まあよくわかんないやつだからねえ、と彼のことを形容したのは誰であったか。彼の友人を自称する数人の男子達のうちのひとりか、共通の友人である数人の女子達のうちのひとりか、ある夏の日に私と彼を引き合わせた彼の幼馴染である女の子か、それとも私が彼らに対して彼のことを、そう言って回ったのかもしれない。こんなことは、いままでに一度もなかった。愛とか恋とかわからなくたって暮らしてこれた、それでも数人の男の子と付き合ったり別れたりしてこれたし、幸せだと笑ったり不服だと怒ったりそうじゃないんだと拗ねたり寂しいのだと泣いたりしてきた。ラブソングにだって友人との恋愛話にだって共感できたし、反面私はこんな恋愛はしないと言い切ったりもできたし、こんな恋人と付き合ってみたいものだがたぶん無理だろうなとあきらめたりもできた。おそらく私はこれまで大なり小なり、立派かどうかはわからないし、正しいか間違っているかもわからないけれど、でも、私というものをしっかりと掴んでいた。私というものをしっかり掴み、時々自分のちっぽけさや子供っぽさや融通の利かなさに苛立ちながらもそこにそれなりの自信をもって、生きてきた。愛だの恋だのわからない、けれど私ができる範囲での、精一杯の恋愛。目一杯の好きだという気持ち。一ミリもぶれない幸福感。私は彼の恋人だ。それだけはわかる。けれどそれ以外のことに関して今、私は何一つ確信が持てない。私は彼の恋人だ。そう自称することはできる。けれど彼は私の恋人だろうか。彼は私のことが好きだろうか。私は彼のことが好きだろうか。ずっと一緒にいたいとかそうじゃなくても今一緒にいるこの瞬間をなによりも懸命に生きてみたいとか、慈しみたいとかふたりの時間を共有したいとかいつかどこかにふたりで行ってみたいとか、彼のことが好きかとか、そういうすべてに確信が持てない。そういうものは毎日毎日、私は彼の恋人である、という確信を根っこの方からごそごそ削っていくのだった。私はいま、かつてないほど混乱している。
 彼と出会い、少しの探り合いのよな期間を経て、付き合ってからの私はずっと、これまで経験しなかったこの妙な自信のなさにうろたえていた。彼が私に質問をしてきたのは最初の、探り合いの頃の期間だけだった。そっちの学校楽しい?部活は?休みの日はなにしてるの?こっちの学校祭きたことある?音楽どんなの聴く?スポーツは?ありきたりな、そういうもの。それで私はそれに答え、同じような質問を返したりして、あたりさわりのない自己紹介をし合って、二度か三度放課後に会い、二度か三度休日に待ち合わせをしてご飯を食べに行ったり少しの買い物をしたりして、一度のキスの後付き合った。それから、彼の質問はぱたりと途絶えた。自己紹介もされなくなった。そして私の質問に、彼は曖昧な返事しか寄こさなくなった。その時点でもう私はきっと戸惑っていたのだろう。どうして彼は私になにも尋ねてこないのだろう、詮索したりされたりするのが嫌いなのだろうか、それとも一緒にいられるだけで充分だと感じられるたちなのだろうか、わからなくて、わからないまま、その曖昧な返答が追及を待っている所以のものなのかを察することも、詮索されることを疎ましく思うのかを判断することもできず、あちらから語り出すのを待つことにし自ら質問するのをやめた。そうしているうちにどんどんどんどん彼のわからない部分が増えていき、私なりのいつもどおりの恋人同士のやりとりができなくなってきて、そして私は自信を失い、確実に、そう確実に私は、彼の前で小さく縮こまっていった。
 なんか最近変でさあ、家帰ったらすっごい涙出ちゃって、あんまり泣かない人なはずだったんだけど、もうすっごい、赤ちゃんとかみたいにぼろぼろ泣いちゃって、声も赤ちゃんみたいにぎゃーとかわーとか出しちゃって、泣き喚いちゃうんだよ、最近、それでしかもぎゃあぎゃあなるとわけわかんなくなって、いや、怒ってるとか悲しいとかそいうんじゃなくて、そういうのもわかんなくて、とにかくわーってなっちゃって、泣いて、体中引っ掻いちゃってさあ、もう太ももとかぼろぼろで、引っ掻き傷で、だから最近スカート履けなくて、学校でも濃い色のストッキング履いてったりしてて。以前の恋人達にであったならこうやってあっけらかんと打ち明けていたであろう話も、私は彼には言えない。最近、のさの字も言えない。私が彼との休日のデートや、互いの学校終わりに待ち合わせて会う公園で発する言葉は「すげーカラスいっぱい飛んでる」のうちのカラス、だけであり「今日体育二時間続きでしかもずっと遠距離走だよめっちゃ疲れた」のうちの疲れた、だけであり「そろそろ門限だから駅行かなきゃ、次いつ会える?あとでメールするね」のうちの「駅行かなきゃ」だけであった。付き合いたての私は決してそうではなかった。思ったことはわりと、恥ずかしんだりもしつつ口にしていたはずだ。やっぱ三日間会えないと寂しいもんだねーとか、ごめん昨日携帯充電し忘れてメールできなくて、とかなんとか。でも今では、「カラス」「疲れた」「駅」である。その変化にしかし、彼はなにも言及しない。そのことも。私をぎりぎりと追い詰める。嫌われたのか、飽きられたのか、振られるのか。そう思うのに、それなのに、メールではぽつり好きだと言われる。別れ際にはあっさりとキスもされる。そうして。私は余計にわけがわからなくなっていく。今こうして互いの学校が試験期間が重なり部活動がない為久しぶりに学校終わりにハンバーガー屋で待ち合わせてこじんまりしたテーブルに向かい合っているというのに私は、さきほどからなにも言葉を発しないし彼も、ハンバーガーを咀嚼したままなにも言わない。なんで黙ってんの?なんて、死んでも言えない。けれど言えたら死んでいいほど楽だろう。そんな風に私は思っているけれど彼の方がなにを思うのか、やはり私はわからなくて、彼は私の恋人である、その確信の源が目の前にあるのに、自らの死を願っている。どうして。ねえなんで。そう思うと涙がにじみ、しかしそれにも彼は触れてこない。
 「帰る?」
 ふいにそう言った彼に私は、頷くことしかできなかった。ふたりしていそいそと立ち上がり、トレーを片付け、階段を下り、外へ出る。ずっと無言。足だけを動かし駅へと向かう。改札を通る前、この町に住まう彼がここを通れないこと、通らないこと、通ってくる気もないように感じることに、私はまた悲しくなるのだが、彼はいつも通り私にキスをし、手を振って、またなとかなんとか言って、去っていった。わあっと泣き出してしまいたいのを、ぐっとこらえることができたのはここが自分の部屋ではなく、人通りがあって、それでまだ背伸びをすれば、駅の出入り口へ向かう彼の姿を認めることができたからだろう。
 ねえどうして。ねえどうして私に質問をしてくれないの。ねえどうして私の過去の恋愛を尋ねてこないの。決して幸福ではない顛末を迎えるそれらを聞いて、安堵の表情を浮かべたり、だらしがない男たちをけなしたり、俺はそんな風にはしないと優しい言葉を吐いたり、時々思い出したりする?と不安そうにしたりしないの。ねえどうして私がこんなにも泣きたい気持ちでいっぱいで目の前に座っているのに、なにひとつ言葉を投げかけてこないの。どうしたのとか大丈夫じゃなくていいから、なにか、ひとつでも私の気持ちをかすめるようなことを言ってくれないの。ねえどうして私がさっきあの店で一口も、目の前にあるハンバーガーやらポテトやらに口を付けなかったのに、付けられなかったのに、不思議そうな表情ひとつ浮かべないの。その理由を問いただしてこないの。ってほんと甘えるの下手だよなとか言って私を恥ずかしがらせたり苛立たせたりふっと愛されたように感じさせたりしてくれないの。ねえどうして。どうして私のこの気持ちに触れないの。そっとしておいてくれているのか、本気で気付かないのか、気まずくて無視しているだけなのか、面倒臭くなって投げ出しているだけなのか、以前付き合ってきた人が今の私のような状態が常な人で気にもかからないだけなのか、私は、それすらわからない。あなたのことがわからない。愛も恋もよくわからないまま、変な自信だけ持って、それで運よくここまでこれたせいで、あなたのことをなにも知らないままであなたの恋人を自称し続けてきてしまったから、私は、あなたの仕草のひとつから、表情のひとつから、声のひとつから、なにも読み取ることができない。それが悲しい。異常事態を異常だと察せられるほどのふたり通常を築いてこられなかった自分達の関係が、ここまでの時間の流れが、悲しい。私はこれから家に帰って自分の部屋に入った途端、自分が泣き叫ぶのが予測できた。ぎゃあぎゃあ喚いて部屋中の物に当り散らして、なんでどうしてと呪いにように繰り返しては涙を流し、そのうちそんな自分を哀れんで床に座り込んで小さくなって幼子のようにしゃくり上げる自分の姿がありありと浮かんだ。そんなことは決してしたくない、やめれるものなら私だってやめたいのだ。けれど部屋に入って、やはり自分が自分であると全身で感じた瞬間それはもう止められない。見える全て、聴こえる全てが、私を理解しているようにも責めているようにも感じ、とにかく唸り声を上げずにはいられないし涙が溢れてくるのだ。大丈夫と言われたい。もう大丈夫と言われたい。それを、その言葉を、彼から放たれることを願うがしかし、彼はきっと永遠にそんなことを言わないしきっと、私がこんな風になっていることを知る由もないということが、私は彼の恋人であるという確信を、強く揺さぶっている。
 駅のホームに立ち尽くし、自分の前を何本もの電車が通り過ぎて行くのを見るでもなく見ていた。私のことを、数百もの人々が邪魔そうに避けて歩いていくのも。みな、行く先や帰る先があるのだ。私と違って。みな、この先になにか目的があるのだ。私と違って。数百、それとも数千もの人々が当たり前のように持っているものを私だけが、持ち合わせない。数百、数千もの人々の中でこのせわしない駅構内で私は、私だけが、帰り道も行く当てもわからず、孤独で空っぽだった。
 ねえ亮くん。いつからかそう呼びかけることさえもできなくなっていた自分にはたと気付き、飽きることなくやって来た電車が足元をじわじわと揺らし始めたと同時に私はその場で泣き出した。



無題







----------

2016.7.3
無題ってお前、その5