私の部屋にはベランダがある。洗濯物を干すにも不便するような広さしかなく、椅子ひとつ置けばそれが全てを占めてしまう小さなものだ。眠れない夜、私はそこへ出て身をよじりながら雨ざらしの木製の椅子に腰を下ろしては、ただぼんやりとしているのが好きだった。はるか遠くで輪郭ひとつ変えずたたずみ続ける山や、 明け方まで光り続けるネオンサイン、こんな時間に空を横切る飛行機、点いたり消えたりを繰り返すマンションの廊下の照明、走り抜ける車のエンジン音、焦ったようなクラクション、詳細は聞き取れない通行人の会話、ひとつ上の階から遠慮のない笑い声、隣のアパートの一階に昔からある中華料理屋の油の匂い、吹く風と吹かない風。夜は眠らない、私のように。安心するわけでもなにかが決定的に変わるわけでもないのに、熱帯夜だろうと真冬の最中であろうと、眠れぬ夜私はベランダに居座り続けた。なんの通知も寄越さない携帯、止まったままのタイムライン、通販番組しか流れないテレビ、読み終わった小説、イヤホンでしか聴けない音楽、それら全てが私を否定し、夜のベランダに映る全ては私を肯定しないが、否定もしなかった。押し上げられたような女の声が聞こえた。




低俗






 あーあ、隣のやつセックスしてらー。思ったその後居心地の悪い動悸がしてくる。母音が「あ」であることだけが汲み取れるその短い声は等間隔で続けられた、まるで機械で測っているかのように。耳をすませば同じタイミングでベッドかソファか、とにかくスプリングの類いがきいきいと軋んでいる。こんなAVみたいな声出すのかようそみてー。今度は意識的に強がって、私はそんなことを思っている。なんて模範的な喘ぎ声なのか。隣の部屋に住む名字すらはっきりと覚えていない、時々朝家を出る時なんかに出くわして無言で会釈する程度の関係の若い女の姿形が、今はなんだかありありと思い浮かべることができた。美人でも不美人でもない、別段素晴らしい肉体を持っている風でもない、どちらかといえば大人しそうで、控えめそうな、そんな女が今、私の隣の部屋でマニュアル通りの喘ぎ声を上げている。一人暮らしだから、そこはきっと単身者用の小さな部屋だろう。玄関入ってすぐにキッチンがあって、コンロは一口で、前の家から持ってきたファミリーサイズの冷蔵庫が肩身を狭くして置いてあって、その真横にユニットバスの扉があって、天井から下がった物干し竿から下着から外出着から仕事着までが一緒くたになって吊るされていて、その先にあるたったひとつの部屋はシングルベッドとテレビを置いたらいっぱいいっぱいの広さしかなく、そのベッドはベランダへの出入り口を塞ぐ形でしか設置することができなくてその上で、あの大人しそうな女がどこぞの男とまぐわっている。上がる声の間隔が唐突に増し、ため息ともつかない情けない声を最後にセックスが終わっても、私はそのままベランダの椅子の上から動けないでいた。

 「かお!」
 教室に入った瞬間待ち構えていたのか目の前に立ちはだかったきよはそう言って大笑いし、私はかお?と言われたままその言葉を聞き返す他なかった。すごい顔、疲れてる、そこまで聞いて意味を理解し、寝れなかったんでしょ、大丈夫?と続けるきよに相槌を打ちながら自分の席に就いた。朝日を浴びて風を切って歩いている時はそうでもなかったが、こうして教室のぬるい空気に浸り何故だかいつも遠巻きに聞こえるHR前の喧騒の中 椅子に座ってしまうと、一気に疲労感が押し寄せてきた。隣の部屋の人がさー、途端に霞む視野にうっとりしながら、吐き出すように私は声を出していた。
 「夜中にセックス始めてくそうるさくて眠れなかった」
 喧騒はふいに止み、しんと静まり返った。あれ私なんか変なこと言ったっけ、自分で自分がコンマ数秒前になにを言ったか思い出せず、しかし明らかに自分の発言で教室中の声が消えてしまったことに気が付いた。最初に廊下側の席で男子数人と集まっていた南が吹き出して笑い、つられてその周囲が、伝染した笑いはあっという間に教室中に広まった。なに言ってんの?ざわざわと繰り返されるその言葉も、私にはまだ通じない。「なんか笑われてる?」「きみがセックスとか言うから」。きよの諦めたような、困ったような笑顔を見てやっと、私は自分の毛細血管めがけて一斉に血液が集まっていくのを感じた。
 「でもほんとにひどい顔だよ、あったかくして、今からちゃんと寝なよ」
 きよがそう言って制服の上着を懇切丁寧に私の体に巻き付けた時、チャイムが鳴った。最後の最後に眠たげな顔をした亜久津が姿を現し、クラス全員がそこに揃った。あと数十秒で担任が教室に現れることを理解しつつもまだきよの体温も匂いも充分に残ったままの上着が心地良く、体中の末端を赤くしたまま私は目を閉じた。私の恋人は優しい。私はその優しい恋人と、セックスをしない。

 夜は鳥も空を飛ばない。眠れない私はベランダで夜を眺め続けている。学校で三時間目の終わりまでぶっ通しで寝続けたせいか、一向に眠気は訪れなかった。タイムラインは死に絶え、動画サイトに目新しい更新もなく、数ヶ月先のコンサートチケットの落選の知らせが届いていて、終わった課題と、明日着る制服一式がテーブルの上に置いてある。今日もその全てが私を否定した。先程から階下で酔っ払いが軽い諍いを続けている。油を注していないような音を立てて自転車が通り過ぎていった。近くでさらさらと木の葉が揺れ、電線もそれに従った。月の出る夜で薄い、霞のような雲がゆっくりと流れた。眠れないよー、誰かにそう一言告げたい気がしてメッセージアプリのトークページをスワイプしても、適切な人材がひとりも見つからなかった。私の優しい恋人はもう眠ってしまっている、メッセージの応酬はもう四時間も前に途切れたきりだ。そういう全てが私を見下し笑っている。目の前の夜だけが絶対だった。当然のように喘ぎ声が聞こえはじめ、私は身を強張らせた。
 うっせーんだよ時間考えろ。畏怖を強引に怒りに変えて、私はそんなことを頭の中で呟いている。今朝隣の女に玄関先なんかで出くわすことがなくてよかった、どんな顔をしてやればいいかわからないし、相手がどんな面下げて会釈してくるのか考えただけで胃が重くなった。反面、まざまざとあの女の姿形を再認識してやりたくもあった。こんな声を上げてスプリングを軋ませてセックスをしていた女が数時間、どんな様子で表に出てくるのか、どういった神経でもって表に出られるのか、こんな獣と変わらないような女が。今日も隣がセックスしてるよー、誰かにそう一言告げたい気がしてしかし私は携帯に触れない。セックスなんて。セックスなんて単語を私の携帯の予測変換に残したくない。隣人、セックス、迷惑、検索エンジンにそうぶつけたいがそれもできない。私は性的な全てから自分のこの生身を遠ざけていたい。あんな獣のような声を等間隔に上げなければならないのなら。だから私は付き合って一年経つきよとセックスをしない。きよともしそれをして、自分があんな風になってしまうのなら。途端に頭の中に見たこともないきよの裸が投影され、その前にひれ伏す裸の自分が浮かび上がった。隣の声は聞こえ続けている。猛烈な吐き気が襲ってきた。

 また眠れなかったの?翌朝のきよの第一声は無添加100パーセントの心配で形成されていたにも関わらず、私にはそれが「またセックスしてたの?」に変換されて聞こえ腹が立った。ねえ私を性的な目で見ないでくれる!そう叫びたくなって、瞬時に自分がいかにうがった受け取り方をしているかに気が付いた。「ねえまた上着貸して」「いいけど四限世界史だから気をつけてね」。きよは山吹一厳しい世界史教師の授業態度審査を気にかけた後、昨日と同じように制服を脱いで私をくるんだ。きよの匂いがあり、体温があった。この、好きな男から発せられる片鱗が自分を高揚させることは、つまり発情に近いのかもしれない。それだけはわかり、自分にうんざりし、気味が悪く、眠気からくる途方もない苛立ちと焦燥感のごった煮でまた吐き気がした。机に突っ伏してしまっては自分から湧き出る生物的欲求に負ける気がしてできず、椅子にかけたままぼんやりするわたしの背中をとんとんときよが撫で、それは確かに安心と肉欲を呼ぶのだった。抱きしめたい。抱きしめられたい。そこで眠りたい。けれどその先に行き着くのがあの獣の鳴き声であるなら。チャイムが鳴り、あと数十秒で担任が教室に現れる。亜久津おはよー。きよのその声はどうにもできない高い壁の向こう側から聞こえたような気がした。

 女の喘ぎ声はその日から三日間毎晩聞こえ、私はそれを毎回ベランダで聞き続けた。女のベランダに目をやっても、明かりを消してカーテンを閉め切っているらしいその部屋の内部は確認できない。私の家のものと同じ大きさの、つまらないベランダで、そこには椅子さえも置かれていなかった。やはりベランダへの出入り口をベッドで塞いでしまっているのだろう、そうに決まっている。天日干しなんて概念のない女で、屋外にプランターを置いてなにがしかを育てるなんて概念のない女で、眠れない夜に夜を眺め続けるしかないなんて概念のない女なのだ。それでそのベッドで毎晩男とまぐわるような了見の女で、他人の迷惑なんて顧みないような了見の女で、大人しそうな顔して欲望に逆らえないような了見の女なのだろう。両親はここ数日で明らかに顔色が悪くなった私を心配し風邪薬を飲ませようとしたりビタミン剤を飲ませようとしたりし、私はそれに従ったが風邪でもビタミン不足でもないのでそれらの錠剤はひとつも役に立たなかった。彼らの寝室は私の部屋の真反対に位置し窓もしっかり施錠して眠っているため、ふたりは毎晩隣の住人宅でなにが行われているか全く知らない様子だった。時々両親が一組の男女である事実が私を苦しめた。苦しむべきことではないのは理解していたが、それでもまぐわった過去とまたまぐわう可能性を持つ男女が自分の両親であることに、私は言いようのない不快感を覚えた。私は両親を不気味に思い、きよが男であることを不気味に思い、あの朝セックスという単語にけらけら笑ったクラスメイトを不気味に思い、仔細を知らない隣の女を不気味に思った。それでも私は毎晩眠れなくなり、よせばいいのにベランダに出て、ぼんやりしながら夜と対峙し、ある時聞こえ出す女の声に、ああ今日も気味が悪いと納得している。アダルトビデオそのままの声と音に、しかしメディアを再生したのではない生きた物音に。私は両親やきよやクラスメイトや隣の女を軽蔑し、しかしそれを聞きながら両親やきよやクラスメイトや隣の女や、それ以外の全てのまぐわる可能性を持つものたちに想いを馳せた。きよがいつか私を組み伏せるかもしれない事実に怯え、私がいつか誰かに獣にされるかもしれない仮想を追求した。少女漫画のその先の、肌色と肉の色を。きもちわるい。その夜隣の女の長ったらしい吐息を聞いた時、ひとり夜に呟いていた。

 明日学校を休んででも病院に行く約束を母親とさせられ、家を出た。私は毎朝毎晩体温計で熱を測らされ、毎食後いくつかの錠剤を飲まされ、風呂上がりにあたためたハチミツ入りの牛乳を飲まされ、リビングにいる間中心配の目を向けられた。体温計は平熱を叩き出し、錠剤はなんの功も成さず、牛乳は胃の中を気持ち悪く満たすだけであり、そして私は両親に隣の騒音について言及できない。一体、どんな顔をして親に隣人のセックスがうるさい、と告げたらいいのだろう。まずもって私は両親にセックスという単語を言えないだろうし、それに準ずる単語も口にできない。夜中にうるさくされて、と答えてどんな風に?と聞かれ正直に言うことも嘘の供述をすることも耐えられないし、もしそこをうまく回避できたとして騒音について彼らが直接隣人に苦言を呈しに行ったとして、なにかの具合で自分の娘が毎晩隣人の喘ぎ声に悩まされていたと知ってふたりはどう思うだろう。私はどうしたらいいのだろう。両親に、自分の娘がどんなに些細であろうと性に関するなんらかの知識を得ていること知られるなんて許されない。大体私が眠れない夜は隣人のあれこれが始まる以前から存在していたのだから、実際のところこの不眠からくる健康不良は彼女のせいではないのだ。確かに私は彼女のアクションで性に対する嫌悪感を増し好奇心を抱く自分への嫌悪感を新たに抱くはめになったが、では彼女があの夜おっぱじめなかったからといって私はきよとセックスする決意をできたか、というとそうではないだろう。私はどうせ眠れないならと毎晩ベランダに出る。椅子に座ってぼんやりとし続ける。隣がうるさいからと耳にイヤホンを突っ込んで音楽をかけたりしないし、あちらのベランダに投石したりしない。それは私が望んでやっていることだ。眠れぬ私の全てを夜が受け流すように、流れる夜の全てを眠れぬ私は受け止めるのだ。
 彼女に罪はない。そんな平和的思想をもって家を出たけれどそれは隣の部屋の玄関の扉が開く音で一切合切崩壊した。喘ぎ続けてはや五日目の朝、遂にあの女が朝日の下に姿を現したのだ。等間隔で泣いているとも笑っているともつかない声を漏らし、いつも最後には長々と息を吐くあの女が。え、うそうそ待って待って待ってきもちわるっ。私は焦り、しかし焦る様を見せるのも癪で、けれどこの場に居合わせたくなく、すぐに消えてなくなってしまいたくて、しかしどの面下げて表にに出てきたか見てやりたくもあり、彼女の仔細を目に焼き付けたくて、それとも自分の家に駆け込みたくて仕方がなかった。え、うそうそうそうそうそ。隣の家から出てきた亜久津を見て、私は息を止め、亜久津は私を認め、私は毛細血管から血を失い、亜久津は眉間に皺を寄せ、私は涙が自分の眼球に表面張力いっぱいいっぱいで貼り付いているのを感じ、亜久津は首を傾げた。

 ねえそういうところ。応答がなくなったきよとのトークルームを見て頭の中でそう呟いた。
 私は今朝隣の部屋から出てきた亜久津の前を泣きながら横切り、彼が全くの気の抜けた部屋着みたいな格好であったことを思い出して鼻をすすりながら通学路を歩き、彼がこのところ遅刻かそれギリギリで教室に入ってきていたことを思い出してきよに心配されながら自分の席に着き、きよの上着を追い剥ぎのように奪ってそれにくるまりながら、夜な夜な聞こえたあの女の声を思い出していた。どうしたの大丈夫?眉を下げたきよは私の頭を撫で、私はそれに震えていた。風邪引いた、風邪風邪風邪。そう押し切り、泣かすなよーという南がきよを茶化す声を聞き流し、きよが柔らかにそれを制するのを聞き入り、きよと一緒になって心配する女友達に風邪だと言い続け、朝の教室の喧騒が流れていった。チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきて、きよと女友達が散り散りになって席へ着いた。点呼があり、出席番号一番の亜久津の返事はなかった。だってあの時間に、私の住むマンションを出て、一旦自宅に戻って、制服に着替えて、それから登校するのであれば、間に合うはずもない。亜久津遅れるって連絡きてるー、南が携帯を掲げて見せて、担任はやれやれだとか言っていた。南の発した亜久津という言葉が、かっと具現化されて脳みそに届いた。その言葉は私の細胞という細胞に伝わり、見たこともない彼の裸を想像させ、隣の女を組み伏せる姿を想像させ、女を獣にさせる様子を想像させ、そしてあの声を連想させ、それら全てが繋がった。ああこの男が、毎晩毎晩。目の下が熱かった。きよの匂いに包まれ、南の声に細胞を震わせ、私は亜久津のセックスを想像している。私は下校時間まで押し並べて具合が悪く、殆どの授業を机に伏したまま過ごした。
 「平気なの?」
 「明日病院行くことになってたから」
 「きみは風邪よりひどいやつだと思うけど」
 「大丈夫だよ」
 大丈夫。そう繰り返して通話を切り、短いメッセージのやりとりに切り替えたのがもう二時間半前で、それから小一時間、きよは珍しく日付けを跨いで起きていて私に付き合った。いつも授業後部活でくたくたになるまで動き周り、始業前は始業前で朝練に励む彼は大概日付けが変わる前に寝てしまう。けれど今日に限ってはよほど私の様子が心配だったのか私の態度が悪かったのがとにかく気を遣って、とめどない文字での会話を長々続けた。彼は私を心配し、時々笑わせ、時々安心させようとした。それでも。彼は圧倒的に眠れる人間で、ある時なんの前触れもなく返信がなくなった。
 なんの通知も寄越さなくなった携帯。一切更新されなくなったストーリー。こっそり家を抜け出して散歩に出ることも許されない中学生という身分。とっくに片付いた明日提出の短いレポート。物音ひとつしないリビング。夜更かしに最適な高級な娯楽品を手に入れられない若さゆえの自分の財力。なんできよとえっちしないの?とぬけぬけと尋ねてくるけばけばした女友達。そういう全てが私を攻めた。だって怖いし、まだ早い。私はこの一年間繰り返し繰り返し女友達にそう説明し彼女たちは、じゃあなんで付き合ってんの、早いとか遅いとかじゃないじゃん、えー、おカタいねー、きよがかわいそう。そう言った。そうかもしれない。私はさっさときよとまぐわるべきなのかもしれない。私の下腹部にあるとされる血の膜を取り払うべきなのかもしれない。大したことも考えず、ただ好きだから、付き合っているから、そんな理由で、あの隣の女みたいに喘いでみせるべきなのかもしれない。厳かで、愛の結晶かなにかであるべきだと思っていたそれは、毎晩ああして彼女がやってのけていたことを境に、低俗で、陳腐で、気色悪いものへと成り果ててしまった。私がうるさいとあの朝教室で評してしまった時、セックスの崇高さ神秘さは消えて嫌悪と、卑下と、自己嫌悪を伴う興味へと変わった。きよはかわいそうなのかもしれない。きよは崇高で神秘的なことを私としたかったのに、私はそれを今や、生々しく低俗な遊戯かなにかと捉えている。今夜は私の抱く思いさえ、そのように私を責め立てる。携帯を投げ出し、ベッドから起き上がると、私は音を立てないようにベランダのガラス戸をスライドさせた。
 アダルトビデオも青年誌も、対象が美しい他人だから成り立つのだ。それがもし顔を見知った人物たちであったなら、途端に色気も情緒も失って、例えば動物園でアリクイの交尾でも見ているような気分になる。というか、檻の中柵の中でのんびり生活する動物たちを見るでもなく見にきただけなのに、突然別段興味もないアリクイが目に留まって、たまたまそいつらが周囲の目も気にせず青空の下交尾を始めちまったのを目撃したような、そんな気分になるのだ。もしそれに欲情するものが存在するのなら、私はそれを軽蔑するし、しかし私はついつい目を離せないでいる自分を、軽蔑するのだ。夜が流れていく、私を軽蔑する私をただ受け流していく。はるか遠くで輪郭ひとつ変えずたたずみ続ける山や、 明け方まで光り続けるネオンサイン、こんな時間に空を横切る飛行機、点いたり消えたりを繰り返すマンションの廊下の照明、走り抜ける車のエンジン音、焦ったようなクラクション、詳細は聞き取れない通行人の会話、ひとつ上の階から遠慮のない笑い声、隣のアパートの一階に昔からある中華料理屋の油の匂い、吹く風と吹かない風。夜は眠らない、私のように自らを軽蔑することもなく。

 がらり。それはなんの配慮もされない音だった。夜だからこんな時間だから、そんなことをひとつも考えない、真昼間の音。え、うそうそうそうそうそ。雨ざらしの椅子の上で私は身を強張らせ、しかしその方向へ顔を向けてしまう。真っ黒い影は隣のガラス戸を潜り抜け、大きな体をかがめて、身をよじるようにして隣の家のベランダに月明りに照らされ、その姿を現した。煙草をくわえ片手に炭酸飲料のボトルを持った亜久津は空いた手でスウェットのポケットをまさぐりライターかなにかを探している様子を数秒見せたがすぐに、私の視線に気付いた。声も出せず、身動きひとつできず、私は亜久津を見続けた。亜久津は驚いた顔ひとつせず、ベランダの向こう、首を傾げた。
 「千石にやらせないんだって?」
 発した言葉はそれだった。ああこの男が、毎晩毎晩。今日はまだ聞こえていなかった喘ぎ声、何度でも脳内に浮かび上がる亜久津の裸、鳥も飛ばない夜空、遠くのビルの一斉消灯、今朝隣の家から出てきた亜久津、吹かない風、きよとまぐわる可能性を持つ自分、滞ったままのタイムライン、明日履くはずの靴下、交尾するアリクイ、それを軽蔑しながらただならぬ興味を抱く自分、目の前の亜久津、あの部屋の中にいるはずの大人しそうな性欲にひれ伏す女、性欲にひれ伏す女の望みを叶え続けていた亜久津、性欲にひれ伏したくないのに自分の欲望にめちゃくちゃにされたい自分、「やらせてもらえないきよ」。それら全ては私を全肯定し、全否定する。「あのひとは?」、出た言葉はそれだった。
 「誰?」
 「彼女」
 かのじょ。その言葉に亜久津は一瞬考え込み、やや険しい顔をした。それから、ああこの部屋のやつ?と訊き返す。私は頷いた。「やりにきたのに手首切って薬飲んで寝てる」、亜久津の答えはそれだった。
 「なにそれ」
 「知るかよ。ありがちな話じゃん」
 「寝てるからできなかった?」
 「うん?」
 亜久津は煙草に火をつけた。その時、耳と首筋だけをこちらに向けたその仕草は、アリクイにはとてもできないであろう性的な表現だった。濃い煙を吐き出して亜久津は「聞こえてた?」そう言った。風はなく、煙は亜久津の周りに広がって漂い続ける。毛細血管に血液が集まっていく。いつもそこで聞いてたんだろ喘ぎ声を。亜久津はそう言いたいのだろう。お前は低俗で、下品だと人の情事を見下して、そのくせそれに多大なる興味を抱いていて、しかし自分は実行もできない、そんなただの眠れない女なんだろ。そう言われているような気がした。
 「きよがそう言ってたの?」
 「なんの話」
 「さっき言ってたやつ」
 「お前がやらせねーって話?有名じゃん」
 「有名って」
 「どうでもいいけど。どうせ処女なんだろ」
 やるとかやらないとか処女とかこの部屋のやつとか、私が口に出したくない言葉たちを、この男はなんの躊躇いもなく口にした。向こうのベランダの手すりに肘をつきこちらを向いて亜久津は、笑うでもつまらなそうな顔をするでもなくまっすぐに、椅子に座り続ける私を見ていた。口に煙草をくわえ、右手に中身が半分入ったボトルを持ち、近場のコンビニくらいまでなら外出することを許されるような恰好をして。
 「ねえそのひと起きない?」
 「うん?」
 彼はちらりと部屋の中を確認し、呆れたように「絶対起きない」と断言した。私にはそこを確認することができない。曰く、手首を切って睡眠薬を飲んで絶対起きないほど眠り込んでいる女のいる室内を。「見る?」「見ない」。私は断りを入れたが、亜久津は手すりを離れまた身をよじってガラス戸へ向かった。もし開いたままのそこから、ざくざくに切れた女の手首なんかを引っ張り出されたらどうしよう。そう思ったが亜久津は、錠剤のシートをひとつ手にして、戻ってきただけだった。
 「そこどけて」
 また肘をつくと思った手すりを右手の平で掴み、左手で睡眠薬とボトルを握りしめ、煙草を階下に吐き捨てて彼はそう言った。私は動けず、亜久津は気にした様子もなく、あっさりと手すりを乗り越えてこちらのベランダへ跳び移った。え、うそうそうそ。元々狭いにも関わらず椅子を置いてさらに窮屈にしていたところに男がひとり飛び込んできてもいい余裕はなく、亜久津は容赦なく私に覆いかぶさるような形でぶつかり、私は自分が椅子から転がり落ちないように彼の勢いを打ち消すように支えてやるしかなかった。
 「ちょっと。なにしてるの」
 大きな声を出すわけにもいかず、椅子をがたつかせるわけにもいかず、私は渾身の力で亜久津を受け止め続け、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声量で抗議する他なく振れた亜久津の体は、小刻みに震えていた。あ、このひと笑ってらー。思ったその後激しい動悸がした。亜久津はまだ、煙草の匂いがする。
 「ねえうるさくしないで」
 「あー、一瞬死んだかと思った」
 「ねえ戻ってよ」
 「なんで千石にやらせねえんだよ」
 「ねえ静かにして」
 「俺とする?」
 「ねえ親起きちゃう」
 「眠剤いる?」
 「え?」
 椅子の上から決して動かない私のせいで前にも後ろにも進めなくなった亜久津は私に覆いかぶさったまま、ベランダの隅で、私に支えられたまま、身を捩って左手の錠剤のシートを眼前に掲げて見せた。12錠入りのシートで、その内8つが空だった。残った4つは子どもの頃によく食べたヨーグルト味かレモン味のタブレット型のラムネによく似た形状をしていた。読み慣れぬカタカナと、10mgの文字。「ほしいかもしれない」、その言葉の「ほしい」まで言った開いた私の唇に、亜久津は自分の唇を押し付けた。
 「うそでしょ」
 「なにが?ほしかったんだろ」
 ほしくない。ほしい。違うし、違わない。それは全く同じ量で、同じ勢いで、私の頭の中を駆け抜けていった。混乱する私を気にする様子もなく、互いに一歩も動けない状態のまま亜久津は、何度も唇を押し付けた。下品で、低俗で、他人であれば美しいはずの遊戯は、私がすれば私の見知る者がすれば、たかがアリクイの交尾かなにか。他人の唇は、粘膜は、こんなにも柔らかく温かい。「ねえ私きよと付き合ってる」「俺はあの女と付き合ってない」。椅子の背もたれに私をぎゅうぎゅ押し付けて、服の中に手を突っ込んで、皮膚と皮膚をこすり合わせながら亜久津がした説明は、あと一歩のところで腑に落ちそうで怖かった。「本気で嫌ならやめるけど」、男はそう笑い、私は自分の血の熱さに参っている。月が時々雲に隠れた。やけに低いエンジン音を持った車が走り抜けていく。数日ぶりに女の喘ぎ声を聞いていない。どこかから腐った食品の匂いが漂ってくる。「きみがセックスとか言うから」、きよがあの朝そう困ったように笑っていた。風がなく、しかし煙草の煙はもう消えた。今日一日、あれほど想像せざるを得なかった亜久津の裸が、いま現実として目の前にある。亜久津の肩に顎を載せて、遠くにある山や、消えないネオンサインや、なにに使われているのか知らない鉄塔を眺め、声を上げるのを必死でこらえている。動かないタイムライン。明日行くことになっている病院。眠れない私を、笑う私。かつかつとアスファルトを蹴るピンヒールの音がひとつかふたつ。低俗な私を、夜は受け流し続けた。恐らく夜は、夜だけは私を笑わなかった。そう思う。
 明け方近く、亜久津は持参したペットボトルの中身にラムネみたいな錠剤を溶かして見せた。私がしっかり部屋の中に戻り、ベッドに入ったのを確認して亜久津は、やってきた時と同じようにあっさりと手すりを乗り越え隣の部屋へと戻っていった。真っ青なジュースを飲まされて私は眠った。かなり強引な眠気が襲ってきてそれに打ち負ける寸前、画面を光らせ携帯がメッセージの受信を知らせ、そこには確かに、もう寝れた?というきよの言葉があった。












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2019.04.06
ご無沙汰してます