戯言の様に好きだと繰り返した。


七竈





 亜久津の彼女は見るからに不良の女の子。綺麗な金髪、おっきくて黒い目、赤い唇、短いスカート、香水の香り。さんという彼女は隣のクラスで、とても美人だった。 先生と平気で喧嘩するわ普通に学校さぼるわで、アタシとは住む世界の違う人だと感心していた。そんなさんと同じく不良な亜久津が廊下でお喋りしたり、一緒に下校したり、はたまたイチャイチャしたりしているのはもう、壮観としか言い様がない。ふたりがお似合いかどうか論じるのはアタシの、管轄外のところにあった。それくらいあのふたりはアタシの世界から、遠いところにいた。
 そんな彼女を持つ亜久津に、告白をされた時。それはもう告白と言うより、依頼とか脅迫とかそんな感じだったのだけれどとにかく、付き合って、と言われた時アタシは自分の喉の奥から う、と変な声が出たのを聞いた。そして、こんな密会めいたことがさんにバレたら殺されてしまう!と思った。何故ならそこはふたりきりの狭い、体育教官室であり何故だか亜久津はアタシを押さえ付けるように密着しており明らかに、「浮気」という単語が浮上する状況だったからで。
 どうしてアタシと亜久津が体育教官室にいたかというとアタシたちは体育委員会という大変仕事の多い委員をやらされていて、案の定その時も体育教師の指示によりスコアボードだとかなんだとかを片付けさせられていて、実をいうとその時までアタシは同じクラスで同じ委員の亜久津と、喋ったことすらなく、というか彼はその時初めて委員の仕事をしていたのだけど、突然の
 「
 という彼の呼び掛けにすらアタシは、かなりびびっていたわけだ。亜久津が喋った!といった具合に。それで振り向けば両肩を後ろに押され、壁に背中を打つと被さるように長身の亜久津に押さえ付けられ、顔が近づいてきたりして強姦でもされるのか、と心臓が妙に脈打ちだしそして続いた言葉が、
 「俺と付き合って」
 なんだから、そんなん、う、とか言っちゃいますよってはなしだ。
 「さんとは」
 「ん?」
 彼の「ん?」という声は、ひどく色っぽく、アタシはそれに驚いていた。
 「別れたの?」
 「別れてねえよ」
 だから、尋常でいられるはずがなかったのだ。
 「でも、付き合って、
 「ねえちょっと聞きたいんだけど」
 「ん?」
 アタシはひり出すようにして声を出しているというのに亜久津は、まるで気軽にその色っぽい声を、また発した。
 「それって浮気じゃない?」
 「うん」
 彼は、笑った。頭がくらくらし、そうしているうちにアタシは、彼の愛人になった。

 彼はその日から委員の仕事を全うするようになった、仕事中はふたりきりになることが多く、彼はその時間を目的としていたらしい。たまにさんが登校してきていない日なんかにこっそりふたりで屋上に行き、お昼休みを過ごしたりもした。不良だヤンキーだこえーと思っていた彼は案外優しく、人並みに喋り、冗談も言い、やや高圧的ではあったけれど、いい人だった。アタシたちはたまに屋上でだけ、手を繋いだ。亜久津の手は冷たく、そして彼は煙草の匂いがした。
 戯言のように好きだと繰り返した。軽い気持ちだった。彼には別に本命の彼女がいて、アタシは単なる気まぐれの遊び相手、なんて気楽なのだろう。彼にとってアタシが本命でないように、アタシにとっても彼は本命でない。いつ終わったって構わないと思って接するから、亜久津の機嫌を取ったり可愛く振舞う必要もない。アタシは普通の恋愛してる時よりも素直だっただろうそして、その方が恋愛は順調だったりするのだから不思議だ。
 「
 「なに?」
 彼はアタシをと呼んだ。アタシは彼を亜久津と呼ぶ。彼のことを苗字で呼ぶのは、アタシの中での隔てであった下の名前で呼んでいいのは恋人だけだろ普通、とアタシの中の規則がずっとそう言ってきかなかったのだ。
 「誕生日いつ?」
 「アタシ?7月だけど」
 「ふうん」
 絡めた手を持ち上げてみる。彼の左手の薬指にはいつも、当然のようにペアリングがはまっている。それはもちろんアタシとのものではなくさんとお揃いのもので唐突に、アタシはそれを奪い取ってざけんじゃねー!とか言って屋上から投げ捨てたい衝動に駆られたりもするのだが、いつもうまい具合に押さえつけてきた。
 「亜久津は4月でしょ、確か2日」
 「あれ?なんで知ってんの」
 「だって。浮気相手だもん」
 アタシの言葉を聞き亜久津が笑っていた。何故アタシが誕生日を知っているか、答えはリングに刻まれてるのが見えたからで、自分のその洞察力にアタシは、時々参ってしまいそうになる。
 「誕生日なにがほしい?」
 亜久津あっさりと尋ね、アタシは空を見上げていた。六月の空は暗かった。夏なんて本当にくるのかというくらい。
 「なんだろう、別に、なにも浮かばないけど」
 「マジかよ無欲か」
 「え?じゃあお金で買えないものがいい」
 「なんだそれ」
 なんだろう、と言ってアタシは笑っていた、なんだってよかったのだ、誕生日とか、プレゼントとか、そんなもの。この関係が7月まで、続いている気がアタシには、しなかった。湾曲した恋愛はすぐ破綻する。浮気に純愛は見いだせない。遊びの恋だった、そうだと言い聞かせた。まるで呪文のように。
 初めて亜久津に抱き締められた時、アタシは思わず固まってしまった。そこが校門の前だったからか、早い放課後の時間であったにしろ周りに生徒が何人かいた気がしたからかとにかく、ひどくアタシはドキドキして彼を抱き締め返すだなんてことはまったく、できなかった。彼は温かく、やはり筋肉質で、大きかった。
 「お前、案外胸あるのな」
 と、彼は朗らかに笑ったがアタシは、それどころではなかった。浮気相手に、これくらいで、緊張している自分が滑稽でしかたがなかった。ある時は亜久津に
 「お前細いんだからスカートもっと短くしたら」
 と言われたりもアタシはした、屋上で好きだ好きだと言い合い、体を絡ませていた時に。
 「そう?あんまりそういうこと言われないけど」
 「なんてお前の倍くらいありそう」
 こういう風に。さんの名前が彼の口から出ると少なくともアタシは動揺し、複雑な気持ちになる。、という恋人の名前、彼が本当に愛している人の名前がちくりと、アタシの心に刺さるような気がするのだ。それを察する力を、余裕を、優しさを手間を亜久津は持つのだろうか。とにかくそういう時彼は眉間に皺を寄せ、また好きだと呟いてくれる。そうそれも呪文のように。
 キスをして、告白を繰り返し、べたべたと絡み合う。その度になにかが溢れ出す。一層好きだと繰り返す、狂ったように。

 アタシの予想は見事に外れ、7月になっても関係は続いていた。空は次第に青く明るくなり、周囲が熱を持ちだした。さんもその周囲も、一向にアタシたちの不貞に気付かないらしかった。頻繁に亜久津はさんと廊下でなにやら囁き合っていたし、周囲の女の子たちもあの二人は結婚するんじゃない、なんて幸せで幼稚なことを噂していた。不思議とアタシは、目の前で亜久津とさんが体を絡ませようと気にならなかった。ただ亜久津とふたりききりの時に、彼がその名を呼ぶのがつらかった。離れていても、浮気相手といて好きだ好きだと言い合っていても、やっぱり彼女は心の中にいつでもいて、それが本当の愛で、みたいなことを見せ付けられたような気がして耐えられなかった、アタシは、たかが遊び相手だというのに。

 7月の、アタシが15歳の誕生日を迎えた日。アタシは亜久津と学校をさぼり、亜久津の運転するバイクの後ろに乗って海へ行った。学校を無断で欠席するのは初めてだったけれど、意外にも罪悪感は全くなかった。アタシと亜久津が欠席したことをクラスはどう捉えるだろう、アタシたちの関係に気付く人は、誰ひとりとしていないような気がしていた。きっと偶然欠席が重なっただけだと思うのだろう。亜久津は学校に来ない日がとても多いのだし。さんは、隣のクラスのさんは気付くだろうか、いやきっと気付かない。彼女はアタシの名前すら知らないはずだから。
 バイクに乗るのも健全な中学生であったアタシは初めてで怖く、ただそれだけで亜久津にしがみ付いた。景色を楽しむ暇も、彼の背中に酔う余裕もなく恐怖を抱いたまま、目を閉じていた。バイクのエンジン音だけが耳の奥で燻っていた。このまま横転して死んでしまったらどうしよう、アタシと亜久津が一緒になって死んだら、彼の彼女はどう思うだろう。ああでも死んでしまったらもうなにも怖くないなとも思うのだが、でも死ぬこと自体はやはり怖い。
 平日の海には誰もいない。白い砂浜、近い太陽、キラキラしてる海面。暑くて、片手で目の上に日陰を作っていた。亜久津が後ろからアタシの空いた手を握り、それでふたりで砂浜を歩いていた。海へ近付くにつれ、靴の中に砂が入る。アタシはその内そのきつくアタシの手を掴む指を離してもらい、靴と、靴下を脱いだ。
 足だけ。足首程度まで海に入る。海水は温く、涼みにはならない。首の後ろがじりじり焼けるのを感じながら薄く濁って白い泡の立つ海水の、その奥を見つめていた。貝のような生き物を見つけたが果たして、それが貝殻だけであるのか中身もあったものなのか、判断がつかない。亜久津は靴を脱がず海に入る気もないようで、波打ち際でアタシの手を握ったまま、ただ立っていた。はしゃぎもしない、笑いもしないアタシをそれでも飽きることなく見ていた。
 「海好き?」
 海に連れていってほしいとと言い出したのはアタシだった。
 「うん、好きだよ。なんか知らないけど」
 「へえ」
 「亜久津は?嫌い?」
 「うん」
 「なんで?」
 「においが」
 「海のにおい。いいじゃん」
 「よくねえよ」
 笑うと、亜久津はアタシの手を離し、それから腰に両手を巻き付け、耳元で
 「暑いな」
 なんてどうしようもないことを言う。頭がくらくらとした。
 「好きだよ」
 とアタシは呟いた。
 「ん?」
 と彼は色っぽいその声でわざと、訊き返したりもする。
 「おめでと」
 「ありがと」
 キスをした。乾いた唇が裂けて、血の味がした。アタシの初めて知る味だった。
 「なあこれだけでいいの」
 しばらく黙ったままぱしゃぱしゃと、足を動かしたり後ろから抱きつかれたり、しているとふと、亜久津がそう呟いた。
 「なにが?」
 「俺、海連れてきただけじゃん」
 「嬉しいよ」
 亜久津の眉間に皺が少し寄る。それで彼は、困ったような顔だとかを、して見せるのだ。
 「なんか。ほしいものとかないのかよ」
 「ほしいもの」
 その時アタシの頭に浮かんだのは、自分でも鳥肌の立つくらいべたべたで甘い台詞でそんなもの、亜久津に向かって口にするわけにもいかずアタシは
 「じゃあリングがほしい」
 と、彼の薬指に嵌ってるペアリングを触りながら答えていた。

 翌日アタシはいつも通りに学校へ行き、HR前に廊下で出会った担任に昨日はどうしたの?と尋ねられ、真面目腐った顔で具合が悪くて、と答えた。彼女はそれをあっさりと信じて引き下がり、お大事にねとさえ言ってきた。教室へ入れば友達が何人かやってきて、誕生日に学校を休むなんて、とふざけてアタシを非難しながら誕生日プレゼントをくれた。アタシはいつも通りに微笑んでありがとうと言っていた。
 明るい、朗らかな、健康的な友人達とのやりとりが収まった頃ちらり、自分の小指を見てみる。昨日亜久津がくれたピンキーリングに、誰も気付かない。それでいい、とアタシは思っている。キラリと光る小指を見てはなんとも言えない幸福感を得て、不思議な気分になっていた。
 亜久津は。昨日アタシと海へ行った亜久津朝からさんに教室を連れ出され、どこかへ行ってしまったきり、お昼休みになっても戻ってこなかった。だからアタシは暇で、友人達と昼食をとるのはなんだか物足りないような気がし、それでもお腹は減るから、購買でパンを買い、一階の廊下で食べていた。壁にもたれ、立ったまま向かいの壁を見つめている。一階の廊下はいつも人がいない、教室は全て二階より上にありここには、事務室とか応接室とかしかないのだ。だから大体一回は静かで、涼しく、ひとりでいたい時の場所としてアタシは気に入っている。ああもう幸せだったなあとか昨日を思い目を閉じると足音が聞こえ、目を開けると亜久津がいた。当たり前のように。
 「ここにいた」
 と亜久津は言い、首を傾げて見せた。迷子だったやんちゃな子犬を見つけた時のように。
 「教室にいないから探してた」
 「そう」
 「昼飯食った?」
 「うん」
 「あっそ」
 壁にもたれたアタシの、正面に彼は立つ背が高い。そして亜久津はアタシたちのはじまりの時の、体育教官室の時と同じように、けれど力をこめずにゆっくりと、その体でアタシを壁に押し付ける。アタシの髪に触れ、両手ですいたりしながら。
 「お前ほんとかわいいな」
 「うん?」
 「かわいいって。言ってんだよ」
 「よかった」
 亜久津が額にキスをした。それはぬるりと温かい。見つめ合う。アタシは唇にしてくれ、と願っていた。亜久津はそれを、感じ取ったのかもしれない。アタシたちはキスをし、昼下がりの廊下に似合わないその音がほんの少し、響いていた。亜久津はその内唇を離し、ふとアタシの手を取るとじっと、その小指を見つめる。
 「これ昨日の?」
 「うん」
 彼は。彼はもうしばらくそれを眺めた後まるで外国映画のように、アタシの手の甲に口付けた。その仕草はとてもじゃないがかっこよくて、ひとつも不自然な点は見受けられず、アタシはドキドキとしている。好きだ好きだ好きだ、そう思いもう一度キスをした、深く深く。唾液が、唇を濡らす、その音がやはり響く。火が灯ったように。
 戯言のように好きだと繰り返した。いつからだろう、アタシが彼の恋人だったならと考えるようになったのは。亜久津の本命になりたいと思ったのは。いつからだろう戯言のように繰り返した好きだという言葉に、本心を見いだしてしまうようになったのは。遊びなんかではなく少なくともアタシは、本気なんだと気付いたのは。
 「好き?」
 とアタシは彼に訊いてみる。
 「好き」
 と彼は簡単に答えた。
 「どれくらい?」
 とアタシは彼に不毛なことを訊いてみる。
 「一番好き」
 と彼は簡単に答えた。
 「うそ」
 とアタシは言った。
 「うそじゃねえよ」
 と彼は言った。
 「だってアタシ彼女じゃない」
 とアタシは言った。その時、抱いたのは絶望だった。
 「
 と、彼がアタシを呼ぶ。
 「亜久津」
 と、アタシも彼を呼ぶ。昨日あの海で。なにがほしいと問われた時に。あなたの彼女の座がほしいですなんて、そんなことを言ったら亜久津は、果たして亜久津はくれたのだろうか。
 「それもそうか」
 と亜久津はひとりごち、確かめるようにピンキーリングに触れるとそっとアタシを離れた。それでこちらを見ることなく、振り返ることもなく立ち去ってしまった。亜久津はひとり、納得したままどこかへ行ってしまったのだ。消える後ろ姿を、茫然と見つめることしかアタシにはできなかった。
 やってはいけないことを遂に、やってしまった、とアタシは頭を痛めている。遊び相手だから、アタシは、彼の遊び相手なのだから。一番の好きとか彼女の座とかなんだとか、求めてはいけなかったのだそんなこと、わかっていたではないか。自分が彼の彼女じゃないなんていう事実は、禁句で、そんなものを言った途端この戯言のような熱は、すぐに冷めてしまうのだ。きっとこの関係ももうすぐ終わる。調律の取れない恋愛は破綻する、愛とかいうものが、一方的に重たい時なんかに。それはアタシが壊したのだ、本気になってはいけなかった。彼はアタシに遊びを求め、アタシも彼に遊びを返さねばならなかった。本気を彼にぶつけてはいけなかったのだ、抱いたのはやはり、絶望だった。

 絶望的な気分のままそれでも、アタシは教室掃除などをきちんとこなしてる。お昼休み以降の授業に亜久津は現れず、きっとさんとの愛でも深めているのだろうとアタシは勘ぐり、勘ぐった自分が嫌になった。なにをばかなことを、そんなこと、いつも通りのことではないかなにをいまさら、そんな周知の事実に胸を痛める必要があるのか。
 集めよう集めようとがんばるのにばさばさと舞い上がるだけの埃。箒を持つ手、の、小指に、あのリングがあるのが見えて。捨ててしまわないとならないかと思うと、ひどく苦しかった。たった一日で。たった一日であの幸せは、終わってしまったのだ。たった一言で。
 「
 と呼ばれて振り返る。振り返りたくなんかなかったかもしれない、それでも呼ばれたら。この男に呼ばれたらアタシは振り返るしかないのだ、はじまるのあの日と同じように。亜久津はいて、それでアタシのすぐ後ろに立っている。律儀にもアタシに別れを告げにきたのだろう、それにしたってその場所に教室を選ぶことなんかないのに、と思うがしかし、ああやって体育教官室で付き合ってと言ってきた彼にとってそんなこと、どうだっていいのだろう。教室にいるすべてのクラスメート達が、不思議そうにアタシたちを見ているのにアタシは、気付いていた。
 「亜久津」
 「別れてきた」
 「誰と?」
 「
 それ以外の誰と別れんの、と苦笑してから亜久津はアタシに口付けた。周囲の息を飲む音が聞こえたような気がした。静寂。頭がくらくらし、そうしているうちにアタシは、彼の恋人になった。














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2006.6.10/2014.10.08加筆修正
よくここへ遊びにきてくれていた7月18日生まれの方へ宛てたもの