誰もかれも、私のことをガキだと蔑みその反面、重荷だと言って切り捨てていく、たかがガキすら背負えないのかと私はいつも不愉快になり、自分というものを失い、押さえ付けて生きていくしかないのかと、悲しくなる。私は私のままで愛されたかっただけだ、でもそれは欲張りな望みだったのだろう、当然のようにそれが行われることはなかったし、その度に私は相手を憎み、自分を恥じた。もう誰でもいい、誰といたって変わらないと開き直りかけていた私の心は、醜くぬめぬめとした口をぱっくり開けた化け物みたいなものになっていただろう。そして彼が舞い降りた。







    雷鳴







 その時私は泣いていた。簡単に涙を流す他人、しかもそれが失恋に由来するものだったりするともう嫌悪感しか抱かない私であったはずなのに、私はその時確実に失恋し、落ち込み、涙を流していた。自分が失恋で、あんなくだらない男のせいで泣いていることを思うと更に落ち込み、悔しくなって、涙は一向に止まらなかった。
 二時間目の途中までは確実に耐えていたのだ、その朝起きぬけにかかってきた電話の、今では元カレとなってしまった男の声は落ち着いていて、告げられた言葉は別れようただその一言だけだった。私は抗わなかった、なんでとも訊かなかったし、意味深な台詞も言わなかった。ただ、そう、とだけ答えて相手よりも先に、電話を切ることに神経を集中させていた。それが私のできる唯一のプライドの保ち方のように思えた。私は何事もなかったかのように準備をし、家を出て、学校に着き、友達と喋り、自分の席で二時間授業を受けた。保ったはずのプライドは時間が経つにつれずたずたになって行き、二時間目の授業のラスト15分には、恐ろしいほどの敗北感と悲壮感が私を襲っていた。いずれこうなることはわかっていたつもりだった、私とあの男が長続きするはずがなかったのだ、今までとまるで同じパターンだったはずだ。付き合って、しばらくすると互いの本性が見え出して、嫌になり、少しの間は我慢をするが、それもできなくなって、喧嘩だとか無視が増え、別れに至る。覚悟していたはずだったし慣れっこだったはずなのに、私は今真っ黒いものに包まれたような気持ちになり、寒い。
 休み時間になって女子トイレに行き、個室にこもって携帯を開いていじってみたけれど、元カレとなってしまった男からの連絡は一つもなく、誰かからの楽しい話題みたいなものも届いていなかった。今朝の別れようの一言を思い出すのがつらく、着信履歴を開けなかった。冷めきったここ数日のメールも読み返す気にもなれない。ぼろぼろ涙が流れ始めた時三時間目の始業を告げるチャイムが鳴った。私はそれから10分、その場でしくしくと泣き、このままここにいたらB組のさぼりグループがやってくるような気がして女子トイレを出て、静かな廊下を歩き、誰もいない第二化学実験室に忍び込んだ。ドアから一番遠く、元素記号模型の陰になっている席に座り、頭を抱えていた。他人に見切られるのはつらい。もう少し年を取ったらこういうことでのつまづきも小さくなるのかもしれないけれどそれは今の私にはわからないし、ただただ今は見切られた自分が悲しかった。好かれていたい。それは単純で、大きすぎる望みだ。
 がらりとドアが開いた時、滲む視界や頬に垂れた涙を無視して窓の外の景色を眺めていた私は椅子の上で確実に飛び上がっただろう。三時間目が始まって30分は経ったこの時間に、この静かな第二化学実験室などというつまらない場所にやって来たのは誰か。次の授業準備をしにきた白衣の教師であったらどうしようとか、言い訳をなにとするかとか、一瞬で考え、相変わらず滲んだままの目で捉えたのはたった一人の千石くんだった。
 「おー!びっくりした、さぼり?」
 彼は私を見て固まった後笑顔を作り、こちらに手を挙げて見せた。私が反応しないでいるとてくてく近づいて来て、わあ泣いてる、と健やかな感想を漏らす。こういう風に言われてしまうとついつい私は恥ずかしくなって、彼に対して反応できなくなってしまう、泣いているところをふいに見られてしまった時私は、どうしたらいいのだろう。それが彼氏であったなら甘えられたかもしれないし友達であったならダム崩壊のような激しさで理由を喋ったかもしれない、だけど相手は千石くんだ。ただの同級生である彼に泣いているところを見られた私は次の行動に踏み出せず、無を保っている。まるで、天敵なんていない肉食動物がサバンナで、初めて人間を見た時のような動きで私はのんびりこちらに近付いてくる千石くんを見つめ、彼の動きを追って首を動かしていた。彼の行動を一つも見逃さないように。それで彼が銃を構えるとか、大きな音を出すとか、突然走り出すとかしたら、私は逃げ出すかもしれないし牙を剥くかもしれない、そんな風に。けれど千石くんに私の抱くような緊迫感はなく、もう一度へらっと笑って見せてとても気軽に、私が掛けた席の前で立ち止まった。
 「知ってた?」
 そう言って私の目の前で、自分の着ている学生服の前ボタンを外しはじめた千石くんは、私には読めなかった。何をしているんだろうと思ったし、先の知ってた?が何に対する質問であったのかも分からなかった。千石くんは遂に制服のボタンを全て外すとその中に着ていたTシャツの裾をぐいっとひっぱり、机に覆い被さるようにして私との距離を縮めた。
 「Tシャツの吸水力は無限大なんだよー」
 千石くんがシャツの裾でもって私の涙を拭いた時、私の視界は暗くなり、耳は遠くなり、良い匂いがした。喉は熱く、また涙がこみ上げて、それを千石くんがまた拭いた。寒さはいつの間にか消えていた。


 「私はわがままだし性格も悪いし大体年上としか付き合う気がないし、あなたのことをほとんど知らないし、今恋愛に対して投げやりになっているからイエスと言うかもしれないけどそれは戯言みたいなものだから本気にしちゃだめだよ」
 私はこういう風に懸命に言葉を紡いで説明したのだけれど
 「俺はずっときみが好きだったしきみのどんな面も好きでいられると思うし、同い年の俺と付き合うことがどんなに楽しいか教えてあげられるように思う、ていうかこんな偶然に二人きりになれたんだから俺はもう運命だと思ってるし、ふられたてで気持ちがふらふらしているところにやって来て交際を申し込むなんて極悪非道っぽいけど間違いでもいいからイエスと言ってよ」
 という風に千石くんも言葉を紡ぎ、私への交際交渉を力強く唱えた。私は彼に説明した通り、今完全に気持ちがふらついていたし、誰でもいいぜという気分だったから彼の説得にいいよと言ってしまうのは簡単だった。気晴らしか、暇つぶしくらいのつもりで彼に付き合おうと言い切れただろう。けれど結局訪れる別れを容易に想像できてしまい、その時に自分がまた人並みに落ち込むだろうことも簡単に思い浮かべることができて、ノー、ノー、ノー、と断り続けた。誰でもいいのなら、誰がいなくても同じだろうと思ったのだ。私は相変わらず椅子に座りこんだままだった、千石くんも相変わらず、私の前に突っ立ったまま、笑顔の説得を続けていた。好きだよ、好きだよ、好きだよ。
 「諦めようよ、無理だよ」
 「無理じゃないよ、ねえ俺本気だよ?」
 「ありがとう。嬉しいけど、幻滅させるよ」
 「しないよ、ずっと好きでいるから」
 「もう嫌いとか。そんな人だとか思わなかったとか。言われたくないんだよわかってよ」
 「言わないよ」
 「みんな最初はそう言うんだよ」
 「俺は、違うよ」
 「ねえその自信はどこからくるの?」
 「さあ。でも俺、好きな子がいると自分を無敵だと思っちゃうんだよ」
 俺を無敵でいさせてよ好きだよ。彼はそう言って、また上半身を寄せてきた。もう私は泣いていない、彼の吸水力が無限大らしいTシャツも必要がない。なんだろうと思っているうちにさらりと、千石くんは私の頭を撫でてしまった。なんて不慣れな、子ども相手にするような撫で方をする人なのだろう。私は苦しくなり、お腹の底がひんやりとした。じゃあ付き合おうかと、言うまでに時間は大して必要なかった。


 あの日数学だったらしい自分のクラスを抜け出しなんとなく校舎内のお散歩に出てきて実験室にたどり着いた彼と、失恋して泣きだし授業をさぼるというありきたりな行動をとっていた私は偶然出会い、あっさり付き合った。私は素の自分がくずであると言い続けた、およそ彼女にするには最低な人間であるとかも。彼はその度に大丈夫だと無敵さをアピールし、早く全開でわがままに、自然体になってくれとさえ言った。だから私は早い段階で意識的に、誰かにへばりついていたい自分を彼に見せつけるようにした。つまり私の電話には必ず出てほしいとか、書き取りのテストで手が疲れたからマッサージしてほしいとか、喋りたくないから今日は黙っていてほしいとか、反面私がメールをしないでも気にするなとか、触らないでとか、なにか楽しいことを喋ってとか、そういうことを彼にとことん求めたのだ。それは単純なる私の欲求と、そして彼が早く私を嫌えばいいという思いからだった。別れが早ければ早いほど、私は彼との別離や彼からのさよならの言葉に傷つかなくて済むだろう。それに彼だって、私の横暴さをさして知らぬまま、被害の少ないまま私から離れられるだろう。それなのに彼は、私の初めて付き合う同い年の恋人は、私のくず具合に軽やかなまでに寄り添ってきた。この二ヶ月、一度も怒らず、嫌な顔ひとつせず、ほとんどの場合笑顔でもって。ピザ切ってよ。彼の家で一緒に中間テストの勉強をしながら空腹を訴えた私に、彼は外出を提案し私はデリバリーを要求、何が食べたい?と尋ねた彼に対して優に20分は黙り込んだ後、あたたかいものと私は答え彼はピザ屋に電話をし、そして今届いたピザを、私の為に取り分けている。そのつむじを私は眺めていた。それで私のピザひとかけを皿に載せ、嬉しそうな顔して差し出してきたりする。
 「はいどうぞ」
 「サラミやだ」
 私は言い、彼はそうなんだ?と新鮮さを覚えたようなリアクションで、指先でサラミを摘まんで自分の口に入れてしまった。私はあんなに肯定されたかったし、私のわがままを男達にきいてほしかったのに、彼に添われる度、戦慄してしまう。この人はなんなのだろうと、自分を否定されたような気分になるのだ。あーん、彼がサラミのなくなったピザを皿から取り上げ、私の口元に運んできたのを見て、私はチーズがだらりと筋を引くそれを受け取り、自分で口に入れ先をかじった。おいしい?彼は言い、熱いよ、と私は怒った。
 「あ、ごめん」
 「あげる」
 「ありがとう」
 油の光る指で。食べかけのまだ熱いピザを受け取り千石くんは、自分の口にそれを放り込んだ。彼の家はいつも静かだ、私の知る限り彼の家族は部活が終わって帰宅する夕方のこの時間、家にいない。夜遅くまであくせく働いているのだそうだ。そのせいなのか彼はデリバリーを頼むのがうまい、コンビニで食事を買うのだってうまいし、玄関の鍵を開ける仕草もかなり自然だ。家電の使い方を見ても完全に慣れていて、しんと静まり返る瞬間を簡単に受け入れる。この人は寂しくないのだろうかと、私は安直にそう思ったりもするのだけど、俺は無敵だと言い張る彼を私はどこかで、信じている。無敵でない男がどうして私なんかの為にピザを頼んだり、サラミを取りのぞいたり、熱いと文句を言われたものだから新しい欠片に、懸命に息を吹きかけて冷ましてみたりするだろう。猫舌の子は苦労してるんだねえと呟く彼を、私は缶入りのクリームソーダを飲みながら見ている。私は猫舌ではない、熱いラーメンだとか唐揚げだとか、本当は簡単に食べることができる。ただ熱いと言ってみたかったのだ。彼にひと手間をかけさせたかった、ただそれだけの理由で私は彼に文句を言っている。そうすると私は、自分が愛されているように錯覚できる、まるで幼子のように。
 どうぞ。そう言って今度は小皿ごとピザを差し出してきた彼に食べさせてよと私は言い、いいよーと答えてピザを摘まんだ彼から私はやっぱりいいやと言って、また指先でそれを受け取った。なんじゃそりゃ、彼は笑ってサラミのないピザを食べる私を見ている。手べとべと、自分のてらてら光る指先を眺めてひとりごちると、千石くんは私の手を取り人差し指をべろりと舐めた。私はされるがまま、動けないでいる。


 かれこれ二年くらいきみに片思いしてたんだよ、と彼がなんでもなさそうに言った時、私は化学式の書き写しを取り止めまるで尋問のように千石くんに接するほかなかった。なに言ってるの?そういうロマンチックなのいらないよ。嘘つかないでいいよ。そんなの変だよ。だって彼女いっぱいいたでしょ?ここまで聞いて彼は笑いだしてしまった。決して大勢の彼女はいなかったのだと彼は言い張る。
 「俺よくそういう風に見られるんだよね、いいんだけど。確かに何人かはいたよ、いたし、それなりに本気で無敵になってるつもりだったけど、でも結局きみが好きだったよ、二年間ずっと。でもきみといったら、それこそ彼氏がいつもいたじゃんしかも年上ばっかりで、このクソガキどもー!って顔して俺らのこと見てた。それでも好きだったよ、俺はきみに告白できるタイミングをずっとうかがってた」
 あの日散歩に出て良かった、と彼は言って幸せそうにシャーペンの先で自分の耳を掻いていた。私は私のどこが好きなのか、思わず彼に聞いてしまいそうになる自分を食い止めるのに必死だった。私のどこが好き?だなんて。そんな甘ったるい言葉を私は吐きたくない。それなのに彼は私を柔らかな表情で見て、一息吐いた後、全部好きだよと言った。二ヶ月前に放った根拠不明の無敵感を彼は未だ、保っている。
 「そろそろ嫌ってもいいのに」
 「えーひどくない?俺か弱くなっちゃうんだよ?」
 「それは申し訳ないけど」
 「でしょ?だから黙って好かれててよ」
 あとこの問題意味不明なんだけど教えて。隣の彼がぎゅっと私に寄ってきて、開いた教科書を見せてくる。なんで分かんないの?私は尋ね、授業中どうも寝ちゃうんだよね、と彼は悪気なさそうに答えた。彼と同じクラスになったことのない私は、彼の授業態度がどのようなものなのか知らない。ただあの日あんな風にまるで習慣のように、実験室へやって来た彼を思うに殆ど授業に集中していることはないのだろう。あのね、私は口を開き彼の教科書にシャーペンでごく薄い、矢印や数字を書き込みながら問題の解答方法を説明した。もうすっごいかわいいよね、そう言ってふいに私の頬を抓った彼の頭を集中しなさいと叩いてやった時、時計は午後7時を差そうとする寸前だった。


 仲良くやってるじゃん。長続きしてるね?そろそろ別れるんでしょ?奇跡だよね。そんな冗談や軽口を友人達に叩かれながら私は彼との交際を進めている。私は彼が私を支えきれないだろうと思っていた、今だってその思いが完全に拭い去れたわけではない。けれど事実、こうして彼との交際を続けられている。彼は怒らない、束縛もしてこない、妙な甘え方だってしてこないし、私を正そうとしない。いつだって両手を広げて、来やがれ!という姿勢で私に向いている気がする。それが彼の無敵なのだろうか。例えば昼休み全部潰してとりとめのないお喋りをしている私達が、翌日には一言も口を利かなかったりすることを周囲は恐ろしげに眺めていたりするし私だって、遂に嫌われただろうかなどと思いながら過ごしたりもする。けれど彼は私と目が合った時、ぎゅうっと目を細めて笑うのだ。だから私はまた話しかけたり、そうしなかったりする。口を利かなかった日の夜に彼は大体の場合電話をくれて、私が出ると嬉しそうになにか喋りだす、私が出なくても、何度もかけ直したり何故出ないのかとメールで問い詰めたりしてこない。翌日学校でまたぎゅっと笑い、私の反応を真っ直ぐに受け止めようとする。私は、ないがしろにされるべき存在だったはずだ、こんな風な全うな愛情を注がれるべきではなかったはずだ。男達が私をガキだと思うのも、反面背負いきれなくなってしまうのも、当然のことであったはずだ。年上の彼らにできなかったことをどうして彼はこんな風にやってしまうのだろう。本当に無敵なんだ?ある日私は言い、やっと信じてくれた?と彼は笑い、抱き締めようとしてきて、私はそれを一秒で拒んだ。好きになりそうだった。
 彼といると私はもしかして、それほど本心で人を好いてこなかったのかもしれないと思い知らされる。そうなると今回彼をもし本気で好いてしまった場合、私はなにをどうしたらいいのかわからない。どこが好き?とか簡単に訊いたりするべきなのだろうか、本当はピザを取り分けてほしいのに女らしく、彼の為に私がそれをしたり、優しくごく丁寧に勉強を教えてやったりするべきなのだろうか。それで彼にふられた時に、ぼこぼこに凹んで落ち込むしかないのだろう。そんな思いをしたくなく、私は彼を拒んでいる。たかが体の繋がりがなにかを引き起こしそうな気がしてならなかった。


 彼の言葉を借りると「まるで悪夢のよう」であった中間テストが遂に全て終わった日、天気は大雨で時々雷すら鳴っていた。三時間で三つの教科のテストを受け終えるとちょうど正午で、部活がまだ再開されない彼と私は雨の中、ずぶ濡れになって彼の自宅に向かった。駆け足をするのは久し振りで私はすぐに疲れてしまい、先を行く彼はもっと濡れちゃうよと急かすように私の手を握ってきた。彼に引っ張られるようにして私は更に足を進め、山吹から一番近いコンビニの店内に到着した時には息を切らせてしまっていた。傘を買おうと彼は言い、それに黙って頷くことしかできなかった。
 「ごめんね無理させて」
 肩で息をする私を気遣う彼を無視し、その手に握られた会計前のビニール傘をひったくりレジに向かう。525円。高いように感じる傘の代金を支払う私の後ろで、俺買うのに、と千石くんが情けない声を出している。私は、買わせろー!という気分だったのだ。なにか彼に施してやりたい気分だった、例えそれが525円のビニール傘一つであっても。私はその時、相互関係の均等化を望んでいたのかもしれない。
 値段のせいなのか傘は意外に大きなもので、私達は二人並んで一つの傘に収まり、その後はあまり濡れずに帰宅することができた。けれど結局コンビニまでの道すがらでびしょびしょに濡れてしまっていたので、家に着くなり千石くんは駆け出し、どこかから大判のバスタオルを持ってくるとそれを広げて私をくるりと包みこんだ。私は柔軟剤の微かな香りをかぎとり、じっとしていた。こうして二人で黙っているとボイラーか何かが低く唸っているのや、ドアの外でばしゃばしゃ雨が降っているのが聞き取れる。良い午後のような気がした。バスタオルを広げた腕で私を抱き締めているのは彼なのだとはたと気付いた時、なにをしているんだろうと気になって離してよ、と呟いた。
 「寒くない?」
 「寒いよ、雨降ってたんだよ?」
 「そうだよね」
 神妙に頷いて、私から離れた彼がじっと顔を見つめてくるのがくすぐったく、身をよじらせている。どうしてこの男は自分もずぶ濡れだというのに私の体を更に拭きあげようとするのだろう。ばりばり。割れるような音が雨空からしている。肩からかかっていたタオルを引っ張り彼の頭に被せて髪を拭いてやっていた、雨の音を聞きながら。おいでよ。二分かそこら経った時千石くんは私を抱き寄せ靴を脱ぐよう促した。私は、何一つ抵抗せず靴を脱ぎ彼の家に上がり、その私に千石くんはゆっくりと口付けた。タオルを被ったままの彼の顔が近付いてくるのがコマ送りで見えていた、ぴったりくっついた私達の体は、服は冷たく濡れている。何度か下唇を吸うようにした後、おいでよ、ともう一度彼は言った。私はまた、何一つ抵抗せず、頷いて見せた。


 結局私達に付着していた雨水は、その殆どが彼のベッドのシーツに吸われてしまったのだろう。私達はなかなか乾き切らない髪の毛だけを持ち、布団を首まで被り、くっついたまま静かにしている。濡れた衣類は見えないけれどきっと、ベッドの下にでも転がっているのだろう。彼は私を後ろから抱き締めたまま、呼吸だけをしていた。私は彼の部屋の壁のでこぼこした素材を観察していたのだけれど、どんどん空が暗くなるので次第によく見えなくなってきてしまった。時々、窓の外が明るくなっては、すぐにばりばりとかごろごろと、大地を震わす音がする。
 「ちゃんってあったかいんだね」
 彼がそんなことを言い、私はそのテレビドラマの中みたいな台詞に、ぞっとしている。あったかいんだね?私だって生きているんだからそんなこと、当たり前じゃないか、当たり前のことを、口にして確認するのが愛だとでも、この若い男は思っているのだろうか。
 「どうしてそんなこと言うの」
 私は言い、
 「ちゃんが言わせてるんでしょ」
 千石くんがそう言うので、私は胸が苦しくなり、気付いた時にはほろほろ泣いていた。どうしてそんなことを言うのだろう、更に更にテレビドラマの中のような、そこにおいてももはや廃れてしまっているような言葉を、いつだってこんなにもあっさり、優しく、私の耳元で囁くのだろう。私はこれまでどうして、こういう言葉を当時の私なりに確かに愛していた男たちに向かって、吐いてやらなかったのだろう。それがどんなに些細で陳腐で幸福なことであるか、気付くことができなかったのだろう。この男が私を変えていく、誘うように。そう思うとまた涙が出て、大丈夫ずっと一緒だよと、彼が私の頭を撫でている。窓の外でまた一つ、強い光が降ってきたのが見えた。好きだよと、私は彼に言わされそうになっている。







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2014.3.26

キヨとわがままな彼女が書きたくて書きたくて