たまに。お酒を飲みたいと思う時がある。



    春宵



 それはひどく突発的で衝動的で、なにをしたから飲みたいとかなにがどうだから飲みたいというのではなく、ただなんとなく。飲みたいと思うのだ。
 実際は、健全な中学生である私はお酒なんて飲んだことないからその味がどうかなんて知らない。あのおいしいものをまた飲みたい、だなんて私は決して思っていないだってアルコールは私にとっての未知である。ただCMなんかを見る限りその未知の飲料はコーラやオレンジジュースなんかよりずっと、攻撃的でおいしいのだろうなというイメージが漠然とある。赤い液、青い液、黄色い液、泡立っていたり底の方から気泡がふつふつ沸いてきたりとか、きっとそれらは甘く冷たく喉を潤し、私を満足させてくれるのだ、と私は思う。
 飲みたい、というか飲んでみたい。そう思うと止まらなくてとりあえず家の冷蔵庫を開けてみたり、私はした。だけど中にはビールしかなく、私は怒り狂うわけでも悲しみにふけるわけでもなくただため息を吐いて冷蔵庫を閉めた。つまり私が求めているお酒はビールではないのだ、かねがね苦いという噂を聞くビールではなくチューハイ。あの、一見炭酸飲料と変わらない缶の、きっと甘いであろうお酒。私はそれを求めている。
 自宅にチューハイはないと知ってもまだ止まらぬ私は、いそいそと財布を持って家を出た。真っ直ぐ、なんの迷いもなく近所のコンビニへ行きほんわりとあたたかい店内の、飲料売り場へ向う。ただ真っ直ぐに、ただ一心に。
 ガチャリという冷蔵庫に似た音を立てながらガラス扉を開くと、すう、と冷気が顔に当たった。玄関のドア二枚分ほどのスペースにアルコール飲料が売られていたが、その半分はビールであった。だから私は目の前に立ちはだかるドア一枚分のビールではないアルコール、チューハイと呼ばれるらしいもの達をしばらくの間眺め、そして結局は大して悩みもせずに一番おいしそうだと思ったチューハイの缶を一本だけ手に取り、レジに向かった。缶は手の平の中でなかなかに冷たい。パッケージには桃と、ソーダを思わせる水色の液体のイラスト。飲みたい、という気分はその時最高潮になっていて、口の中で唾液が溢れた。
 カウンターの中の。レジ打ち担当は優しそうな、母親みたいなオーラを放つ中年女性でありチューハイの缶を、一本どん、とカウンターに置いた私をじ、と見つめ幾分も驚いた様子を見せず
 「あら、おねえちゃんいくつ?」
 と尋ねてきた。私はわけがわからず次の学期から三年生ですと事実を告げた。中三です、春休み明けにはばりばりの中三です。最高学年なんです、受験とか色々あるんです。あと一年で卒業です、さようなら。そんな感じで。
 店内は静かで、私と柔らかな店員しかおらず、レジが一定の間隔でピ、ピ、と鳴る音だけがやけに大きい。耳を塞ぎたくなった。
 「当店では未成年の方にお酒とお煙草はお売りできないんですよ」
 カウンターに貼ってある、「未成年の飲酒喫煙は法律で禁止されています」というシールを無駄に瑞々しい指でなぞりながらその女性中年店員は柔らかに言った。棘のひとつもなく、ただただ愛想よく、マニュアル通りに。私はひとつ、間を置いてから
 「あの。親に買って来いって頼まれて」
 と嘘を吐いた、とても困った様子を装って。例えば私の両親が鬼のような生き物で、春休みでおくつろぎ中の娘の尻を叩き、コンビニで缶チューハイ一本を、いますぐ買って来いとか言うのだとでもいうように。けれど店員は私より一枚か二枚上手であって
 「じゃあご両親に確認しますから、電話番号教えてもらえますか?」
 と笑顔を作り、こなれた様子でそんなことを言う。私は心臓が途端に大きく脈打ちだしたその音を聞き流しながら、じゃあいいですとかもごもご小声で言って店員に缶を押し遣り店を出るしかなかった。ごめんねーありがとうございましたーという店員の声が、背を追った。
 私の、もちろん鬼でもなんでもないただの普通の両親はお酒をたしなむ、ほぼ毎晩、夕ご飯の時なんかに、少量を。けれどふたりは至極まっとうな、立派な親であり子どもが、未成年の子どもが飲酒をするなんてことを許さない。そんな人達に電話をしたって話を合わせてはくれないだろうし、酒を買おうとしたことがばれたら私は彼らに怒られるか捨てられるかするだろう。私がもうすぐ中三になるというのにお酒を飲んだことがないのはそのせいだった。飲酒はだめ、もちろん煙草もだめ、中学生のうちは友人宅へ泊りに行くのもだめ、門限は18時。ふたりはいい両親だろう、きっと私はまともに育つ。けれど私の周りでは。気軽に誰かの家へ泊りがけで遊びに行ける私の友人達は、お正月や誕生日には両親黙認の下いくばくかのお酒を飲んでいると言う。それとも友達の家に何人かで集まった時に、こっそり飲み会みたいなことを開催したりだとか。だから同級生達がちょっと悪ぶってお酒の話をしはじめた場合、私は話について行けないいつもいつも。時々、飲んだことないの?、と驚かれさえする。今度じゃあ泊りにおいでよとか彼女らは言う、私は外泊が許されていない旨を告げる、彼女らはそれはそれは、と同情に満ちた目で私を見る。私はそういう時、まともな両親を尊敬しているにも関わらず誇らしくはなく、すこし悲しい。

 コンビニ店員は法律を守っただけだというのになぜだか迫害でもされたような気分でてくてく、自宅ではない方向へ歩いていた私は、気付いたら仁の家の前にいた。被害者意識でいっぱいになりながら。それなのに。お酒。とい文字は私の頭の中にこびり付いて離れない。
 お酒。お酒。お酒。家に求めた酒もなく、それをどこかで買うことも許されない私は、どうしたら念願のお酒が飲めるのかと考えていた。そして目の前には仁の家。未成年、飲酒、不良、つまり仁。方程式は簡単にできた。仁の家に行ったらきっとお酒なんてわんさかあるし、仁はいつだって酒を飲んでるんだろうという勝手なイメージが一人歩きし加えて私の足までも動かしはじめ、私は彼の家の玄関前に到着している。インターフォンを、そう思って右手を伸ばした時、ためらいは生まれた。
 チャイムを押して、もし仁が出なかったら?それならまだいい、私が帰ればいいだけなのだ。チャイムを押して、もし仁が出てきて、嫌な顔をしたら?どうしたらいいのだろう、帰ることも入ることもできない。チャイムを押して、もし仁が出てたけどそこには既に別の友達なんかが来ていたら?どうしようもない、タイミングが悪いと口に出さずとも彼らは思うだろう。まずもって。連絡もなしに仁の家を突発的に訪れてしまった、そのことが間違っているのだ。しかも理由が酒を飲ませてくれだなんて、無礼極まりないだろう。いい顔されるわけがない。そこに友人達がいたのなら更に、なんだこいつみたいになってしまうだろう。
 けれど酒は飲みたい。でも仁の反応はたかが知れている。自分の非礼もわかっている。でも飲みたい。お酒はすぐそこ。目の前にはチャイム。押すか押すまいか、悩む私。まず携帯にメールでも入れてみるべきだろうか?、そう思いながらそれはそれでまどろっこしい気がし、インターフォンの下の、無機質な壁を利き手で撫でている、ざらり。
 「なにしてんの」
 ぎゃあとか。突然の声に叫びそうになった私の、首と顔に後ろから腕が巻き付けられた。それはあたたかく、仁のにおいがした。
 決してそんなかわいげのある仕草ではなかったのだが形としては「だーれだ」、の状態であったから 仁だよね?と訊くとうん、という返事があり、腕が解かれる。振り向くと返事の通り、そこには仁がいる。今しがた起きたばかりのような眠たそうな目を持った、今すぐにでも眠れるような格好で、今さっき買ってきたようななにかこまごましたものの入ったコンビニの袋を提げた仁が。
 「お前めっちゃタイミングいいな」
 彼は言い、ビニール袋の口を開いて中身を平然とこちらに見せてきた。こまごましたそれを、私は煙草かなにかだと思っていたのだが。中にあったのはジッポの石、ミント味のガム、そして避妊具。なんだか。酒を飲みたいその一心を乱すことなくここまでやって来た私の調子が、仁によって狂わされていく。
 「私、お酒飲みに来たんだけど」
 寝ぼけているのか。なぜだかこんなところでキスを求めてくる仁を気恥ずかしくてかわしながら私は説明した。酒か、と仁はひとりごちてキスを諦め家の鍵を開けると、首を傾げて私が中に入ることを許諾した。マジか。そう思いながら私はのこのこそこへ入っていき、リビングへたどり着き、ソファなんかに座っている。さきほどの玄関先での躊躇は一体なんだったのかというくらい、あっさりと。
 突然お酒が飲みたくなってさあ、飲みたくなって、とかかっこつけて言ってるけど飲んだことないんだけどね。だから、飲んでみたいなあってずっと思ってたの今日。そんなことを私は口走り、仁はというとふーんなんて言いながらビニール袋をテーブルの上に置いてキッチンの方へち行ってしまった。音のしない彼の歩き方を見ながら私は、先ほどチューハイを買いにコンビニへ行ったのに店員に断られたことを報告している。
 「変だよね仁は煙草とか普通に買ってるのに」
 「お前注意しやすそうだもん」
 人を見てるってこと?、納得のいかない私はそう尋ね、キッチンから戻ってきた仁はそれを無視し、あった、と目の前のローテーブルにチューハイの缶をことんと置いた。お酒。お酒。念願の、渇望していた、チューハイ。もはや神々しくすらあるその缶にコメントさえすることができず、ただ黙って眺めている私を仁は笑い、どっさりと隣に座りこんだ。
 「飲めば」
 「いいの?」
 仁は欠伸をしながら頷いた。目の前の缶に手を伸ばす。それはコンビニの時と同じように、冷たさが手の平を抜けてくる。
 「なに味?」
 「レモンって書いてあるだろ」
 「そうだけど。具体的にいうと」
 知るかよ。飽きれたように仁は言って私の手から缶を奪い、さっさとタブを開けて一口、それを飲んでしまった。
 「あ」
 「お前が全然飲まないから」
 もう一度口を付けた後、やっぱレモンだわ、と仁が言っている。
 「いや、飲む。飲むから」
 なぜだかキスを求めてくる仁を、気恥かしくてかわしながら私はそう訴えている。
 「口移しされたい?」
 本気とも冗談とも取れない、表情と口調で仁は言った。しかしながら高圧的に。遠慮します、と私はそれを完璧に断り今日ずっと求めてきた、仁の持つ酒の缶にに手を伸ばしている。それなのに仁はその腕を、どうにも私の手の届かない所へ伸ばしてしまう、遠く遠くへ。あれを奪い返すには私は、仁の体の上をまたがなければならないだろうそれとも、魔法使いにでもなるとか。
 「
 「なに?飲みたい」
 「俺今日誕生日」
 「は?」
 うそでしょ?私は怪訝な顔をしていただろう、仁の腕の先にあるチューハイへ手を伸ばしながら。うそうそうそ、そう繰り返すも仁は、めずらしいことに優しく笑い
 「うそじゃねえよ」
 なんて言うのだそんな風に。綺麗に笑われても、困りますやめてください!という感じだった。
 「えっと。私、なにもないんだけど」
 プレゼントとか?と呟く。仁はというとまるで落ち着いていて、知らなかったんだから当たり前じゃんなんて言い高く掲げた腕を下ろしていた。私の、お酒に対する情熱がへなへなに消えていったのを見抜いてのことだっただろう。
 「うそうそ、信じらんない」
 「なんで」
 「だって。仁に誕生日なんてあったんだ?」
 仁は。本日15回目の誕生日を迎えたらしい仁は私の隣で、憧れの缶チューハイを飲んでいる。それで缶から口を離して、ありますよーなんて言ってふざけて。
 銀色の髪がふわふわと揺れ、缶からだろうか甘いにおいが広がっている。私は唐突に自分に嫌気が差し、仁にごめんね。をたくさん言っていた。誕生日知らなくてごめんね。そんな時にお酒なんかをねだりにきてごめんね。なにも用意してなくてごめんね。付き合って一年は経とうかというのに今まで一度も、誕生日も訊かなくてごめんね。仁は、連呼されるごめんねを全て華麗に受け流しそれでまた、酒を飲んでいる。
 「どうしよう。仁、プレゼントなにがいい?」
 「え?いらないんだけど」
 「え?なんで」
 「そういうつもりで言ったんじゃない」
 「でも、だめだよだって私は誕生日に仁にプレゼントもらったし」
 「そうだっけ?」
 と彼はそんなこと、あまりにどうでもいいという顔をして訊き返してくる。そうだよ嬉しかったよ、私は言い、それはよかった、と仁は言った。確か誕生日当日だって、喜ぶ私に仁はそう言ったのだ。それはよかった、まるで他人事のように。
 「仁、なにかないのほしいものとか」
 「だから、いいってそういうの」
 「あげたいんだもん」
 「俺さあ」
 誕生日にが呼んでもいないのに家に来たからそれでいい、と仁はロマンチックさのかけらもなくまるで、子供を諭すかのようにそう言った。そういう甘ったるい台詞で満足してくれとでもいうように。私の心みたいなものはぎうと縮まったかもしれない、それで熱く熱く、揺さぶられたかもしれない。けれどそれで満足してしまったら私は、私は結局施されてばかりなのだこの仁という男に、自分の好きな男に。
 でもさあ、と反論をはじめようとしたまま言葉が出てこなくなった私を見兼ねてか、仁は呆れたようにはあと息を吐いた。そしてまた酒を呷り、私に唇を押し付けてくるのだ。でもさあの「さあ」で半開きだった私の口の中に、さらりと少量の液体は、流れ込んできた。
 味なんて。味なんてそんなものわかるはずがなかった。炭酸?その刺激みたいなものも感じられなかった。私はただ、耳の奥をきりきりと痛めている。
 「言って」
 「なにを」
 「俺。誕生日なんだけど」
 「あ、誕生日、おめでとう」
 操られるように言葉を口にすると仁はまためずらしいことに、優しく笑った。そしていつも通りに、ぎゅう、と眠たそうに伸びをして
 「来年楽しみにしてる」
 と言葉を紡いだ。来年の今頃はというと私達は中学校を卒業して、もしかしたら高校は離れ離れになっているかもしれないのにそれとも、未来なんてわからないものなのだからもっとひどいことが起きているかもしれないのにそれでも一年後も、一緒にいるのだという約束を、当然のように仁が、口にしている。







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2006.4.3/2014.10.3加筆修正
お誕生日に書いたもの