7cmのヒールで世界は変わる。背筋が伸び、視界が開け、アスファルトを蹴る繊細に尖った足音は魂を奮い立たせた。ソールはレッド。どこへでも行ける。そんな気分だった。
 どれほど反発し抵抗したところでいまの私から義務教育を受けている最中の女生徒、という肩書きはなくならない。だから、あの特殊過ぎる閉鎖社会で悪目立ちする気も個性を発揮する気もさらさら生まれなかった。髪は生まれたままの色で、スカートも規定通り、化粧もしないし香水も付けない。爪だってあの、自爪かどうかすれすれのうっすい色のマニキュアかなにかを塗ったりもしない。毎日黒板の内容をノートに書き写し、大した思い入れもない部活に所属し、テスト前はそこそこに勉強して、まずまずのカーストのグループにしれっと顔を出して、話を合わせて、それでおわり。全てが終わった日曜日にだけ、7cmのヒールで私の世界は変わる。私は一切の予定を入れず、誰からの誘いも断り、あたたかな日差しがまだあるそんな時間に、大切に磨いてある7cmヒールのパンプスを履いて玄関を出る。なにをするでも誰に会うでもどこに行くでもなく、その靴音と共に歩いている。常に人気のない、つまらない住宅の並びの隙間を縫うようにして敷かれたアスファルトの上を。この靴を履くのなら、制服など着ていられない。ちゃんとした服を着るのなら、化粧だってしなければいけないし、そうすれば髪だってきれいに結い上げたり巻いたりすりべきだしそこまでやるのなら、爪にだって色を付けるし耳の裏のあたりに香水を塗りつける。私は、行く当てもなく静かななんでもない、名前もついていない通りを青空の下、小石を蹴ってパンプスのエナメルに傷が付かないよう細心の注意を払いながら歩いている。背筋を伸ばし、しっかり前を向き、足音が乱れぬよう、この完成された自分が崩れぬよう、まったくにきれいな足の運びで、きっちりときれいに作り上げられた身なりでもって、いつもの通学路を、7cm高い世界で。世界が美しいような、そんな気分にその時だけはなる。
 遠くでまだ日本語を覚えて間もないような、それくらいの年齢の子どもたちの声が聞こえ、そっと両耳にイヤホンをはめる。子どもは好きでも嫌いでもないけれど、今の完璧に出来上がった私の世界に関しては相応しいものではない。通りのまっすぐ向こう側に姿が見え始めた、6人の和気藹々と喋り狂ってこちらへと歩いてくる小学生たちが私とすれ違いざま、はたと声をひそめたりする、そういう不穏を私は望まない。この先にある小さな駐車場の前で立ち話をする腰の曲がったふたりの老人が、私が横切った瞬間にぱったり会話を止めてそのあとすぐに小さな声でなにかをささやき合う、そういう不快感はごめんだった。だったら、それらがあるにしろないにしろ、私は音楽を耳元で大音量で流し、なにも聞こえないフリをする。「こんばんはオーサカ」、ボーカルが叫び、何百と聴き返したライブがまた始まった。
 背筋を伸ばし、まっすぐ前だけを向いて歩く。横切った身振り手振りを交えて話すふたりの老人にも、すれ違った飛び跳ねるように歩くカラフルなリュックを背負った小学生の団体にも視線は向けない。私はただ、完璧な姿で歩く者として在り続ける。おしゃれをして歩くには幾分不釣り合いな場所であるかもしれない。髪を整え、選び抜いた服を着、マニキュアを塗って、甘い匂いを漂わせ、磨いたヒールをカツカツいわせて歩くには。特定の誰かに向けた訳でもない、私の為だけの身なり。誰も見なくていい、誰も褒めてくれなくていい、眉をひそめられたって構わないのだ。そんな周囲の評価など気にならないくらい、私は今完璧で、私を完璧だと思えない全てのものは蚊帳の外にいる。私のこの、日曜の昼下がりのある一時だけ、100パーセントの賞賛を浴びる。走り抜けた車の運転手も、追い抜いて行ったバイクにまたがる郵便局員も、太陽でさえ、私を素晴らしいと言うだろう。踵の下の小さな面積がしっかり地面を捉える。一歩前に踏み出すたびに髪の毛が揺れる。大阪公演のセットリストは三曲目へと続いていく。このライブのアンコールが始まる頃には、私は家へ戻るだろう、夕暮れが始まり、街にわずらわしい人々が現れだす前に。誰もが賞賛していると私は確信し、私は誰かに会うことを面倒に思っている。私を何者か知る誰かに会わないように願っている。私の拭いきれない肩書きを知る誰かに。私服おしゃれだね、私を知る者にそう評された時点で私はだめになるだろう。なにしてんの?、そう声をかけられた時点で。せっかくの私の世界は台無しになってしまう。たかが義務教育を受けている最中の女生徒、が深く私にのしかかるのだ。私はこのいつもより7cm高い世界を見ている間だけは、ただの美しい者でありたい。だから誰とも会う約束なんかせず、こんな穏やかな人気の少ない時間帯に、表通りでもなんでもない道を選んで歩いている。誰も見るな、そしてみんな見ろ。
 「うえーい」
 大音量の音源を乗り越えてその声は聞こえ、立ち止まって「わあ」と思わず悲鳴を上げていた。スケボーに乗ったきよが私の左後ろから現れ、そのまま右方向へと流れるように滑っていった。咄嗟にイヤホンを外すと、そこは静かなつまらない道の上。
 「びっくりした!」
 「ごめんごめん!」
 思うままにそんな声をかけ合いながら私たちはもう手を振り合っている。そうでもしないとごろごろ低い音を立てて進んでいくきよが、あっという間に遠ざかっていってしまうのだった。
 スケボー?きよがひとりで?うえーいってなに?うちらそんな関係性だったっけ?どこ行くの?なにしてんの?私に気付いて声かけたの?後ろ姿だけでわかったの?なんだあの感じ?テンションたかっ。
 手を振り終えるとしっかり前を向き、振り返ることなく右足でざっと一度アスファルトを蹴っただけで数メートル進んで行ってしまう彼の後ろ姿を確認するとイヤホンを耳にはめ直し、また歩きだしながら、なんだかあたたかく、おかしくてたまらなくなって、私はくすくすという小さな笑いがわきだすのを止められなかった。





海抜+7cmの世界





  53mmのウィールは世界を変える。風をきり、風景が動き、足裏に伝わるアスファルトの振動は心を躍らせた。トラックはロー。どこまでも行ける。そんな気分だった。
 大会の打ち上げと称して集まってアルコールを飲んでみるとか、禁止されているにも関わらず友達数人と学校へ自転車で乗り付けるとか、長期休暇に髪を染めるとか授業を抜け出してボーリングに行くとか安全ピンでピアス穴を開けるとか、そういう中学生がやるべきことはひととおりした。友達の友達の友達という微妙な線で知り合った子と形式上付き合ってみたりし、部活動に励み、そこそこの成績を残し、暇をしない友達を複数作り、文化祭も体育祭も勢いだけで突き抜け、ぼちぼち勉強をした。酔った南はおもしろかったし、亜久津にもらった煙草はおいしくなかったし、カラオケは楽しくて、忍び込んだクラブは刺激的で、セックスも悪くなかった。その全てを同じように能天気な平均点中学生の友人たちと共有し、その都度げらげら笑い合った。あー楽しかった、それだけで全てが通り過ぎた日曜日にだけ、53mmのウィールが俺の世界を変えた。部活もなく、携帯でのメッセージのやりとりをほどほどで切り上げ、もう少しで日が暮れ始める最高にちょうどいい気温のそんな時間に、大切に油を注してある53mmウィールのスケボーを抱えて玄関を出る。なにをするでも誰に会うでもどこに行くでもなく、そのゴムで出来たタイヤが回る音を聞きながら板に乗っている。子どもや自転車乗りの少ない、住宅の並びの隙間を縫うようにしてきれいに敷かれたアスファルトの上を。これだけは、誰とも分かち合いたくない。身に起きるなにもかもを誰かと過ごし、それを語っては更に複数人と共有してきたけれど、このほんの少し高い位置から風を切って前に進む孤独な娯楽だけは一切、ひとりでやりきり誰にも語らない。俺は、パークに行くわけでもどこかの広いだけで誰も利用しない駐車場に集まるわけでもなく、この自宅近郊のなんでもない狭い通りを穏やかな日差しの下、小石を踏んでふらつかないよう細心の注意を払って地面を蹴っている。身体中でバランスを取り、しっかり前を向き、転ばないよう、このひとりきりを楽しむ自分が害されないよう、軸足をしっかり板に付けて、きっちりときれいに作り上げた感覚でもって、いつもの通学路を。53mmと約2cm高い世界で。世界が冷徹なものであるような、そんな気分にその時だけはなる。
 遠くにこの世の汚れ全てをはね除けるような、そんな勢いをまとった後ろ姿が見え、柔らかな緊張が走る。俺にはまだスケボーのマナーがわからない。街乗りがルール違反であるのか、そしてこの辺鄙な道の、わざわざ人通りの少ない時間帯を選んで進む自分がそもそも街乗りというものに属するのかすらわかっていない。ただこうして日曜日の、日が暮れ始めるかもしれない明るい時間に53mmと2cm高い位置で風を切るようになってから、スケボーに乗る人間に後ろから追い抜かれた人間は大概怪訝な顔でこちらを見ることはしっかり学んだ。それは不愉快さよりも、単純な驚きから成っているように思えた。意外なスピード感と、小さくはないタイヤ音。なにかと思った、という顔。俺はできる限り他人に迷惑をかけたくないし、せっかく変えた世界で迷惑をかけたかも、という不安も抱きたくない。だからいつも、スケボーですがなにか?という顔をして通行人を追い抜く。充分な距離をあけ安全なスピードでもって。そしてさらっとスケボーですがなにか?顔をするために、完璧な体の動かし方をする。不安定にならないよう、足がもつれたりしないよう。
 ほんの少しの段差を瞬時に足裏で捉え、体幹を使ってバランスを取る。一定のスピードを出し続けられるよう右足で地面を蹴り、体を傾けてぐねぐねターンをしながら進んでいく。この時だけ、自分は孤独だと痛感する。痛感し、それがそこはかとなく心地いいのだ。学校は楽しい、部活も最高だし、周りもいい気持ちの人間ばかりだと思う。けれど自分はひとりででも楽しむことができる。誰と集わなくても、特に行き先がなくても。自分が蹴った力の分だけ景色が進み、4つのウィールが回転し、少し体を捻っただけで従順なトラックが傾いてしなる。たった一枚のスケートボードで得られる途方もない全能感。日曜の日暮れ前、誰に気を使うわけでもなく、誰かに楽しませてもらうわけでもなく、ただ自分のために生きている、その思うのだ。高いヒールを履いた後ろ姿に、どんどん近付いていく。コツコツという乾いた高い音は、そこらの建物全てに反響しよく響いていた。地面を蹴るたびに、真っ赤な靴底がきらきらと光って見えた。長い脚、かなり気を遣った丁寧な合わせ方の服。まだ一度も染めたことのないような色と艶を持った髪。自分だけが正しいと、わかりきっているかのような凛とした歩き方。この後頭部よく知ってる気がするな、その思惑はすぐ確信に変わり、すぐさま頭の中に授業中、必ず目の前にあるあの後ろ姿と重なった。前の席の。前の席の、きみは、いつもひどく真面目にノートを取って、居眠りひとつせず、休み時間朗らかに女友達とお喋りして、まるで問題なんてひとつも起こさない、俺の前の席のきみは。
 おでかけ?そんなきれいな歩き方して?その佇まいはなに?そんなに無敵な子だったっけ?どこ行くの?なにしてんの?きみも俺に驚くの?完璧な装いで、完璧な振る舞いで?なんだこの感じ?すっげーいい。
 「うえーい」
 考えている間にそんな雄叫びみたいな声が出ていて、彼女の左側を擦り抜けて、正面に回わりまた地面を蹴る。彼女は「わあ」というその出で立ち振る舞いからは予想できない、しかし素直にかわいい声を上げていた。それで瞬時に耳に突っ込んでいたらしいイヤホンを取り外してまじまじこちらを見るので。風を切りながらたまらなくなって俺は笑った。
 「びっくりした!」
 「ごめんごめん!」
 思うままにそんな声をかけ合いながら俺たちはもう手を振り合っている。そうでもしないと歩みを止めてわざわざイヤホンまで外した彼女が、あっという間に小さくなってしまうのだった。きっと彼女もひとりきりを楽しんでいた、俺と同じように。真っ直ぐな一本の線と線がたまたま交わって、また一本の線になって進んでいくような、そんな気持ちのいい孤独同士だった。







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2019.04.11
生きるということは、予感しかしない