出た。電車に乗ってからヘッドフォンで音楽を聴いた、今日のライブとはまるで関係ない、スウェーデンの男女混合バンドのクリスマスソングだった。
 会場に着いた時、丁度物販のゲートが開いたのが見えて、私は大喜びでその列に並んだ。同じく興奮しているらしい周囲の声や足音はヘッドフォンにより、遮断されていた。私にはこれが合っているのだ。一人で歩いていると周りの声とか目線にむかついたり、攻撃されてるような気がして怯えたり忙しいのだといつか、ぽつりと言った私にヘッドフォンをくれたのは仁だ。その効果は抜群で私はそれまでイヤホンを使っていたのだけれどヘッドフォンの、雑音の遮断性といったらイヤホンの比ではない。その見た目の大きさによる周囲への何も聞こえませんというアピール力はかつてないものだったし、頭をがっちりガードされる感じもたまらない。更にいうと音楽が好きな人間であるという主張にもなった。音楽を聞かないくせに仁は、男にありがちな電化製品の良し悪しを判断する力を持っていて、もらったこのヘッドフォンは有名メーカーの、当時最新のものであり音の聞こえの良さ、特に低音の響きは最高だった。静かにふつふつと喜ぶ私を、もうどこでも一人で行けるし帰ってこれると言った私を、仁は同じように静かに眺めていた。
 STAFFの文字が入ったスタジアムジャンパーを着た女の人が二人、物販の受付をやっていて、卓上にラミネートされたグッズリストを指差し私は、ツアーTシャツとマフラータオルを買った。マナーとしてヘッドフォンは外していたけれどこんばんは、これ、これ、ありがとうございます、しか私は喋らずに済んだ。私はライブが好きだ。スタッフの手際がいいライブなんかにくると、もうライブハウス前で幸せになれる。まだ開かない会場からそれでも、ドラムの音が絶えず聞こえていた。
 「久し振りー」
 整理番号9までの方入り口前にお並びくださーいとスタッフ達が声を張り上げだした頃、私はツアーTシャツに着替え、ポケットの中身を500円玉とロッカーの鍵、チケットだけにして首からポカリスエットを下げて入り口近くをうろついていた。36番だともしかして最初から最前列はキープできないのではないかということよりも、ポケットに二枚チケットが入っていることが私を不安にさせていた。ロッカーに鞄を詰めて荷物をまとめている時に目に入った、コンビニのチケットケースは私を瞬時に暗い気持ちにさせた。さっきまで私は、ヘッドフォンを頭に装着させてからの私は、いつも通り一人でライブに来たつもりでいた。一人でここにきて、一人でライブを楽しみ、一人で電車に乗って帰るのだと思っていた。そのピンク色のチケットケースは、私にキツネくんの存在を思い出させる、確かに私はキツネくんと、今朝までメールをしていたではないか、会場で待ち合せと確認したではないか。キツネくんが来る、いや仕事の関係でアウトになるのかもしれないが半分の確率でキツネくんは来る。そうしたら私はチケットを渡さなければならない、それがもし開場してすぐの、あの戦争のような列移動の時であったらどうしよう。私は列を抜けなければならないだろう、バンドファンとしての最低限のマナーの為に。そうすると私の36番は、仕事中に強引に電話をかけて取った私の36番は、私の生活の中の唯一の無垢な幸せであるこのライブは。めちゃくちゃになってしまうだろう多忙なようであるキツネくんを理由に。私は冷や汗をかきながら入り口近くをうろついていた。携帯はロッカーに入れてきてしまった。だから彼に連絡を取ることはできない。私は待つか、諦めるしかない。
 久し振りー。整理番号19番までお客様、列の後ろにお並びください、スタッフがまた声を張り上げた後に真横でそう聞こえた時、遅いよ!と私は思わず言ってしまった。キツネくんはそこにいた、数年ぶりに会うキツネくんは確かにそこにいて、ぴりぴりした私に向かってにっこりと笑っていたのだ、暖かそうな上着をまとって両手をポケットに突っ込んで。
 「チケット。それ800番台だから大分後だと思うけど」
 いまに30番台が呼ばれるような気がして私は早口で、キツネくんに説明しチケットを差し出した。うわ、ありがとねとキツネくんは優雅に右手をポケットから出しチケットを受け取った。そしてもう一度、ありがとうございます、と小さく礼儀正しく言った後頭を下げたキツネくんは、やはり私の知っているキツネくんではない。だけど整理番号30から39の方、とスタッフが叫び始めたので私は彼に構っていられず、後でね、とだけ言って列に加わった。がんばってねえ、キツネくんはチケットを持った手を私に振って見せ、きょろきょろしながら列のずっと後の方へてくてくと、歩いて行ってしまった。スタッフが怒鳴り、ファン達が喋りまくり、足音が響き、やれ番号がどうだとか、前回の公演はどうだったとか、メンバーがなんだとか、500円忘れただとか。もう暗くなった空の下多くがTシャツ姿になってぶるぶる震えながら列を成す喧騒の中にひょっこり現れにこにこ笑い、ふわりといなくなったキツネくんは変わっていたけれど、でも根本的にはあのビデオの、可愛らしいキタキツネのままなのかもしれない。チケ番いくつですか?知らない男に尋ねられ答えている間に、キツネくんの姿は完全に見えなくなった。
 アンコールまで全て出し切ってバンドがステージから捌けていった。最前列のつらいところはライブが終わり、照明が点灯され、またBGMが鳴り出し現実に引き戻された瞬間に、さっさと会場を後にできないところだ。私はその頃にはすっかり人嫌いが復活しており、右から左から外に出ようとぶつかってくる人間達を柵に掴まりながら不器用に流し、キツネくんはどうなっただろうと一時間半ぶりに、思い出していた。ライブが終わってしまうと何故キツネくんとここに来たのだろうと、そんなことばかり考えてしまう。ライブは一人で行くものだと、いつも考えてきたではないか。自分の前に並ぶカップルの、男が妙に興奮して知ったようなことをべらべら喋り続けていたら、女の方がスカートでハイヒールを履いていたりしたらいつも、ぶっ殺したくなっていたではないか。何故私はキツネくんとライブに来てしまったのだろう、いくら仁がああ言ったからといって私の唯一の無垢な幸せであるライブに、しかもキツネくんなんかと。私はこの後どうしたらいいのだろう、安い共感をキツネくんと抱いたりしたくない。楽しかったねだなんて死んでも言いたくない。私は、仁から離れた自分が一人ではなくキツネくんといることにより、いつも以上に不安定になっていることに気付いていた。しかし気付いたからといって、こうなってしまった以上もうどうしようもないことにも気付いていた。早く帰りたい。そう思った。
 ロッカーに戻った頃には汗で濡れたツアーTシャツがすっかり冷たくなっていて、私は震えながらシャツを脱ぎ、会場に来る時に着ていた服を着直した。財布や煙草と共にロッカーにしまわれていた服達は乾いていて身に付けた瞬間ふわりと体が暖まったけれど、自分の汗と他人の汗と頭上で撒き散らされたペットボトル飲料に濡れた髪はいくらタオルで拭いてもさっぱりせず、きしきしとしたまま艶を取り戻さない。確かに髪をまとめていた筈のゴムはライブ中盤に気付いた時にはなくなっていた。とりあえず、その場しのぎ程度に乾かすとそれ以上の改善は諦めツアーTシャツが入っていたペラペラのビニールに濡れたシャツとタオルを詰め込み鞄にしまった。ロッカーから財布と携帯を取り出し扉を閉め、上着のポケットに手を突っ込んだ瞬間携帯が震えたのを感じた。メールの受信ではバイブは一回しか鳴らないように設定している。着信だ、と三度携帯が震えたのを確認してから取り出した。職場から明日のシフト変更だとか、今日休みの私にはどうしようもできないことの押し付けだとかの連絡だったら、と思うと腹が立った。事実今の職場に入ってから、私は休暇をライブ以外で取ったためしがないのだけどその度に、いつもいつもちょうどライブが終わったあたりに電話が来て、明日早出で来れないかとか、売上金が合わないのだけどとか、私を二秒で現実に引き戻す連絡が入るのだ。舌打ちしながら見た画面には、キツネくんと表示されていた、私には。仕事先の電話番号よりもキツネくんの方が、その時はよっぽどマシに思えた。


 「俺始まってすぐダイブする人に体当たりされたよ」
 ロッカー前で救われた気分になりながら電話に出るとキツネくんは、ライブハウスの隣のコンビニに避難中、と私に言い、迎えに行くよと申し出た。ロッカー、と答えた私の声は枯れていて、ベース側にいたからだろうか左耳は膜が張ったように聞こえが悪かった。ポカリスエットを飲みきり、煙草に火を点けた頃キツネくんはロッカールームまでやってきて、帰り支度に忙しい観客達何人かを挟んだ遠くから、へらへら笑って私に手招きした。私の髪は濡れていた、体もべとべとしていたし、途中でペットボトルを踏んだので靴の中まで散々だった。迎えにきたキツネくんは、からりと乾いて防寒までしている。本当に会場内にいたのだろうかと怪しんでしまうくらい、清潔で、来た時のままだった。帰りの電車まで微妙な時間が残っていると言う私に、じゃあどこかでなにか食べますか、とキツネくんは相談というより決定事項のように呟いた。私とキツネくんは駅の近くの安いパスタ屋で今、向かい合って麺をすすっている。私は、キツネくんから漏れた感想がよかったねとか凄かったねではなく、ただの体験談であったことに安心していた。私はライブが好きだ。好きだからこそ共有したくないことが私にはある。
 「痛かったでしょ」
 「すごく。しばいたろかーって勢いで言ってみたけど、聞こえてなかったみたい」
 「絶対聞こえてないだろうね」
 「うん、でも隣の人は聞こえたみたいで。笑ってくれて」
 私が揉めに揉めて最前列に手を伸ばしている間に、最後列ではそんな穏やかな事件が起きていたとは思いもしなかった。私はオールスタンディングのライブを後ろで観たことがない、人生初のライブでもおっかなびっくり真ん中あたりまで足を進め、不恰好に踊ったりメンバーの名前を口に出してみたりしていた。最後列では隣の人と話ができるのか。私がいつも見ている世界では、周りは全員前を向いているしバンドの音しか聞こえない。MCの時に近くの人がくすくす笑ったりしているのは妙に大きく聞こえるけれど、演奏中は音楽が全てになるしそんな中、喋ろうとするは人がいるだなんて考えたこともなかった。後ろはねえエアコン効いてて気持ちよかったよ、暑くなかった?という私の質問にキツネくんは、自分の上着を示してそう答えた。
 キツネくんの髪は相変わらず、私が知っている通りのオレンジ色で、男にしては長く、ふわふわと外に跳ねていた。容姿にそれほどの変化は見られなかった、私が想像できる範囲での、成長したキツネくんで、少し痩せたかなというのが唯一心配してしまう点だった。変わったのは容姿以外の表情、仕草、笑い方、口調など殆んど全てで、たまにキツネくんが中学生の時みたいにへらへら笑うと私は安心し、その直後に彼が真顔になって黙り込んだりするのを見ては、不安になった。
 キツネくんはいつでも明るくばかなことを言って、女の子を追いかけているのだと思っていた。それなりの優しさと、取っつきやすさと、最低限の常識と、人を必ず笑わせられる話題を一つか二つと、好かれるテクニックと、流行を身にまとって生きているのだと思っていた、そしてそういうキツネくんと私は、永遠に仁を挟んだちょっと深い顔見知りとして生きていくのだと思っていた。今目の前にいるキツネくんは、普通の、つまり高校卒業後私と疎遠になっていった女の子達なんかとは、決して相性がいいようには見えなかった。今のキツネくんは心の底のところになにか抱えて、思慮深く、大切なことをひた隠しにしたような生き物に見える。そういう男を好く女というのは、同じようになにか抱えた女なのだろう、そして好かれて、以前のキツネくんの軽快さやあっさり感とは真逆の、互いの腹の奥の奥の奥を探りあうような恋愛をするのだろう。私は直感的にキツネくんが今でも、女の子と遊んでいるのだろうなと思った。そして今のキツネくんが、私と会いたくなったと言うのも真っ当なことなのだろうという気がした。
 「メールいつもありがとね、俺、長い言葉ばっかり出てくるようになっちゃって、喜ばしいんだけど。学生の時のこととか思い出した時に、誰かにこのこと言いたいなって思うんだけど、他に見つからなくて。あの時突然メールしてごめん。でも、今でも送る相手間違ってなかったなって思ってるよ」
 カルボナーラを食べ終えたキツネくんが煙草に火を点けたのを見て、私は時間が流れてしまったことをまた意識させられている。中学、高校の時のキツネくんは煙草を吸わなかったはずだ、映画を観に行った時も喫煙所に入った私を外から、当たり前のように眺めていた。私はその時驚いて、煙草吸わないんだ?と六番シアターか八番シアターに向かいながら訊ねた筈だ、仁の友人が煙草を吸わないだなんて当時は全く、信じられなかった。いやあ一応運動部だし、俺咳でやすいんだよ、おまけに犬アレルギーだし、と答えたキツネくんを思い出し、ああ私は、そういえば体のあまり強くないキツネくんの片鱗を一度だけ見ていたなと気付いた。今キツネくんは煙草を吸う、でもタールは3ミリで、ライブが終わってから店に入って料理が出てくるまで、そして料理の途中でさえ、煙草に火を点ける私に対して彼はまだ一本。相変わらず咳はでやすいのかもしれない。
 「冷めちゃうよ?」
 キツネくんの愛人とはどんな女達なんだろう、少なからず根暗なのだろうなと考えゆっくり煙を吐き出す私に、まだ中身のある皿を指差してキツネくんが真面目な顔をした。冷めたパスタ好きだから、と私は言い切り、キツネくんを突っぱねた。少食で猫舌なんでしょ?言い当てるようにキツネくんは言い、それは確かに当たっていた。
 私とキツネくんは中身のないような、話題を出してはすぐ途切れる、地元の新聞社がどうだとか知り合いの調理師に聞いたパスタ屋の厨房の裏話だとか人間って面倒臭いだとかいう話をさらりとし、水を飲んで、行きますかと立ち上がった。キツネくんの皿は既に下げられていて私の皿には、冷めちゃうよ、とキツネくんが言った時から変わらず中身が残ったままだった。ライブの後は異常に喉が乾くし煙草をがんがん吸いたくなるが、腹だけは減らない。いつものことでありキツネくんが私の分まで会計をしていても、なんの罪悪感も抱かなかった。チケットは。私がコンビニで取った850番のチケットは、一つの確認もないまま私が奢ったことになったらしい。それに対しても、私はなんの感情も抱かなかった。
 私を改札口まで送り届けおやすみ、と手を振ったキツネくんに手を振り返しながら、彼が素直に私を家に帰したことに安心しつつ、拍子抜けした。キツネくんがこれまで何度も送ってきたライブ楽しみです、の文字には確かに、好きですという意味合いが含まれていたからだった。
 電車に乗り込みヘッドフォンを耳に当てた時、私は浮き足立つのをやめ、心が平坦になっていくのを感じた。


 玄関に入ってリビングの灯りがついているのが見えた時、私は嬉しくて仕方がなかった。汗まみれでずっと気持ち悪かった靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、ペタペタ歩いてリビングへ行くと仁が起きていて、ソファに座ってテレビを見ていた。私を見るとおかえりと眠たそうな声で言い、それを裏付けるかのように欠伸をした。
 「待っててくれたの?」
 「そうてか俺もさっき帰ってきて」
 飯食いに行ったはいいけどめっちゃ話長引いて、どうせだから待ってた、シャワー浴びる?一思いに言って仁はもう一つ欠伸をし、ソファに近寄った私を抱き寄せようとした。汚いよ、ライブから帰ってきて仁が起きていた時、私はいつもそう言うのだけれど、ライブなんかに微塵の関心のない仁は毎回それを忘れるのだった。忘れて、私に触ろうとし、私に怒られ、私をよく見てやっと、濡れてる、と言うのだいつもいつも。だからお風呂入ろう、と私が言う。ここまでが毎回お馴染みの流れであり仁がまだ入浴前であったら、私達は一緒にお風呂に入る。私達は毎日、よっぽど相手が遅くに帰ってこない限り、お風呂は一緒だ。かなり小さかった前の仁の家のお風呂にだって、私達は体をぎゅうぎゅうにして一緒に入った。だって風呂入んねえとお前の裸見れない、というのが仁の一貫した主張だった。夜電気を消した中でしか抱き合わない私達はお風呂場で、いつも互いの体を眺め、痩せたとか痣があるとか言い合っている。
 「キツネ元気だったか」
 思い出したように仁が言ったのはベッドに入ってからだった。元気だったよ、と答えると欠伸が出た。家に帰ってきて仁がいた。私はそれだけですっかり安定し、これまで抱いていた戸惑いが全てばからしくなる。
 「なんかでも私完全燃焼してて。あんま喋れなかった」
 「お前さ」
 「うん?」
 「キツネと映画観に行った時もそんなこと言ってた気がする」
 「え?ほんと?」
 「映画おもしろ過ぎてあいつなんか覚えてないとか言ってたわ」
 「うわ、私成長してないね?」
 「体も中身も変わってねえな」
 仁のその言葉が私の決して立派ではない胸をからかっているのだとすぐにわかり、軽く頬を叩いてやった後笑う仁に私も笑ってから、電気を消した。猫になるぞ、横向きになり体を丸くして目を閉じた私に仁が言って頭を撫でた。筋肉痛、そう答えるのが精一杯で、私は深い眠りに落ちていった。


 ライブ二日後にきたキツネくんのメールはこれまでで一番短いものだった。当日の朝に私が一行のメールを送って以来初めてかわすメールだった。
 この間の夜はありがとうございました、構ってくれて。僕はあの日とても自然に、しかし紳士的で在るよう努めていました。僕、不愉快な思いさせましたか?。(中略)分かっていたと思うけど、エモバンドのライブは初めてでした。あれだけの収容人数の箱も初めてでした。僕はいつも座って聴ける、小さな、ライブハウスというよりも小屋のようなところでやるライブにしか行きません。でもあの時いきたいと言ったのは素直に、あなたが一緒ならと思ったからです。(後略)
 俺ではなく僕、という一人称が用いられたキツネくんからのそのメールは、コラムや詩ではなく、彼の素直な気持ちと感想が多く書かれていた。私は騒がしいのに孤独である休憩室でそれを読んだ時、今のキツネくんとなら多岐に渡り、仲良くやっていけそうだと確信した。キツネくんは確実に不安定だ、不安定で奥さん含む様々な女達に心配され、保護され、時々勘違いされて生きているに違いない、そして私も、こうして仁から離れている間の私も確実に不安定だ、だって今にも泣き出しそうになりながら、自分にはキツネくんしかいないのではないか、この日々の労働や女達から受け取る鬱憤を、吐き出していい相手はキツネくんしかいないのではないかと思ってしまっている。
 薄々気付いてはいたことがたった今明白になって私へ突き付けられた。私は毎日毎日疲れている、肉体の疲労であるならいい、それは眠れば消えるのだ。私は毎日毎日精神に疲労を負っている。職場の同僚の人任せな感じや、先輩達に利用されている感じ、頼りにしているからと面倒事を押し付けられ、まだ若いからと大事なところでないがしろにされる。まるで女子校がそのまま会社になってしまったような、表面上は楽しげで一枚めくればどろどろのここで、私は孤立し、いいように利用され、それなのに仕事をするしかないという確固たる意志というより呪縛によって、くたくたになるまで毎日過ごす。辞めたい。辞めてもっと楽に生きたい。働くしか能のない私にはもう充分な貯蓄があるではないか。働きたくないわけではない、ただ仕事がきつくてもせめて、さっぱりとした人間関係のところで働きたい。夜になって仁と過ごす、そのことで、私は自分の中にある黒いわだかまりを毎日毎日ごまかして生きてきた。私は仁が好きだ、好きだからこそ仁に、同じく疲れているだろう仁に、弱音を吐くわけにいかない。今日上司に罵声を浴びせられたとか、私の私物の共有を強制させられたとか、同僚に私の人生そのものを見下されたとか否定されたとか、そんなつまらない話を聞かせたくない。たまにどうしようもなくなって帰ってきた仁に無言のまま、擦り寄ると仁はなにも言わず、頭を撫でてくれる。私はそれで充分な筈だった。冷静になり、ああやっぱり大丈夫だと、翌日からまた仕事に向かえられたらよかったのだ。詮索をしない仁が好きだった。黙って受け入れてくれる仁が好きだった。だけど仁がいない間、私は結局なにかを抱えたままだ、仁は全てを忘れさせてくれるが、なくしてはくれない。かといってキツネくんはなくしてくれるかというと、そんなことは絶対にないのだけどそれでも、私はキツネくんにならこの鬱憤を、吐き出すことができる。吐き出してキツネくんが私からまた離れても、それはそれでいいと思える。
 怒濤の吐露を始めた私のメールに、キツネくんは変わらず返事をくれた。その豊かな感性を披露する合間合間で、私を気遣う言葉が出てきたり、出てこなかったりした。私の抱えたなにかに対してキツネが見事に無視を決め込む時私は、ほっとしたりがっかりしたりした。キツネくんもかなり参っている時がたまにあるようで、これまでのメールの流れを一切なかったことにして、自分を取り巻く環境や自分の抱える不満や驕りを、第三者の視点に置き換えて文字にしてきたりした。私もそれに、感想を述べたり無視したりすることで応えていた。私とキツネくんのメールのペースもその容量も、ライブ前後で大した変化は見られなかった、ただその中身は、それまでよりずっと濃く、黒々とし、素直なものとなっていただろう。僕、貴女が愛しいです。キツネくんのその言葉は多分恋愛感情も、友情も、人間愛ももしかして動物愛も全て含まれていただろう。私はそれを見てほっとして幾日かの間、仕事での苦痛が軽減された。翌日私はその言葉なんて全く見なかったようにメールを返し、キツネくんも更に翌日、全く別件についての長いメールを送り返してきた。キツネくんは私を許容する、どんなに汚い言葉を連ねても、自分の中に押し込めておくべき感情を爆発させても、受け入れ、反応し、無視をする。私は仁の前で猫になり、キツネくんのメールでは狂暴ななにかに変わった。
 なにがなんでも行かないといけない。ネットでツアースケジュールをチェックし近場のライブハウスでの公演日を確認した時私の興奮はピークに達していた。九月に最愛のバンドのライブがある、絶対に行くとキツネくんにメールを送ったのは五月のことで、彼とのメールは最早なくてはならない習慣となっていた。私はキツネくんに吐露をすることで職場での毎日をうまくやりこなせるようになっており、最近丸くなったねだとか知ったような口を先輩に利かれ腹が立っては、また彼にメールを送った。キツネくんはその頃、自らの恋愛遍歴をつらつらと、私に書いて寄越すようになっていた。女の子に、女性に、これまでずっと助けられてきたと彼は綴った。やはり、彼は今でも不貞をはたらいているのだった。私はそれを他人事のように眺めながら、奥さんはこのことをどう思っているのだろうと簡単な感想を抱いていた。コネがあるからチケット取れるよー。キツネくんの返事はその日の夜にきた。



 白蛇 / 赤狐 / 黒猫



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2013.11.26