そうきっと、ほど遠いはずだった。青春真っ只中の三年間、廊下で擦れ違ったり、行事の時にちょっと見かけたりその程度の、顔見知りですらないような関係が続くはずだった。青春真っ只中の三年目、階段を上ってた彼と階段を下っていたアタシはその時も、擦れ違うはずだったのだ。互いの顔もろくに確認しないまま、動く物体同士程度の認識で。彼が、
「いいピアスしてんね」
なんて言ってアタシの耳に触れ、ふ、と笑うまでは、
夏色ロマンチシズム
うだうだと暑い季節が近付いてきていたのにアタシが髪をアップにすることもなくいつもうざったいくらいに髪を垂らしていたのは、最近開けたピアスを隠す為だった。それが功を成してアタシは先生にも、いつも一緒にいた友達にさえもそれを気付かれずに過ごしていたのに階段をひとり、下っていたその時、階段を上っていた彼、亜久津にはアタシのなびいた髪の下からちらりと現れた耳とお気に入りのピアスが、見えたらしかった。
お互いに顔すら曖昧にしか覚えていない程度の疎遠な同級生であったのに、彼はアタシに突然接近し、かつ接触し、馴れ馴れしくいやらしく、それなのにさらりと、アタシの耳に触れていた。それで、いいピアスをしている、と囁いたのだ。下から彼の友達だと思われる同じように少々ガラの悪い男の子が何人かやってきて笑い、さん怖がってんだろやめてやれよーなんて言って、やっと彼はアタシから離れたのだけれど。その日を境にどこで誰から情報を得たのか亜久津は、アタシにメールを送ってくるようになった。それから。いつの間にかアタシたちは付き合っていたのだ真夏には、まだ浅い日頃に。彼氏という肩書きを持った彼は笑ってしまうほどいい奴で、涙ぐんでしまうほど、優しかった。
「しあい?」
声に出す。なんて間抜けな響きだろう。しあい、し合いって、一体なにをし合うの?と一瞬思ってから あ。試合か、と納得がいく。彼の口から「試合」という言葉を聞いてアタシは、初めて彼が部活に所属してることを知った。
「試合って。亜久津ってなにか部活やってるの?」
付き合って初めて、そうその時初めてアタシは、彼に部活のことを質問している。アタシと彼はあの階段での出来事から顔見知り、知人、友人、親しき仲、というものを全て飛び越え恋人同士になった。アタシたちの関係はかなり深まっているはずだ、それなのに時々こうして、顔見知り以下の情報交換を必要とする場面がある。アタシはそれを恥じないし、亜久津はというと表情ひとつ変えない。それで、やってる、と部活動についての質問を肯定するのだ。
「なにやってるの?」
「テニス」
「うそ?」
「ほんと」
「似合わないね?」
「うん?」
「どうせ所属するならバスケ部とかがよかったなー」
「ふうん」
「それで?」
「ああ。明日試合あんの、俺」
「へえ」
彼の。吐く息は白い、夏を目前にしても。副流煙と呼出煙はいい、主流煙は吐気がする。生まれて初めての喫煙の後そう呟いてから、彼はアタシがいくらふざけて吸ってみたいと言っても煙草をくれなくなった。それでアタシの平気な、副流煙をせっせと生産している。
「どことするの?」
「青学?」
「強いんだ?」
「さあ」
「亜久津は?テニスうまいの?」
「うん」
「へえ」
「なあ」
「なに?」
彼は慣れた手付きで煙草を灰皿に押し付け、煙のまとわないその手でアタシの右肩をそっと掴んだ。
「したいんだけど」
「なにを?」
質問に答えず、彼は右手に力を加え肩をゆっくりと押した。だからアタシは沈んでいく、彼の家の彼の部屋の、フローリングへ。途端、一斉に蝉が鳴き出した。真夏がきた。アタシと彼は汗で一つに繋がる。
「亜久津」
と呻くと彼は
「名前で呼んで」
と言ってのける。ああこの人はいつもこうやって平然としているんだよなとアタシもわりと平然とした頭で思い、呼吸をし、その後に
「仁」
と言わされている。彼はほんの少し、そう初めての接触の時と同じようにふ、と笑い、アタシの名を呼ぶ、、と。
なにもかもが終わりへとへとで満たされて汗だくになって、冷たくもないフローリングに横たわりただ呼吸だけを繰り返していた時。彼は、ああそうだ、とふいに呟いてアタシの頭上にある、雑然としていたはずのテーブルの上からなにかを掴んだ。アタシはそれを横たわったまま、ぼおっとした頭で眺めていた。「え、なに死ぬの?」と、彼は初めてアタシと交わった後、不思議そうな顔をしてそう言っていた。その時もアタシは横たわり、呼吸だけをしていた。なんの感想も述べず愛の言葉も囁かず、汚れた粘膜を処理することも亜久津の体に足をこすりつけることも腕を回すこともせずにただ、ふわふわとしていた。「アタシいつもやった後こんなんだよ」、アタシは茫然としたままそう説明し、「俺より前にお前とやった奴しばき倒したい」、と彼は笑った。アタシも同じようなことを彼に言い返してやりたかったけれど、なんだかそういうところに関しては恥じらいを持ってしまって、遂に言えなかったのを覚えている。
「やる」
やるって、もっかい?と思うとなんだか苦しく、う、となったりしたけれどそうではないらしく、いい加減起きろと亜久津は言ってアタシを抱き起こしその右手のひらに、ぎゅうとなにかを押し付けた。なあに?言う気も起きずに手のひらを広げて見ると、それはピアスで。
「どうも」
アタシはまるで釈然としないままとりあえず礼を言っている。それはシルバーでできた、恐らく男女兼用と思われる代物で、特徴という特徴もないがありきたりとも言い切れない、なんとも不思議な、お洒落な品だった。やる、と彼は確かにさっきそう言い、アタシはそれを受け取った。見事なまでに亜久津らしいそのプレゼントをしばらくの間、眺め続けていた。
「買ってくれたの?」
「うん」
「でもこれいっこだけ?もう片方は?」
「お前って」
「なに?」
「お揃い、とかそういう意識ないの?」
「ああ。お揃い」
「そ、お揃い」
「お揃いね、おそろい。うん、わかるよわかる。いいじゃん」
もう片方は亜久津が持っているのだろう、お揃いのピアス、なんて死ぬほどロマンチックだ。これを付けて、学校に行ったりして、ふたりで歩いてたりしたらもう、すげー、アタシら可愛いカップルだ。きっと泣く子も黙るだろう。唐突に、アタシはぼんやりするのをやめ嬉しさを噛みしめている。
「アタシ。亜久津大好き」
「あ、そう」
「わかった次はペアリングをアタシが買ってあげる」
「へえ」
「明日、試合の帰りに、行こうよ」
「買いに?」
「そう、行こう、二人で選ぼう、どうせなら」
「お前、なに?テンション高くない?」
「お揃いブームがきてる」
「ブーム」
「きた」
一糸もまとわずに手の中のピアスを見つめるアタシを見て笑いながら、彼は服着ろよとか促してくる。そうだね、言いつつアタシはピアスを見つめ続けている。蝉の声は止みそうにない。可哀想に、一週間とか二週間しか生きられないなんて、アタシは。十年も二十年も三十年も、きっと、ずっと、亜久津と一緒にいられるんだ、ぜ、と自慢げになって。
学校をさぼって試合を見に行くと、亜久津いわく青学?というらしい集団に、じろじろと見られているのを感じた。山吹生で試合を見に来た人間はほぼ皆無であり、山吹側のベンチに集まるのはレギュラーメンバーではないジャージ姿の部員ばかりでその中に、制服のアタシがいるからだろうし大体にしてアタシは他人にじろじろ眺められやすいのだ。こんなにも控えめに暮らし、ピアスでさえ隠し通す気でいたというのにいつもいつも、なにかしら人目に晒されている。お前なんか悪目立ちするよな、亜久津に、あの亜久津にさえそう言い切られてしまった時、アタシは自分のさだめを受け入れる他なくなった。
フェンス越しにコートが見えた、フェンスの外側に私は突っ立っている、じろじろ眺められながらレギュラー落ちの部員とも相容れず。蝉が鳴き、日が照っている。じりじりと耳の奥へ響き首の裏を焼き付けて痛い。それでも空を見上げてしまうのはどうしてだっただろう、雲はなにかの細胞のような模様をし、わらわら空を覆っている。けれど太陽の周りだけぽっかりと穴を開けていて。雲の割合から見ると今日はくもりなのだろう先日そんなことを理科の授業で習った。それなのに空を見上げるのをやめれば気温も日の強さも完璧に快晴だ。
選手たち、両校のテニス部員達はコート中央のネットを挟んだ端と端に設置されたベンチ周辺に集まり、対峙している。私はその中に銀色の髪を見つけることができた、もう周囲が白ばむくらいの日の光の中、ふいに嬉しくなっている。その先にある青学?と亜久津が言ったテニス部の更に後ろ、こちらとは比にならないほどの量の観衆が一斉に声を上げはじめたのはその時だった。その大音量の声援にアタシは吐気を催しているまるで、初めての喫煙の後のように。
大した挨拶や号令や合図もないままにそれははじまっていた、私がぐらぐらと吐き気を覚えているうちに。見知らぬ人々が試合をしていたが誰が勝ち、誰が負けたのかアタシにはよくわからない。向こう側の観衆がわあとかああとかいちいち声を出すものだからなんとなく、負けたのだろうか?いいプレーだったのだろうか?というものは感じたが確信は持てなかった。それでその、アタシに予感をもたらすこの声援がやはり、耳障りでぐらぐらとしていた。
何度目かのぐらぐらに酔っていた時にコートに入ってきた彼は、見慣れぬユニフォームなんてものを着ていた。呼びたくて、だけどそんな声を出す気力もない。大声を出すよりに先にアタシは吐瀉するかもしれない。だから、じ、と彼を見つめている。恐ろしいことに彼は振り返る。それで、いとも簡単にアタシを見つける。悪目立ちするらしいアタシを。目が合った、あの煩わしい声が止んだ、ような気がした。
なぜだか。理由はわからない。ぐらぐらとしながらアタシは不安だ。ぐらぐらとしながらアタシはかなしみを覚えている。彼の試合を見たい、見たくない。彼の勝つところを見たい、見れない。そんな風にまたぐらぐらと揺れ、上がってきた胃液みたいなものを飲みこんでいる。彼はアタシの方へと歩み寄った、アタシそうするべきだっただろう。けれど叶わず、そびえたつフェンスに体を寄せてその網目に、指を入れて強く握りぎいぎい鳴らすことしかできない。そして気付いたのは。彼の耳に昨日のピアスが付いていたことでそして思い出したのは。アタシも自分の耳に昨日のピアスを付けていたことだった。
「」
アタシはそう呼ばれる、ふ、と笑った彼に。苦しくて、フェンスに顔を近付ける。網目を潜り、彼の長い指がアタシの頬と耳に触れた。初めての時のように柔らかく優しげに。その指は冷たく、緊張してるの、なんて訊くこともできず。反応を示すために頷くアタシに亜久津が再度口を開いた。
「これ」
「うん」
「似合ってる」
「うん」
「お揃い」
「うん」
「お前さあ」
「うん?」
「なに?死ぬの?」
「うん」
「なんだそれ」
「ねえ」
「うん?」
「亜久津」
「名前は?」
「仁」
「なに?」
「ねえ」
「うん?」
「負けちゃやだよ」、そう呟いたアタシに亜久津はキスをした。フェンスの隙間を縫うようにして。網でできた壁にぴたぴたにくっついたアタシと彼は冷たい指と、熱い唇を持っていた。
「試合終わったら」
「うん?」
「リング。買いに行こう」
「ああ」
負けねーよ、と囁いて彼は離れ、踵を返した。それから一度も振り返らずに、試合開始、そう、しあいが。
目眩がした。刹那、見上げた空は、夏色、
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2006.8.26/2014.10.18加筆修正
なんらかの企画に使ったもの