イーゼルと、キャンバスと、パレットと、絵の具と、絵筆と。そんな物だけが溢れるこの生活感のない部屋に、俺さんの家って好きだなあ、なんていう清純ののんびりとした声が響く、アトリエってこういうのをいうんだって初めてわかった気がしたもん、とか。私は鼻先で、ペトロールの匂いを感じている。



 天使



 時間がないの、と私は絵筆を動かしている。レモンイエローとクロームグリーンを混ぜて作った色を、キャンバスに塗りたくる。下地の色がまだ乾いていなかったのか、新しく色を重ねようとする度にそれが混ざった色になって浮き出て来てしまって思わず舌打ちする。私には時間がない、締め切りとかそういうのではなくなんていうか、若いっていう特権を得ていられる時間がもう、少ない。
 「なんでそんな急ぐのさ」
 「だって私もう18だよ」
 「まだ、18だよ」
 「18なのにこんな、こんな絵しか描けない」
 情けないことにうっすら涙目になって、苛々キャンバスを睨み付けながら私は言った。こんな絵、と叩き壊してしまいたい気分だけど、どこかでそんなかわいそうなこと、ここまで描いたのに、なんて思っている臆病な私がいて、だから睨み付けるしかなかった。
 小さい頃は、18歳にもなったら物凄い絵を描けるようになってて、有名になってるんだって思ってたのだでも、時間が経つのはあまりに早くて私は全然成長なんてしてなくて、もう18歳。物凄い絵がなにかすら、わからない。
 「さん」
 それこそ18とは思えない八つ当たり紛いの大人げない言葉を散らす私に、清純は落ち着き払った明るい声で言った。
 「人生で時間を気にしなくちゃいけないのは」
 思わせぶりに清純は一旦そこで言葉を切る。
 「カップ麺作ってる時と、髪を染めてる時だけだ」
 思わずキャンバスから目を離し顔を上げた私に、清純は肩を竦めて見せた。それが全く、嫌味な仕草に見えないのだから清純には参ってしまう。
 別に早けりゃいってもんじゃないよ、開花とか、デビューとか、有名になるのとか。きっと、芸術なんかっていかに早いかより、いかに良い作品を描くかでしょ?、とても中学生とは思えない、的を射た物言いの清純に、納得しながらも私は
 「でも若い時から良い作品描いてたら最高じゃない」
 と反発する。清純はにこにことして、
 「何歳だろが、芸術家は満足いく作品を創れたらそれでハッピーなんじゃないの?」
 と私に尋ねた。その笑顔と言葉に、やっと私は子供っぽ言い訳をするのをやめた。 はあ、と大きく息を吐いて、絵筆を置く。
 「ごめんね、私なんか、ただのガキみたいで」
 「うん?」
 清純は落ちていた絵の具のキャップを拾って指先でもてあそびながら、私の言葉を受け流す。「私といて面倒でしょ?」私は自分にうんざりするあまり、更にそんなことを呟いた。清純は。キャップを丁寧に机の上に置くと、柔らかに笑った。
 「さんといるとさ、いいよ、ちっちゃい可愛い女の子と遊んでるみたいで」
 ちっちゃい可愛い、ね。聞いて私はふっと息を漏らす。三歳も年下の彼にそんな事言われてる私、一体、どうなんだろう。情けないやら、むなしいやら。
 ぴんぽーん、とチャイムの音がする。宅配便でーす、という溌剌とした男の声も。手先を絵の具で汚し作業着姿の私を見て、清純はすぐ玄関へ向かってくれた。印鑑の場所もちゃんと熟知している。まるで旦那さんじゃないか、そんな恥ずかしい事を考えながら、私は手を洗う事にした。作業着も脱いで着替えてしまった。
 「ご苦労様でーす」
 そんな、男に負けないくらい溌剌とした清純の声が玄関から聞こえる。
 届いたのは自営業をやっている実家からのメロンだった。実家から物が届く時は、連絡を寄こせという暗黙の要求が含まれている。だけど私にはそれが頗る億劫で、電話をかける気もメールを打つ気も起きない。清純だけが、わあいメロンだメロンだと無邪気に喜んでいる。
 「メロン、食べる?」
 どうやって両親への連絡を回避するか考えて私はどんよりした気持ちになっていたけれど、清純が
 「食べる食べる!」
 と元気な声を出したのでなんとなく気持ちがすっとした。
 よし、じゃあ、切ろう、そう言ってメロンを台所へ運んだ私に俺一人で一玉いける気分、と清純がはしゃぎ、お腹壊すよ、と私はそれを諭した。

 結局一玉をただ半分に切って、それぞれが半玉ずつスプーンで実をすくってメロンを食べながら、私達は蕩々と話をした。学校の話、友達の話、新しく出来たお店の話、コンビニの新商品の話。
 「部活はどうなの?」
 「うん?楽しいよ、凄く」
 「もうすぐ引退なんだっけ?」
 「そう、次の大会で、負けたら即引退」
 「勝てば勝つだけ引退が延びるんだ」
 「そう、だから、俺引退しないように頑張るよ」
 「後輩達は案外、三年を疎ましがって早く引退しないかなって思ってるよ、きっと」
 「ああ、そうかもしれないね」
 「あれ、納得しちゃうの?」
 「いつの時代でも先輩ってそういうものでしょ?」
 「あんた一体何歳なの」
 からかうと清純はへらへら笑った。そしてメロンを一口すくって食べる。冷えてないけど、でも、甘くておいしいと、そう言った。
 「さんは最近どうなの?」
 「絵のこと?」
 「そう」
 私はスプーンを置いて、自分の絵を見つめる。当たり前だけど動きもせず、喋りもしないそれに、ぎゅ、と重たい気持ちが募る。
 「最近、駄目で」
 「駄目なの?」
 「うん、なんか、絵は好きなんだけど」
 私はスプーンを持ち、無理してメロンをすくう。口に運ぶ、本当に、甘い。
 「今までみたいな感じじゃなくなっちゃった」
 「どんな風に?」
 「描くのがつらくて」
 私はまたスプーンを置く。食べる気なんてしない。目の前の清純は、美味しそうにメロンを頬張っている。けれど、私の話を聞いていないわけじゃない。
 「ねえさん」
 「なに?」
 「例えば歩くのがつらいのは」
 清純が言った。一旦スプーンを動かす手を止めて。
 「今歩いてる道が上り坂だからなんだよ、さんに力がないわけじゃないよ」
 はっとしている私に清純は照れた様子で
 「って、前に顧問が言ってた」
 と笑った。そしてまたメロンの実をすくう作業に入る。ぶつぶつとやっぱり一玉いけたなあと言って。私はなんだか心がからっとして、私、全然、大丈夫なんじゃないかって、無根拠だけど悪くない自信に見舞われている。清純は人をいつの間にかそういう気にさせてくれる、天使かなにかの生まれ変わりじゃないかと私は本気で思った。

 駅のホームで。突然実家へ戻ってみることにした私を清純は見送りに来てくれた。いきなり帰郷した娘を両親はどんな顔をして出迎えるのだろう。そしてなんの心変わりか、遂に夢を諦めたのか、それとも幽霊かとでも思うだろう。驚いた顔、絶対見逃すか、と私はあれだけ億劫がっていた実家への繋がりをなんとなく楽しみにしている。
 「いつ帰って来るの?」
 駅までずっと持ってくれていた荷物を私に私ながら清純が尋ねた。私の荷物はいたってシンプルだ。キャンバスと、絵の具と、パレットだけ。
 「わかんない、二、三日かもしれないし、一年かもしれないし」
 「でも、帰ってこないことはない」
 「こっちには清純がいるからね」
 ふふ、と嬉しそうに笑うといつものように清純は私の額にキスをした。化粧が落ちるからって、触れるか触れないくらいのくすぐったいやつを。まあさんは化粧してなくても綺麗だけど、なんて軽口を叩きながら。実家に戻って落ち着いたら、天使の絵を描こう。私はそう決めている。






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2007.8.8/2014.6.10加筆修正
「上り坂」が顧問の話なら「時間」の話はあっくんが言ったんだと思う