騒ぎ立てる笑い声、鳴り響く笛の音、隣のあなた。





 夏祭





 「女らしくねえ」
 仁にそう言われたら、女らしくなる他に道はない。彼の理想に、彼の隣に立って恥ずかしくない女になりたい。執着と言われてしまえばそれまでだが、私にとってその感情は、純粋な恋心だった。だから私はこの夏、浴衣を着る。
 「今度のお祭り一緒に行こう」
 時間も待ち合わせ場所も伝えた後の私の誘いに、仁の返信は
 「次の日大会」
 とだけでつまり行けるとも行けないとも言いきらなかった。だから私はそこでメールを返すのをやめてしまった。これ以上なにか言うと、面倒だから行かないとか、そういう言葉が返ってきそうだったから、だから行かないとは決して聞いていないまま、当日仁が待ち合わせ場所に来るのを願った。その後仁からの改めた断りの連絡もなかったから、きっと来るだろうと思った。そう思っていないと、なんだか涙が出そうだった。

 履きなれない草履、親指と人差し指の間が擦れて、ただ痛い。段々と歩く速度も遅くなる。とぼとぼと、途中で何人かの人に追い抜かれながら待ち合わせ場所へ向かい、時々空を見上げた。空が暮れ、星が微かに見えはじめた。
 すっかり暗くならない内にどうにか目的地に到着しないと、なんだか心細い。だけど相変わらず指の間は痛いし、それが治まる気配もない。またひとりふたりと、私を追い抜いて行く。今歩いて行ったお姉さんの美しさといったらなかった、背筋が伸び、袖がはらはらと揺れ、からりころりと草履が鳴って、それで足が痛そうな様子なんか、なにひとつないのだ。私はどうしてああいう風に歩けないのだろう、颯爽と楽しそうに。自信に満ちた美しさと共に。私はなんてみじめなのか。
 結局、待ち合わせ場所に10分遅れで到着した私は疲れきっており、足は痛く、とても顔を上げていられる気力はなかった。赤くなった指と指の間。
 「遅い」
 その一言に、足先から目を離して顔を上げる。
 仁がいた。仁がいて、毎度毎度待ち合わせに遅れてばかりの仁が今日、遅れた私に文句を言っている。
 「うそ、なんでいるの」
 「来いって言ったのお前だろうが」
 「や、うん、そうだけど、なんでちゃんといるの」
 「は?お前なに言ってんの」
 仁が本気で、マジで意味わかんねえみたいな顔をするものだから私は嬉しくなった。空はどっぷりと暗くなってしまっていたし、足は痛いし、遅刻もしてしまったが、私は舞い上がる。仁がいたことに、時間を守ったことに、それで私に文句を言うとかそういう、いつもと変わらないことに。
 「仁、すっごい私、抱きつきたい」
 「ばか言うなよ」
 少しだけ仁が笑い、へらへら私も笑うしかない。私は本当に仁を抱きしめたい、ぎゅっとしてやったーとか叫びたい。それでまるで仁を子どものように扱って、よく来たねーとか言いたいし反面仁に甘やかされたい。けれどそれを今本当にしたら、仁はきっと機嫌を損なうだろうし周囲の人にいたいカップルだとか思われるだろうし、ぐっとこらえる。
 夜店はそれぞれがそれぞれの存在感を知らしめるために強い光を放つライトで店先を様々に装飾をして煌々と明るく、暗い夜道を歩いてた私にはそれがひどく眩しかった。人々がごった返してて、気付いたら仁と手を繋いでいた、そうでもしないとはぐれそうだったのだ。
 手を繋いだ、ただ単純に嬉しかった。仁は一緒に下校する時、決して手を繋いでくれない。私と行動してるのを友人や、先生だとかに見られるのを極端に嫌う。付き合って最初の頃なんて一緒に帰るのも拒否されたくらいだ。私はもしかして嫌われてるのか、本当に付き合っているのかなんて幾度となく不安になったが、ふたりきりになれば私と接触する、穏やかな仁を見せられるたびにそれは薄まり、ああこの人は硬派っぽい、そして不器用っぽいただの男の子なのだとわかった時、私の彼への想いはさらに強まった。
 仁の手は大きくて温かい、男の人の手の平だった。時々何かを知らせるかのように仁の指が私の指を強く握るたびにぎゅっと苦しくなり、直後にふわふわと幸せな気持ちになる。

 ぶらぶらとただ夜店を見て歩いている途中、他校の子らしい女の子を連れている千石くんに会う。彼女だろうかと気になったが、彼の日頃の行いを知る私には女の子の前でそんなことを訊く勇気はなく、こんばんはと照れ臭そうに挨拶をしてきた彼女の浴衣を見て微笑んでいた。彼女は可愛く、白地に花柄の浴衣が随分似合っており、ああやはり浴衣は女の子らしいものなのだと思い、でもこんな完璧な女の子を前にして私が勝てるはずもなく、仁が彼女を気に入ってしまったらどうしようだとか考え、ちらりと仁の方を見たのだけど、仁はちらりと彼女に一瞥をくれただけで興味なさそうな顔をしたので、安心する。それで、「俺これめっちゃ好き」と言った千石くんが面白いくらい金魚を上手にすくいはじめたから、私と仁もしゃがみ込んでその様子を見つめてた。
 綺麗な金魚、澄んだ水の中をそよそよと泳ぎ、千石くんの持つ網からスイミーのように集団で逃げていく。それをどうにか、こうにかして彼がすくい上げ、手元のお椀にぽんぽん入れていくのだ。その手際があまりにいいものだから、もう「うわあ」とか「すごい」とかいう感想しか出てこない。しゃがみ込んだ私と仁の間に溝や隙間はなく、手を繋いだままだからぴったりとくっついていた。こうしていると帯がお腹に容赦なく食い込んできて苦しかったが、我慢する他なかった、だって千石くんの隣には、きっと年も近いであろう女の子が綺麗に浴衣を着てにこやかなまま、彼の様子を眺めているのだから。
 あまりに千石くんの金魚すくいの腕がいいものだから、次第に観客が増えてきて、私は段々と居心地が悪くなる。こうも背後を見知らぬ人に囲まれては落ち着かない。人混みを嫌う仁は私より不快感が強かったのだろう、ある時ふいに立ち上がり、私の手を引く。私達は黙って人混みをかき分け、その場を後にした。

 20時を過ぎると小学生以下の小さな子ども達の姿が途端に見えなくなり、すっきりとした夜店の通りを手を繋いで歩く。
 「ねえ仁ってさっきのできる?」
 「さあ」
 「千石くん上手だったね」
 「ああ」
 仁が欠伸をする。目の端から涙とは呼べない、少しの量の液体がにじむのを見ていた。私はそれがかわいくてしかたなくなり、腕に抱きつくようにしてぴったりと彼にくっついた。
 「歩きにくい」
 「ごめんね」
 そう言いつつ、離れる気はない。仁のもう片方の腕が伸びてきて、私の頭を乱暴に撫でた。彼の短い爪すらも、愛しい。
 仁に綿あめを買ってもらった。私の知らない、幼児向けのキャラクターが描かれた袋に入ってて、中身は三色だった。
 「仁も食べる?」
 嬉しくなって。尋ねると仁は綿あめを見、それから私を見、首を傾げた。思わず私も首を傾げる。仁は、ゆっくりと私に口を開いて見せた。
 食べたい?尋ねてちぎった綿あめを差し出した。仁は目を閉じそれを器用に食べる。私の指は仁の唇に触れなかったし、仁は綿あめを甘い、の一言で片づけてしまったが。仁のその姿勢、ただそれだけにふらふらする私が気を紛らわすためにもう一度口にした綿あめは、味がしない。
 「綿あめって。英語で言うとコットンキャンディーなんだよ」
 「ふうん」
 「かわいくない?」
 「別に」
 「もっと食べる?」
 仁は返事をするのも頷くのも、口を開けるのも私に一口分の綿あめをもらうのも、面倒に思ったのだろうか私を自分の方へ引き寄せて、私の持つ綿あめにそのままを口を寄せた。ぎゅっと肩を抱かれた時にまた、仁が男の人であるのを感じる。

 千石くん達の金魚すくいを眺め、綿あめを買い、ぶらぶらしていただけの私達は、気付いたら夜店の並びのほぼ最終地点まで来てしまっていて、そしてなんとなく、周囲が一斉に帰りだす雰囲気をまといはじめた。時計を見ると午後9時半となっていて、ふらふらしているだけなのにお祭りというのは、あっという間に時間を奪う。
 「もう帰ろうか?」
 「送ってってやる」
 「ありがとう」
 「そういえば
 「うん?」
 「かわいいな」
 びっくりして返事をしなかった。そしたら仁が笑った。完全に不意を突かれた固まっていた私は、ほら行くぞと繋いだ手を引っ張る仁によって強引に歩き出す。
 草履が人通りのない道で音を立てる。繋いだ手が熱を帯びる。夏の夜には暑過ぎて、だけど絶対離さない。綿あめはふたりで綺麗に食べきって、今はしなしなの絵柄入り袋と割り箸だけになって私の左手にもてあそばれている。仁はまた不意を突き、私の唇を舐めて「甘い、」と言った。恥かしくて俯いた私を見て、また笑った。
 「きれい」
 いつまでも顔を伏せているわけにもいかなくなって前を向こうと思ったのに、ただそれだけをするのは妙に照れ臭く、勢い余って空など見上げ、私はそう呟いた。星も月もくっきり見える、雲ひとつない綺麗な夜空だった。私には星座はわからない、けれど星はただ見ているだけで綺麗だから、困ることはない。仁も隣で空を見上げた。浮き立つ首筋、喉仏すら、好きだ。
 「見えねえ」
 仁が言う。
 「仁って目、悪いんだっけ」
 「乱視」
 「へえ。月何個に見える?」
 「八個?」
 「なにそのお得な感じ」
 どこが、と仁が笑う。私の言葉で笑ってくれる仁だなんて、なんて幸せに満ちているのだろう。でもテニスしてる時大変でしょ、私は言い、負けないから平気、だなんて仁は言う。そうだ明日は大会なんだと言っていたと、私はふと思い出す。

 「明日の試合、がんばって」
 仁は言った通り私を家の前まで送ってくれ、別れというよりか、手を離してしまうことを惜しむ私は今になって、そんな事を言っている。仁はというと私にがんばってだなんて言われたのが不思議であるような顔をする。
 「ごめんね遅くまで」
 「いや」
 なにかを知らせるかのように、仁の指が強く私の指を握った。ぎゅっと苦しく、直後にふわふわと幸せになる。
 「そういえばさっき」
 「ん?」
 「かわいいって言ってたじゃん」
 「俺?」
 「うん」
 「それがなに」
 「それって、私がかわいいってこと?それとも浴衣?」
 仁が笑う。だから、私も笑う。なんだか今度は私の言葉で、笑う仁に私は泣きたくなる。なんでもいいはずだったのに。仁がかわいいと言ったのだ、それが浴衣であるか私であるかその総合であるかそれとも別か、例えばただのお世辞であるかなんて、なんでもいいはずだったのに私は、仁にかわいくなったと言われたいし自分の理想に近づいただとか、思われたい。
 「ばか。お前だって」
 私は更に泣きたくなった。体の奥底からなにかが込み上げて来て、きゅんと首の付け根を締め付ける。
 「
 「なに?」
 「お前の家、誰かいる?」
 「いない、はずだけど」
 「ならいい」
 仁の愛しい短い爪、また私の頭に当たる。瞬きをしている間に仁の顔が近付いて来ていて、目を開けたらキスをしていた。落ち着こうともう一度目を閉じると唇を割って舌が入ってきて、落ち着けずに手を強く握った。なにかを知らせるかのように仁の指が強く私の指を握り、ぎゅっと苦しんでいる間にキスが終わる。私を包むのは幸せだった。
 「お前ほんとかわいいな」
 仁が繋いでいた手を離し私を家の門に押し付けて、また近付いてくる。苦しくて恥ずかしくてどうしようもなくて諦めて、笑うと、仁が私の頬に垂れた髪を、器用に耳にかけたりするので、息が止まる。それでまた少しキスをして、「甘い」と仁は言い、私から離れた。お別れだ。
 「おやすみ」
 とっさに言ったが、動揺しまくりなのを見抜いたのだろう。仁は目を細めて私を見た後、なにも言わず手も振らず、あっさり踵を返して行ってしまった。くらくらと、ふらふらとしてその場に座り込む。勝てない、仁には勝てない。それは惚れた者の宿命だ、仕方ないけれど、こういう風なことをされ続ける内に私は立ち直れなくなるような、骨抜きにされてしまうような気がした。かっこいいとか。色っぽいとか男らしいとかそういうのを通り越してただ、好きだな、と思う。
 俯いて感覚の無くなった足の親指と人差し指の間を見ると、皮がペロリと剥けて私の中の、真っ赤なものが顔を出していた、試合、がんばれ。






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2014.6.4
2008.1.3が最終更新になっていたもの、加筆修正