「いいんですよ」
本当に申し訳なさそうに頭を下げ続ける彼の母親にそう答えた時から、私達の方向性は決まってしまったのかもしれない。ご迷惑をおかけしましたすみませんと、何度も何度も玄関先で繰り返す母親の横、その息子である仁は悪びれる風でもなく立ち尽くしていた。
林檎
きっかけは転勤によってこの地に越してきたばかりの私が、食料品の買い出しから帰ってきたある夜のことだった。引っ越して数日、初めて行ったアパートから徒歩10分にあるスーパーはとにかく激安が売りで騒がしく、やれタイムセールだおひとり様一点限りだというアナウンスや周囲のマダム達のせわしなさに完全に流されてしまった私は、彼氏もいない一人暮らしのしがないOLだというのにも関わらず、ぱんぱんに膨れたビニール袋三つを下げて帰路についた。引っ越したてですっかり忘れていたが暗闇で私を待ち受けているのはそびえ立つまだまるで馴染みがなく、そしてエレベーターなしのアパートで、私の部屋は四階だった。やれやれ私はなにを大はしゃぎしてしまったのだろう。一本10円(御多分に漏れずおひとり様一点限り)の大根だなんていつになれば食べ終えるのかわからないし、お味噌だって安さに浮かれて特用サイズを買ってしまったが、使いきれずカビが生えだすのが目に見えている。それにお米3キロを買うとついてくるりんご!なんて赤くてかわいいのだと思ったけれど私はりんごなんて食べない。これからしばらくはコンビニ弁当に頼らず毎晩自炊を頑張らなければならないだろう、朝ご飯と、お弁当も作って消費しなければ間に合わないかもしれない。なんにしても重い。これから階段を四階までひとりで登らなければならないのかと思うと、気分もまた重かった。
「手伝う?」
二階までまだ半分もあるところでさっそく力尽き、荷物を下ろしてふうふう言っていたところに、後ろから声をかけられた。なんて親切な人だろうでも馴れ馴れしいなと振り返った私の目に飛び込んできたのは真っ白な制服を着た真っ白な髪の学生で、どうせ近所の暇なおっさんかなにかであろうと油断していた私は驚いて一瞬黙り込んでしまった。まだ若い、男の子と呼べるような風貌の彼は黙り込む私を見上げて、どうする?とでも言うように首を傾げた。えーっと、私はたじろぎ、何階?と彼はまた尋ねた。
「ありがとう、四階」
「あ、この間引っ越してきたひと」
彼は私を上から下まで見て納得いったように呟いた。ああ、うんよろしくお願いしますと私はここ数日アパート住人や転勤先の同僚や上司、大家さんや不動産屋さんに何十回と言い続けてきた台詞を彼にも言い、彼がビニール袋を二つ持とうとするのを制止した。
「一つでいいよ、重いから」
「重いから手伝ってる」
「そっか、じゃあこれ持ってよ、お米入ってる」
容赦ねえな、彼は笑い、重量3キロを超えるビニール袋を一つ持つことを了承した。おうち何階なの?もし二階の住人であったなら悪いなと思い私は歩き始めながら尋ね、俺たぶんおねーさんの隣、と彼は答えた。
「ほんと?403?」
「ううん、405」
「え?」
初日に両隣の部屋に挨拶に行った、安い菓子折りを持って。403号室は家族連れが住んでいるような雰囲気で、私が立ち寄った時は50代くらいの、なんの変哲もない主婦が出てきてゴミ出しの方法がどうとかポストの施錠がこう、あとはアパートのボス的存在へ挨拶に行った方がいいだとかもう色々とお世話をしてくれた。隣に住むと言うからきっとこの少年はあの人の息子なのだと思ったが、反対隣だという。その405号室というのは初日にチャイムを鳴らしても誰もおらず、翌日仕事へ向かう前に出直すと化粧もしていない若い女性が眠そうな顔をして出てきて、私は彼女の安眠を妨げたような気になり申し訳なくなりつつも、隣人が若い女性であることに少し安心もしたのだった。あの時間に眠っていたのだから夜に働いている、独身女性だとばかり思っていた。じゃあこの少年は一体?混乱する私の後ろから彼が
「あれ母親」
と私の全てを見抜いたかのように告げた。よかった未成年の恋人でも囲ってるのかと思ったよー私は思わずそんな不道徳な感想を述べてしまい、男の子は短くだけれど笑った。
「いいね、若いお母さんだ」
「そう?」
「そうだよ、損はしないよ。ここって家族で住んでる人多い?」
「たぶんほとんど」
「そっか私場違いだな」
「ひとり?」
「そう、超独り身」
「めっちゃ食うの?」
その質問が、私のビニール袋を見てのことだと気付き、私は笑ってしまった。あそこのスーパーすっごい安いんだもん、でも賞味期限短いって言うよ、そんな会話をしながら私達はなんとか四階まで登り、404号室、私の部屋の前に到着した。袋を提げたままポケットから鍵を出そうとしてもたもたする私を見て、彼は黙って私の袋を取り上げた。ありがと、言いながら私は開錠に成功し、玄関の中まで彼が袋を入れてくれる。
「助かった、重かったでしょ」
「大丈夫」
「あ。待ってお礼にりんごあげる」
「りんご?」
りんごりんご。私は呟きながらお米の入っている袋をあさり、真っ赤なりんごを取り出した。ね?差し出したそれを彼は受け取ったけれど、不思議そうな顔でまじまじとそれを眺めていた。
「もしかして嫌い?」
「嫌いじゃないけど」
「よかった。私嫌いなんだよね」
「いらないものお礼とか言って渡すなよ」
「あ。ごめん、でも誰かが食べたほうがりんご冥利に尽きるっていうか」
「じゃあ剥いて」
「剥けないの?」
「包丁使えない」
「お母さん今日いない?」
「いない」
「お父さんは?」
「それは昔からいない」
りんごを眺める彼をなんとなく不憫に思ったのは彼が当たり前のように母親の不在と父の以前からの不在を告げたからだった。午後7時の夕食時に。そっかそっかと私は言い、じゃあ上がってってよ片付いてないけどさと簡単に言った。うん、と彼も簡単に頷き、玄関に置いたビニール袋を再度持つと靴を脱ぎ、私に従ってまだ段ボールの片付いていないリビングまでついてきた。置いといていいよー、私はキッチン横に袋を置かせて、彼を段ボールに囲まれたソファに座らせた。
「お母さん結構忙しい?」
「うん」
「包丁使えないんでしょ?ご飯どうしてるの?」
「作り置きあったりとか」
「うん」
「金置いてあってどっかで買ったりとか」
「ああ」
わかるよ。私は言い、そう、と彼は呟いた。まだ不慣れで調理器具もまともに出していない殺風景なキッチンで、りんごを洗う。全体として水圧が弱い。引っ越して一番最初に発見したこのアパートの欠点はそれだった。シャワーの勢いもないし、湯船にお湯を張るにも時間がかかる。食器を洗う時にも柔らかな水流しか生まれない。りんごのワックスはその水流の中私に擦られ、じんわりとだが落ちていっただろう。包丁を見つけ出し皮を剥いた。面倒なので皮はシンクに落としたままだ。後で捨てればいいだろう。テレビ見てもいいよ、こちらに背を向けてただ座っている彼に声をかける。彼はテーブルの上のリモコンをすぐに発見し、電源を入れた。見慣れたバラエティが始まっていた。私は足元の段ボールからまな板と平皿を発掘する。
「ごめん冷えてないけど」
そう言ってりんごをリビングに持って行った時、煙草吸っていい?と彼は私を見上げた。灰皿まだ出てきてないんだよね、と段ボールを指差す私を見て素直に頷く彼を見てなんだかかわいそうになり、ごみ箱をあさって今朝飲んだコーヒーの缶を取り出すと丹念に洗い、少し水を入れてリビングに持っていってやる。ありがとう、と言って煙草に火を点ける彼を見て満足したが、そういえば未成年だったなとすぐに思い出す。
「不良だね?」
口から出たのはそんな感想だった。彼は困ったような顔をして私を見上げ、煙草吸わない?と私に訊いた。
「吸わないから灰皿まだ出してないんだよ」
「彼氏が吸うの」
「いないよ。友達に何人かいるから」
「ああ」
「でも引っ越しちゃったし、もう使わないかも」
「遠くからきたの」
「うん。飛行機乗れるくらい」
「寂しい?」
「どうかな。転勤あるからこの仕事選んだし」
「ふうん」
「りんご食べてよ、お腹減ってない?」
「減ってる」
「でしょ?いっぱいお食べ」
なんか飲む?うん。私はまたリビングを離れ、キッチンの冷蔵庫を開けてみる。けれど中身は殆ど空っぽで、ああだから買い物に出かけたのだったと思い、ビニール袋を見分する。お米3キロ。りんごはもうない。立派な大根が一本。安すぎるもやし。乾麺。冷蔵庫やキッチン下の引き出しにそれぞれをしまいながら、インスタントコーヒーと紙パックのオレンジジュースを発見し、どちらを出そうか迷ったがケトルをまだ段ボールから出していなかったので食器棚からグラスを二つ用意し、オレンジジュースを注いだ。彼は煙草を吸い終え、爪楊枝で刺したりんごを黙々と食べていた。
「おいしい?」
「食べる?」
「食べないよ嫌いだもん」
「だよね」
「オレンジ飲める?」
「うん」
「すごいよね。フルーツ感が」
「うん」
「りんご。似合わないね」
「俺?」
「煙草の方が似合うよ」
「うん」
「ねえモテるでしょ」
りんごをかじっていた彼はなんだろうという顔をして私を見た。だってかっこいい顔してるよ、と私は褒めたのだけど、嬉しくない、と彼は言った。なんで?だってばかにしてない?してないよ。そんな会話をしたのだけれど彼は納得しなかった。恐らく年上にイケメンだとかかっこいいとかかわいいとか、言われたって思春期の少年少女は腑に落ちないものなのだ。私だってきっとそうだった。年上だからって余裕ぶっこいてとりあえず人のこと褒めてんじゃねえよとか思うものだ。本心だよ。私は付け加え、何言ってるかわかんねえよさっきから。と彼はうっすらと笑った。
彼はりんごを食べ終える。そしてまた煙草を吸う。テレビでは同じくバラエティ番組だ。私は空腹を覚え始める。ご飯食べる?訊いてしまってからいいのだろうか、と思った。さっき彼は母親が大体の場合不在で、ひとりで夕食を摂ると言っていた。もし私がここで彼に食事を与えたら、彼の母親が作った夕ご飯は無駄になってしまうのではないか。お金が置いてある日であったならまだいいが、大体において我が子が引っ越してきたばかりでなんの親交もない隣人に夕ご飯を食べさせられたと聞いて、良い思いをするだろうか。食べる、と言う彼の返事を聞いてから、おうち大丈夫?と私は言った。
「なにが?」
「お母さん。作ってくれてたんじゃない?」
「どうだろ」
「さっき帰ってきたの?」
「うん」
「鞄も持ってないけど」
「置いてきた」
「学校に?」
「うん」
「わ、やっぱり不良だね?」
「そういうのいいから」
「一回おうち見てきたら?」
「なんで?」
「お母さんがなにか作ってくれてたらそっち食べて、なかったらうちきなよ」
「ええ。だるくね?」
「隣じゃん。見てきなよ」
ね?私は促し、座る彼の腕を強引に引っ張った。彼は私の力では微塵も動かない重さと力を持っているようだったが、やはり他人の家で初対面の私相手だからだろう、しばらくすると自力で立ち上がり、煙草をくわえたまま部屋を出て行った。私は空になったりんごの載っていた皿を下げ、キッチンで洗い、しゃがみ込んで「きっちん」「おさら」と書かれた段ボールを開いていった。せっかくスーパーに行き食材を買ったのだから今日から自炊を再開しなければならない。足の早いもやしから食べよう。「おさら」を食器棚にしまい「きっちん」の中から調理器具と使いかけの調味料を取り出しコンロの周りに並べていった。先ほどのスーパーの袋をごみ袋にし、シンクに入っていたりんごの皮をまとめて捨てる。もやしと乾麺を思い出し、ラーメンが食べたくなった。お湯を沸かそうか。けれどもやししか消費できないのはばかげている。そう思っている内にチャイムも鳴らさず彼は戻ってきて、千円あった、と私にそれを見せつけた。つまり私は二人分の夕食を作ることになる。インスタントラーメンはまずいだろう。
中学生?うん。学年は?三年。へえ、楽しい?全然。部活は?テニスやってたけど。辞めちゃったの?半ば辞めてる。あ、いい日本語使うね。おねーさん変。そう?初めて日本語褒められた。褒めるよ中学生がなかば、とか使ったら。めっちゃなめてるじゃん。なめてないよ私中学生の時ただのばかだったもん。ああなんかそんな感じする。ええ、そういうの感じないでいいよ。仕方ないじゃん。お母さんお仕事遅いの?11時くらい。遅いねーなにしてんの?接客。接客って、おおざっぱだね。おねーさんは?えー秘密だけど。秘密なんだ。うん、まあ大したことしてないよ。だろうね。だろうねってなに、ひどくない?ごめん。謝るんだ、かわいいね。うわ、それほんと嫌い。ごめん年とるとなんでもかわいいとか言っちゃうから。年じゃないじゃん。学生終わったら年だよー。そうなの?そうだよ、ご飯おいしい?おいしい。名前は?あくつじん。あ、そっかそういえば亜久津ですってお母さんに言われたっけ。おねーさんは?私、おねえさんって呼ばれてるの好きだなー。じゃあ訊かない。
仁と名乗った中学生は私の作ったもやし多めの夕食を綺麗に食べ、オレンジジュースを飲み、煙草を吸った。私が質問をすればそれなりに答え、あまりに無礼な態度をとることもなく、図々しいことも言わず、大人しくしていた。一応お母さんにご飯よそで食べたって連絡しておけば?私は食器を片付けながらそう促し、おかあさんおかあさんうるさい、と仁はソファからわざとらしく子どものような態度で笑った。
私は楽しかった。知らない土地に引っ越してきて数日、近隣住民とは挨拶程度、職場にもまだなじまず、久しぶりにまともに誰かと喋ったような気がした。もちろん相手が中学生であるのはわかっていたけれど、仁という子は妙に落ち着いており大人っぽいことも時々言うので、会話をするのに不足はなかった。その心地よさがいけなかったのだろう、彼が隣人であるのも重なり帰った方がいいんじゃない?と伝えるのをすっかり忘れていた。午後10時半、唐突に彼の携帯が音を立て、ソファに座って喋っていた私達は顔を見合わせる。
「電話だ」
「うん」
「出なよ、友達?」
「うん?」
彼は制服のポケットから携帯を取り出し、画面をちらりと見た。それで、今日早いなと呟き電話に出た。バラエティがクイズ番組になったテレビの音で電話の向こうの声は聞こえなかったが、彼が一言「隣のおねーさんとこにいる」と言ってすぐ、向こうが通話を終了させたらしい。切られた、と仁が笑っている。ピンポーン。ものの数秒で我が家のチャイムが鳴った。
「いいんですよ私が引き留めてたっていうか」
そんなわけで私は、頭を下げる彼の母親に対応している。遅くまでほんっとうにすみませんうちの息子がもう、お邪魔して。明日もお仕事でしょうに、ご夕飯まで。そんな風に謝る彼女は今日は化粧をしており、一段と若さが際立っているように見えた。とても中学生の母親とは思えない。私は彼が私の荷物を運んでくれたことや、結局私がだらだら話し込んで引き留めてしまっていたこと、中学生と知りながら家に上げたことを告げ、彼女と同じように謝った。そのたびに彼女は更に謝り、謙遜し、若い女性の一人暮らしの家に上がり込むんじゃないと、我が子を叱った。
「もう、ごめんなさい。失礼しました」
「いいえこちらこそ、楽しかったので謝らないでください。私も悪かったので」
「また来てもいい?」
私と彼女の謝罪の応酬の中、彼女の隣で完全にぼんやり立ち尽くしていた彼が唐突に言い、こら、と小突かれるのを見て笑ってしまった。いいよおいで、と私は答えてしまい、いえいえご迷惑でしょうから、と彼女が恥ずかしそうにしている。
「灰皿。俺が使うから出しておいて」
こんな隣人ですけどよろしくお願いします、と私達が言い合い、遂に解散が見込まれた時、仁はそう言って去っていった。人様のお宅で煙草吸うんじゃない!と彼女はその背中に投げかけたけれど、隣のドアがばたりと閉じる乾いた音から察するに多分それは届いていなかっただろう。遅くにすみませんでした、おやすみなさいと言う彼女に挨拶を返し、私は玄関の扉に鍵を閉めた。ふっと眠気に襲われる。脱衣所でシャワーを浴びる準備をしていると隣から小さく物音が聞こえてくる。彼氏さんに悪いでしょ。彼氏いないって。そんなの社交辞令でしょ。そんな会話がうっすらと聞こえ、私はひとり笑うしかなかった。
仁は言葉通り、しばらくするとまた私の家にやって来た。学校帰りのまだ彼の母親が帰ってきていない時間に。私は彼を受け入れ、彼の家にご飯がなければ同じように夕食を提供した。そして渋る彼をなんとか促し、一言母親に私の家にいると前もって連絡を入れさせるようにした。彼の母親は言葉通り、最初私の家に我が子が訪れていることを失礼になるからと拒んでいた。けれどそれが繰り返されていく内に段々と謝罪の言葉が軽くなり、私との他愛ない世間話が増え、片親なので目が行き届かないと不安を口にするようになった。だから私は、彼が望むなら我が家にいさせて、喫煙はするだろうけど見張っていたほうが、補導されたり悪い友達に会ったりしなくて平和なのではないかと提案し、彼女も次第に納得した。私の仕事は朝9時から17時、ほとんどの場合残業もなしで、彼の放課後の時間を難なく見守ることができるし、その間彼女は働けばいい。いつの間にかそのリズムが可決され、今では仁は週に何度か私の家を訪れるようになった。我がもの顔で来客用の灰皿を使ったりして。でも本当に気を付けてください、私が言うのもなんですがその、男の子なので。昨晩彼を迎えに来た彼女が、私とふたりきりになった時顔を赤くして言った言葉を思い出し、ふふふと笑ってしまう私を仁が怪訝な顔をして見ている。私はひどくあたたかい気持ちになっていた。
「なに?」
「お母さん。仁も男の子だから気を付けてねって昨日言ってきたから」
「うわ、なにそれ最悪」
「だからさ、仁からしたら私なんかおばさんだし、大丈夫ですよって言っておいた」
「おばさんっていうか」
「うん?」
「母親にそういうこと言われるのすっげー恥ずかしいんだけど」
「確かに」
「あの人 前に彼女できた時まずゴム買ってきたからな」
「えーすっごいね。でも大事だよ、一番大事」
「速攻捨てたけど」
「なんで?もったいないじゃん」
「自分で買うだろそんなん」
「えらいね」
「てかおねーさんおばさんじゃねえし」
ありがとう、私は答えてオムライスを口にする。近頃では、たまに彼の母親が私の分まで晩ご飯を作ってくれるようになってしまった。だから仁は私の家に来る前にまず一度帰宅し、食卓をチェックし、ひとり分の晩ご飯があればそれを食べてから我が家に来て、お金があればそのままにして我が家に来て、ふたり分の晩ご飯があれば慎重にそれを運んで私に持ってくる。これくらいしかできませんけど、と彼女は言い、私は時々自炊をさぼれることを嬉しく思った。誰かの作ったご飯というのは大体にしておいしいものだった。一人暮らしをしてからそれを強く実感する。
「またばかにしてない?」
「してないよ」
「してんだろめっちゃ軽かったぞありがとうが」
「してない。すっごい嬉しい」
私は笑ったが、既に夕食を食べ終えコーラを飲んでいた仁は不満いっぱいの顔をする。どうしてそんな真剣になるの?私は更に笑ってしまい、信じてくれねえから、と仁は言って私の腕を引っ張った。持っていたスプーンが床に落ちた。あー落ちちゃったじゃん、ケチャップと米粒が散らばるフローリングに目をやっていると目の前が仁の顔でいっぱいになり、あろうことか仁は私に唇を寄せた。温かい皮膚が触れ合った時私はオムライスの味がして、仁はコーラの味がしただろう、けれどそれはひとつもわからなかった。
「うそなにしてんの?」
「信じた?」
「信じたっていうか、」
肯定しなかったからだろうか。仁は怒った顔をしてもう一度唇を押し付けてくる。体を押され、私はソファにあおむけになる、その上には仁だ。信じた?また訊かれ、信じた、信じた、と私は必死で答えた。じゃあいいけど。そう言って仁が離れたので、私は起き上がる。
「あー、びっくりした」
「なにその余裕」
「余裕ないよびっくりしてる、スプーン落ちたし」
洗わなきゃと、スプーンを拾い上げる私の髪を仁が撫でていた。髪ぼろぼろなんだよねー私は言い、まだ余裕ある、と仁が低い声を出す。ちがうよ私余裕ないと余計冷静な行動とっちゃうんだよ、説明したが仁にはうまく伝わらなかったようだった。頭を掴まれ私はまた、仁とキスをする。
「ねえそういうこと簡単にするのやめなよ」
「まだそういうこと言うのかよ」
「ちがくて。段階があるでしょ」
「なにそれ」
「わかんない?」
「全然」
「じゃあ教えてあげるけど。まず言葉があるじゃん」
「なに?」
「先に言ってあげるね。私は仁が好きです」
「うん」
「うんじゃなくて。返事は?」
「俺も好き」
「そう。それでいいよ」
「それだけ?」
「そう。ちゃんとお互いの同意を得たらこうします」
私はスプーンを拾うのを諦め、体を起こすと不思議そうな顔をした仁に向き直り、その背中に腕を回すと彼の唇を吸った。目を閉じ慣れない仁の唇を何度か噛んでいると彼の腕が私の背にも回ってくる。舌を入れた時、ちゃんとコーラの味がした。だからたぶん仁の舌は、私のオムライスを感じ取っただろう。なんて色気がないのか。そう思っていたのに、唇を離した時仁は
「おねーさん淫乱っぽい」
と呆れた顔をしていた。もっと色々できるよ、と私は得意になってみたりするのだけれど、そういうのいいから、と断られてしまった。
「さっきの予行練習とかじゃないよね?」
しばらくして。スプーンを洗いオムライスを無事完食した私の横で、仁がふいに言った。予行練習って?だから俺に恋愛教えてるつもりだったとかそういんじゃない?違うよ私仁好きだよ。え、すっげー軽いね。仁が拍子抜けた顔をする。
「信じてよ、本当だよ」
「信じるけど。絶対そんな気ないと思ってた」
「うんだってさっき惚れたから」
「さっきって?」
「仁が男の子だからってお母さんに言われたって言った時」
「ほんとさっきじゃん」
「だめ?」
「いいけど」
「よかった。なんか私お母さんにそそのかされたような感じあるよ」
「そう?」
「その気にさせられたっていうか。仁がすっごいいい男に思えてきて」
「なんだそれ」
「でもお母さんに怒られちゃうかな」
「どうだろ」
「誓わないと。中学卒業するまで一線は越えませんとか」
「マジで言ってんの?」
「そうだよ身分を弁えなよ」
「身分って」
「ねえもし同級生のかわいい子とか好きになったらすぐ言うんだよ」
「うん」
「あ、素直だね」
「おねーさんは絶対同僚とかに惚れんなよ」
「うわ、さらに素直だ」
「大丈夫俺一途だから」
「そっかそっか」
ありがとうよろしくね。頭を下げる私を抱き締め、めっちゃしあわせ、と仁は言った。私は自分が今寂しいのを理解している、それに仁が寂しいのもずっと感じとっていた。そして私がいつも仁より年上であることを十分知っているし、彼が多感な中学生であることも承知していた。それでも今こうして彼が好きだと思い、彼が私を好きだと言う。それだけで十分な気がした、先を気にしては恋ひとつ、できない。絶対転勤しないでと仁が言う、もしかして私のそれを彼が望む日が来るかもしれないだなんて、今は考えない。私もしあわせだー、そう答え、彼に腕を回すしかないのだ。
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2014.5.28
アサトさんにリクエスト頂いた社会人ヒロインと中学生あっくんその2
保険をかけてほのぼの系も書いておくスタイル