かすかに、しかし確かに充満してるなにかの溶けだす匂い。教室、寒いからってエアコンの設定温度、高すぎです。
融解
「仁、」
「あ?」
「今回あなたに渡すチョコレートはありません」
仁は大して興味もなさそうに「あっそう」とだけ言った。甘党でもないし、もらったチョコレートの数だとかにこだわる人間でもない。だから私にそんなことを言われたところで、「あっそう」なんて気の抜けた返事で終わってしまう。
けれどしばらく一緒に歩いて、仁はふと思い出したように顔を上げた。
「でもお前昨日、なんか作って持ってくるとか宣言してなかった?」
繋いだ手は微動だにしない。心地よい熱を帯びて、二月の寒さからお互いの手だけを温める。絡んだ指は微動だにしない。ちょうどいい強さで、曖昧な緊張をもたらす。
「言ってましたけど」
「けど?」
「今日は寒いねえ仁くん」
「、そうですね?」
敬語ってどうやって使うんだっけ?とでも言いたげな彼の言葉を私は笑った。むかついたのか照れたのか、私を見た仁は硬い表情になって早足で歩きだす、引っ張られる指が痛い、中指の関節がぱきりと乾いた音を立てたのが聞こえた。
「それでね、寒いと温まらないといけないじゃないですか」
「うん」
「つまり教室のね、エアコンの設定温度が最高になってたわけですよ」
「そう」
「私の席はね、実はエアコンの真下にあって」
「うん」
「机に鞄を掛けて置いたら、その熱風が直で当たったわけで」
「うん」
「もう授業中ずっと熱風に当たってたわけ、鞄もその中身も」
「あー」
完全に無気力となってしまっている仁の返事にまた笑った私を無視し、立ち止まった仁は面倒臭そうに私と繋いだ手を離すと、ポケットから煙草とライターを取りだした。ああもうちょっとなんてことすんの、つまり、なんで手を離しちゃうわけ?嬉しかったのに。なんて思うけど仁はそれを全く察しない、慣れた手付きで煙草に火を点し、一口深く吸う。ゆっくりと紫煙を吐いてライターと煙草をポケットに戻すと、彼はまた歩き出した、私を置いて。
勝手に手を離し勝手に立ち止まり勝手にまた歩く彼を私は健気に追いかけて、隣に並ぶ瞬間にその手をそっと握った。仁は動揺も困惑も見せずただただ落ち着いて、むしろ惰性といった感じで私の手を握り返し、空いた手で煙草を持って器用に喫煙を続ける。
「なんで勝手に手離しちゃうかな」
「煙草吸いたかった」
「なんでまた繋いでくれないかな」
「面倒だろ」
なんでそんなこと言うのーと批難してみても、仁はもう答えてくれない。さも、今こうして繋いでいるのだからなにがいけないのか、みたいな態度をとる。なんて男らしく無愛想なのか。
「話の続きをするとね」
「おー」
「鞄の中には今日の朝頑張って作ったチョコレートが入っていて」
「おー」
「勿論仁さんの分だってちゃんと入っていたわけですが」
「おー」
「熱風でね、溶けた」
「あー」
「ねえもうちょっとましな反応できないわけ?」
仁は煙草を指に挟んで少しだけ考えた後、
「お気の毒さま」
と、わざとらしく言い、ふっと笑った。そういう風な笑みをこぼされたらなんていうかこちらのもやもやも軽減されはするのだが、けれど本当に私にとっては、お気の毒って感じなのだ。仁に宛てて作ったそれは当然のように手が込んでいたわけで、大体今朝私は朝の4時に起きてお菓子作りなんかしたのだ、眠いし疲れたし、けれどそれはつまり仁にバレンタインのプレゼントを渡したかったからだ、真摯に。それが溶けて形をなくしてしまうだなんて、なんて気の毒なのだろう。
「まあそんなわけで、今回はプレゼントはありません」
「うん」
「明日でよければまた作ってきますけど」
「明日俺休み」
「義務教育なんだからちゃんと来なさい」
「うるせえよ」
繋いだ手だけは相変わらず暖かい。今はちょっと煙草の匂いがして、それで体のほどんとが冷えきっている。なんて寒い日なのだろう、エアコンが恋しい、けれどあのエアコンが憎い。
ああそうしているうちにもうすぐ分かれ道、十字路を私は右に、仁は真っ直ぐ行く。たまに気分の良い時 私を家まで送ってくれる仁だけれど、今日は女の子にいっぱい囲まれて大変疲れたようだったし眠そうだから、多分送ってはくれないのだろう。だからもうすぐ分かれ道。なんとなく実感のわかない、仁との2月14日。
「あーあ、悔しいなあ」
「ん?」
私はその場で立ち止まる。そして仁の手を強く握り、彼がさっさと帰らないように強引に仕向けた。私は立ち話がしたい、こんなお気の毒な寒い日に、仁とせめて立ち話がしたい。
「せっかく作ったのに、絶対去年より上達してたよ」
「残念だったな」
「やっぱり明日作り直してきていい?」
「じゃあ家まで持って来いよ」
「学校来てよばか」
「溶かしたお前が悪いんだろ」
「じゃあ溶けたのあげるよ」
遂に私は情けなさから面倒になって鞄から箱を取り出した。今朝達成感に包まれながらラッピングしたものだ、それをこんな投げやりな気持ちで差し出すはめになるとは思ってもいなかった。私はこれを完璧な状態で仁に渡すためだけに今朝から生きてきてそしてあわよくば、仁が喜んでくれるかもしれないとか、思っていたのに。手に持つ箱の中でなにか、半液体くらいのものが揺れてるのを感じた。朝はあんなに綺麗に固まって、彩られ、おいしそうな状態だったのに。放課後、鞄を持ち上げて仁へのプレゼントがもはや食べ物ではないものに変化してしまったのを知った時から私は、ずっと自分が情けなかった。そして今、もうどうでもいいぜーとか思っている。
「どれくら溶けてんの?」
仁が私の差し出す箱を受け取り、感動もなく見つめながら首を傾げた。
「スライムくらい」
「ふうん」
どうせ仁だってこの程度の反応しかしてくれない。例えば本気で残念がってくれたり、じゃあ明日頼むわとかお願いされたら、私も幾分救われたのかもしれない。けれど仁は、この男らしく無愛想な男は箱を何度か振り、スライムの程度を確かめるだけだ。
じゃあね。そう言いかけた時 仁は煙草を吐き捨て、靴先でそれを踏み潰した。そしてさっきまで煙草を持っていた手で、私の頬に触れた。
冷たい。触れたら一瞬で皮膚を焼く熱を携えた嗜好品をほんの数秒前まで指先でもてあそんでいたというのにその手は、不思議なくらい冷たかった。
「考えたんだけど」
「うん?」
「お前にこれ塗ったら、食べれそう」
「私を?」
「うん」
「いや、無理でしょ」
私は力なく笑ったが、仁がそれをしないのでぞわぞわとする。
「よく言うだろ食べちゃいたいくらい可愛いとか」
「それはいかにかわいいかを強調しているだけで別に実際食べれるわけじゃなくて」
「チョコ味」
「いやいや、味もなにも関係ないから仁くん、」
「決めた」
「うん?」
「食べる」
「え?」
冷たい指で頬抓られた。痛い、険しい顔をしたであろう私を、仁が目を細めて眺めている。
「なにすんの」
「来いよ」
「え?」
もう返事はない。今度は仁からしっかりと手を握られ、引っ張られるようにして私は十字路を真っ直ぐ進んだ。
「仁、ねえ」
「お前めっちゃうまそう」
「いや、まずいよきっとまずい、」
「チョコ味」
「味なんて関係ないって言ってるじゃん!」
足がもつれる。そんなこと気にしない仁はいつになく早足だった。繋がる手は心地よいまま、絡まる指は温かいまま。
「」
「はい?」
「来月。なに欲しい」
「え、うんと。じゃあ」
「なに」
チョコ味の仁を、なんて。私には言えない。
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2014.5.31
2008.1.3が最終更新になっていたもの、加筆修正