その日私は眠らず図書室で完璧な自習をし、予習復習を終わらせると生徒玄関まで下り、下駄箱の前に座り込んで景吾を待っていた。どうだ参ったか、私だってやるときゃやるんだぜ、という顔をしてつらっと出迎えるつもりでいたのに日が暮れた中現れた景吾の、制服のシャツが点々と赤く汚れているのが目に入った途端私は、すました顔をするのも忘れ、大慌てで立ち上がるしかなかった。
 「景吾景吾それ、」
 慌てふためいてぐいぐい近づかれた彼はやや驚いた顔をして、汚れたシャツを掴む私を見下ろしていた。怪我したの?その問いに。合点がいったのか景吾は、気の抜けたような微かな笑みをこぼした。



眠姫  四度寝





 「鼻血」
 彼の放ったその単語は彼に似合うものではなかった。鼻血。はなぢって、ここまで彼の口から発せられるべきではない言葉がほかにあるだろうか。濁点のついた ち だなんて、そんなものが。へへへ、シャツを掴んだまま固まる私を見下ろした景吾の顔が、下界に降臨した神かなにかのように穏やかでこちらを見透かすようであったのに私は思わず笑い、そして鼻血という言葉のつり合いのとれなさに混乱している。
 「景吾が?」
 「ちげーよ、鳳の」
 なんで俺が。そう言いたげな顔をする景吾を見て私はやっとシャツから手を離す。上から三つめボタンのあたりに、今しがたついたような色の、それでも乾いた血が確かについていて、それははなぢで、景吾のものではなく、鳳くんのものであるらしいのだが、それは確かに血なのだから、たかが鼻血であろうともそれは、不穏だった。鳳くん平気?私は呟き、平気もなにも鼻血じゃねえか、と景吾はまた似合わない言葉を口にしている。
 「殴ったの?」
 「なにが?」
 「景吾。鳳くんのこと」
 鉄拳制裁っていうか。不穏を拭い去れず言葉を続ける私に彼は愕然としていた様子だった。数秒間私を見つめ、眉間に皺を寄せると私の頬を、指の腹でぱちぱちと何度か叩いた。寝てんのかよ、そんな台詞と共に。
 「起きてるよ」
 「なんで俺が鳳のこと殴るんだよ」
 「わかんないけど。指導的な感じで」
 「なんだそれ」
 また、景吾は微かな笑みを浮かべる。それでもう何度か、私の頬を叩いていた、ぱちぱちと。ねえちょっと痛い、そう言ってみたが景吾は、それくらいの言葉で小さな折檻をやめたりしなかった。
 「鳳が宍戸と練習終わりに遊びで、ボールふたつ使って打ち合いしてて」
 「うん」
 「案の定一個、鳳の顔面に当たった」
 「で、鼻血?」
 「一応心配して見に行ってやったんだけど、本人へらへらしてた」
 「看護してあげたの?」
 「別に。タオル貸してやったくらいで切り上げた」
 あとは宍戸か誰かが看てやってんだろ、そう言い景吾は欠伸をし、頬を叩くのをやめてそっとそこをこすっていた。つかれた、という景吾の呟きは本心だろう。大会も近い、日が長くなり部活時間も増えてきた、毎日誰かしらになにかが起きる。おつかれさま、そう言って抱きつこうとした私を彼は、腕を伸ばして拒否した。血ついてんだからやめろよ、だとか言って。うーん、私は言い、彼を見上げている。いいから、彼は言い、私を見下ろしている。おつかれー、そんな挨拶と共に部誌を小脇に抱えた岳人が玄関に入ってきて、私たちを見てあっつ!と大げさな非難の声を上げた。それを聞き景吾は、邪魔すんなよと岳人を非難し返している。「公共のスペースでそんなことしてる方が悪いんだろ」「ああ?俺のこと誰だと思ってんだよ」「いや跡部だけど。慎めばって言ってんの」「うるせえよ」「あのさあお前らみたいに年中両想いな人間だけじゃないわけ世の中って」「だからなんだよ」「気を使ってほしいっすよひとり身の俺とかに」「知らねえよ」、言い合って、ふたりは笑っていた。
 「鳳くん大丈夫だった?」
 やれやれだとか、言いながら靴を履き替えている岳人に尋ねると、彼はこちらを振り返りあー全然なんて、気軽に答えた。真ん丸な目をして。
 「宍戸とかマネとかによってたかって鼻にティッシュ突っこまれて遊ばれてた」
 「元気なんだ?」
 「いやだってたかが鼻血だぜ?」
 「そうだけど」
 「なんか鼻血出てても寝そうじゃん」
 「あー、そうだけど」
 否定しろよ、と岳人はけらけら笑い、もう一度おつかれーと言って上履きを履き、正面階段を駆け上がっていった。抱えた部誌を顧問に届けに行くのか、ペンでも取りに行くのか、用紙が足りなくなったので補充しに行くのか、今テニス部に所属していない私にはわからなかった。大体あの中身だって今、どんな風な書き込み方になっていて、部員全員が交代で書くのかマネージャーだけなのか、それとも役員みたいなものになっている人だけがコメントできるのか、もしかして岳人の専門のものになってしまったのか、私は知らない。鳳くんが鼻血を出しました部活中に遊ぶのは控えましょうとか、書かれたりするのだろうか。ボールはひとつで充分ですとか。一年生でクビになった私はひとつ年下の鳳くんと一緒に部活をしたことがない。景吾がいるから、それとも侑士や岳人なんかが私を連れて校内を歩くから彼との接点を得ているし彼と気軽に口を利いたりできるが、彼がどんな姿勢で部活に臨むのかを見たことがない。もし私があの夏クビにならず、ずっとテニス部のマネージャーを続けていたのなら私は、今日彼の手当てをしたのだろうか。それで景吾はシャツを汚さずに済んだのだろうか。それとも遊んでいる鳳くんと亮に交じって、私が鼻血を出していたりしたのかもしれない。そこまで考えて、なんて不毛な想像を働かせているのだろうとふと気づく。後悔はない、誰を恨んでもいない、反省はしているが、私はあそこに戻るべきではない。私を部活に戻そうとしなかった景吾は、絶対に正しい。絶対である景吾を見上げ、彼はやはり、見透かしたような顔をしている。だいすきだよ、思わず告白し、ひとり身の奴らがかわいそうだからこんなところでそんなこと言うなよ、と景吾はふざけた。

 翌日三時間目の休み時間にお弁当を食べ終えた私は四時間目の途中から睡魔に襲われ、頭のてっぺんに痛みを覚え昼休みに目を覚ました。攻撃を受けたことに対する本能による反応みたいなもので顔を上げるといつかのように、机に伏せていた私の横に亮が立っていて彼は、プラスチックの定規を持った右手を大きく、振り上げてたところだった。起きたからもう叩かないで、半分眠ったまま私はそれでも抵抗し、亮は脅かすようにもう一度振りかぶって見せた後、「社会科教室」と一言告げた。しゃかいかきょうしつ、繰り返す私の頭はまだ、少し寝ている。
 「なんで?」
 「推薦のやつ」
 「またなの?」
 「放課後とか朝とか、全員が集まれる時間がなかなかないから昼休み何回か使ってやるってこの間言ってただろ」
 「そうだっけ」
 そうだよ寝てたのかよ、亮は言って自分の左の手のひらを定規で叩いていた。ぱしんぱしんと弾けるような、それとも切り裂くような音が何度となく聞こえ私の頭は、恐ろしいくらいゆったりとしたスピードでそれでも、冴えていった。起こしにきてくれてありがとう、そう言って椅子から立ち上がり目を擦った時、亮はもう教室のドア付近まで歩いて行ってしまっていた。私は机に投げ出されたプラスチック定規と共に置き去りにされている。よくよく見てみればそれは、私のペンケースに収まっているべき私の定規だった。

 「って。推薦取ってどこ行く気?」
 二回目の説明会を眠ることなく受け終え、すがすがしい気持ちで社会科教室を出てすぐ、私は若干の眠気を抱いていた。一仕事終えた気分で、すがすがしさは瞬時に温かいものになり、それはおつかれさーんみたいなやわらかいさとなって体にまとわりついてきた。説明会に無事に出席した、眠ることなく説明を聞き、メモをとり、次回の開催日も覚えた、あとは教室に帰るだけだ、さあ寝よう、私の回路はいつもそんな風に成り立っている。だから廊下を歩き出した時に後ろから聞こえてきたその質問に、へ?とか、間抜けな声を上げて振り返ることしかできなかった。背後を歩いていたのは亮で、彼は へ? という返事が気にいらなかったのか眉間に皺を寄せ、じろりとこちらを見つめていた。「志望校の話?」「そう」「決まってない」「は?」「なんか、推薦とか。もらえるものはもらっとこうかなーって思ってただけなんだけど」、がやがやとした周囲の話し声の中足を進ませながら眠い私と眉間に皺を寄せた亮はぽつぽつと会話をし、彼はいつの間にか軽やかに、自分の教室へ向かう私の隣に並んでいた。
 「なにそのおばさんみたいな発想」
 そう言って亮はとりあえず笑ったが、完全に呆れた様子がうかがえた。亮というのは昔から、というほど長年連れ添ってきたわけでもないけれどとにかく私が部活にいた頃から、そういう態度を見せる男だった。景吾のとは違う、乱暴さの欠けた、それでもこちらをやや落ち込ませる、父親みたいな呆れ方をするのだ。はあ、とため息を吐いたりして。知り合ってすぐの頃、亮は親切だった。完璧に優しい男子だった。わからないことを聞いてもそんなことも知らねえのかよ、みたいな顔を一切しないし、男子女子隔てなく接していたし、思春期の男子特有の意地悪やからかいや突っぱねみたいなこともしなかった。けれど亮は、私のだらしなさがどんどんと露呈され、それをもうどうしようもできないと納得するや否や、今みたいな呆れ方をするようになった。恐らく私が部活に入って二週間後にはもう、そういう態度をとっていたように思う。お前なあ、なんでそう、ほんと勘弁してくれよ、正直にそう呟き、呆れ顔をして、それで私を手伝ったり、フォローしてくれたりしたのだ。部活クビになったって本当かよ?クビ宣告を受けてからの週明け月曜日そう尋ねられ、本当だよ、と返事をした私の目の前で亮は左手で額を抑え、しばらく俯いていた。もしかして泣いているのか、なんて一瞬思ったが違って、亮はその時過去最大級に私に、呆れ返っていたのだった。言葉も出ないくらいに。それで数分後、彼が顔を上げるのをずっと待っていた私に、亮が発した言葉は「ばかじゃねえの」、たったそれだけでありそれは、私の胸に突き刺さり私をふにゃふにゃにさせた。言われたくなかったが、何故だか周囲に優しくされまくり、庇われ続けていた私が確かに言われるべきはその言葉であり、ほんとばかだと思う、そう答えながら私は精いっぱい傷つき、精いっぱい本音を言った亮に感謝していた。私を呆れ返る彼が、私に正直に苦言を呈する彼が、いなければ私は、あの日から立ち上がれていただろうがきっと、もっと変な方向を向いていたように思う。
 「亮は?志望校どこ?」
 「俺より先に聞くやついるだろ」
 「へ?」
 「お前自分の彼氏がどこ行くか知ってんの」
 「知らない」
 亮は私の返事を聞いてため息を吐き、頭を垂れ、遂には目を閉じてしまった。それで自分の右手を左肩に置き、かなり参った様を表現しながらも数秒間、器用にも隣を歩き続けていた。私はそれを美しい無声映画を見るような心地で眺めていた。彼が今そうする理由が私にはわからない、だから目の前で表された洗礼された呆れかえる仕草の数々に見入っているしかない。たとえそれが私に向けられているものだとしてもその意図がわからないのだからそれは、日々鍛えた体の生み出す芸術のような流れでしかなかった。跡部ってめっちゃ心広いよな、廊下の角を曲がった時ぽつり、亮はそう言った。彼の顔はその時しっかり前を向いていて、隣の私を見下ろす様子も、ちらりと目を向ける様子さえなかった。
 「なんで?」
 「別に」
 「景吾私のことなにか言ってた?」
 「いやそういうのじゃないけど」
 じゃあなにが言いたいの?、尋ねた私の背を亮は突然ほどほどの力で叩き、痛い、と声が出た。眠く、ふわふわとしていた私はつんのめりそうになり、くいとめるために一歩足が前に出たがかなり前傾姿勢となっていてとてもかっこよくはなかった。どうせ私は大体の場合眠くてふらふらだ、私がくねくね動いていたって周りはもうほとんど気にしてはいないのだが、それでも他人の力でもってそんなことをされて、納得がいくわけではない。加害者である隣の男になにするのと問いたくて顔を上げると、廊下を行った先に景吾の姿を発見した。いつからこちらに気付いていたのだろう景吾は、バランスを崩した自分の彼女を見て首を傾げている。私は景吾を見、隣の亮を見上げ、もう一度景吾を見てから一体なんなの、と亮のここまでの言動全てに疑問を提示したが。
 「いいからさっさと愛されてこい」
 と亮はとんでもなく投げやりに言い放つと唐突に方向転換して、男子トイレへと消えてしまった。きゅ、と靴裏のゴムが鳴った音がだけが耳に残った。不服で、立ち止まりその入り口を凝視したりもしていたが段々それが変質者の行いのように感じ恥ずかしくなり、目線を逸らすと景吾はもう、私の正面に立っている。景吾だ、と口にせずにはいられない私を、今宍戸に叩かれてただろ、となにがおかしいのか景吾はそう笑った。ねえ亮が景吾に愛されてこいって言ってたよ、その甘えを彼は無視し、私の頬を存分な力でつねっていた。ぴりりと、眠気が四方へ飛んだような気がした。






三度寝五度寝


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2014.9.4