「だるい、」
と隣の席で健太郎が呟いている。だるいだるいだるい、延々その言葉を聞かされてアタシも感化されていく。そう、だるい。突然教室にやって来たアメリカ人の英語教師はよく喋りよく笑い、とてもじゃないけどテンションを間違っているし、この暑さで窓を開けたのに風の入って来ない教室には何の魅力もない、じわじわと蝉が鳴いている、だるい、という健太郎の声も聞こえる。だからあたしも、そう、だるい。一週間の、真ん中。
水曜
隣の健太郎はさっきまで机の下で、なんか格好良い写真がたくさん載ってるNBAの雑誌を読んでいたのだけど、それにも飽きてしまったのか雑誌を乱暴に鞄の中にしまい、両腕を机の上に投げ出してそこへ突っ伏した。だ、る、い、と止めを刺すかの様に呟いて、だ。その健太郎の左手の、細いのにがっしりした手首に、無数の赤い傷跡があるのを発見してしまいアタシは、なんだか見てしまったことを申し訳なく思った。
右手で首の辺りをひらひらと扇いでみる、だけど涼しくなれるわけでもなく。アメリカ人はやたら喋っていて、アタシには全く理解不能で、聞き流すしかなくって、ふと教室を見渡すと、体を起こしているのは前列の生徒くらいであとは、だらっと机に伏したり机の下や教科書に隠して携帯をいじっていた。みんな、誰も、この由緒正しい発音で文法で話すアメリカ人の言葉を、理解出来ていない。由々しき事態だった。
「けんたろ、」
隣の席でだらっとしている健太郎の、左手首を見ないようにしながらアタシは小声を出し、彼の肩を揺すった。
「うん?」
と声を出して起き上がった健太郎は眠そうで、目は半開きで、だけどアタシは笑う元気もなくただ
「暑いね」
と言った。健太郎は眉間に皺を寄せ、目をこすった、例の左手で、だ。
「うん」
「うちわとか持ってない?」
「持ってないよ、俺が欲しいもん」
そう言った健太郎の制服のシャツのボタンは、第3ボタンまで開いていて、それはもうセクシーとかなんだとかを通り越して、ただ、だらしがない人になっている。そうだよな健太郎だって暑いのだ。
「腹減ったなあ」
「そうだね」
「冷やし中華食いたい」
「アタシ、そうめん食べたい」
「あー、いいね」
「あと普通にアイス食べたい」
「今、何時間目?」
「三時間目」
「うわ、まだ三時間目。ウザい」
「四時間目現代文だしね」
「ウザすぎるー」
そう言って健太郎は両手の平で目の辺りをごしごし擦った。よく日焼けしてる、そういえば彼はテニス部だった。ご苦労なことだ。
「今日何曜日だっけ?」
「水曜」
「あー、ウザい」
「水曜日ってウザいよね」
「うん、まだ水曜日かーって感じだわ」
「うん、あと二日も頑張らないといけないんだよね、休日までに」
「死ね、水曜日」
物騒なことを呟いて健太郎はまた机に突っ伏す、と同時にガラガラ、とドアの開く乱暴な音がしてハイテンションなアメリカ人の声がピタっと止んだ。途端に教室はしん、と静まり返り、外から聞こえる蝉の鳴き声だけがやんやんと響いた。
ドアの方を見るとそこには、ラケットケースを背負った清純が立っていた。右手には涼しげな色のうちわが握られていて、左手首には物凄い数のミサンガが結ばれている。驚いた様子のアメリカ人に彼は
「ハロー、ハロー」
と呑気に声を掛け、にっこり笑った。彼は躊躇いもなく自然に、教室の気だるい雰囲気を打ち壊したのだった。
「ハローティーチャー、アイム遅刻、ホスピタル、オーケー?」
そんなテキトーなことを言っている。アメリカ人はオーケーオーケーと清純とは比べ物にならない素敵な発音で言って、彼を席に座るよう促した。様々な人におはよう、を言いながら清純が自分の席へと歩いて行く。そしてアタシの横を通り過ぎる時、みんなと同じ様におはよう、を言って返事をしたアタシの顔を、思いっきりうちわで扇いだ。アタシの髪は生温い風になびき、ふわり、流れる。
教室がざわざわと活気を取り戻す、清純はおはようおはようをオウムのように言っている。ただ、それだけだ。
清純は窓辺に凭れかかって烏龍茶を飲みながら、
「海行きたいなあ」
と言った。夏の夕方って凄く綺麗、アタシはそんなことを考えていた。五時だけど、外は全然明るい。まだまだ暑くて、アタシは何の用事もない放課後、帰る気がしない。あんなに重たそうなラケットケースを背負って登校して来た清純だけど、やっぱり部活行かなーい、そう言って今のいままでアタシと一緒に教室にいる。不純なやつだ。
「清純は元気だね」
「そう?海行きたくないの?海、」
「別に。だるいし、面倒だし」
「なんでさ、海はいいよ、綺麗だし、楽しいし、涼しいし」
「そうかな」
「そうだよ、今度一緒に海行こうね」
アタシが返事をする前に清純は、あとは花火もしたいし、と言っている。
「花火」
「花火、したくない?」
「花火ならしたい」
「え!ホント?じゃあしよう、花火」
「いいよ」
「うん、じゃあ今日ね、今日しよう花火」
「今日?」
「うん、だめ?今日忙しい?」
「暇だけど」
「じゃあ決定!」
「いいけど」
「じゃあ学校の帰りに花火買おう、一緒に買いに行って」
「いいけど」
「で、一旦家帰ってさ、暗くなったら公園に行ってやろう」
「わかった」
清純が烏龍茶のペットボトルを差し出して来たからそれを飲んだ。何故だかえらく冷えていて、美味しかった。清純はにこにこして、関節キスだね、なんてなんでもないことを言って、そのまま音を立ててアタシの唇を吸った。
清純が笑うと、アタシはなんだか心臓の辺りがぼおっとなる。照れてる、というのとは違うだろう。なんだか、幸せ、とか安らぎ、とかそういう言葉が浮かぶのだ。だるい、とぼやいている自分からの劇的な変化だった。
「花火、二人だけでするの?」
「うん、そうだよ」
「寂しくない?」
「寂しくないよ」
「清純、つまんなくないの?」
「つまんなくないよ」
「ホント?」
「俺はがいれば楽しいの」
そう言って笑っている。外では、まだ蝉が鳴いている。
コンビニに花火を買いに行ったら、例のアメリカ人教師がATMでお金を下ろしているところに遭遇した。
「ハロー、グッドアフタヌーン」
楽しそうにそう話しかけた清純に、アメリカ人も大変愉快そうな顔をした。そして英語の授業の始まりの時、お決まりで訊く「今日は何曜日でしょう」という質問をふざけて、かなり丁寧な発音で、清純にしたりした。清純は決して人を不快にさせないし、敵を作らない、どんな人にだって好かれるし、人を楽しませる、アタシは常々そう思う。
「ウェンズディ!」
清純はにこにことそう答えていた。イエス!大袈裟に、アメリカ人は言って笑うのだ。
「水曜日って、だるくない?」
アメリカ人がコンビニを出て行った後、花火コーナーに座り込みながらアタシは尋ねた。花火を真剣に見つめていた清純がふとアタシを見て
「なんで?」
と簡単に訊き返した。
「まだ水曜日かあ、とか、思わない?」
「思わないけど」
「休みに早くなってほしいなあ、って思わないの?」
「思わないよ。全然」
「なんで?」
「俺、学校好きだもん」
「あ。ほんと」
「だって学校行かないとに会えないしさあ」
そう言って清純は線香花火を買物カゴに入れた。
「そうだ、ばいばいのちゅーをしよう」
コンビニを出て別れ際、提案して清純はアタシに唇を押し付けた。外はまだ明るい、でも、蝉の声は聞こえなくなっていて。蝉って眠るのかな、立ち止まったままそう考えているとアタシと反対方向に歩いていた清純がこっちを振り返りながら手を振った、また後でねー、って、にこにこ笑いながら。
憂鬱な水曜日、清純が笑う、それだけで私は嬉しくなって、清純がいれば何曜日だって乗り越えられるかもしれない、そんなことを考えた。
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2007.6.10/2014.6.11加筆修正
キヨ本誌再登場おめでとう企画に献上