恋愛マスターなんじゃないか、と期待された時期が私にもあった。つまり景吾と長い間付き合っている私は、古い言い方をするとABCのCまでを、知り尽くしているのではと勘違いされやすかったのだ。事実としては私は、まるっきりAしか知らない。かなりプラトニックな関係で景吾と付き合い続けている。それが周囲に認知されると、私は勘違いの末のえぐい恋愛の質問をされなくなり私達は、健全なかわいらしいカップルとして見守られるようになった。



眠姫 二度寝





 氷帝の図書室はいい。大きく、本の数も充実しており開放時間は部活動終了時までと長くなにより、椅子が立派だ。背もたれの押し返しが体にちょうどよく、中綿の柔らかさが絶妙であり、幅広で、体育座りをする私をすっかり包んでくれる。時々、私はここで居眠りをしたり読書をしたり勉強をしたりしながら景吾が、部活を終えるのを待っている。授業中だろうとなんだろうとあんなにも眠り続けるのにも関わらず私が学業推薦を獲得できたのはこの図書室と、景吾を待っている時間のおかげだろう。私は気が向いて、眠くなければここで三時間は勉強をする。眠った授業分を取り返す為に、次のテストの為に、私をなんとか起こしてくれようとする同級生達の為に、私をこんなに立派な中学に入れさせてくれた両親の為に、償い半分、自分の為半分に予習と復習をするのだった。それはしっかりと功を成し、私は眠り続けるくせにテストで大体の場合優秀な成績を収め、先生達からの乱暴な起床の促しや長い説教をここ三年でずいぶん、免れられるようになった。
 今日は朝からHRもすっ飛ばして昼休みまで眠ってしまった為、クラスの女友達にノートを借り、四時間分の授業内容を知ることに努める気だった。私はノートを貸してくれる彼女達に毎日感謝している、その綺麗にまとめられたノートや、カラフルなペンでつづられた字を見る度にうっとりとすらする。なんて恵まれているのか。なんてすばらしい友人達だろう。一時間目の国語のノートをまず開き、松尾芭蕉が一体なにを言いたかったのか考えつつ、教科書と女友達の書き取りを見比べていた。たまに飽きては外を眺める、三階にあるここからは空しか見えない。下を見下ろしたって野球部のグラウンドがあるだけだ、テニス部のコートはない。私は、もしこの下にコートがあったらここ二年間、こんなにまったりとここにいられなかったのではないかとたまに思う。今ではこうして呑気にテニス部である同級生達と付き合っていられるし、彼らの大会での活躍を聞いて喜んだりできるが、一年生の夏が終わる頃までは、景吾と付き合いながらも彼らと接するのが、ずいぶんとつらかったように思う。つまり申し訳なくて。あれほどしてくれた同級生達に、クビになった自分が分け隔てなく接してもらうこと、あろうことかクビになった身の私がエースである景吾と付き合うことが、私にはしばらくの間罪のように感じられた。あの頃というのはテニスコートを見るのも、部活着の彼らを見るのも、テニス部集合の校内放送を聞くのでさえ、つらかった。恨みは一切なかった、ただ、眠い私がいやだったし、そんなことで部活を途中で投げ出すことになった自分が恥ずかしかった。けれど侑士が、丘人が、それとも亮が慈郎が女子マネの友人達が、ことあるごとに私にテニス部の活躍を報告してきたり、いないとやっぱ寂しいと温かい言葉を言ってきたり、相変わらずなにかあれば私を起こしてくれたり、景吾が気にすんなと度々言ってきたりしてよしよしとしてくれる度に、私のそういう締め付けられる感情は和らいでいき、素直にコートを見られたり、試合の結果に安堵したり、景吾と歩くことをただ楽しいと思えるようになった。一年生のあの頃、テニス部である景吾と付き合いつつ彼を待つのがコートから遠く離れた図書室であったことが、深く考えすぎないこと、それを大きく助けたように思うのだ。そして私はここが好きになる。
 ああうとうとしはじめてきたな、と感じたのはテニス部の練習が終わるであろう10分前で、生徒玄関に降りた方が景吾がここまで迎えに来る負担が減るからいいのだろうと思いつつ、私は動き出せないでいる。ちょっと寝ないでよー、司書役の先生にそう言われたような気もして、自分が頷いたような気もしたが、次の瞬間には机に伏してしまっていた。ふわふわと、それともじんわりとした睡魔が私の後頭部を襲っている、あとお尻の方からもきていたように感じたが、そんなのはどうでもよく、もう眠るしかない。睡魔には勝てない、この心地よさには。ずっと眠っていたい、眠る寸前の私はいつもそう思っている。景吾のことはだいすきだし、学校も好きだ、あたたかな同級生達のことは感謝しすぎてもう愛しているといってもいい。人生は楽しい。けれど睡魔がやって来た時、私はそれに身をゆだねる、魂を捧げているといっても過言ではない。もういい、世界とか人生とかいいんで、寝ます。そう思っている。ふわ、とひとつ欠伸をしただろう、それは確実で、それから先のことはすべて不確実だった。

 「いたずらするぞ」
 びり。鼓膜が裂けたかのような音がして、耳の痛みに私は起きた。へへへ、景吾の、古代ローマの彫刻のように整った顔が目の前にあり思わず笑った私に彼は、ため息を吐いた。いたずらするぞ、だなんてなんてロマンチックな言葉なのだろう。されるべきかされないべきか、煽るべきか恥じらんで抵抗すべきか、とても幸せな選択を迫られている私は欠伸をし、目のふちから一筋の涙をこぼした。みっともねえな、そう言って景吾が制服の袖で、それを拭ってくれる。
 「ごめんさっきまで起きてたんだけど」
 「あ、そう」
 「おつかれさま」
 大丈夫起きれるよ、私の体を支えようとする景吾を制し、私は自分の力で体を起こし、立ち上がると、広げたままの借りたノートや教科書を鞄へとしまっていった。景吾はいつの間にか長テーブルの遠くへと転がっていってしまったらしいペンをつまみ、ペンケースにしまってそれを私の鞄へ放り投げてくる。「部活どうだった?」「別に、普通」「怪我とかない?」「平気」「よかった」「お前は?勉強」「大丈夫一応今日の分は網羅した」「寝てたくせに」「さっきまで起きてたんだもん本当だよ」「はいはい」。そんな会話をしているうちに私の帰宅準備は整い、司書役の先生にさようならを言って、図書室を出た。短い睡眠のせいでやはりふらふらになって階段を降りるのに若干手間取り、先を歩く景吾は手すりに掴まる私を時々振り返っては立ち止まり、私がまた一歩を踏み出すのを待っていた。わあい景吾、そう言って階段を駆け下りたい衝動にかられるが一度それをやって、ふらふらの私は足を踏み外して下にいる景吾にただただぶつかっていき、心配半分怒り半分の景吾にこっぴどく叱られた経験があるので同じ過ちを繰り返さぬよう強い意思を持ち続けている。
 「待ってね、今本当はすごく駆け下りていって抱き締めたりしたいんだけど」
 しかたがないので私は口でそう景吾に説明し
 「いいから。安全に歩け」
 と彼にたしなめられた。
 階段を無事降りきって生徒玄関に出た時、侑士と岳人がジャージのまま下駄箱前に座り込んでだべっていた。おつかれさまー、景吾へと同じように私は彼らをそうねぎらい、寝てただろ、と岳人にすぐ言い当てられてしまった。
 「頼むから。うちの部長怪我させんといてな」
 階段駆け下り突撃事件を知っている侑士はそう言い、岳人がけらけらと笑っていた。最悪殺されるかも、なんて景吾までが言うので。笑いは更に大きくなってしまい、私は目をこすりながら反論の言葉も出なかった。

 だめだ寝そう。景吾の家の近くまで歩いた時、私は彼の腕に抱き着くようになりながら呟き、はあ?と景吾に訊き返されていた。あと10分歩けば私の家で、景吾はいつも一緒に帰る時、私をそこまで送り届けてくれるのだが。あとその10分が、今の私には耐えられそうもない。つまり眠い。今、私は眠いのだ。
 「あと少しだろ」
 「うん、でも、なんか限界」
 「平気だろまだ喋れてるんだから」
 「うん、じゃあ景吾私のこと一発殴るかなんかして、そしたら起きる」
 このあたりにお願いします、私は景吾に自分のこめかみのあたりを指差して見せた。景吾はほとんど苦しそうな顔をして、数秒悩んだ後、じゃあ寝ていけば、と私が自分の家に上がることを提案した。ありがとうここでもいいんだけど、と私は彼のベッドで眠ること、それをねだったようであったこと、相変わらず眠い自分に途端に申し訳なさが募り地面を示して見せたのだが、こんなところで寝る女と一緒にいたくねえんだよ、とはっきり言われてしまい、手を繋ぐ景吾にやはり引っ張られるようにして、彼の家へと向かっていった。景吾だいすき、その声は彼に届いただろうか。景吾の家まですごいスピードで上っていくエレベーターの中で。
 景吾も。そう言って手を引くともう、うんざりしたような様子で景吾という男は、私の隣に体を入れてくる。俺眠くない、そう言いながらブレザーを脱ぐ彼を、今までに何度見ただろう。言いながら結局は私の睡魔に付き合ってくれる彼を。
 「ありがとう」
 「お前の門限になったら起こすからな」
 「うん。ごめんね」
 「幸せな目覚めだと思うなよ」
 景吾はにくたらしいとでもいうように図書室での時のように、私の耳を引っ張った。ぴりりと痛み、私は少し目が覚める。それでも効果は期待薄だろう、私を起こす時、彼はこの耳を引きちぎる勢いで引っ張らなければならない。それとも腕を背中側に持っていってへし折る勢いで力を込めるとか、そういうことをしなければ。ぼんやりと開いた目で横にいる景吾を眺めていた。痛いことしないから寝ろよ、景吾は身を寄せてきて、ぎゅっと私にキスをした。
 「もうちょっと見てる」
 「いいから寝ろってそんな顔しやがって」
 「見てるよ」
 「いたずらするぞ」
 そう言って景吾は乱暴に私の腰に腕を回すが。半分眠っている私には抵抗の余地はない、大体にして私は彼が好きなのだから、抵抗する理由がないのだった。例えそのロマンチックな言葉通り、いたずらされたとして、なに文句が言えるだろう。してくださいよー、私のふにゃふにゃの言葉を聞き景吾は、眉間に皺を寄せた。
 「なんてこと言ってんだよ」
 「だって。付き合ってるから」
 「だからなんだよ」
 「だから。付き合ってたらするんじゃんそういうの。みんな言ってた」
 「そういうのってなに」
 「いたずらとか。BとかCとか」
 「なにそれ」
 久しぶりに聞いた、と景吾が笑っている。なんて綺麗な笑い方なのだろう。ふふふ、と笑ってしまう。景吾は私を遂に、満足そうな顔で見て、額を寄せてきた。あたたかく、部活終わりのはずの景吾はそれでも、いいにおいがした。
 「景吾はそういうことしないんでしょ」
 「しない」
 「いい人だから」
 「ていうかお前がいつだって眠いから、そんなことする暇ないんだろ」
 「私。起きるかもしれないじゃん」
 「なんで自分の女の寝こみ襲うようなまねしなきゃなんねえんだよ」
 わあやっぱりいい人だね?感動する私に。早く寝ろ、黙って、と景吾は念を押した。言われずとも私はもうほとんど夢の中だった。大好きと、景吾が囁いてくれたかもしれない。それすらきちんと記憶に残らないのは私のいけない点だろう。それですら私を好きでいてくれる景吾は、やはりいい人だ。とんとん。腰に回っていたはずの腕はいつの間にか背中にあって、私のそこをゆっくりと叩いている。私はきっと景吾に腕を回せたはずだ、好きだというしるしに。けれど目が覚めた時いつも、その腕はあらぬ方向へ流れてしまっている。






眠姫三度寝


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2014.7.3