まるでジップロックのように、私達はこの建物の中につめ込まれ密閉され、文句も言わずまるで当たり前のような顔をして、その中で恋をする。バレンタインまであと4日。









 その中で恋をすることに、当の私達はまるで抵抗がない。もしかしたらこのジップロックの外にはもっと、素敵な異性がいるかもしれなくて、それで実際にはその人と付き合ったりその人に恋をしたりする方が、ずっと有意義で楽しいかもしれないのだけれどそんなことはわかった上でここにつめ込まれている私達は、そんな冒険をする気もなく、その場に適応し、あたかもそれが最善かの様にこの中で恋をする。
 今、目の前にいる同じようにつめ込まれた、例えば同い年の彼に、恋をして、それで満足してる、狭い世界、だけど抵抗はない。
 「バレンタインどうする?」
 というのがここ最近の女子達の話題だ、お前らそれしか喋ることないのか!というくらいこの話しか上らない。私は尋ねられる度に違う返事をする、あげる、あげない、気が向いたらあげる、ついでに告白する、告白しない、もうむしろ本命にだけはあげない、とか。
 正直なところ私の回答なんて彼女達にとって、あまり関心のないことなのはわかっている。とりあえず話題を色恋沙汰のバレンタインにしたいだけであり、そして自分の恋愛話を聞いてほしいだけなのだ。はあ、と呆れながらもそれに便乗してる私は、呆れていられる立場ではないだろう。なんかは。私が南くんを好きだと知ってるのに私の前で南くんに、「ねー、健太郎と清純にバレンタインにチョコあげるからね」 なんて言ったりするのだ。私はそのたびにを睨みつけるのだけど、にそういうのは効かないし、恐らく気付いてもいないような気がする。南くんは清純と一緒になって「やっぱ手作りがいいよねー」なんてと盛り上がったりしてなんだか、はずるいとか、私は思う。
 妙に長く感じる休み時間に自分の机から動くこともなく眠さと葛藤しながら突っ伏してる私。比べて積極的に誰とでも喋ってなおかつ人を笑わせるようなこともでき笑顔の可愛い。そりゃ誰だってに惹かれますよ、バレンタインの話でもしますよ、って感じ。私は突っ伏したまま三人を見ている、背骨が痛かった。
 「あー、でもの料理は殺人料理だから!食べたら死ぬよ」
 「は?超危なくね?」
 「俺そんなんだったらいらねえんだけど」
 「えー、いいじゃん食べなよーお前ら覚悟してなよー」
 楽しそうな南くんとを見ているとなんだかバレンタインの事で悩んでた自分がばかに思えた。きっと南くんは私のことを、好きだとか以前にどうとも思っていない。みたいに可愛くてお喋りが上手な子が好きに決まってる、だってそういう顔をしている。私は椅子の背もたれに掛けておいたコートを引っ掴み、席から立ち上がった。

 屋上には。コートを引っ提げてやって来た屋上にはいつも通り仁がいた。私の方に背を向けて柵に肘を突き、煙草を吸っている。2月の寒空の下で彼の黒いパーカー姿はなんだかミスマッチで、私は屋上の隅の方に残った雪を見て急に寒くなり、コートを着た。
 「こんにちは仁くん」
 「なにその呼び方」
 「いつからいたの?」
 「さっき」
 「そっか」
 仁の隣に並んで、私も肘を突く。はあ、と息を吐くと少しだけ白い。
 仁は無言で私に煙草を差し出した。私はそれを遠慮なく一本受け取り、口にくわえる。仁の持つそれと先を合わせて息を吸い込むと火が移って、口の中で煙の味がした。寒い時の煙草は、何故だか余計に寒さを感じるようになるものだった。
 「がさあ、うざくて」
 私の言葉に仁は笑った。嫉妬してんじゃねえよって。いや嫉妬くらいしますけどって。私は笑えない。
 「だっては私が南くんを好きだって知ってるんだよ」
 「ああそう」
 「それなのに南くんとあんな楽しそうに喋るとか。うざくない?」
 「お前も南と喋ればいいだろ」
 仁が自分の煙草を指で挟んで、はあ吐いた煙は濃く白い。彼のその仕草が、私は好きだ。薄く赤い唇。その端が少しだけ青い。また喧嘩でもしたのかもしれないが、聞かなかった。
 「そんな。簡単に言うけど」
 「だって簡単だろ」
 「無理。なんか無理」
 彼の鋭い目が私へとじっと向き、だから私も仁を見つめる。銀色の髪が少しだけ揺れている。さっきここに来たと言ったのに彼の耳は恐ろしく赤い。
 「ていうかまだ南好きなのかよ」
 「好き好きー」
 仁が私を見るのをやめて、遠くの町並みへ目を戻した。肘を柵に突き手の平で頬を支えて、顔がぎゅうと歪んでる。それなのに仁は綺麗な顔を保ち続けるのだ。こんな美しい男と付き合ってたなんて私は、今になって自分が信じられない。なんて真似をしていたのだろう。
 「もう俺でいいだろ」
 「うーん」
 曖昧な返事をし、私は紫煙を吐いた。仁は自分で私をふったくせに、まだ私を好きだと言うのだ。だから私は自分を、そして仁を信じられない。なんて真似をしてくれたのか。
 「南なんてどこがいいんだよ」
 「じゃあ仁は、私なんてどこがいい?」
 「そういうの愚問っていうんだよ」
 「じゃあ。私も愚問ってやつでいい」
 赤い指先に挟んでいた煙草をまた咥え、仁はパーカーのポケットに手を突っ込む。私は冷たい手先を自分の首に巻きつけて暖めた。
 「俺」
 「うん?」
 「チョコは嫌いだから」
 「うん。知ってるよ」
 「甘くなくていい」
 「うん」
 冗談だかなんだか知らないけど仁は、私に食べ物を所望した。彼が4日後のバレンタインという行事を覚えていたなんて、不思議であり、奇跡的でもあった。
 「クッキーでいい?」
 「いい」
 「南くんはなにがいいかな」
 「まだ南の話すんのかよ」
 「だって。仁だけにあげたら本命みたいじゃん?」
 「いいだろ、本命で」
 また私をじっと見て、仁は言った。私はわざと、にっと笑って見せて、どうだろうねなんて誤魔化した。
 実際のところ、私はまだ仁をふっきれてはいないだろう。まだ付き合ってた頃の最高に仁が好きだという感情が私の中にはたくさん残っている。実際のところ、私はまだ仁に未練があるだろう。だけどふったのは仁で、その時優しくしてくれたのは南くんで、それで彼を好きになって、だけど仁は私を好きだと言う。すっきり私がどちらかを諦めればすぐ済む話なのに、それができない。仁とはもはやただの両思いなのだから仁にすれば簡単な話なのに、それができない。未練だとかいう、本気でも遊びでもない気持ちで仁とまた付き合って、それでうまくやっていける気も、私にはない。
 「私、戻るね」
 このままここにいたらのこのこ仁と付き合ってしまいな気がし、煙草を吐き捨てて靴の裏で踏んだ。私と同じ様に仁も煙草を踏んだけれど、教室に帰る気はないように見えた。
 「がんばって南くんに話しかけてみるよ」
 どうせできないだろうけど、そう思いながら顔を上げた時、と呼ばれ、きた、と思った瞬間に案の定キスされた。別れても私達は、そういう所でお互いに依存していてそれで、それに対する抵抗や不快感を持たない。

 コートを脱いで教室へと向う廊下を歩いていると、清純が笑顔を向けてきた。挨拶しようか、そう考えている間に彼は口を開き私に話しかけてくる。
 「また煙草吸ってきたんだ?」
 「うん、そんな感じ」
 廊下は寒いからあまり好きじゃないのだけど、教室からは女子の笑い声がするから入る気が失せて。壁にもたれて彼のとお喋りをしばらく続けることにした。これが清純じゃなくて南くんだったらなら、どれほどいいだろうなんて考えながら。
 「亜久津いた?」
 「うん、いた」
 「ってさ」
 「うん」
 「どうして元彼と普通に喋れんの?」
 「なんで?」
 「いや。普通、気まずくない?」
 私はちょっと黙って、向かいの壁を見つめた。鉛筆の弱々しい字で大きく「西郷隆盛」と書かれている、超意味不明。普通、元彼とまた触れ合うのは気まずいのだろうか。私にとっては仁と喋ることよりも、南くんと喋ることの方が気まずい。なにから口に出せばいいのかどう答えればいいのか、笑えばいいのか真面目にしていればいいのか正直に身の内をさらけ出していいものなのか、仁の前ではできることが南くんの前では、できない。
 「気まずくないよ。大丈夫」
 「俺なんかさーどうも気まずくて喋れないんだよね」
 「清純は次々彼女変わるからどの子が彼女だったか全然わかんないけどね」
 「そう?まあでも今はフリーなんすよ」
 「あれ?別れたの?他校のなんとかちゃん」
 「うん、ずーっと前にね」
 「そう」
 「彼女がいれば絶対バレンタインになにかもらえてたのにー」
 さっきの仁にしろ今の清純にしろ、彼らにとってバレンタインになにかをくれる女の子の気持ちよりも、バレンタインにただ、食べ物をもらうことの方が嬉しいらしい。恋愛感情なんかよりも、単純な食欲の方が勝っている。それとも友人達との競争なのだろうか、ただの見栄か。
 「は誰かにあげるの?」
 「とりあえず仁にはあげるって約束しちゃったけど」
 「えー?いいなあ、俺にもちょうだい。俺甘いのなんでも好きだよ」
 「材料に余裕があったらね」
 「うんうん、楽しみにしてるよー」
 なんだかんだ言いながら私は清純に本気でなにかをあげる気は全くなかった。なんだかんだ言いながら清純だって私から本気でなにかをもらおうとは思っていないだろう。彼は毎年結構な数の品々を女の子達からもらっているのだから、私が渡そうと渡すまいと例年通りの結果が待っているに違いない、それに、私への好意なんかもないだろう。ただの食欲が、それとも競争心が、今目の前にはっきりと在る。
 廊下でこうして二人で喋っていると、みんなが不思議そうな顔をして前を通り過ぎていった。そんなに私と清純が喋ってるのがおかしいのだろうか。似合わない?不釣合い?異文化交流?どうしてそうなってしまうのだろう。ため息が出そうになったが堪えた。さっき煙草を吸ったからなんだか、口元が寂しい。
 「お?仲良いねなんの話?」
 南くんがどこからか現れて、清純の腕に絡みついた。 お前らできてんのかって心の中で茶々を入れるとすっと落ち着いて、私は南くんを見つめることができる。その後に、なんていうタイミングで現れたのだろうとまた落ち着きを失った。南君が来てくれた嬉しさと、南君の発言に対する悔しさがまじりあい、息が苦しい。そんな。仲良くないよ。私は南くんが好きなんだよ、と心の中での私にしか聞こえない言い訳を繰り返すが、意味はなかった。
 「いやがね、俺にチョコをくれるって約束してくれて」
 「いや。約束はしてないけど」
 「え!したじゃん!」
 「してない、余裕があったらって言ったんだよ」
 南くんは。南くんは私と清純のやりとりを眺めて笑い、ゆっくりと口を開いた。
 「お前さあ、自分からねだるなって」
 耳鳴りがした。なんか、きーんとか。確かに。南君の声に、耳鳴り。南君の声が、耳鳴り?
 「そうだよね、普通自分からなんて言わないよね」
 とりあえず会話を続けなくきゃと思って私は言葉を出した。南君は困った様に笑って私を見て、口を開けた。南くんが。南くんが私に向かってなにか喋るよ、って。ぼんやり思っていたらチャイムが鳴った。ああ、なんていうタイミングだ。
 「うわ、理科室じゃね?移動移動」
 南くんが。慌てふためいて清純の肩をぎゅうと引っ張り教室へと消えた。あーあ行っちゃったよと、ぼおっとしてるうちに彼らは教科書とノートと筆箱を持って出てきて、だーっと私の前を走って廊下のかなたへと消えてしまった。あーあ行っちゃったよと、またぼーっとしてるうちにもったいないことしたなあなんてみじめになって、私はその場にうずくまった。脱いだコートをぎゅうと抱き締めて、喉を圧迫する。廊下は静かで、それでも高い高い、なにかの響く音がする。もう、理科なんて出るもんか。と私は思う。腕を組んで膝を抱えて、そこに額を埋める。背中を壁にぎいぎい押し付けるとなんだか苦しくて、気持ちがよかった。
 もっと喋りたかった。どうしてこうもうまくいかないのだろう。こんなの、喋ったうちに入らない。今日もまた南くんと一言も喋らずに、一日が終わるのだ。口を開けるとうううう、という低い唸りがわらわらと出てきた。

 勝手に早退して家に着いて、着替えてベットに仰向けになるとすぐに眠れた。明日から休みだと思うと気が緩む。南くんのこともバレンタインのことも考えなくて済む。南くんと喋らなくちゃなんて焦らなくていい。南くんがと喋ってるよ死ねなんて恨まなくて大丈夫。ベットは私の形に深く沈んだ。ああ眠気と、疲れが一緒くたになって私に圧し掛かってくる。
 目が覚めると土曜日の午後になっていた。バレンタインまであと3日。
 とりあえず起き上がって目をこする、昨日、夜ご飯を食べていないからかお腹が苦しかった。でもちょっと痩せたかもなんて考えると、少しだけ幸せになりポケットに入れっぱなしだった携帯を出して画面を見ると、メールが1件。少し期待をしながら開くと差出人は仁で、今日の朝4時に受信となっていた。そんな時間に起きてるなんて不良っていうよりじじいみたいだった。
 「起きてる?」その文字に、起きてませんよー爆睡ですよーと思った。だから「ごめんねてた」って返事を送って充電がもう一個しかないのを見て充電器に差し、もう一度ベッドに寝転んだ。ふかふかの、しかし少し湿ったように冷たいベットは私にまた眠れと命令する。私は何時間、何日間でも寝ていられる、もういっそ、永遠に眠ってしまいたいくらいだ。ずっと夢も見ずにノンレム睡眠を続けていたいなんて、寝惚けてる時は意味不明なことを望んでしまう。
 仁からの返事はなかなか返ってこない。今は彼が寝ているのかもしれないし、メールに気付かないのかもしれない。大体「ごめんねてた」になんて返信しづらいのかもしれない。「へぇ寝てたんだーあーそー」と納得し返事なんてくれないのかもしれない。別にいいやと私は思って、スウェットのまま財布だけを持って家を出た。
 痩せたかもしれないが、しかし空腹には耐えられない。家から歩いて三分のコンビニに入ると店員がああお前かみたいな顔で私を一瞥してからいらっしゃいませーと言った。私は一目散にパンコーナーへ向って今日の朝ごはんを探す、土曜の午後に。パンコーナーの隣ではバレンタインフェアみたいのをやっていて、ピンクや赤で「はっぴーばれんたいんでーかんしゃのきもち」だとか看板に書かれていて、その下にはチョコやらなにやらがごちゃごちゃと800円くらいで置かれていた。そうかバレンタインなのかなんて、学校では必死に悩んでいたくせにコンビニになんかにそれをふと気付かされてしまって、情けない。
 気がつくとバレンタインのチョココーナーに私はいて、パンなんか投げ出してチョコを必死に眺めていた。あ。おいしそう。あ。これもおいしそう。あ。あっちのもおいしそう、そんな風に。結局パンを買わないでバレンタイン用のチョコを買い、朝ごはん代わりにするはめになる。
 部屋に戻って着替えながらチョコを頬張る。なにを間違ったか私はお酒の入ってるチョコを買っていたようで、チョコの中からでろでろとワインかなにかが出てきて気味が悪かった。朝ごはん朝ごはんと食べつつ今は15時で、実は朝ごはんも昼ごはんも通り越しておやつだったことに、頭を貫かれたような気がした。
 そのまま。部屋にこもり夕方がすっかり終わってしまうまで漫画を読んでいると、充電が終わったけれど充電器に差しっぱなしにしていた携帯がメールを受信した。誰かしら、南くんかしら、でも私、南くんのアドレス知らないのよねえなんて、頭の中で演劇しながら携帯を開くと清純で
 「って誰が好きなの?」
 なんて書いてある。私は演技がかっているがゆえにはあ、なんて大袈裟にため息を吐きながら
 「誰だろねー」
 とだけ返した。もしかして清純は今南くんと遊んでいて、私の気持ちを探るためにメールを送って二人で画面を覗いているんじゃないかなんて、ありえないわけじゃないけれどありえないことを想像した。そうするともう、私は冷たくメールを返し続けるしかない。
 「えー教えてよー」
 という清純の返事。
 「やだ!」
 という私の返事。
 「誰なの?」
 という清純の返事。
 「きよすみではないから安心してよ」
 という私の返事。そこで
 「今平気?」
 という仁からのわりこみ。
 「平気だよ」
 という私の仁への返事。
 「そんなの知ってるよ!」
 という清純の返事。
 「そっか」
 という私の清純への返事。
 「俺の家来て。」
 という仁からの返事。
 「わかった」
 という私の仁への返事。
 「ねえ誰?」
 という清純の返事をシカトして、私は着替えた。ひさしぶりに短いスカートを履いたりして。なにこれ私、恋する女の子みたいじゃん、きもちわるーと自分で思うのだが、取りやめない。太股がスースーする。2月にこんな格好をして、私というのはばか丸出しだろう。だけど私は付き合ってた時に仁が、私の脚が細くて好きだと褒めていたのをしぶとくも覚えている。

 「こんにちは仁くん」
 「眠そうな顔してる」
 と仁はかすかに笑った。ひさしぶりの彼の部屋の匂いに私は、恥ずかしかった。
 しばらくの間仁と、彼の部屋のベッドに座りなんでもないことを喋っていた。受験のことだとか、担任のことだとか、好きな歌手のことだとか、雪のことだとか、高校のことだとか。私と仁は同じ学校に行くことがいまさらわかって南くんは全然違う、県外の高校に行くらしい事が仁によっていまさら、知らされた。
 「そっか高校違うんだ」
 「うん」
 「これはやっぱり思い出として、バレンタインになにかあげないとなあ」
 一緒のベットに座ってステンレスのカップに入ったコーヒーを各々だらだらと飲みながら、私と仁は呼吸をした。
 「南なあ」
 「うん?」
 「いや」
 気にするなとでも言いたげな返事の後仁は、中身の飲み終わったカップを部屋の端へと投げた。そう投げたのだ。カップはというと気だるげに弧を描き、かーんという間抜けな音を立てて墜落した。かんかんと少し跳ね、そして静止する。
 「乱暴はよくないよ仁くん、ていうかなに今の?」
 止まったカップを見つめながら私は言った。仁はまだ中身の入っている私のカップを奪ってその中身を飲み干し同じ様にまた投げた。かーん、かんかん。
 「前にね。テレビでこういうの見たよ」
 「うん?」
 「5歳の子がだだこねて。食器やらコップやらを部屋中に投げまくって」
 「ふうん」
 「コップが泣いてるよー」
 あの時のテレビの中の穏やかそうなお母さんの叱り方を、冗談のつもりで真似て言い仁を見たのに、彼は笑っていなかった。それで痛いくらいに肩を掴まれて、そのままぎうと押し倒された。私はああマズいと思いながらも、抵抗する気なんて微塵もなかったのだ。やっぱり仁くんはかっこいいですよーなんて、そんなことを考えている。

 セットしていないのに壊れたのかなんなのか、携帯のアラームがピリピリと鳴ってしまい仁が起きた。私は急いでYシャツのボタンを締めている。昼間の太陽がカーテンの隙間から、少しだけ見えていた。バレンタインまであと2日。
 「なにこの音、」
 仁が乱暴に私の携帯を開きピリピリを止め、不機嫌なんですと主張するかのように私に携帯を投げつけた。私はなんとかそれを、受け止める。手のひらの中でストラップがしゃんしゃんと鳴った。
 「相変わらず寝起き悪いよね、5歳児もびっくりだよ」
 「うるせえよ」
 仁がうつ伏せになりながら、ちらりとこちらを見る。綺麗な鋭い目、と合う私の目。
 「あーお前、なに俺の服着てんだよ」
 私はボタンを締め終わると仁の方へ両手を広げて見せた。だぼだぼしてて、なんだか間抜けかもしれなかったが、それでも。
 「似合う?」
 「いや。なんで俺のシャツ着てんすか」
 「私が昨日着てたの汚れちゃったし。だから今洗濯中。洗濯機借りてるから」
 「あほ、なんでお前の家みたいになってんだよ」
 仁が大きな欠伸をして、枕に顔を押し付ける。ふわふわのそれがしゅうと沈む。仁の背骨が、筋肉が、ただただたくましいなあなんて、惚れ惚れとしていた。
 「
 こもった、仁の声が聞こえる。私はなあにと、返事をする。
 「やらしいんだよ、その格好、」
 そこで顔を上げ、もう一度欠伸。やらしいなんて初めて言われた、でもやらしいのだろう、短いスカート履いてだぼだぼの仁のシャツを着ているから、傍から見ればスカートを履いてないように思えるに違いない。まるで痴女だ。
 「私。帰るね」
 「
 「なに」
 眠たそうに体を起こして、仁が手招きをする。だから近寄ると「もっと」と仁は呟いて、私の返事を待たずに苦しいくらい私をぎゅうぎゅう抱き締めた。裸の仁は、冷たかった。
 心臓がバクバクいっていた。昨日の夜にした時よりも全然、バクバクいっていた。これはまずい、だってなんだか、恋みたいだ。仁は私を離すとまた、ベットにうつ伏せになって顔を枕に押し付ける。
 「私の服、洗濯機終わったらちゃんと干しておいてね」
 部屋を出る時に言ったけれど、仁は答えなかった。そのかわり「早く帰れ」とでも言いたげにうつ伏せのままこちらに手を払って見せた。

 休み時間、南くんは教室の隅で清純とか仁とお喋りをしている。私は自分の席に着いて大人しく、昨日漫画を読み過ぎたせいで痛い頭をいたわり机に伏している。バレンタインまであと1日。
 結局のところ私は、南くんになんらかの食べ物をあげるか決め兼ねている。作ったとして、私は本当に彼に渡せるのか。自問してすぐに答えが出る。自答、私は手渡すことなんてできません。そんな、作る前から答えを出しているのにはたして、作る意味があるのだろうか?どうせ渡せないのだったら、そんなもの。
 そこに。どたどたと足音。きゃっきゃという笑い声。話す?話す?えーわたしが?という相談。眠い私は腹が立ち、顔を上げる。前髪が額にぺったりとくっついてうざったかったが、気にしている場合ではなかった。私の前を四人の女の子集団が駆けて行って、彼女達が一直線に南くんの方へと向かっていくのが見えたからだった。
 このあふれ出る危機感はなんなのか、いやな感じが体の中をめぐっていくのは。集団と、その先の南くん、そして清純、仁を見続けてしまう。耳を研ぎ澄まし、じっとしている。
 「健太郎くんって。甘いもの好き?」
 一番右の子が軽やかに言い、なんてことだ、と私は思った。あの子も南くんが好きなのかもしれない、隣のクラスの、くせっ毛のふわふわした天使みたいな子が。
 「うん。好きだけど」
 「ほんと?すごく甘くても大丈夫?」
 「あー、大丈夫、です」
 あはは、なんで敬語?と女の子達にしょうもない笑いが広がった。私は、思わず集団を不愉快な顔をして見ていたことだろう。すると清純と目が合って、彼は私に意味ありげに笑い返してきた。
 「明日、チョコあげてもいい?」
 右から三番目の子が恥ずかしがりながら言い、なんてことだ、と私は思った。あの子も南くんが好きなのかもしれない、隣のクラスの、笑顔がかわいい聖母みたいな子が。
 「あ。はい、ください」
 敬語直ってないよ、と清純が笑う。それでこいつ手作りとかに弱いよーと南くんをからかい、彼に軽く腕を叩かれていた。そうか手作りがいいのかと、遠巻きの私は学習した気分だった。
 「ねえ亜久津くんは?なにが好き?」
 右から二番目の子があっさりと言い、なんてことだ、と私は思った。あの子は仁が好きなのかもしれない、隣のクラスの、手足の長い女神みたいな子が。
 「返事してあげなよー」
 清純にそう言われたが、仁は言葉を発せずむすっとなって、そっぽを向いてしまった。彼は騒がしい女の子達が嫌いだ、きっとそうだ、そう思う。私の都合のいい解釈だけれど仁は、そういう男なのだ。何故だか少し安心し、息が漏れる。
 彼らはその後も少し話をし、笑い合って、チャイムが鳴る前に彼女達はまたどたどたと帰っていった。きゃあきゃあ笑いながら。話した?とか。話せたねとか。かっこよかったーとか。言っているのが聞こえていた。その時私は、また机に伏せて眠ったふりをしていた。ライバル多いな、負けてられないななんて、無駄に対抗意識を燃やしていた。
 この狭い空間の、頻繁に顔を合わせる異性に、私達はほんの少し接するだけで恋心を抱き、バレンタインになにかあげなくちゃ、あわよくば告白しなくちゃ、とか考えてあたふたして悩んでいる。同類のくせに私はそれを認めず、同類への嫉妬を抱いてライバル視して、今日も早退をした。私もなにか作らなくちゃなあと思って下校しながら、自分がお菓子作りなんてこれまで一度も、したことがない事実に気が付いた。

 ひさしぶりに入るやたらと乙女チックでファンシーな雑貨店で、コンビニとはまた違うバレンタインコーナーを前にして、私は恥かしさを持ちながらうんうん唸ってたむろしてる。
 仲のいいあの子とあの子とあの子にはあげるからと、赤い包装紙を三枚手に持ち、仁にもあげるからと赤より少し高い組み立て式のギフトボックスを一つ手に持ち、結局、それよりももっと高い籠型のものを南くんにあげるんだよって決心して一つ手に持ち、レジへ向ってお金を払った直後、ああ、なんか無駄遣いをしたかもなんて後悔した。
 その後近くのスーパーに入り、クッキーを作る為の粉やら粒やら液を買って、レジのお姉さんが「840円でーす」と言ったのを聞いて一人、恥かしくなった。
 さらにその後本屋へ行って、午前授業だったのだろうか小学生の女の子達がきゃあきゃあ言ってる間をすり抜けお菓子のレシピが乗っている雑誌を、中身も見ずに一冊引ったくり、レジへ持って行って1500円だと言われてなにかの間違いでしょう!と思わず言いそうになった。
 バレンタインって案外、金のかかる行事だったようだ。イライラしながら家に帰ってキッチンで例の雑誌を開くとおいしそうなお菓子がカラー写真で様々載っており、どれを作ろうかしら、ていうかこれにしようかしら、でもこれでも良いわねなんて考えてたのだが、どれもこれも材料が足りなくて作れないらしいことが判明し、結局は元々家にあった母所蔵の「簡単お菓子作り」という本を引っ張りだし、安易すぎるクッキーを作ることが決定し、雑誌買わなきゃよかった、買戻ししてくれないかなあなんて悲しくなった。
 練った生地はベタベタ手にくっつくし、飾り付けに使おうと思った色のついた砂糖はぶちまけるし、オーブンの使い方なんて全然わからないし、22時にやっと完成したクッキーはほんのわずかで、しかもその中からさらに食べても害がなさそうで見栄えがいいものだけを選出するとどうにも、仲良し女の子三人にあげる分はなかった。
 でももう眠くてそんな、女の友情なんてどうでもよくなってしまって、私はせっせとクッキーを南くんと、仁の籠と箱につめ込み、無駄になった赤い包装紙はゴミ箱に捨て、もう眠いわー!寝かせろー!と汚れた食器も道具も余った出来損ないクッキーも放りだして、汚い手だけを洗ってベットに入った。自分は最低だ、最低の女だ、なんてベットの中で考えながらも深くベットに沈む感覚には勝てず、私はそのまま眠ってしまった。南くんのことも女友達のことも仁のことも明日のことものことも、どうでもいい。どうでもいい、寝かせろー!という気分だった。

 翌朝起きて携帯を開いたら、8時59分ですと告げられてしまった。遅刻じゃん、これ遅刻じゃんって慌てたりもしたが、だけど急ぐ気はなく、むしろ学校なんて行きたくなかった。四苦八苦しながらクッキーを真剣に作っていた昨日の自分が本当にばかみたいに思えた。誰に見られていたわけでもないのに、恥ずかしかった。バレンタイン、当日。
 のろのろと学校へ行くとちょうどに時間目が終わった後の休み時間で、教室はいつもよりぎゃあぎゃあとうるさかった。女子は女子同士でチョコを渡し合って「私のおいしくないけど」などと言い合い、それを見た男子がいいなー俺も欲しいなーなんてわざとらしく言ってたりしていて、クラス中に広がるその風景はなんかの祭りですか、というくらい間抜けだったけれど、昨日必死でクッキー作ってた自分も同類である事実に胸が締め付けられる。
 着席だ。とりあえず着席しなければと考えていたら「あーきたー!」なんて例の女友達三人が駆け寄って来て、しっとりと重く、可愛い包みを私に押し付けてきた、はいバレンタインと。私はそれに一瞬かあと恥かしくなりながらも笑って「ごめん、私からはホワイトデーでいい?」と言ったりした。いいよー私今年はゴディバがいいなーなんて例年の私の手作りでないプレゼントを知っている友人達は冗談を言い、隣のクラスの友達に包みを渡しに行ってしまった。私は貰った三つの包みをさっと鞄にしまい込んだが、その時自分が持って来た南くんと仁の分のクッキーが目に入り、なんだかまたかあと恥かしくなって、それでやっと着席することができた。
 コートを脱いでまた椅子の後ろにかける、授業中居眠りする時に羽織ると暖かくて気持がいいので、いつもそこだ。南くんがどこにうるのか探すこともできず、座ったまま机に目を伏せた。しばらくすると間抜けにチャイムが鳴って、みんながぞろぞろと席に着く。国語の先生がプリントを配る、後ろにそれを回す時、私はチラリと仁の席の方を盗み見た。彼の席は空だった。どうやら仁は休みらしい、あれだけクッキーをねだっておいて、どうやら仁は休みらしい。ふ、という虚空感が私を包んだ。
 プリントに落書きをしていると三時間目の授業は終わった。みんなまたがやがやと立ち上がり、窓辺に集まったりトイレに行ったりしている。時計を見るふりをしてちらりと窓辺に目を向けると、南くんがいつも通り清純とそこにいた。床に座り込んで、なにかくだらないことで大笑いをしているようだった。その姿を見てどういうタイミングで南くんにあれを渡せばいいんだろうと焦りを感じながら、時計を見るふりをしていた私が彼らを注視するわけにもいかず、顔を戻して机に突っ伏した。今日は屋上に行ったって仁はいない。暇だ、かと言って女の子三人について歩くのもつらいし、教室で延々お喋りしてるグループにも入れない。
 体が痛い。うまく伏せていられない。うん、と大きく伸び。ふわあ、と大きく欠伸。あ。マズいなんていまさらに思って口をふさぐけれど、誰も私のことなんて見ていないようだった。南くんがああやって友達といるうちは、私は絶対にプレゼントなんか渡せないだろう。しかし南くんがひとりになる事なんてめったにないのだから、もしかして私はずっと渡せないんじゃないか。なんてことだ、でもそんなこと、昨日からわかっていたではないか。
 どうすれば?ぼんやりと考えている間に昼休みになっている。バレンタインフェアをしていたあのコンビニで買ったサンドイッチを片手に、教室はカップルばかりで居場所がなく、私は非常階段へ向う。屋上は寒い、だから人気のない非常階段へ向う。寒い廊下を歩く間、各教室の前を通るけれど、どこもいつも以上に騒がしい。こんな、一年のうちのたった一日だけをこんなに待ち望んでこんな、みんなでわいわいいつも以上に騒いでいるなんてなんだか不思議だった。そして私もその一員なのだろう
 どうせなら非常階段の一番上で食べるべくカンカン階段を上る。階段は変な色をしていた、滑らないようにか縁には赤いゴムが付いているが、でも埃まみれで逆に危険そうである。カンカンカンカンと階段と足の音、そろそろ上るのをやめてこの辺に座り込んで食べようかしらと思い、ああ疲れた、なんてふと顔を上げるとそこには南くんが座っていて
 「ぎゃあ」
 と私が叫ぶと向こうも驚いたように目を見開いて、その後笑った。南くんは埃っぽいこの非常階段の上の方に一人座っていて、膝の上に可愛いラッピングのされた包みを沢山抱えており、ぎゃあ、と思わず言ってしまった私を凝視している、どういう状況か。
 「南くん、」
 「やあ
 「えっと、なんでいるの?」
 「なんでって、」
 だめだったかなーと呟く南くんに対し、私は運命かと思った。こんな所で一対一で、好きな人にバレンタインの日に会えるなんてきっと運命だ。神よ、私は叫びたかった。南くんは感動する私が手に持つパンの袋を見て、首を傾げた。
 「弁当まだなの?」
 「うん、ここで食べようと思ったんだけど、えっと。邪魔ならどっか行くし」
 「いや。いいよ、食べてけ食べてけ」
 南くんはそう言うと包みの中身をぽーんと空中に投げ、口に含んだ。丸い形のチョコレートを。私の好きな人は素晴らしいコントロール力をお持ちなのですと、と考えてすぐ、運命の悪戯に気付いた。運命に、運命の悪戯が重なったのだ。私は、せっかく作った南くんへのクッキーを今、持っていない。それは教室の鞄の中で、仁への包みと、女友達から貰った三つの包みと一緒にある。なんてことだ。
 最低だ、私は最低だ。今しかないというこの時に、ことごとくタイミングを外す、最低、自分。運命がどうこう言っている場合ではない、ただの不運ではないか。それでも、落ち着いている振りをして私は、南くんの座っている段の一つ下の段に腰を下ろしてサンドイッチの包装紙を開けた。マヨネーズがパンの間からでろっと出てきた。
 「あ。おいしそう。ちょっとちょうだい」
 「うん」
 私はドキドキしながらサンドイッチをちぎり、南くんに渡した。彼はどうもと言って受け取りそれを食べた。指先は触れなかった。けれど、これまでで一番の、接近であったかもしれない。
 「じゃあにはにもらったチョコをあげよう」
 「ん?ありがとう」
 南くんが私の手の上に、きれいな形のトリュフをひとつころんと置いた。私はそれを口にする、昨日自分が、四苦八苦して作ったクッキーとは比べものにならないくらいおいしかった。ココアの粉が鼻に逆流して、痛くて涙が出そうだった。
 「南くん、もてるんだね」
 「そう?千石はもっともらってたけどなあ」
 「そうなんだ」
 「は俺にくれないの?」
 「え?」
 私は一瞬、不愉快な顔をしたのかもしれない。南君が焦ったようにごめんごめんと苦笑した、驚いた?なんて言って。私は別に、と言ってサンドイッチにかじりついた。なにが別に、なのだろう。驚いた、普通に、驚いたのだ。南くんが私に催促をしている、バレンタインの、プレゼントを。それは好意の表れだろうか、私のことが好きで好きでたまらなくてプレゼントが欲しいと言っているわけではないだろう、そんなことはきっとない。けれど、まるで興味のない女子に対してそんな催促も、しないはずだ。
 「南くんに」
 「ん?」
 「あとであげるね」
 「え?ほんと?ありがと」
 南くんの笑った声が非常階段に響く。その響きに乗じてカンカンという音が聞こえ、ドキドキしている私とふわふわ笑う南くんのもとへ清純が来た。
 「おお、がいる!南、購買全部売り切れてたよー」
 「マジかよお前のラッキーってたまに役に立たないのな」
 うるせえと清純はへらへら笑って私の隣によいしょと座った。それで私の顔を覗き込んで
 「ん?どうして顔赤いの?」
 なんて言う。うるせえと彼の真似をして私は彼に言った。精一杯だった。
 しばらく黙ってもそもそと、サンドイッチを食べていると喉が渇く。ちょうだい、と言って清純にアクエリアスを一口もらって飲んだ、喉がすっと潤ったのを感じた。彼は、清純は南くん以上に女の子達からお菓子をもらったようで、それらを膝の上やら階段やらに置き、むしゃむしゃと食べていた。口の端が茶色くてはしたないやなんて思い、そして昨夜女の子達が懸命に作ったお菓子達が、こんな風にお昼ご飯代わりにされていることを憂いている。
 「今年は俺の勝ちだなあ南ちゃん」
 「まだわかんねえだろ、あと二時間あるし」
 「いやいや、地味な南にはもう誰も渡さんよ」
 「はあ?ふざけんなよ」
 「そのチョコだってねきみ、全て義理チョコだよ」
 清純と南くんのやりとりを聞きながら私はサンドイッチの最後の一欠片を口に押し込んだ。今から教室に戻って鞄から包みを持ち出して南くんに渡す時間はあるだろうかと、考えていたらチャイムが鳴った、昼休み終了、最低、自分。
 五、六時間目は淡々と過ぎて行く。時期が時期だからか、先生方は誰1人としてバレンタインのことを口にしない。今日もいつもと同じく、受験、高校、入試に関する説明と説教。受験前にこんなにしまりのないクラスは初めてだって言うけど先生、そのセリフ去年の三年生も言われたって言ってたよ先生、なんて。
 私達はまだ先の受験なんかより今日、2月14日というなんの変哲もない日を気にしている。この日好きな男子になにをどう渡せるか、この日クラスの女子になにをどう渡されるか、それに人生が左右されるわけでもないのに必死に今日を気にしている。なんだか未来の私が、そう受験してる時の私が今日この日を思い出して、なんだかおかしいなあ私ばかだったなあなんて思うのかもしれないけれど、そんなのあまり気にしていなくて、南君にクッキーをいつどうやって渡すかを必死に考えている。
 それでも良い案は全く思いつかなくて、段々と面倒になり、きっと南くんにあれを渡すことができたって私は、告白の言葉を口に出せないだろうとわかりきっていて、数学のプリントを前に私は眠たくなっていて、目が覚めたら六時間目が終わっていた。帰りのHRが始まる前の時間で、先生がまだ来ていないのを良いことにクラス中がまだ騒いでいる。重い瞼を気合いでこじ開けて周りを見渡すと、女友達三人が慌てたように寄ってきたのが見えた。
 「わー、もう、泣いてるのかと思ってたー」
 いやいや、泣いてませんけど。ていうかなんで泣いてると思われなきゃならんのだ、と不思議そうな顔をしたことだろう。それを見て彼女達もまた、不思議そうな顔をしていた。
 「あれ?知らないの?あれ」
 あれってなに、どういうこと。嫌な予感、だけど見当もつかなくて。なにが、と言いたいが寝起きで声が出なかった。
 「まあ知らない方が良いかもしれないけど。ねー」
 顔を見合わせて困惑する女の子達。おいおい勝手に話を進めないでくれよ、と思うがやはり、声は出ない。
 「南くんね」
 女の子の声なのに妙に低い声が、私の耳元で響く。ぶんぶんぶんと。
 と付き合ってるんだって、女の子の声なのに妙に低い声が、私の耳元で響く。ぶんぶんぶん、と。
 それってどういうことねえどういうこといつから?いつから付き合ってるの?と、やっと声が出るようになった私は聞いた。今日から付き合ってるんだってていうかさっきから、チョコ渡した時にが南くんに告白して南くんはいいよって言ったらしいよ、さっき楽しそうに話してたもん二人で。と、女の子達が言った。
 南くんは。非常階段のところで私と喋った。その時既に彼は、の彼氏だったようだ。南くんは。非常階段のところで私にの作ったトリュフをくれた。 その時既に彼は、の彼氏だったようだ。南くんは。非常階段のところで私にはくれないの?と言った。その時既に彼は、の彼氏だったようだ。私がせっかく作ったクッキーを渡す前に、彼はのものになってしまった。私が愛の告白をする前に、彼はのものになってしまった。清純は彼のチョコを「全部義理チョコ」と評したけれど、そんなことは決して、なかったようだ。
 ちょっと待ってくれよ南くん。もう少し待ってくれよ南くん。私、告白してないじゃない。にいいよって言っちゃったって、ねえ、私だって告白したかったよ?ねえ。
 女の子達は口々にありきたりな慰めと同情と励ましの言葉を私に吐きかけ、無駄にへらへら笑ったり妙に深刻ぶったりしながらわらわら去って行った。私は泣いていない、と自分で意識した。あーもういやですよーやめてくださいよーという気分だった。

 掃除をさぼって私は、非常階段に行ってうずくった。コートを羽織り、鞄を隣に携えて。涙は沸いてこない、だけど南くんと喋れなかった時よりもずっと深い所から低い声が、ううううう、う、と溢れてきた。
 南くんのあほ。私のあほ。でもあの時、私が告白していたら、南くんは動揺して私と付き合ったりしただろうか?私の下手なクッキーを食べて、おいしいから、努力がにじんでいるから、と付き合おうなんて思っただろうか?そんなはずはないし、大体にして私は南くんに告白なんかできないと、ずっとわかっていたではないか。
 鞄から南くんに渡すはずだった包みを取り出す。それはキラキラとラッピングされて光り、それがもう今はただ虚しい。涙が出てこない。元より諦めていたはずなのに、心だけはしっかりと痛い。
 「やっほー、なんでこんなところにいるの?」
 清純がカンカンやって来て、私の前にしゃがみ込む。私は赤いであろう顔を上げて、清純を見て、そりゃあないですよーと思った。
 私の人生ってなかなかうまくいかない。真面目にしたはずのたった少しの恋ですら叶わない。あんな美人な仁と付き合うのも別れるのもあんなに簡単だったのに、あんな素朴な南くんへ告白どころか付き合うことすらできもしない。
 それで。ウンザリして、これどうぞと清純に、箱を放ったのだ。昨日あんな思いをして作ったクッキー、一応良い出来栄えのものを選出したクッキー。南くんの為に作ったはずのクッキー、なぜだか清純の手に、着地。受け取って、
 「ほんとにくれると思わなかった、って南のこと好きなんじゃないの?」
 と、清純は首を傾げた。私は「残念でした」といつも通りの笑顔になってみて、よし帰りは服を取りにきたと言い分けして仁の家に行って、クッキーを渡してやろうなんて考えて、それで「好きです」とか言おうなんて、決心した。
 きっとこれからもこの先も、私達は抵抗もなく次のジップロックの密閉の中で、あたかもそれしかないかのようにそこでの恋を見つけていく。前のジップロックのことなんてすっかりと忘れて、自分の都合のいいようにずるく醜く愛すべき対象を探していくだろう。そしてそれを、楽しいのだと思っている。
 バレンタインまであと365日。







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2006.2.25/2014.6.24加筆修正
なっげーよ疲れたわ