人の名前を気安く呼んで、へらへら笑って、時々真面目な顔をして、歯ばかり一時間も磨いてやがる、そんな女だった。



 梅雨



 春だった。外は日差しが強さを増し始め、暑いと文句を言える時間が段々と増えてきたこの時期に、この部屋はいつだって薄暗く肌寒かった。
 「お前いつまでそれやってんだよ」
 ブラシが固い歯をこする、その音が聞こえ始めてもう20分は経ったことにふと気付き思わず苦言を呈するも、の返事はふわふわとした、聞き取れない言語によるものだった。「磨くのやめてから喋れば」、「ふぁい」。は素直に頷きベットから降りて部屋の端にある、小さな洗面台へ向かう。いっそもう裸足で歩きたいが衛生面とかマナーとか関係なく惰性で履いているとでも言いたげな具合でスリッパを足にひっかけ、ぺたぺたと音を立てながら。うえ。陶器のそこになにかを吐き出す声がする。
 「ねえ仁くんお水持ってきて」
 そんな風にこの女は俺を呼びつけるのだ、当たり前のように、少し塞がったような声でもって。それで俺は文句も言わずにベットの横の小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、洗面台の前で前かがみになってはみがきこにがいとかなんだとかもごもご言っているに手渡してやるしかない。は体を起こしきりきりとキャップをひねると、プラスチックの毒々しい赤のコップに水を注ぎ、うがいをした。無機質な白の中に、血の色の混ざった泡が吐き出される。
 「口の中切れてんじゃねえか」
 「きれい、」
 はそう呟くと、己の口から流れ出た泡しか見なくなる。
 は病院に住んでいた。の世界はこの白い病室のみであり、の居場所はまるでここしかないかのように、素直に思わされる時がある。それくらい、この女はこの、いつでも薄暗くて肌寒い部屋に長く居続け、我がもの顔でここで暮らすのだった。端的にいっては病気だった。病は体を襲わない、ただただの精神を蝕んでいる、恐らくじんわりと、そして決して後退もせず。
 俺が入院をするはめになったのは春休みのことで、と出会ったのもその為だった、もちろん俺は歯を一時間磨き続ける病気にかかったわけでもないし、自分の口から出た血液入りの泡を見て綺麗だとか感想を述べる趣味もなく、単純なバイク事故だった。右半身全体への大げさな擦り傷と、骨が折れる一歩手前の右足首の捻挫。はその時も精神がどうので入院していて、専用の病棟が空いておらず病院側に持て余された俺は、相室になった。ただ、それだけ。病院の中は暇で暇で仕方がない、内臓疾患化なにかで苦しくて苦しくて入院となったのならまだ話は違っただろう、俺は痛みで暇がどうとか考える余裕がなかっただろうし、例えば手術が控えていたならそれはそれでなんらかの目標ができて気丈に暇に対応できていたはずだ。けれどただの外傷、手術なし、様子見として入院を余儀なくされていた場合、入院生活は残酷だ。暇で暇でとにかく時間の流れが遅く、それをなんとか解決するべく俺はと話す他なかった。
 他愛ない、どこの学校なの?なんていうところから始まり、何故入院するはめになったのかという自己紹介、恋人がいるかとか、バイクって楽しいのかとか、不良なんでしょうとか、精神疾患とか意味わかんねえよとか、そんな風に。恐らく俺達はこのままいけばあっさり付き合っていたのだろうと思う、狭い部屋に閉じ込められ、検査か投薬か診察の時間を除いてずっとふたりきりでいて、だらだら喋っていたら簡単に相手に好意を抱くものだ。けれどあと一歩、そんな時に俺は退院を言い渡された、相手の唇ひとつ触れていないまま。
 退院間際の、俺の袖掴んだの「仁くん、また来てね?」、という言葉がなければそれで関係は終わっていただろう。その時のの言葉は完璧に気味の悪さを帯びていたしすがるなような目をしていていたし思わず離せよとか、腕を振り払いそうな雰囲気を持っていたのにそれでもなんかこいつかわいいなとか、思ったから俺はまたここに来ている。相室のだれかとしてでなく、見舞いにくるだれかとして。今はもう精神病患者の病棟に移されたは毎日をただただ消費し、とりあえず生きてる、そんな状態だ。退院の見込みはない、そんなこと誰も教えてくれないと言う。毎日仁くんがそばにいたら楽しいのにとこの間、がぽつりと呟いた。
 「また入院してたまるかよ、しかも精神病で」
 「うん、でも私は嬉しい」
 そんな要領の得ない会話を、した。

 「仁くん」
 泡からやっと目を離してがこちらを向く。なんとも当惑したような顔をして。
 「私、今変になった?」
 「なった」
 「そっか」
 やっぱりか。ぶつぶつとがひとりごちている。今度は納得がいったような顔をして。なんかねえ泡がきれいだなあとか思うんだよ、白くて、ピンクで、でろっとしてて、見とれるでしょ、排水溝に流れていくぜーとか思うともうたまんなくて、私の口から出てきたものとか、私の体から出てきたものとかがいっしょくたになって流れていくぜーとか思うと、私も流れていかないかなあとかていうか私の体から出てきたんだからもうそれは私と同じじゃんとか思えてきちゃって、流されたいなあとか真摯に願うんだけどそういう時にね、ああさっき隣に仁くんがいたなあって思いだすんだよ、戻っておいでーとか言うんだよ私に、そうしたらさ、流れちゃいかんだろーとか思って、はっと目が覚める、仁くんがいる、へへへ。説明を終えては照れくさそうに笑った。まるで意味がわからなかったから、頷きも聞き返しもしなかった。は満足げだった。赤いコップ定位置に戻すと、鼻歌を歌いながらベッドに戻る。取り残された感じが否めない俺もそれに続き、ベッドの横の丸椅子に掛けた。使い古された椅子だった、座るたび、体勢を変えるたび、きいきいと音を立てる。
 「仁くん」
 「うん?」
 「私のああいう時、どう?」
 「どうって?」
 「こわいとかきもいとか」
 「かわいい」
 「真面目に訊いてるんだよ」
 「なんか」
 「なに」
 「守りたいとか思うけど」
 思うけど?とは促さない。ありがと、素直に頷きまた笑った。それで呑気にもう朝から何百回と見たであろう窓の外に飽きずに目を向けた。そのすっとぼけた顔を見ながらの説明した、俺が言ったとされる「戻ってこい」という言葉をぼんやりと考えていた。この女の頭の中の自分は一体なにを言っているのだろうか、なにをしようとしているのだろうか、戻ってこいだなんて、不思議なセリフをよく吐いたものだと思う。つまりそれは一体どこから戻ってこいというのだろう。の現実から遠く離れてしまった意識からなのか、病院という本来いるべきではない所からなのか、しばらく考えたあと結局そんなものはの頭の中で生み出した妄想か想像の俺の声が言っているだけで俺にはなんの責任も思い当たるふしもなく、理解できるはずがないのだとはたと気付いて虚無感に包まれた。むかつくのは、が俺が呼ぶから目が覚めるとか、そんな少女マンガのヒロインみたいなことを言うから自分がいつの間にか、そんな気になってしまっていることだった。どれほど自分がこの女の中で影響力を持ち、どれくらいの位置に属しているのかなんて、驕りを持つからだった。

 ある週の月曜日、俺はまたのこのことに会いに行く。桜だ花見だと騒いでいた春は終わり、蝉の鳴きだす初夏だった。面会の受付をしているのは大体の場合同じ中年の女事務員で、最初はなんだかんだと話しかけてきたが今ではほとんど流れ作業で俺を受け入れる。「さんですねー」。いつか、この女に「いつものねー」なんて言われた時はその場を離れてからひとり小さく笑ってしまった。そんな、寿司屋みたいな言われ方をされるとは思いもしなかった。は相変わらずそこにいる、薄暗い一人部屋の、ベッドの上で足を布団から投げ出して座って、窓の外を眺めているのだ。ドアは開け放たれていた、けれど一歩俺が足を踏み入れると瞬時に振り返る。それで落ち着いている時は、飼い主の帰宅を喜ぶ犬みたいな顔をするのだ。犬の顔のあとに時計を見て、首を傾げる。
 「仁くん、学校は?」
 「休みになった」
 「えー、またさぼったんでしょ」
 「お前がまた来いとか、言うから来るんだろ」
 「ああ、そっか、ありがとう」
 はまた目線を外に戻した。俺はまたきいきいうるさい椅子に座って、同じように外を見た。変わり映えのない。
 「外行きたい?」
 「ううん、あれさあ」
 「うん?」
 「見える?駐車場の所にね、さっきからこっち見てる親子がいるんだけど」
 窓辺に寄りあそこ、とが指差した駐車場を見た。俺には外見から幼児の年齢を判断する能力がないから詳しくはがわからないが、小さい女の子どもがひとり、そこにいた。
 「ガキだけじゃん」
 「え?ちがうよお母さんもいるじゃん、あそこだよ」
 今度は強めに指を差される。もう一度目を向け一応目を凝らしてもみたが、どうしてもそこには子どもがひとりしかいない。確かにこちらを見上げているようだった、そしてただ立ち尽くしている。
 「ねぇ、仁くんあれさあ」
 「なんだよ」
 「へんだよ、絶対へん。よく見て」
 はシーツの上をするする移動してきて、後ろから俺の首に腕をまわした、細い、そして不愉快なほど冷たい腕を。ちらりと見たそれは青白く、血の通っているのがあまり感じられない。その時に、俺に渦巻いたのはこの冷たい女に対する心配ではなく、と触れ合ったそのことに対する激しい動揺と喜びだった。それは確かに俺の体を走り抜けていったと思う。そういう俺をよそにはぐいぐい腕に力を込め、首を絞めるようにして俺の顔を駐車場の方にしっかり向け、子どもを見せる。
 「あの子のお母さん、両目がないんだよ。で、たぶんほら内臓もないじゃん?あ、へんなおやじギャグみたいになっちゃった、へへへ。でもさあ、へんだよ。めっちゃ怖い。どうしようねえ」
 穏やかなため息を吐いた泣いていた。駐車場から目を離して振り返りその頬を伝う涙を見た時、ぎょっとした。そしてひりひりと、が随分不可思議なことを喋っていたのがその涙を見て、不気味さに変わる。俺には見えない人間を見たと言い、更に見えないはずの体内の臓器すら、見えないと言うは、それを怖がり泣いている。たまに見せる錯乱か、俺の及ばないなにかに由来するものなのだろうとは思った、けれど泣かれたら。勘弁してくれよとなる。
 「なに言ってんのか全然わかんねえんだけど」
 「え、うそだ普通にいるよ、あの子の後ろだよ」
 あのね、お母さん目がないんだよ、真っ黒で、あ、真っ暗で洞窟みたいかな、なのに包帯も巻いてないし全然痛そうじゃないのね、でも血は出てるから心配で、病院来たんだから早く入ればいいのにね、あ、玄関が見えないのかなあ、ねえ仁くん、あのお母さんね、お腹が切れてるんだよ手術で切るみたいに、綺麗に真っ直ぐぱかーって、こっちも洞窟みたいだよ、おかしいよね服着てるのにさ、お腹の中身ないの見えちゃってるよ、へんだよ、ねえ仁くんどの人かわかった?、が今では俺の両肩に、覆いかぶさるように腕を回している。目眩がした。相変わらず強い力を込められてるからではない。俺には見えない穴空きの母親とやらを想像したからでもないし、長引いた言葉に疲れたからでもない。
 酔った、に、の身体に。察したのは二つ、は錯乱していて、また遠くにいっている、または、そんなものがいると仮定してはいわゆる幽霊とか背後霊というものを見ているということ。わかったことは一つ、俺はに完全に惚れたということ。
 「なあ」
 「なに?」
 「目、閉じて」
 「なんで?」
 「いいから」
 「ねえそれって」
 その先の言葉は聞かなかった。きっと、は断るだろうと思うと、いちいち伺いたてるのはためらわれた。合わさった唇はしばらく離れず、しかし動きもしなかった。ぎゃあぎゃあ言うのだろうと思っていたは意外にも騒がず、身じろぎもしなかった。
 「仁くん、」
 「何だよ」
 「見られちゃった、あのひとたちに」
 どうしようはじめてだったのに、そう言って窓の外を指差すを俺は笑った。耐えられなかった、こんなにかわいい生き物が目の前にいると思うと笑うしかなかった。
 その後数分間、は俺の肩に上半身を押し付けたまま動かないでいた。なにも喋らなかったし、鼻歌も歌わなかった。後ろからそうされていてはどんな顔をして、どこを見ているのかもわからない、もう涙が乾いたのかも知ることができない。ねえ頭なでて。は唐突にそう言って、こちらを向くよう促した。ベッドに座って間抜けな顔して両手を広げてくるを抱き締めて乱暴に頭を撫でていると、耳元でへらへらした笑い声が聞こえた。「いっつも帰んないでって思ってるけど今日は特別だなあ」という感想を漏らすに見送られて病室を後にした。まだ外は明るいままだったが、今更学校に行く気にもならない。外に出ると、駐車場の子供は消えていた。

 の葬儀はひっそりと執り行われた。
 その日俺は夢を見た。はじめはあの時の回想だった。初めての唇を奪った、あの時の回想。やはり親子が、子どもと母親がいるとは言い、両目と体の中身がないと悲鳴を上げた。そして長々俺に母親の状態を説明してみせた。キスをした、その瞬間にが一時間でも歯を磨いている映像がフラッシュバックし、口内の傷が荒々しく開いて恐るべき量の生暖かい血が俺の口の中に流れ込んできて俺は噎せ返り、は泣いた。口の端から血が垂れ、なんだかひどく赤黒いそれが真っ白なシーツに落ちた瞬間に、が崩れ落ち床に鈍い音を立ててぶつかった。床にの口から出た血が広がり、更にはぶつかった衝撃でかち割れたの頭からもどろどろと血が流れ出し、それでもは俺を見つめていた。まるで洗面台のピンク色の泡を眺めていた時の、ふわふわとした深刻な目で。
 「あのね仁くん」
 涙が溢れだしたその目と夥しい血を見て俺は嘔吐した。床に転がるを抱き上げるか揺するかなにかしたかったのに、体は動かず、俺だけがあの時のまま、窓を正面に立ち尽くしゲロを吐いている。その時病室は暑かった、初めてそこで熱を感じ取り、その空気に脳が揺れている。
 「私、言わなくちゃーってずっと思ってたのに今まで言えなくて。言うね」
 言ってみろとか喋るなとか、口にしたくても声が出ない。頷こうにも首ががちがちに固まっている。なにか黄色いものを吐く俺を真っ直ぐ見上げるには、俺を心配する様子もなかった。
 「ああ、恥ずかしいなあ、私ね仁くんが好きだったんだーこの世界で一番好きだったよ、なんかねいつも私を支えてくれるのは仁くんで、いつも私を助けてくれるのは仁くんで、いつも仁くんは、私の生き甲斐だって思ってたんだ、ありがとう静かに聞いてくれてほんと嬉しい、ねえ私、もう行くけど、でも、仁くんのことずっと好きだよ、へへへ、もっといっぱい喋りたかったし笑ったりとかさあ、したかったけど、でも行くんだよ私、大丈夫だよ、私もうどこでも行けると思うんだーそれでね、いつかね、仁くんのこと迎えに来るよまた会いに来るよそれで、そしたらさあ」
 ああなに言ってんだよ意味わかんねえよてか俺動けよもう動けふざけんなよ、悪態をつく言葉が頭の中で響いていたが、相も変わらず声は出ない。途端にの声が思い出せなくなった。ああだこうだと言われておいて、それを一言一句逃すまいと聞いておいて声だけが、思い出せない。
 ああああ。情けない声を上げながら勢いよくベットから起き上がった。体中が熱く、息が荒れ、喉がからからに乾いていた。自分の部屋で、自分のベッドの上で、嘔吐後の食道の痛みももちろん吐瀉物もなくひとりだった。夢だ、そう思ったのに何故か易々と安心ができず、そんな自分が子どものようでばからしくなって、ふっと笑ってみるが心臓がうるさい。正夢だとでも考えているのだろうか、あんなものが?まさかが口と頭からだらだら血を流して病室の床に転がって、それで俺を好きだとか言っているだとか、そんなことがあるはずがない。ばかみてえ、汗が冷えて急に寒さを感じながら呟くが、なにかひとつするたびにもしかして、だとか嫌な予感が襲ってくる。仕方ない、こういう時は会いに行くしかないのだろう。それでもう当たり前のようにあの白い部屋にいるを見つけて、仁くんとか呑気に名前を呼ばれて、やっぱり取り越し苦労だったじゃねえかとか、思う他ないのだろう。
 「たぶんもうすぐお家に戻られると思いますよ」
 受付の事務員に伏し目がちにそう言われた時、なにかがおかしいと感じた。の退院を思わせるようなことをその女は言う、でもどうしてそんなことを、俺はたかが受付係に言われなくてはいけないのだろうそんなことは、本人の口から今から行った先の病室で聞けるだろうし受付係に、果たして患者の病状についてとやかく他人に知らせていい権利があるとは思えない。なにを言ってくれるのだろうこんな時に、あんな夢を見て子どもみたいな恐怖心を抱きながらのこのこここまでやって来たこんな時に、どうしてそういうことを言ってくれるのだろう、「ああいつものねー」。それだけ言ってくれればよかったのだ、ただそれだけでよかった。あのお、事務員がなにかもう一つ言葉を言いかけたのを見て、逃げるようにその場を離れた。半ば走るように病室へ向かう。午前9時、面会時間は始まったばかりだった。院内が妙に静まり返っているように思えるのは朝だからか、それとも。朝から晩まで、いつでも構わず大声を上げているおっさんがこの階にはいるはずだ、面会に来るたびにその声を聞いて、最初はむかついていたが段々と慣れた。あのおじさんねえ妖精とか語らせるとめっちゃ詳しいんだよ、ユニコーンとか。がいつかそう言って笑っていた。その男の、奇妙な叫びや呻きすら今日は聞こえない。やっと人の話し声が耳に入ってきて安心したが、それは の病室の前にできた、小さな人だかりが発するものだった。
 ああかわいそうだかわいそうだ、どうしたものか、昨日まであんなにねえ、かわいそうにねえ。ふつふつと湯が沸くように聞こえる会話に肌を焼かれるような思いで人だかりの後ろに立つ。誰もどけたりしないし喋るのもやめない、かといって俺の方を見るわけでもない。人だかりの先にはいつもの通り開け放たれたドアと、真っ白く恐らく今日も肌寒いであろう病室が見えた。立ち入り禁止。ドアを開けっ放しにしているくせによくそんなことが言えたものだと思う、けれど確実にそのテープはその病室の入口を、右から左へ真っ直ぐになって塞いでいた。たった一枚のぺらぺらのテープがお前はもうここには入れないのだと、訴えてくる。
 は病院に住んでいた。の世界はこの白い病室のみであり、の居場所はまるでここしかないかのように、素直に思わされる時があった。それくらい、あの女はこの、いつでも薄暗くて肌寒い部屋に長く居続け、我がもの顔でここで暮らしたのだった。今、そこはもう真っ白な病室ではない。あの夢のように、床が赤く染まっているのを俺は見た。そして、端的にいうとは病気だった。
 パジャマ姿の入院患者達が細々と喋っているのを聞いいていた。窓の外が明るい、そこだけに目を凝らせばいつもとなんら変わりないように見えた。「まだ若いのにねえ」「かわいそうに」「早くよくなるんだよってほら、いつも言われてたじゃない」「でもどうしてねえ」「誰も気付かなかったなんて」「明け方に婦長さんが巡回に来たときにはもう」「お母さんがたまに来ては果物剥いてくれてたでしょう」「そんな、」「刃物置いたまま帰っちゃってたの?」「小さなやつだったって聞いたよ」「刃先が一センチもないようなやつだったってね」「それでねえ」「ああ哀れだ」「誰かいてやればよかったのに」「隣の部屋のひと。なんにも?」「寝言の多い子だったからね」「いつも通りだと思ってたって?」「そういつも夜中にね、誰かの名前を呼ぶんだって」「男の子の名前だってね」「昨日の晩も」「そうだって、だから気にしなかったって」「ああ哀れだ」「隣のひともねえ、えらい落ち込んじゃって」「そりゃあいい子だったもの」「若いのにねえ」「自殺しちゃうなんて」。
 ひとりの老婆が泣きだし、それ以上そこにいられなかった。ああだこうだと喋り続ける患者達から静かに離れ、残ったのは夢の中で抱いたのと同じ嘔吐感で、けれどここで吐くわけにもいかない。は死んだ。は死んで、それは自殺だった。いい子だったとか、かわいそうだとか、男の名前を呼んでいたとか、それが常だったとか死んだとか、聞かなければよかったと後悔したところでその死は変わらない。それでが死んだところで、俺の続く生も変わらなかった。

 会ったこともないの母親から電話があった時はさすがに動揺した、仁くんですか、の母ですと言った彼女の声が冷静で、平坦であることにもひどく驚いた。どうして電話番号を?以前あの病院に入院してらしたでしょう本当はいけないんですが、事務の方にその時に記入した個人情報を無理言って教えて頂いて、葬儀のご連絡を差し上げるためにお電話しました。そう説明した後、あの女の母親が突然声を上ずらせ、電話の向こうで泣きだしてしまったので今度は居心地が悪くなる。
 「やっとご挨拶できたのにこんな形になって本当にごめんなさい、私があの子を死なせてしまったようなものです、最初からなにも気付いてあげられなかったし、病院に入ってからも毎日会いに行ってあげられたわけでもない、ナイフをうっかり抽斗にしまって帰ったのも私だもの、あの子ね、あなたが来た後に私が行くといつも、寂しくてしかたがないって顔してたんです、だからね、ちゃんと言わなきゃだめだよって教えてたんですけど、言えなかったみたい、ねえあの子、きっともっと生きたかったと思うんですよ、決して死にたがってなんかいなかったと私は思うんです、もっとあなたと一緒にいたかったと思うんですよ、だけど、血を見てるのが好きでね、自分の血が綺麗で綺麗でしかたないって、そうやって言うようになって、自分を切りつけるものだから入院をしていたんですけど、あの夜、きっとまた自分の血に見とれていたんですよ、きっと、止血なんてまるで考えていなかったでしょうね、だけどあの子は、死にたいだなんてこともまるで考えていなかったと思うんです、綺麗なものを眺めていてその先にあったのが出血多量の死だったんです、ねえごめんなさいこんな風な、あの子の不幸を受け入れているようなことを言ってしまって、ごめんなさい、でも私ね、あなたにあなたを責めてほしくないんです、ねえ決して自分を無力だったとか自分のせいだったとか思わないでください、あの子はあなたが本当に好きだったんです」
 ずっ。耐え切れずにの母親が鼻をすすり、言途切れ途切れに、俺の中でなにかが鳴った。耳鳴りではなかった。低い低い、これはの歯を磨く音。

 雨が降り出した。
 「梅雨だわ、天気予報で言ってたもの」
 黒い服に身を包んだの母親が隣で、独り言なのか俺に言っているのかわからないような声で呟いていた。あの電話での懺悔の後、この母親はまた冷静さを取り戻し淡々と俺に葬儀の日時と場所を伝えてきた。本当に、来られるようでしたらで構いませんからと。そして俺は別段なにも考えず行けるだろうと返答し今日、ここに来ている。
 「晴れていたらなんだかお天気に皮肉られたみたいだものね、雨はいいわ、洗い流してくれるから」、知らねえよそんなこと、と俺は思うのだ。この母親はもう完全に娘の死を受け入れている、ひどく悲しんでいるに違いないしこれから先も娘を思っては何度も泣くのだろうと思う、けれどこの母親は今、死んだ娘に対する慈愛を口にした。そのことがひどく冷徹に思え、しかし羨ましくもあった。

 日が経っても俺は泣けなかった。きっとどこかで涙が出るのだろうと思っていたのに葬儀の最中であろうと、出棺の時であろうと、火葬場で焼かれて骨になったを見ようとも涙は出ず、それでひとり家に帰ってからも、あの女が死んだという意識は痛いくらいにあるのに、一向にそれは流れなかった。恐らく自分は涙するべきなのだろうとずっと思っていた、あの母親のように、あの朝病室の前に集まっていた患者の中のひとりの老婆のように、例えばテレビの中の役者たちのように。そうすればなにかが変わり、諦めみたいなものが生まれるのだろうと思っていた、けれどそれができない。頭の中はしっかりとしていたはずだった、それなのに気付けば病院の前に来ていて、今にもその中に入ってあの部屋に向かいそうになっていることが何度かあった。
 風に捉えるのなら俺は夢の中で見たに対して愛着を抱いてもいいはずだ。会いに来るとか迎えに来るとか言ったあの夢の中のを信じてもいいはずだ、それなのにあの女といったら、会いに来ないし迎えに来る素振りすら見せない、お前の頭の中で俺はいつもお前を呼んでたんだろうに。
 どうにかしてでもあの時に言っておくべきだった、ただただ好きだと言うべきだった。俺はお前が好きだった、世界で一番好きだった、いつも俺を支えていたのはだったし、いつも俺を突き動かすのはで、大げさにいうとは俺の生き甲斐だったと。恥とかそういうのは恐らく俺の方にはなかっただろうただ俺は、こんなにもあっさりとひとりの人間がこの世から消えてしまうとは思ってもいなかった、だから、好いた腫れたはもっと後でも伝えられるだろうと思っていた。悪いことをした、俺が好きだと伝えていたことで血を見るのが好きだったという、あの女の死を食い止められたとは思わない、ただ、あの女が自分が片思いなんてむさいことしてると思い込んで死んでいくことはなかったはずだ。なにが楽しくてあの女をこんな風な、不憫なやつに仕立て上げなくてはならなかったのだろう。

 その日、気付けば同じようにあの病院の前に来ていた。駐車場に、いつかの子どもがまたひとり、立ち尽くしていた。浸ってんじゃねえよ、そう思い、俺はその子どもに近付いて、鳩尾を蹴り上げた。





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2014.5.30
14歳の時に書いたもの、大幅加筆修正
蛇足で狐の嫁入りというのがあったのですがくそみたいだったのでいまのところ、載せません