てか朝、一生懸命髪作ったりさあ、髪巻いたり、めっちゃスプレーで固めるんだけど、学校来るまでに歩いたりするじゃんそしたらさすっごい風吹いたりして、教室入ったらダメになってんのね、うまくいった前髪とか、綺麗に巻けた毛先とか、全然、違うじゃんみたいになっちゃってるわけ、消えちゃってんのね、だからあたしさ考えたんだけど、学校着いてから髪作ればいいじゃんって気付いたのね。ねえ聞いてる?
 顔をこちらに向けられて初めてこの女が、この隣の席で巨大な三面鏡を覗き込みながら長い髪を熱せられた長細い金属の棒に巻き付けていた女が、俺に話しかけていたのだと気付く。確かに髪は綺麗に巻かれていた、まだ右側の半分くらいだけれど。でも口元にチョコがどろりと溶け始めたポッキーをくわえていたらそんな、綺麗だなんて言葉はまるっきり打ち消されてしまうだろう。人前で身だしなみを整える女は醜い。









          百舌








 そういう風に女がべらべらしゃべっていたのは新学期が始まってすぐのことで、それからも女は俺の隣の席で毎朝HRの時間に髪を巻き続けた。女は一番廊下側の、教卓から数えて三列目くらいの席を所有しており、その足元の壁にはちょうどコンセントの差し込み口があるようだった。一分より少ない時間俺の隣人は長細い棒を余熱し、担任が教室に入ってきて出席をとりはじめてからチャイムが鳴って一時間目の授業準備時間が始まるまでの間、卓上に置かれた三面鏡を開いてそれを懸命に覗きこみながらたまに、まつげを触ったり唇の端を入念に確認したりしながら髪を巻いていた。最後にいつも赤い色をした太い缶のヘアスプレーを、これでもかと自分の頭に振りかける時間が苦痛でしかたがなかった。本人としてはまんべんなく自分の髪にそのひどい匂いのするスプレーを付着させることにもはや命がけですらあるのだろうけれど隣の席の俺としては、たまにそのほんのりと冷たい、そして瞬時にべとべとした触感に変わるそれが自分の腕や、顔のあたりまで飛んできてふわりと皮膚に当たるのが許せなかったのだ。非難の目を向けてみても女は決して俺を見ない。鏡の中の自分に夢中で、できあがったかちかちの髪を摘み上げては難しい顔をしている、または、口にくわえたポッキーとかキャンディーとかそんなものに神経を集中させている。
 新学期が始まって二週間目にして、俺は席替えが催されないかと強く望むようになっていた。

 「あ。やっべー」
 数学の授業中。隣からそんな声が聞こえたが俺はノートから顔を上げなかった。数式をいち早く解くことに専念したかったし大体この隣の女といったら授業中いつも誰かとべらべらしゃべっていて、相手は教師だったり後ろの席の女子だったり携帯の向こう側の人間だったりするのだけど、もっというとこの女は誰も聞いていないだろう時だってひとりで、うぜーとかねみーとかぶつぶつ呟いているものだから俺はもうとっくにその、突拍子のない言葉に慣れてしまっていて特に反応もせず、シャーペンを動かしていた。
 教科書が、教科書が、ねえ。そんな隣の女の言葉に反応を示したのは教室を回って生徒のノートをチェックしていた数学教師だった。
 「教科書忘れたってか」
 「そう数学今日ないと思ってた」
 「ないと思ってたって失礼な話だな」
 「いやでもマジだって。ないもん」
 はあ、と窓側の方から女に話しかけていた教師はため息を吐いて、誰かに見せてもらえよ迷惑かけないように、と指示をした。おっけーと女はさも気軽に返事をし
 「ねえひよりくん」
 と俺の方に顔を向けてそう言った。俺は一切ノートから目を離したりしなかったけれど目の端に映った右側の席に座る女の顔の肌色の部分が、随分な面積こちらに向いているのを捉えて俺に、女が俺に声を掛けているのだと気付く。ひよりくん。もう一度言われてやっとノートから顔を上げる。
 「おはよう教科書見せてもらってもいい?」
 「ひよりくんってなに」
 「え?名前ひよりくんっしょ?」
 「日吉」
 「え?」
 「日、吉」
 「うっそマジかあたしずっとひよりくんだと思ってたよだってさ、担任いっつもHRで、ひよりーってゆってない?」
 静まり返った教室で。女の声は随分綺麗に響いていた、教室のあちこちで小さな、小さな笑い声がくすくすと立ち上がりはじめた。女の勘違いが、それとも女が真似た滑舌の悪い担任の「日吉」がもたらしたのかわからないがとにかくその小さな笑い達は、少なくとも俺に向けられたものではないことに妙な安心が生まれ、女が乱雑に自分の机をがたがた揺らしながら近寄ってきて俺の机の端と自分のそれをぴったりとくっつけたことしばらく、気が付かなかった。
 ぐっと近寄った女からは作りものの花の匂いがする。朝振り撒いているあのスプレーと同じ匂いだった。胸へと垂らした毛束が女が机の位置を調整する度に俺の、自分の机の上でシャーペンを握る手の甲をこそこそとくすぐり、俺は悪意のない腹の立つちくちくに襲われることになる。
 「ごめんごめん日吉くん、でもとりあえずありがとうあたし、数学全然分かんないわけ」
 だからひよりくんめっちゃ頭良さそうだし、いっつもちゃんと勉強してるっぽいし、わかんなかったら教えてもらそうだしさあ超助かるよ、よろしくねひよりくん。
 いつの間にかまたひよりくん、と呼ばれながら女の長い言葉が右耳からなだれ込んでくる。被さるようにあの匂いと、相変わらず手の甲をくすぐる毛先と、そして女の足が机の下で、かつかつと俺の足に当たっていた。どうしてこの女はこんなにも俺に接近して来るのだろう肩もあたりそうだしさっきから上半身をぐいぐいと俺の机の上に載せようとしてくるし、その間にずっと喋り続けているこの女を不愉快だ、この匂いもどうにかしてくれ、とイライラしている打ちにふと、数学の教科書が自分の机の左端に置かれていることに気付いて、こいつは教科書を覗き込む為にこんなに体を押し付けてくるのかなんて無礼な奴なんだろうと、ゆっくり息を吐きながら教科書を机の右端に移動させてみる。女はありがとうあたし目悪いからさあと言って、笑って、黒い瞳を俺の脳裏に焼き付けた。

 聞いてよ今朝歩いてたら、駅前なんだけど、カラスがいて、オープンテラスの前に一匹か二匹いてさ、なんか凄い食べてんの、なにかなーと思ってたらタラバガニなのねあっ毛ガニかなよくわかんないけど、とにかくカニの脚が落ちてて、それめっちゃ突っついてんのね、カニって川に居るんじゃん?カラスって泳げるんだーとか思って、ねえひよりくん聞いてる?
 「カニは海だけど」
 ねえ聞いてる?毎朝HRの時間に尋ねられるようになった。相変わらず女は髪を巻いている、使い込んだ三面鏡を前にして。時々睫毛になにか塗りながら、眉毛をチェックしながら。そして最後には必ずあの缶スプレーを、赤いあの缶スプレーの中身を自分の髪に吹き掛けるのだ。
 「マジかカニって海なん、どうりでしょっぱいもんね」
 自分で撒いた整髪料に下品に咳き込みながら女は答えた。俺は今日も飛散してくるそれを指先で感じ取り、嫌な思いをしている。
 「ー」
 「はあい」
 出欠の点呼を取る担任に女が気軽に返事をした。

 マジ最悪だよだってあたしの家の前はさ、めっちゃ晴れてたわけ、カンカン照りだよ、快晴だよ。なんでこっちこんな雨降ってんのおかげでびしょびしょ、風強いし、信じらんないありえないから、てかなんでみんな乾いてんのあたしの上だけ雨降ってたのかな、ひよりくんおはようあたしどうしよう、ねえ聞いてる?
 HRの途中で教室にやってきて教卓の前を横切りながらべらべらしゃべり続けている女は、自分の席に着くなり鞄をあさり、お得意のコテを取り出すとすぐにそれのプラグを壁のコンセントへ差し込みスイッチを入れた。女の演説によりクスクス笑いが起きていた。確かに女はずぶ濡れで、しかし雨は本当に今しがた降りはじめたばかりでもしこの女が、もっと早く家を出ていれば雨に濡れることもなかっただろうと、思うと自業自得だと言ってやりたくなる。でもどうしようと言われたので部活バッグからタオルを一枚取りだし、隣の女に差し出した。明日捨てても良いような、使い古したやつを。
 「えっうそひよりくん優しくね?ありがとう髪拭いていい?」
 「いいから、黙って」
 黙って、という言葉にまた笑いが起き、素直に無言で頷いた女の仕草にまたまた小さな笑いが起きた。女はタオルを受け取ると笑う教室に向かって唇に人差し指を当てて見せ、ゆっくり頭にタオルを被せた。女の髪が、今だけは真っ直ぐ、下に流れている。
 もしかして、という胸騒ぎを覚えたのは四時間目に差しかかった時で、ずっと抱いていた違和感の正体は喋らない隣の女であるようだった。考えてみればその日、朝に発した拭いていい?の言葉を最後に女は無言を貫いており、俺はとても授業が快適でありしかしその非日常感に、何故快適なのかと疑問を抱くありさまであった。すっかりいつも通りに髪を巻いた女は唇をきゅっと結び、ノートにペンを走らせたり携帯を眺めたりしている。睫毛だけが上を向いている、黒い目は机を向いたまま。髪はくるくるに形作られ固められ、ノートの上を箒のように擦っていた。しばらく、頬杖を突いたまま無言なのに小うるさい隣人を眺めているとふと、顔を上げて女が俺を見た。目が合うと微笑まれる。
 俺は変な顔をしただろう、女が、この間出欠の点呼でと呼ばれていた隣の席の女が、身振り手振り、俺になにかを表現して見せてきたからだ。それは宇宙人の踊りのようにも見えたし、深海に生える海藻の揺れのようにも見えたし、ただの間抜けにも見えたがとにかくその真意が俺には全くわからず、もしかしてこのという女は、俺が朝黙ってと言ってからずっと、本当に黙りっぱなしだったのだろうかと思うと、胃が痛くなったし頭も抱えたくなった。
 「喋っていいよ」
 女の机の方へ体をずらし、相変わらずへんてこな動きを繰り返していた女に小声で、ごくごく小声で試しに言ってみると女は一瞬動きを止めた後、大きな声でふうーと息を吐いて自分の心臓辺りを手で押さえて見せた。
 「あんね、ひよりくん、拷問かと思ったよ」
 それがあまりによく響く声で、唐突だったので、黒板に和歌を書き写していた教師も、それを眺めていた教室中も、一斉にこちらを見て、そして一斉に笑い声を上げた。俺はこの女となにも関係がないのだと言いたかったしそう装いたかったが、朝のHRで俺が黙ってと言ったことを彼等は知っているし、更にご丁寧に女が俺のひよりくんという、今ではなんでもなさげに流通しているあだ名のようなものを口にした為それはできなかっただった。
 「本当に黙ってることないだろ、考えろよ」
 「考えたよ、考えた結果これだよ、鶴みたいにハタでも織ってあげたいくらい、感謝してるよ」
 「だからって」
 「だってタオル貸してくれたじゃんだから黙ってたんだけど」
 でも死ぬかと思ったよね、とが笑う。俺がどんなに小声で話しかけたって、囁いてみたって、この女の声は常に同じボリューム、フル10くらいの大音量で返事をするのだ。言葉を失っているともっかい黙ってって言ってやりなよ、と後ろの席の女子がくすくす笑いながら俺に言った。

 翌々日のよく晴れた朝に女から返却されたあの使い古しのタオルはピンクの紙袋に入っていて、その中で丁寧に折りたたまれていた。はいひよりくん、と珍しく、本当に珍しく俺よりも先に登校していた女が自分の席にだらしなく掛けたまま、だらしなく手渡して来た袋を受け取った時俺は、その中身が何であるのか全くわからなくてすぐに中身を確認したのだけど紙袋の、持ち手を左右に大きく開いた途端、それはもう薔薇園の中にさ迷い込んだのではないかというようなとても濃い柔軟剤の匂いに鼻孔を滅多刺しにされてしまった。こころなし目にもその刺激が飛んできたような気がして何度も瞬きをしていると
 「ほんとにありがとう助かったよ髪は女の命だしねタオル、綺麗に洗ったから」
 と椅子に掛けたままが俺を見上げて笑っている。小さな子どもが母の日に、幼稚園で描いた似顔絵を母親に差し出して見せている時のような、そんな顔だった。ここ最近気付いたのはこの女は、奇天烈だしマナーは守らないし小うるさいけれど、見栄は張らないし嘘は吐かないということだった。だから本当にこの使い古しのタオルを綺麗に洗ったのだろう、と思う。綺麗に洗ったついでに柔軟剤をしこたま使ったのだろう、とも思う。
 例え除菌100%に成功していても俺はこのタオルを部活で使うことはできない、こんな、女子みたいな匂いをテロの勢いで放つタオルだなんて。どんな顔してこれで首の汗を拭うのか。はあとため息を吐くとがコテのスイッチを入れる機械音が聞こえた。

 どうしてこんなにも疲れているのか。好きでやっているはずなのに、と思っても疲労がふっと抜けることもなく、言いようのないもやもやしたものを体内中に抱えながらベッドに倒れ込んだ。3秒か4秒か、それとも10分か20分か。それくらいの時間目を閉じた後、ジャージを洗濯かごに入れてこなければならないし確か現代社会で課題も出されていたし、それに顧問に提出する記録ノートも書かなければと思うと重たい体に力が入る。
 右肘が痛いことをノートに書くべきだろうか、でも明日には治っているかもしれない、と思って開いた部活バッグの中、汚れたジャージと薄っぺらいノート、何枚かのタオルに挟まれて、くしゃくしゃになったピンクの紙袋が見えて少し驚く。一瞬これはなんなんだと思ってすぐに今朝、 が渡してきたタオルだと気付いた後、今日コートに行ってバッグを開けた途端に誰かに「香水みたいな匂いしない?」と言われたのを思い出す。あの時はもうすっかり柔軟剤の染み込んだ返却品のことなど頭になかった為、その言葉に同意しつつその原因がまさか自分であったとは思いもしなかった。
 きっとあの女に悪気はない。よかれと思ってタオルを洗い、大量の柔軟剤でそれを仕上げたのだ。そう思うとこの、汚いバッグの中でくしゃくしゃになった紙袋が不憫に思えてそっと摘み上げる。中身は相変わらずタオルだった。これを我が家の洗濯機に入れて俺のジャージを一緒に洗ったら匂いが移りそうだなと思うが悪気なく洗ってくれたものを、そのまま捨てる思い切りのよさも俺にはない。袋を開けたままだと更に広がってくる匂いにまたため息を吐きながらタオルを取りだすとかさり、と袋の底で一枚の紙切れが音を立てた。ひよりくん、とシャーペンで表に書かれたそれは二つ折り、開いてみればなんてことはない、タオルありがとう、という今朝も聞いたあの言葉と、「おはなのかおりには疲労回復の効果がある!」。
 ぼおっとその漢字変換の場所間違っただろうと言ってやりたい手紙を読みながら、ふいに右手に持ったままのタオルで鼻先を覆ってみる。鋭い匂いは鼻の奥、脳みその手前くらいまで一気に侵入し、俺を打ちのめした。

 ひよりくんってテニス部なんでしょあたし誰だっけ、誰かに聞いたんだけどさ、手芸部だと思ってたんだけどねひよりくんのことだってめっちゃ手先器用っぽいし、でも手先荒れてるしだから毎日なんかこう、編み物とか。裁縫とかしてんだと思ってたわけ、でもこの間さ、タオル貸してくれた時にほら、手芸部タオル使わないじゃん、って思って、ねえ聞いてる?
 「そういえば」
 ありがとう色々、タオルと言われて昨夜の返却品の中から発見したの気遣いを思い出し、小声でそう礼を言うと俺の隣の席の女は、顔を真っ赤にして口を噤んだ。言葉を発しなくなった隣人にぎょっとしているとは、相変わらず黒い瞳で俺を見る、缶スプレー片手に、射抜くように。

 春が終わり夏がきて、日が長くなり大会が近付くにつれ、自然と部活の時間は長引いて俺はいつも翌日の午前中まで、その疲労を引きずった。俺が目をこすっていようとうとうとしていようと、足を痛めていようと筋肉痛を患っていようと、真面目にノートを取っていても英語を訳していても数式に頭を悩ませていてもそれでもは全くお構いなしで朝のHRから帰りのHRまで、べらべら隣でしゃべり続けていた。体育の時ですら遠く離れたグラウンドの向こう端で、走り幅跳びをしている女子の集団からその声が聞こえるのだ。
 髪染めたいなーとか思うんだけどでもなんか、毛先傷んでるからもっと傷むのもよくないなーって思って、今めっちゃトリートメントしてるんだけどもう15分くらい付けっぱでお風呂入ってるんだけどその間、寒くて風邪引くかと思ったよあたしさ、バカは風邪引かないってあれ嘘だと思うんだよだってさ、あたし昔風邪引いて、40℃くらい熱出て、入院したことあるもん小学生の時だけどね。で、なんかの病気かと思うじゃんでも違くて、ほんとにただの風邪だったんだよだからさ、バカだって風邪引くわけ、あー!あーちゃん元気?あ、で昨日帰り道で野良猫見つけちゃってすっごい子猫で、一匹だったからさもう可愛くて、でも一匹だから、かわいそうで、拾ってあげようと思ったのあたし、猫50匹くらい飼いたいから、手始めにまず一匹欲しいじゃん?だからおいでーって手伸ばしてさ、抱き上げた瞬間にどっかからびゅーん!って、びゅーん!って母猫が飛んできてさ、ふぁー!ってあたしのことめっちゃ怒るわけ、歯とかめっちゃ出てたからねそれでごめんつって謝ってさ、子猫下ろしたら、もうすっごい早さで子猫の首くわえてどっか行っちゃった、ねえひよりくんひよりくん、テニスってそんな疲れんのめっちゃ疲れた顔してるけど、すっごい眠そうだけど大丈夫?この学校ってさ、すっごいテニス強いんだね知らなかったけど、誰かから聞いたよでもさ、強いとこって厳しいんだよねよくほらテレビで甲子園とか、強豪校の練習とか見てると超監督怖くてさ、この日の練習は夜9時まで続いた、とかナレーションされて、更にみんな家帰ってから素振りとかするじゃん?ちょっと意味わかんないよねすごいけど、すごいけどさあ。あたしあんなんされたらもう無理だよ、敵わないよ、ひよりくんも家でラケット振ってんの?ねえ聞いてる?
 と、こんな感じ。の言葉の数々は決して俺だけに向けられているわけではない、 後ろの席の女子だとか前の席の男子、 雑談の好きな教師、を注意する教師、窓側の女子と教室の端から端で昨夜のテレビ番組の話で盛り上がっている時もあるし、ドアに向かって教室移動をしている他クラスの生徒へ声をかける時もあるし、誰も反応のないひとり言の時もある。俺は自分の名前が出て、聞いてる?と言われていつも、この長い話が俺宛だったのだと気付いて適当な言葉を一つか二つ、返している。眠そうだけど大丈夫?うん。ラケット振ってるの?うん。そんな程度に。そして夏が更けていく、朝のHRで担任が席替えを提案し、それは帰りのHR前に催されることが決定した。

 あ。やっべー。
 その声は口に出さず俺の頭の中でこだました。昨日は部活の練習試合が特にきつくて、帰ってシャワーを浴びると気を失うように眠ってしまった。朝起きて慌てて通学準備をしたのが間違いだった、俺の現代社会の教科書は、鞄の中にない。
 思わず左隣を見る。新学期から俺の左隣の席はひどく真面目そうな、授業中一言も私語をせず、びっしりノートを取っていて、のお喋りにガンを飛ばすような男子だった。今も自分の作ったノートを読み返している。教科書を一緒に見せてくれるようなタイプではないだろう。絶望だ。
 絶望していても時間は進み、チャイムが鳴ってドアが開き教師が入ってくる。少しも慌てた様子がないが、欠伸をしながらそれに続いて入ってきて、俺の右隣りにどっさりと座り込んだ。そしてひどく面倒臭そうに机の中から、教科書を取り出している。起立、の号令がかかった。がらがらと椅子の音。
 「教科書忘れた」
 着席、の号令の前に体を右に寄せそう呟くと、とっくに座ろうとしていたは俺を見上げ、固まって、その後自分の机の上の教科書を俺の机の上に放り投げてきた。そして教室中が椅子にかけてから手を挙げる。
 「先生、教科書忘れたー助けてー」
 それは相変わらず大きな声で、よく響く。教師はの忘れ物にすっかり慣れていて、誰かに見せてもらってと簡単に言い、黒板に向かった。いやあひよりくんわりーわりー。そんなことを言って後ろの女子をまた笑わせながらがたがたと、机を揺らせて持ち上げながらが近づいてきて、俺の机とそれをくっつける。
 「そういうつもりじゃなかったのに」
 「え?なんの話?」
 俺の机の上に載っているの教科書を黙って指差すとは目をぎゅっと細め、いつかの恩を返しに来ました、とか細い上品な声を作って俺に応えた。鶴の恩返しのつもりだったのかもしれない、恩?と訊き返すとあれはある雨の日のことでした、と続けるので長くなりそうな予感がして人差し指を口に当てて見せると、はふいに黙った。
 「もしかしてまだタオルのこと言ってる?」
 はこくこくと頷き自分の机の上の、派手なペンケースからシャーペンを取り出してかちかちと鳴らした。あの時と同じように喋らなくなってしまった女に少しひやりとし、小声でしゃべれる?と尋ねると苦手だけどね、と蚊の鳴くような声では答えた。
 「ずっと、あの時から今度ひよりくんが困ってたら、助けようって思ってて」
 「助けようって、そんな」
 「ほんとだよ、よかった席替えの前にひよりくんが困ってて」
 「そう」
 教師が黒板に年号を書き始めたので俺もペンを取り出してノートに書き取る。の教科書は俺の机に斜めになって載ったままだ。ちらりと左隣の男子の机を覗くと109ページを開いていたのでそれに倣った。の教科書に引かれるラインは全て蛍光ピンクで、109ページを探し当てるまでに目がちかちかと痛んだ。
 「ひよりくんは最近ずっと疲れてるよね」
 「そう?」
 「そうだよ昨日なんかさ、化学の時半分死んでたよ」
 「ああ、ちょっと寝てたかも」
 「テニス部鬼だもんね」
 「鬼っていうか、大会近いから」
 「疲労回復だよ、温泉だよ、マグネシウムとか」
 「おはなのかおりじゃないの?」
 小さな声でしゃべるの声はくすぐったい。隣にいて耳から下の首のあたりがざわざわとした。は心ここにあらずという感じで口を動かしながら、俺の開いた109ページと108ページの間を手の平で強く擦って教科書が勝手に閉じたりしないようにセッティングしていたのだが、おはなのかおり、のあたりではっと目を見開き俺を振り返った。
 「あれ、読んでたの?」
 いきなり声が大きくなり何人かがくすくす笑いながらこちらを振り返ったので、また唇に指を当てて見せると女は驚いた顔で自分の口を押さえた。
 「あんまりうるさくすると机離せとか言われそうだから」
 「うん、うん、そうだよね、それは困る」
 「いや一応俺の教科書っていう体だから、困るのはそっちだけど」
 「あー、そっか、でも、ちがくて」
 「え?」
 「ううん、いいんだけど。てかさ、あれ読んでたんだ?」
 「読んだよ、帰って袋開けたら入ってたから」
 「おお、うん。そっかそっか」
 「うん」
 「あれさ、洗う時に。ちょっと柔軟剤入れ過ぎちゃって」
 「ああ、まあ結構いい匂いしたよ」
 「謝ろうと思って」
 「疲労回復どころか意識が飛ぶところだった」
 冗談のつもりで言ったのだけどは力なく笑った。ふっとため息を吐くような感じでもって。そして突然前へ向き直るとものすごい勢いで板書を始める、こんなに書く事があるのかと俺を焦らせるくらいに。前を向くとまあ、黒板はまだ半分も埋まっていないわけだけれど。
 1987年。首相の名前。改革的ななにかの発足。そんなものをいくつか書きとめると俺の板書は終わってしまった。教師は時々字を書き足しながらしゃべっている、教科書を読み上げたり、補足をしたり。隣の女はまだノートに向かっていた、けれどもとっくに板書を終えてしまっていて、ペンをノートに突き立てたまま、固まっているだけだ。今日も綺麗に巻かれた髪が、机の上にだらりと垂れている。
 「疲れてる?」
 「ううん、違うよ」
 「なんか今日変だけど」
 「そう、ちょっと朝から憂鬱だよだってさ」
 「うん」
 「コテの温度が全然上がんなくて」
 「壊れた?」
 「多分。で、スプレーも途中でなくなっちゃうし」
 「ああ」
 「で、朝風吹いてて、つけま取れたのね」
 「うん」
 「そしたらアイラインも一緒に落ちちゃって、仕方ないからさ、もう一個のまつげも取るじゃん?」
 「うん」
 「そしたらどっちもアイライン落ちちゃうし、ずっと鼻詰まってるし」
 「風邪?」
 「ううん、鼻炎なんだけど、小さい頃から」
 「そっか」
 「そう、で、席替えするとか言われて、テンションだだ下がりだよ、」
 「コンセントなくなるもんな」
 「うん、困るよそれ、明日からあたしどうしよう」
 「家でやってくれば」
 「だからさあ、登校中に乱れちゃうんだって、ひよりくん、聞いてた?」
 「あ、そうかごめん」
 「いや、うん、違う、ごめん。あー、あたし、ひよりくん好きだよ」
 お前ずっと喋ってるなら席戻せよー、教師の声が教卓から飛んできた。は顔を上げて、たった今目が覚めたような顔をして、教師と、俺とを交互に見た後、
 「あたし?」
 となんとも不思議そうに訊き返し、笑う教師に頷かれ、マジかあたし無意識で喋ってたっぽいよ、と教師に答え、髪を一度手櫛でかき上げた。口角がいたずらっぽく上がっているのを横から眺め、この女が嘘を吐いているのを初めて見たな、と思う。
 人前で身だしなみを整える女は醜い。けれどこちらにふと目線を上げる彼女はそれなのに、綺麗だ。








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2013.11.6
不死鳥シリーズ
ヒロイン考えてたら日吉くんで打ちたくなった話
こういう毒にも薬にも夢にもならない文章を打つのはそろそろやめたい