本来私は無気力な人間ではない。さばさばもしていないし無関心でもないしポーカーフェイスですらなく、そういう鋭く退廃的な雰囲気を持った生き物とは程遠いところにいるはずだ。おもしろければ笑い、悲しければ泣き、悔しければ腹を立て、感情と体の連鎖を素直に表現してきた、人生のほとんどの場面で。けれど彼が現れた時、彼とふたりでいる時私は、徹底的に気力を失っている。泥のような生き物へと変わる。彼が私を変化させるのか、極度に落ち着かせるのか、本来の姿を暴くのか、それとも私がただ単純に彼の気を引きたいがために構ってほしいがためにそういう演技をしてしまうだけなのか、私は考えている暇がない。彼といる時、私は自分のことを冷静に診断している余裕なんて持たないのだそんなこと、していられるものか目の前に彼がいるのに。目の前の彼に集中するしかないのに。だから私は相変わらず、彼の前で無気力になり、どろどろした泥のような態度で、寝転がったり、机に伏したり、体育座りをしたりして過ごしている。ろくな発言もできないまま。
 「誰かのためとか、みんなよく言うでしょ」
 「うん」
 「仕事とか、なんか一生懸命にやってることとか」
 「うん」
 「でもそういうことを理由にするとろくなことがないんだよね」
 「ああ」
 「ろくなことっていうか、なんだろう。見失うでしょ」
 「見失う?」
 「本当にやりたいことってそれなの?とかそれはどうして?とか」
 「うん」
 「最初は真っ直ぐな理由があったのに、信念みたいなものとか」
 「うん」
 「それが段々、誰それのためだからってなると」
 「ぶれる?」
 「ぶれるね」
 うんぶれるんだよ、彼は口の中でそう繰り返し、ひとり頷いていた。その様子を私は机の上に上半身を投げ出し伏したまま、脱力して眺めている。目線は時々彼の目元へいき、目が合えば口元へ移動し、手持無沙汰になって机の木目へ、疲れては瞼を閉じ、と忙しない。私はいつも目元だけきょろきょろと動かし続ける、時々ふいに起き上がって教室の窓の外を眺め、彼がそれに大した反応も見せないのを確認し、また机に伏している。さぼった体育の授業一時間を、ふたりきりの教室で過ごしながら。「ぶれたりする?」、そう上げた私の声は小さく、かすれてもいた。彼はうん?と私に訊き返す。なにか言った?という風に。
 「ぶれる?」
 「俺?」
 「うん」
 「うーん、たまに」
 「うん」
 「たぶんぶれてる、だから今いろいろ軌道修正してて」
 「うん」
 「彼女のため、とか男らしいこと考えてやってたこといくつかあったんだよ」
 「うん」
 「でもそれって失礼な話じゃん?」
 「彼女に?」
 「彼女に。恩着せがましいっていうか」
 「うん」
 「大体俺が。生きてる上でどうなの、って思うわけ」
 「誰かのためって?」
 「そう、ゆるいじゃん、そんなん。ゆるいしぶれてるしださい」
 「うん」
 でも結構苦労するんだよー、と彼は気軽に弱音みたいなものを吐いた。彼の彼女、という存在。私には与えられていない称号。一度だけその姿を見たことがある、彼はあっさりと彼女を私に紹介してきた。当然のような顔をして、普段通りの振る舞いで。私は自分が意外にも、彼女に対してどす黒い感情を抱かない自分をすっと受け入れていた。今もう一度なにかの機会で彼女を目にしたとしてもきっと、同じような受け止め方しかできないだろう。その要因は彼女の存在感というよりも彼の物事の運び方によるものの方が大きいはずだ。彼は無駄であることを端から私に知らせてきている、彼女に小汚い関心を寄せたところでどうにもならないとそして、彼は端から、私が彼女に手出ししないことを見抜いていたに違いない。私は彼女に手を伸ばさない、嫉妬みたいなものも抱かない。けれど彼が彼女の存在を何食わぬ顔でこうして口頭で知らせてくるたび、腹の底が重い。
 「自分を変えるのって大変だよ」
 「うん」
 「でもある時、なんかころって変わる時があって」
 「うん」
 「あるでしょ?」
 「うーん?」
 「わかんない?」
 「うん」
 「そっかあ」
 伝わってない?、彼は今度はそう言葉を変えて尋ね、ううん、と私は首を横に振った。伝わるよねだもんね、そんなようなことを言って彼は微笑む。うー。私は否定でも肯定でも疑問でもない声を返していた。
 「それでさあ、」
 うん、気だるげな風を演じ私はその返事を繰り返し、彼がこつこつと机を、曲げた人差し指の関節で一定のリズムを作って叩くのを見ている。この指が。あの夜ああして私の股の間を撫であんなにも丁寧に私の内部を、探っていた。今、私はそれに指ひとつ、触れることができない。あの夜あの瞬間がまるで夢か幻かのように感じしかし私の体も頭もしっかりと彼を覚えていて、「ダブルスの時ってね」とか、私を目の前にしてそういうなんでもない、穏やかであたたかで色気も素っ気もない話を続けている清純の笑顔が、憎い。



無題







----------

2014.10.21
無題ってお前、その2