教室で仁を待っていた。



 雨声



 仁は今日ひさしぶりに、放課後職員室に来るようにと担任に声をかけられた。もう近頃では教師たちの大半に素行の悪さを呆れられ諦められ、呼び出しを食らうことなんてすっかりなくなっていたのにふと思い出したようにまた呼び出しの日々が、はじまるのかと思い思わずアタシは仁と顔を見合わせて笑ってしまった。
 「てかなんで俺だけなんだろうな」
 教室で説教が終わるまで待っていると告げたアタシに、仁はそう首を傾げた。いつもお前と揃って呼ばれてたのに、と。そうだねとアタシは同意したし仁も納得のいかない顔をしていたが、お互いそこまで強くそのことを、気にしてはいなかった。たまたま仁が帰り道に喫煙しているところだけ誰かに見られて通報されたとか、男の子で集まって行ったいたずらが発覚して仁がその筆頭であるように思われたとかそういうことなのかもしれないし、もしかして明日になればアタシの番かもしれない。じゃあ、と言って仁は教室を出て行った。彼は律儀にも職員室へと向かう。どうせ待っているのは説教と罵声であるとわかっているのにそれでも向かう。惰性みたいなもので。

 教室でひとり、仁を待っていた。授業もないのに椅子に座るのがひどくばからしく思え、床に座り、壁にもたれて。そこはただただ暇で、けれどなにをする気も起きず、時計なんて眺めたり、天井を睨んだりを繰り返していた。下の階から下級生の笑い声と運動部の掛け声が聞こえる。二年生の頃のアタシはあの中には入っていない、部活はやっていなかったし放課後教室に残る理由もなかったと思う大体にして、一年前のことなんてほとんど覚えていないのだ。なにか鬱々としていたのはぼんやり思い出せるけれど。その頃からアタシと仁が呼び出しを繰り返されていた気はする。アタシ達はクラスが違ったけれど、毎日毎日そうやって職員室で顔を合わせていたからお互い、なんとなく知り合いでそれで、ああやはり思い出せないけれど、気付いてたら付き合ってたのだ、きっと。
 どうして思い出せないのだろう、仁のことを今こんなにも好きなのに。その出会いがあまり衝撃的じゃなかったからだろうか。それとも仁をずっと知っていて片想いをして、恋して恋して恋して、付き合ったからじゃないからだろうか。付き合って、それから恋をしたような、そんな順序だったからだろうか。思い出せないし、頭の中で素敵なストーリーも生み出せない。けれどきっと仁に訊いたって彼も、アタシと同じようなことしか答えられないだろう。どうして付き合ったんだっけ?覚えてねえよ。そんな二秒のやりとりで片付くような。
 でも好きだ、それだけは間違いないと、そう強く実感してぼんやりしていると閉めきっていた教室のドアががらりと開き、確かにアタシが好きな仁が戻ってくる。当たり前のように。
 「終わった?」
 「終わった」
 「帰ろっか」
 仁が頷いたのを見てからアタシは立ち上がり、スカートについた細かい埃手のひらで払っている。教室を抜け出し、誰もいない廊下を歩く。それでアタシたちはともに階段を一緒に下っている、ただ黙って。階段を下る音が小さくだが響いていた。てくてく。そして、なんの前触れもなく仁が口を開く。
 「と付き合うな、って言われた」
 その言葉は綺麗に響く。隣の仁はいつも通りに俯き加減で、その表情に陰りはひとつも感じられなかった。アタシは単純に え?なんて訊き返している。
 「お前は素行は悪いけど勉強はできるんだから、悪い人間と一緒にいるのはもったいないって」
 仁は首の後ろに手を当ててしんどそうに、えらくしんどそうに唸っていた。
 「で、なにがもったいないって、将来と人生だって言うんですよ」
 ほぼ初めて聞いた彼の敬語に、アタシは思わず苦笑する。そんなアタシを見てか、仁も薄く笑った。それで笑うアタシを長い間、見つめていた。
 「担任がお前のこと、なんて言ってたと思う」
 仁は、次に意地悪く笑ってみせてきた。アタシは不器用で笑い返せない。それで言葉も、返せない。ほんの少しの促しの仕草すら。
 「不良で頭悪くて勉強もしない能なし。付き合ってたらマイナス」
 頭がグラグラと揺れた。淡々とした仁の、いつも通りの口調、こんなことどうでもいいんだけど、と今にも言い出しそうな気だるさ。それなのに、別れを告げられているのだろうかと、アタシは危惧している。
 担任教師の言った事は正しい、アタシはことごとくだめな人間だ、アタシはアタシとして生きてきたこの15年でそれを身をもって知った。そしてそれを改善する気すらない怠け者である。仁はといえば器用な生き物で、恐らく賢く、それでなにをやらせても大体の場合うまくやる。同じに不良だとか呼ばれてるわりにアタシと、仁の差は大きなものだった。それはずっと感じていた。付き合ったら仁にとって、中学三年の、受験を控えた仁にとってマイナス。それは当たっている。才ある仁にはこれから高校の推薦なんかがくるのかもしれないし、スポーツで有名な高校に行きたいとか、彼は思うのかもしれない。その時にアタシなんかと付き合っていること、アタシといることで生じる素行の悪さがきっと足手まといになるのだろう。担任教師は正しい、そして親切だ。アタシは気が遠くなっている。
 「不安になった?」
 しばらく、黙った後に仁はふっと表情を崩し、悪いであろうアタシの顔色をうかがった。
 「え?」
 「お前、え、っていう反応しかできないのな」
 「えーっと」
 「俺が。別れようとか言うと思った?」
 「、思った」
 仁が笑った。ひさしぶりに声を上げて。そして彼はアタシの手を乱暴に握りながら
 「そんなわけねえだろ」
 と言うのだ。階下に近付く度に下級生達の笑い声や掛け声や軽い怒鳴り声が大きくなる。その声の前を手を繋いで横切ると ふ、とその声が一斉に止み、アタシ達がそこを通り過ぎる頃にはひそひそとした含み笑いに変わる。ラブラブだねー、なんていう、幼稚な言葉と連なって。

 山吹の自転車置き場は玄関を出てすぐ左側にぽつりとある。鉄骨で組み立てられた粗雑なもので、屋根はトタンでできたボロなのだがそれが、雨の日に停められた自転車を守る仕組みになっているらしい。あまりにも、か弱く、心細い。仁はまるで当然のように施錠のされていない自転車を勝手に拝借してきて、それに跨った。乗れよ、と言われたのでアタシもその荷台に跨るしかない。それは黒い自転車だった、けれど元々は違う色をしていたように思えた。持ち主が塗装に挑戦し、あえなく失敗に終わったのだろう様子が伺えた。所々ペンキがぼろぼろと剥がれて以前の色が浮き出ていたり、塗装に妙なむらがある。それでもってチェーンは錆びているのか油を注していないのか、仁がペダルを踏んでひとたび前進しただけで、ぎいぎいと不思議な音を小さく立てた。
 二人乗りも、もちろん自転車を盗むのも、教師に見つかれば速攻で親に連絡されるし大体にして犯罪なのだが、幸い仁にもアタシにもまともな親なんておらずそんなこと、構っていられなかった。自転車を漕ぐ仁の腰に、腕を回してしがみ付く。空は晴れていた、ひどく暑い。雲ひとつなく、木々の葉も美しく緑色で、乾いた地面、巻き上がる砂埃、陽炎のように歪む視界、どこかで蝉、照り付ける太陽、吹かぬ風。
 「あっついねえ」
 と、なんでもないことをアタシは言って。
 「うん」
 と、なんでもない返事を仁は寄越した。
 「夏なんて早く終わっちゃえばいいのに」
 「うん?」
 「アタシ、暑いのいやなの」
 「俺、寒い方が無理」
 「へえ」
 男子めいた、そうひどく男子めいた背中にぎゅう、と頬を押し付けてみたけれど仁はあまり気にする様子もなく、暑いとか、うざいとか、邪魔とか、恥かしいとか、そういうことを一切言わない。
 「仁って夏生まれ?」
 「四月生まれだけど」
 「うそ、めっちゃ意外」
 「そう?」
 「うん、なんか勝手に夏生まれだと思ってた」
 「あっそう」
 「でもよかった、夏生まれなら誕生日夏休み中だから学校で会えないし」
 「いや、俺の誕生日春休みだから」
 「あ、そうなの?」
 「だから今年の俺の誕生日祝ってない」
 「え?ごめん、ていうか誕生日今知った」
 「おっそ」
 そう言って、仁もアタシも笑った。そこに理由などなかっただろう。けれどなんでもない、こういう些細な言葉の投げ合いで笑い、幸せなんてものをアタシはひりひりと感じていた。そう中二の時の、仁と出会う以前の鬱々とした日々なんてのは、もうどこかへ消えてしまっていてそれを思い出す必要も、思い起こす気も、なかったのだけれど。
 自転車を漕ぎ続ける仁の髪がアタシの前でほんの少し風に乗り、揺れてる。綺麗な髪だね、と言うといまさらなんだよ、とまたふたりでいた時間の長さの使い方を指摘された。アタシはそれを、意に介さない。
 「ねえそれって染めてんの?地毛?」
 「さあ」
 町並みがゆっくりと通り過ぎる。 古びた商店、昭和っぽい駄菓子屋、それら不釣合いなコンビニだとかがゆっくりゆっくり、自転車に合わせ、消えていく。
 「今度アタシの髪染めてね」
 「むり俺不器用」
 「うそだ、仁なんでもできるくせに」
 「お前、担任みたいなこと言うのな」
 冗談めかした仁の声が彼の背中を通り、アタシの耳に伝わってくる。
 「傷付いた?」
 「全然」
 「そっか」
 「だってそれ事実だろ」
 「ねー」
 全面同意したアタシを仁は馬鹿にしてんじゃねえよと呆れたが。そんなつもりはひとつもなく、アタシは仁がなんでもできると思っている、平たくいうと仁という男を信じている。簡単に窃盗を犯す仁、惰性で職員室に向かう仁、アタシを不安にさせからかって笑う仁、なんでもできるくせにできない風を装う仁、ことごとくだめなアタシとしっかり付き合い続ける仁、とにかく、そういう彼の全てをアタシは、信じている。
 自転車は坂道を下る、風が吹く。髪がなびくその瞬間だけが涼しい。景色が、空が、全てが、流れていく。夏の日差し、におい、風。こういう夏があった気がする、自転車の二人乗り、坂道。だけど仁はゆっくり下るつもりなど毛頭ないらしく重力に任せ、速度を上げ、危険極まりなく下ってく。アタシには、それでいいのだ。

 仁はアタシを家まで送ってくれた。自転車下りながら、その自転車どうするの、と尋ねるとその辺で乗り捨てる、と彼は軽やかに言いきった。その光景を見て、ぱしり、と頭の中に光が走る。デジャヴに似た感覚が起きていたがそれはデジャヴではなくただ単に、前にも実際にこれと同じ光景を見たことがあったのをアタシが、思い出しただけだとすぐに気付いた。
 そう去年の今頃、ちょうどこんな暑い日に、仁は自転車を持ち出しアタシを家まで、家まで送ってくれたのだ。その時どういう経緯で一緒に帰ったのか、じりじり脳味噌の深い所を探ってみるとどうやら去年のその日、アタシたちは。
 「ねぇ。アタシたちっていつからどうやって付き合ってるんだっけ?」
 思わず、アタシは尋ねてしまう。アタシは仁が好きだ、それだけは確かで、だからそんなこと、思い出したり、思い起こす必要は、皆無だと思っていたのに。そして、仁の眉間に皺が寄るのを見ていた。
 「去年の夏にお前が好きだって言ってきたんだろ職員室前の廊下で」
 「そう、だっけ」
 「で、付き合って、俺お前のこと、家まで送ってやったんだよ、チャリパクって」
 いまさらふざけんなよとかまた言いたげに、彼は訝しげにこちらを見つめ似つかわしく不器用に、アタシの唇を奪った。なんだよ俺ばっか好きみたいじゃん、彼の台詞はそれだった。仁は、覚えていたのだ。








---------
2006.5.28/2014.10.5加筆修正