携帯に、ロックをかけた。ペアリングは外してティッシュに包み、ポーチの中にしまいこむ。誰もいない公園に、ぽつりとそびえる時計は19時55分を示している。もう、すぐだろうか。
 秋の夜風で冷たい両手に息をはあ、と吹きかけた時、アーチ型の門をくぐって彼は現れ、私はそれをぼんやりと眺めていた。



鈴虫





 彼氏がいる、という状況の私が彼と連絡を取るということ自体が今思えば、不思議なことだったのかもしれない。私の恋人は優しく大人で、過干渉や強い束縛をせず大概笑っていて時には真剣に物事と向き合ってくれる、それはそれは理想の恋人像に近い人であり私はとても幸せで、とても満足していたはずだ。そして私というのは、誰に強要されたわけでもないのに恋人がいる時は常に、恋人以外の男とはメールもしないような人間だったにも関わらず。
 最初は遊び半分で返してしまったメールがだらだらと続き、一日一通しか返さなかったようなそれが、段々と数時間に一通、一時間以内に一通、十分以内、次第には即返信へと変わり日に日に、彼からのメールが待ち遠しいようになってしまった。最初のメールから今のこの気持ちに至るまでに一ヵ月半の時間を要した。
 彼はアルバイト先のコンビニに、週に何度か現れるお客さんだった。私は学校が終わってから夜の10時まで働いていて彼はいつも10時ぎりぎり、私と交代でシフトに入る夜勤のお兄さんが出勤してくるかかこないかの時間にやってきて、こんな時間なのにたまに制服を着ていたこととその目立つ髪色が印象に残ってすぐ覚えた。怖いくせに眠たそうな顔をして、いちご牛乳とかひとつだけ買っていくわけである。可愛い、と男の子に対して思ったのは初めてだった。
 「ねえねえ白い制服、学ランっていうの?それってどこの学校?」
 「あー、山吹じゃない?中学校だよ。どうして」
 「いや、今日そういう制服の子が来て、すごい制服だなーと思って」
 「へえ、山吹ってのコンビニから大分距離あるけど、遠くから通ってる奴もいるんだね」>br>  彼を見た最初の夜、家に帰るまでの道を歩きながら彼氏とそんな電話をした。その時は私は彼の名前も、なにも知らなくて、ただただ今日会った面白いお客さんの一人として彼氏に話し、彼氏もただそれを関心したように聞いてくれていた。私は彼を、綺麗な顔だなとレジ打ちしながら思っていた。袋に入れるか聞くの怖いな、とも思いながら。結局聞いたら彼は、白い制服の男の子は黙って首を横に振り、105円ちょっきりをポケットから取り出すとさっさと店を出て行った、ただそれだけだったのだけど。それで、私は確かに彼に対して綺麗な顔だな、という感想を抱いたのだけどその気持ちというのは、ゴッホの絵を見て素敵な絵ですね、と言うのと同じようなものであり、当然のように好いた惚れたなんて感情は全くなく、早く恋人に電話をしたいと考えていた。私は恋人が好きだった。結婚したいと思うくらいに。
 何度目の時だろう彼はその日コーヒー牛乳をレジに持って来て、私はそれのバーコードをスキャンした。また105円を出そうとポケットをまさぐる彼の視線がふと私の顔で止まって、幾分眉間に皺が寄る。綺麗な顔がこっちを見ている、と認識すると恥ずかしくなってしまい、私は目を泳がせてレジ画面を見つめる振りをし、105円ですね、と店員として彼に念を押したりした。彼はああ、と呟き、これが私が初めて聞いた彼の声ということになるのだけど、その彼はその後ポケットから出した長い指で私の顔の右側を指し
 「耳。血、出てる」
 と言ったのだ。私はびっくりして恐らく少し飛び上がってから右手で、自分の右耳を押えたりした。耳たぶがぬるりと生温かくて、ああそういえば今日学校で友達にピアスを開けてもらったけれど、いまさら血が出てきたりするものなのだろうかと考えていた。そしてとっさに出てきた言葉は
 「あ、ごめんなさい」
 でありそれを聞いた彼は初めて、笑って
 「大丈夫、」
 と私に尋ねるとさっさと105円を出し、コーヒー牛乳片手に去って行った。ああ袋に入れない商品にはお店のテープをバーコードの所に貼らないといけなかったのにと思いながらレジ下にあったティッシュを一枚拝借し、ぼんやりとそれを右耳に当てていた。
 「山吹なんでしょ」
 「そう」
 「制服目立つよね」
 「うん、困る」
 そんな。ぽつぽつとした会話をするようになったのはその次から。20時から22時まで私は一人で店番を任されていた為、レジが混んでいて一言も話さないなんて時もあった。袋は?いらない。なんていうちょっと軽いマニュアルの会話だけだとか、妙に眠そうな彼が言葉を発するのもだるそうに、ただ首を振るだけとか。
 彼が来るのが楽しみになったのはいつからだっただろう。私は。「派手な制服の山吹生」の話を恋人にしなくなった。別段話題性のあるネタでもなかったので恋人はそれを不審がったりしなくなった。彼と親しくなればなるだけ、私は彼のことを自分の心の中に押し込んだ。たまに。私は恋人が大好きで信頼し過ぎてなんでも話したくなって、「いやああの山吹生にちょっと恋しそう」なんてぽろっと言ってしまいそうになった。おかしな話だった。

 「あ。下の名前なんて言うの」
 その日、彼の他に、店内やなは誰もお客さんはいなかった。私はその頃には、彼が来たことがただ純粋に嬉しく思えるようになっており本を立ち読みしたりガムのコーナーをうろちょろしている彼を、ぼんやりレジの中から眺めたりして早く、夜勤のお兄さんが来る前に早く、レジに来て、と思っていた。そして彼は私に名前を訊き、私はラザニア、と答えた。
 「なんだそれ」
 今日彼はガム一個。
 「私の名前」
 「ふうん」
 「名前なに?」
 「グラタン」
 ああそう、と言って笑った。彼も笑っていたと思う。どうして自分の、本当の名前を言わなかったのだろうと思う。私がラザニアだなんてふざけたから彼もふざけて、グラタンと言った。せっかく彼が私の名前を聞いたというのに。彼の名前を知ることができなかった。そうしている内に今度は、どうして名前なんて知りたいのだろう、と思う。彼はただの、ちょっと目立つお客さんで、私の恋人は私のアルバイトが終わるのを健気に起きて待っていてくれていて、そして名前なんてただの記号にしか過ぎないはずだ。それでも本当の名前を告げなかったのを後悔しているのは多分、本気で彼のことを知りたいと思っているからだ。おかしな話だった、ほんとうに。
 「マルボロ、ソフト」
 「、制服着てない時にしてよ、防犯カメラ映ってる」
 「あ、マジか」
 「マジ。残念だったね」
 「タスポ持ってない?」
 「持ってない」
 「使えねーてか彼氏いんの」
 「いるよ」
 「指輪してるもんなー」
 「うん」
 「死ね」
 彼氏が。いなかったらどうなっていたのだろう。でも私には彼氏の存在を隠してまで彼と接する気はなく、これで良かったのだ、と思った。

 浮気なんて今までしたこと時がなかった、されたことは何度かあったけれど。私は、恋人が浮気していたことを知った時の痛みを身をもって経験している。だからこそ私は浮気をしない、と強く心に決めていた。あんなに酷い仕打ちをかつてでも一度でも、愛した相手にしていいはずがない。
 なんとなしに私を睨んで彼が店を出て行き、私は呼吸を整えた。すぐ後に夜勤のお兄さんが店に入って来て振り返り、
 「最近よく来るねあの子」
 と私に笑う。それは、にやにや、といった感じに近かった。これでいいのだ、これで。だって私は決して彼を好きではない、恋人が好きなのだ、結婚したいくらいに。でももし、恋人がいると知ってもう彼が来なくなってしまったら、とそこまで考えてなにを自意識過剰になっているんだと自分の手の甲を抓った。彼はただただコンビニ店員で遊んでいるだけだ、話し相手が欲しいだけ、常連っぽい自分を楽しんでいるだけ、それだけだ。

 夜ベットに入って眠る前、彼のことを考えるようになった。恋人とメールをしている時、電話をしている時、彼だったらこう言った時どういう反応をするのだろうと思うようになった。恋人は優しく、穏やかだった。彼は私にさらりと「死ね」なんて暴言を吐き、眠たい時は態度が悪いし怖い目をする。恋人と一緒に居ると安心する、なだめてくれて、笑わせてくれて。彼を見ているとひやひやする、反面熱く燃え上がるなにかが心の中に沸く。全く正反対の二人だと思った、アイスクリームとフォンダンショコラみたいに。どちらも甘くて大好きだけれど、ふたつは違いすぎてどちらが好きかなんて私には決められない。おかしい、私は恋人が大好きなはずなのに決められない、だなんて。でもこうしてメールをしていると恋人の「大好き」という言葉にとても嬉しくなったりする、コンビニでしか会えない、名前も知らない彼に思いを馳せるより。本心で、大好きという言葉を返して目を閉じた。目を閉じたら閉じたで、明日は彼が来るだろうかと考えたりもして。
 きっと彼女がいるのだろう綺麗な顔をしているのだひ私が言うのも変だけれど最近の若者っぽいから、女の子をとっかえひっかえして遊んでそうな感じがある。もてるんだろうああいう風に、女の子と喋ることに慣れており、かといってちゃらちゃらした印象を与えないようななんていうか、巧みな技術を身に付けているように思う。身に付けたのか、もう生まれた時から持ち合わせていたのかもしれない、無条件で人を惹き付けてしまうなにかを。ああいう人種は確かに存在してそして、私みたいな馬鹿な女が簡単に心を揺さぶられてしまうのだ。でも大丈夫だろう、彼氏がいたってかっこいい人をかっこいいと思ってしまうのは当然のことで事実、私は他にも何人か、かっこいいなあと思ってしまうお客さんがいる。鳶職風なお兄さん、営業さんっぽいスーツの人、なにしてるのかよく分からない若者などなど、かっこいいとは思う、だけど別に、恋人を捨ててまで彼らとお付き合いを、と望んでいるわけではなくただただそれは、「かっこいいなあ」という感想でしかないのだ。彼もそのひとりでしかない、大丈夫だろう。

 友達とやって来た彼は制服を着ておらず、中学生にしては大人っぽいなという印象を受けた。彼の友達は入店直後私をちらりと見て、そして笑った、品のなさを忍ばせて。ああ彼は私のことを友達に話している、それが、どういった内容かはわからないけれど、笑われるような存在には変わりないのだと思うと心臓が冷たくなっていく。なにかを期待していた自分を直後に実感し、頭が熱くなった。私は彼氏のことを考えている。彼氏の顔や、寝姿や、私を見る目を思い出し心の中で、何度も何度も彼の愛称を呼んでみる。私の彼氏。私の彼氏。私の彼氏。これ以上の人はいないと思うくらい、私は今幸せなはずだ。
 「メアド教えてよ、こいつに」
 彼の友達はガムと、エナジードリンクをひとつずつ、レジに持って来ると後ろに並んだ彼を首で示して私にそう言った。
 「私の?」
 小さなガムのバーコードを打つのに苦戦するふりをしながら私は、なるべくそっけなくそう答えた。
 「そう。こいつチャらいからすぐメアド知りたがるわけ。ダメ?」
 「いいけど。320円です」
 一番小さい袋にガムとドリンクを入れてやり差し出すと、1000円札をカウンターに置きながらいいってーと友達は彼を振り返りまた、品なく笑う。1、と千円、のボタンを押し680円のお釣りを取りだした私の手元に、友達の後ろから彼が携帯をぎゅっと押し付けてきた。「送って」、それだけを言って。
 私は多分冷静に、まず友達に680円を渡すことができただろう、それから。ポケットから携帯を取り出してプロフィールを選択した。赤外線送信しますか?の問いに、そうだ、と答える。難しい顔をしたまま彼は、私のメアドと電話番号が、己の携帯に送信されるのを待っていた。「きた」、そう呟いて私に、近付いていた彼の携帯がふっと離れていく。
 その後、バイトが終わって一時間くらい、お風呂を上がった時にきた彼からのメールは空メールで、私は返信に困りそれを無視した。というよりそれが本当に彼からのメールなのかわ分からなかった。アドレスは不可解な英数字の羅列で、彼を思わせるような数字や単語、彼の背景を浮かび上がらせるようなものはなにひとつなかった。ただそれが、ピッチであったこと。@マーク以降のキャリアを現す文字を見てなんとなく、捨て携帯だな、と自分の置かれた状況に納得する。
 携帯が鳴るだろうか、と思うとなかなか眠れなかった私は、翌朝起きた時少し寝不足のような具合を感じた。そして開いた携帯には、なんの受信も知らされていない。一体昨夜のアドレス送信はなんだったのか。もやもやしながら起き上り、顔を洗うと自分がばからしくなって、おはよう、といつものように彼氏にメールを打つ事が出来た。
 携帯が未登録アドレスからのメール受信を知らせたのはその日の昼休みで、私はやや驚きながらそれを開いた。朝彼氏とやりとりしていた「バス遅れてる眠い」というメールの上にそれはあった、意味不明な英数字の羅列、@マーク以降のピッチの現し。
 「返事しろよー」
 間延びした語尾が可愛くて、おかしくて、笑いそうになったのをぐっと堪えた。隣には彼氏がいて私は、一緒にお昼休みを過ごしていたからだ。携帯が鳴ったのに誰から?とも訊かない彼氏の寛大さと心地良い無関心さに、尊敬と罪悪感を覚えながら携帯を閉じた。すぐに返信をする理由なんかない、私は今、彼氏といて幸せなのだ。
 これからバイト、とメールを入れたのは夕方になってから、バイト先のコンビニへ向かう道中だった。すぐにそれを手の平ごとポケットに突っ込み、私はコンビニまでをてくてくと歩いた。今日は冷凍食品が入ってくる日だけれど、量が限りなく少なければいいな、と思いながら。夏場でさえ、あのかちこちの冷凍食品をストッカーに詰める作業は手が冷えてつらいというのにましてこんな秋に差し掛かった時期に、あんなもの触っていたくない。どうしてアイスクリームの新作を秋に出すんだろうか、と作業をしながらいつも思うのだ。冷えた指先はいつも、中華まんの升器にくっつけて温める。
 おはようございます、そう言いながらコンビニへ入った、レジにはパートのおばさんがふたり。事務室で制服を着ていると携帯が鳴った。また、未登録のアドレスから。私は彼の名前を知らない、だから彼をアドレス帳に登録しなかった。夜行くわ、と内容はそれだけで、返信のしようがないじゃないかと私は溜め息を吐き携帯をまたしまう、嬉しい、とか待ってる、とか。ふざけてでも返したら私はどうなるのだろう。あの友達に彼がそれを見せて一緒になって、笑われるのだろうか。
 その夜彼は本当に店にやって来て、彼がひとりであるのを確認して幾分ほっとした。友達と来る時の彼はつまらない、ひどくそっけないし、ほとんど喋らないし、友達が品のない笑いをするので居心地が悪い。彼は私を見ない。見ないまま、雑誌コーナーでほんの少し立ち読みをして、パックジュースのコーナーへ行き、迷うことなくコーヒー牛乳を手に取るとレジへ向かって来たのを、私は会社帰りらしいサラリーマンのボトルガムをスキャンしながら目の端て捉えていた。
 「本当に来たんだ」
 差し出されたコーヒー牛乳を受け取り。バーコードを探しながら尋ねるとなんか、と彼は口を開いた。
 「行くとか言っちゃったし」
 「ああ、うん」
 「でも別に買うものねーとか思って」
 「コーヒー牛乳なんだ」
 「そう、とりあえず」
 「105円です。袋は」
 いらない、と彼は低い声を出しポケットを探った。今日は500円玉がひとつ出てくる。
 「またメールしてもいい」
 わざと、ぽいっとそれを私に投げ渡して彼はそう言った、いいけど、と頷く。名前なんていうの、彼はまたそう尋ねた。だからラザニア、と私はまたそう答えた。お釣りを渡した時、その手首をぎゅっと掴まれた。うえ、と声を上げた私を彼は見下ろす、随分と高い位置から、そして首を傾げると
 「なんか触りてえ」
 そんなことを言っていたような気がする、確かではなかった。

 私は多分、警戒を怠らなかったはずだ、最初の内は。深いところを探ろうとする彼の質問は無視したり、適当に流したりしていたはずだ、返信にもたっぷり時間をかけて。彼氏とデートだとか、一緒に過ごしてるだとか、そういうことも伝えたし、彼氏との会話を疎かにしてメールを打つだとかそういうことはしなかったし、相変わらず彼の名前も知らず、アドレス帳にも登録しなかった。ただ彼のメールアドレスのあの羅列は、しっかりと私の頭に残っていて。
 ある日、無視しても来ていたメールが私の「何言ってんの?」という送信以降ぷつりと途切れ、三日経っても音沙汰がなくその頃、毎日彼に返信をしていた私は光らない携帯のランプが妙に寂しく、なにかあったの、なんて追撃のメールをしてしまった。その時に多分、私は負けたのだ。
 お前が好き 本当に好き 彼氏が居ても好き 寂しい ずっと寂しい 会いたい やりたい お前とやりたい
 そんな風な短い激情ばかりが記されたこのひどく雑なメールを見て、懐かしいな、と私は思った。こんな風にただただ押してただただ肉体を求められるなんて。懐かしい、そして、自分がその程度の女であると痛感する。私には駆け引きなんて必要ない。丁寧な扱いも必要ないし、遠回しな探りいれだって必要ない。押して、やりたいのだと、求めれば、いつかは うん と頷く、その程度の女でもしくは断られても、痛くも痒くもないすぐ諦めが付くような、その程度の女で私がここ数か月。少女マンガのヒロインみたいに抱いていたこのぽわりと温かな気持ちと、全く正反対のものを彼は抱いていたのだといまさらながら痛感した。それでも。私は返信をしたし、彼はそれに更に反応をした。なんだろう、悔しかったのだろうか。ここまできておいて、これを断るほど自分は立派な女ではないという自覚があり、断らないことで少し、この男を動揺させてみたいだとか私は、考えたのだろうか。
 待ち合わせの場所と日時は簡単に決まった。簡単に、私は恋人に酷い仕打ちをすることを可決したのだ。

 彼は私を認め、しかし歩みを早めたりしない。私だって、走り寄ったりはしなかった、ただ彼が歩いて来るのを眺めている、もう緊張を抱き過ぎて寒さなんて感じないのに相変わらず、指先にはあ、と息を吹きかけながら。
 「いないかと思った」
 私の目の前で立ち止まると彼はそう言って口の端を上げる、頬に皺の寄るその笑い方は、中学生とは思えない、渋みのような老いのようなものを感じたそして、私の頭の両側を、それぞれの手の平でぎゅっと掴むと
 「会いたかった」
 そう言って私の顔を引き寄せる。唇は息をする如く重なった。
 「こっち」
 そう言って彼が私から離れ、元来た方へと歩き出す。高い背と、締まった背中を何秒かじっと眺めてから黙って足を踏み出した。派手な髪も、だらしない部屋着のような服装も、ぺたぺたと音のするサンダルも、ポケットに突っ込んだ両手も、浮いた背骨も。なにもかもが愛おしい、そう思うのは、多分本心だ。そしてこの男に、どれだけの女が惚れて、抱かれて、捨てられたのだろう。ちょうど今の私のように。
 私は優位に立っていないとこの男と遊べない。保険をかけていないと。もし私に彼氏がいなくて、純粋に彼に片思いをしていたとしたら、私は気が狂ってしまったかもしれない、それくらい、彼はいい男で、しかし遊び人で、悶えそうになる。私は。一対一だとこの男に太刀打ちできない、だから、彼氏がいることを利用し保険をかけて、この男と一夜を過ごし、そしてすぐにお別れしても、彼氏の元に戻るだけだから全然平気なのだと思えるようにして今日この場に来た。本気でひとつ、恋ができない。最低な私にできるたったひとつのことそれは、身をもって経験したはずの酷い仕打ちを最愛の恋人に与えるという、悪業だけだった。
 「名前。教えてよ」
 足元に跳ねて来た鈴虫を彼が踏み潰すのを見てただただみじめな気持ちばかりが募り、ぼろり、涙が出た。














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2013.1.14
不死鳥シリーズ
お久し振りです金魚です!
復活!に向けての文章がこんなんで良いのかどうなのか
しかし打ちたいものをとりあえず打たないと、といった感じです