取り残された、そんな気がした六時間目。数学教師が教科書を開き、いくつかの問題を黒板に書きだしていき、解いてみるようにと私達に訴えた六時間目。私は、恐らく難易度が一番低いであろう設問1でさえ、解き方すらわからないままその授業を過ごすはめになった。周囲を見渡すと私のクラスメート達というのは、もうすらすらと問題を解いているように私には見えた。事実、授業終了10分前に教師が何人かの生徒を当てて解答を尋ねた時、みな一様にすらすらと、答えを述べたりしたのだった。私はひとり、もうすぐ期末テストがあることを思い出している。
 放課後、夏で部活を引退した今 以前よりは忙しくなさそうである景吾は私を教室まで迎えに来て帰宅を促したが。私は自分の席についたまま動かない。




利用





 「ねえ景吾、数学教えてよ」
 「ああ?それが人にもの頼む態度かよ」
 その願いが快諾されないことは承知していた。景吾という男は簡単に人に物事をお願いする人間を嫌うのだ。けれど私は彼以外に、自分の願いを告げられる人を知らない。
 「お願い、本当にやばいんだもん、助けて」
 「なんで」
 「今日最後数学だったんだけど。ひとつもわかんないまま終わって」
 「最後に答え教えられただろ」
 「うん、でもそれを聞いて理解できるようなレベルに至ってなかったみたいで」
 だから教えて。私はまたそう頼んでみるが。
 「知らねえよそんなの。自力でやれ」
 そんな冷たい返事が返ってきた。それがただの愛くるしい意地悪であるのをわかりつつも態度を改めてお願いしてみようか、一瞬そう考えたが。弱い立場にいる私を冷たくあしらってその反応を見ていたいだけの彼に、お願いします数学を教えてください、と頭を下げるのもなんだか癪で、私はそれをしない。だって。
 「あたし景吾の彼女なのに」
 「彼女だったらなんなんだよ」
 「わかんないけど。でも彼女がばかでもいいの?」
 「うるさい」
 「頭悪い彼女の彼氏が頭いいんだったら、教えるべきじゃん普通」
 「うるさいって」
 お願いあたし高校行けなっちゃうよ?すがるように言ってみると彼は、はあ、と大きくため息を吐いた。あと少し。
 「景吾と同じ高校行きたかったなあ」
 「ああもう」
 景吾は舌打ちをした。私は少しだけ、不安になっている。甘えすぎただろうか、とか。けれど景吾は数秒後、しかたねえな、と心底苦い顔をして呟いたので。私のお願いは受理されたようだった。景吾の彼女になると得だなあ、私は嬉しさのあまりそんなことを言い、景吾は
 「利用してんのかよ」
 と、不機嫌な声を出した。そこにはあの愛くるしさはなく、私は表情をこわばらせただろう。
 「えっと。そんなつもりで言ったんじゃないけど」
 「あっそう」
 言い放つと彼は目を閉じてため息を吐き、面倒くさそうに近くの椅子を引っ張ってきて、私の正面に座った。その時の表情はもう、いつも通りになっていて。私は反省しつつも深追いをしない。

 「あのね、あたしまず56ページからわかんないみたいで」
 教科書を取り出し、景吾に向けて56ページを開いて見せる。押さえていなくても開いていられるようにと、見開きの真ん中を手の平でこすっている私に
 「ばかじゃねえの」
 と景吾は吐き捨てた。
 「ばかだから教えてもらってるんじゃん」
 私はめげずに言いかえし、景吾が眉を寄せている。その、眠っていたところを起こされた猫のような表情のそれでも、美しいこと。私は景吾を前にいつも緊張している、緊張しているが、甘えたいし、わがままを言ってみたいし、お願いもしたい。そして時々、王様みたいにふるまう彼に、反抗したくなる。
 「ねえ景吾って短気だよね」
 「なんで」
 「だって怒ってるじゃん今」
 「怒ってねえよ」
 「怒ってるよ、絶対」
 「うるせえよ」
 「なにそれ」
 「は」
 「こわい」
 結果、私達を重たい空気が取り囲む。けれど今度は私が彼の様子を気にするというよりも彼が私の、こわいという発言を思慮しているような。つまり私の機嫌をとるべきか景吾が、王様みたいな景吾が考えているのだそれは、私の勝利なのだろうか。
 「悪い」
 めずらしく謝った景吾に。
 「別にいい」
 強気になった平民の私は、さらにそんな言葉を吐いた。
 「
 景吾がそう言ったが。私は既にくせがついてぱっかり開くであろう教科書をまだ、黙ってこすり続けていた。お前なあ、正面に座った彼が呆れた様子で額を掻いている。私はそれも無視をする。
 「無視すんなよ」
 そう言った彼に顔を覗き込まれ、それはやはり美しいが。けれど笑っていないし意地悪をするような顔でもなく、こわいって、と私は思っている。いい加減怒ったかな、また反省をしはじめようとした私の元へ彼の、長い指が伸びてきて次に、耳に痛みが走った。
 なにかが裂けるような、そんな激しい音が耳の奥で鳴っていた。そして痛い。ちぎれそうなくらい。なにを思って私の耳を引っ張っているのか、王様の気持ちは平民にはわからなかった。痛い。
 「痛い痛い、ちょっとそこまでしなくても、」
 そして私はさらに耳を引っ張られ、強引に景吾に引き寄せられ、キスされる。耳痛い。顔赤い。やっとその手を離された時私は目のふちを潤わせていたことだろう。それを景吾が眺めている、頬杖なんてついて。
 「もうなんなの?痛い」
 「ご利用は計画的に」
 ぶっきら棒に。大変不満そうに景吾が呟いた。根に持っていたとは。
 「だから。利用してないって」
 「ちゃんと返済しろよ」
 機嫌はころりと変わり景吾はいつもの、意地悪をする時の顔に戻ったが。その時にはまた、私は反省をやめていてそして、強気になっているし反抗心を芽生えさせている。また無視すんのかよ、舌打ちしそうな景吾の。
 私は耳を引っ掴んで彼の、唇にキスするふりをしてそこに、がぶりと噛み付いてやった。
 「いってえ」
 彼のその言葉に、優越感。







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2014.6.29
最終更新が2007.4.1のもの、加筆修正