大音量で早口の男がまくし立てる、そんな感じの音楽がいつも近所迷惑省みずこの部屋では流れている。いまだに早口の彼の名前を覚えられないし、相変わらず歌詞は頭に残らない。耳にヌメヌメとした低い声を残し、彼の声は今日も脳髄を振るわせるだけだ。うつ伏せのままベットの隣を手で探った。ほんの少し、シーツが温かい。

 重たくてどうにも寒気を感じる上半身だけを起こしたが、下半身はベットにへばり付いたまま。閉じたくてしかたがない瞼を気力だけでえいっと開き、真っ暗な部屋を見渡したけれどなにも見えなかった。永遠にリピートされる音楽は大音量過ぎてどの方向から聞こえるのかすらわからなくなっっていた。
 真っ暗な中に、チカチカと黄色や白の光が現れる。私だけに見えるその光は貧血の証拠、ああ血が足りないと体中が唸る。出血なんてしてないのに、それとも赤也は吸血鬼かなにかなのだろうか。一緒にいるだけで私の血を吸い尽くしたりするのだろうか、ああでも、それでもいい。
 「赤也、」
 まんまと吸血されたような気分になってか細い声なんて出して彼を呼ぶと
 「なに?」
 とかすかに返事が聞こえる。音楽のせいでそれは本当に小さなものだったそして、声の源がどこなのかもわからない。
 「どこ?」
 「足元」
 どう頑張っても上下には動かせない気だるい足をゆっくり横に動かすと、それはある時こつりと固い骨に当たった。「痛、」と赤也が呟いているのを聞き取っている。足の指で固い骨をなぞっていた、ぼこぼこと連なるそれは背骨だろう。察するに彼は、床に座り込んでこちらに背を向け、ベッドにもたれているようだ。
 「ねえこれうるさい」
 「なに?」
 「音楽」
 彼が。吸血鬼かもしれない彼が近くに居ることを確認して安心してまたうつ伏せになった。大きく一度深呼吸をすると、体のだるさが増してしまった。
 うるさいと確かに言ったのに音楽は小さくなる気配がない。いくら文句を言ったって彼には、私に従う精神があまりない。赤也が煙草に火を点け、ぼんやりと辺りが赤い光に包まれる。なんて温かい色なんだろうと思った、だけど体は温まらない。なんてちっぽけな色なんだろうと思った、だけど私はそれが好きだ。ライターの火が消えて煙草の一点に小さな火が移ると、なんだか虚無だといつも思う。室内に、煙草の匂いが広がる。私と赤也の卑猥で生々しい臭いを消してくれそうで、今度は次第に嬉しくなった。
 唐突に室内灯が点灯し、思わず眩しい、と呟くとそれは調光になる。赤也は私に従わない、だからきっと電気をつけた彼自身が、眩しかっただけなのだろう。
 「服着たら?」
 足元から。察した通りベッドにもたれて座り込んでいた赤也がこちらを振り向きそう助言したが。そう言う赤也だって上半身裸で、だからさっきの背骨の具合が妙に現実味を帯びていて温かかったのだなとか、私はぼんやり考えている。
 「眠い」
 「いや、服着たら?」
 気付いたら赤也を睨んでた。よくわからないが睨んでいてそれでさらに気付いたら、瞼が痙攣してた。加えて赤也も、私を睨んでた。
 「怖い顔すんなよ」
 しばらく黙って睨み合っていたが、早口の音楽が一瞬鳴り止んだ途端して赤也は表情をくずし、呆れた調子で私を諭した。赤也も。赤也も怖い顔してめちゃくちゃに私を睨んでいたくせに諭すのだ。
 「死んじゃえ」
 「誰が?」
 「赤也」
 「やだ」
 「なんで?」
 「もう少しと一緒にいたいんだよなあ」
 へなりと笑って赤也が言う。嬉しいけれど。けれど。
 「もう少しって、どれくらい?」
 「ねえ、なに?お前俺と別れたいの?」
 さっきのへなりなんてなかったかのようにまた、赤也が怒ってるのが私にはわかる。だって声が大きくなったのだ、大音量の音楽そっちのけで届くくらい大きく、それで鋭く。この声が聞きたいが為に、私は彼を怒らせる。
 「あーそれ、いい感じ」
 「なにが」
 「そのくらいの声で常に喋って、よく聞こえるから」
 ばかにしてんのかよ、と赤也が紫煙を吐く。ばかになんてしていない、とりあえず声が聞きたかったのだ。こんな低い、なにを言ってるのかわからない音楽じゃなくて、赤也の声が聞きたかった。ぶつぶつ途切れるような短い単語の応酬なんてしなくても済むような音量の会話が、赤也としたかった。それを察しない彼にこそ、ばーかとか、私は言ってやりたい。
 「そういえば」
 「なに?」
 「煙草吸うと体温低くなるんだってね」
 「なんで?」
 「血管細くなるんじゃない?で、血が回らなくなるというか」
 「ふうん」
 「でね、思うんだけど」
 「なに?」
 「血管に血が回らなくなるんだから、赤也の目はその内充血しなくなるんじゃないかな」
 「はあ」
 「そしたら私、どうしたらいい?」
 「え、別に困らないじゃん」
 「私、充血フェチ」
 「初めて聞いた」
 「だって今作ったうそだもん」
 「うそかよ」
 気が抜けたように赤也が笑う。私は段々と眠気という絡みつく帯みたいなものから解放されはじめていたけれど、ベタベタする体のまままた服を着る気にはならなくて、布団を体にきゅっと巻きつけた。薄明かりの中見える赤也の背中に、鼓動が高鳴った。恋という感覚が分かるのはこの瞬間。好きなんです好きなんです好きなんです、と心の中で叫ぶ酸っぱい感覚。煙草の煙が部屋に充満して、鼻の奥が痛い。眠気から解き放たれた私はよいしょと起き上がり、向こう側の壁かなにかを眺めていた赤也に忍び寄るとそれとなく、その背中に抱きついた。裸と裸だというのに、
 「冷たい」
 「そー?」
 「煙草吸うからだよ、絶対そうだ」
 「だめ?」
 「少し」
 少しってなんだよとまた、赤也が笑う。背中に耳を押し付けたら、赤也の体の中でその笑い声が響いていた。音楽に邪魔されずに彼の声を直接聞くには、彼の口元か彼の背中が最適らしい。
 「私は赤也が大好きだから」
 「なに?」
 「赤也にはなにされても平気だよ」
 「えー?マジかよ」
 「マジだよ、だから煙草吸われても平気」
 でも若干体のこととか心配してるわけじゃん、と大した力もこめずに説明し、赤也の腹筋を指でなぞっている、その鍛え上げられた肉の塊を、不健康と健康が入り混じる体を。私のその指を、赤也が指でなぞっている。くすぐったいくらいあっさりと。赤也の肌はさらさらとしている、私はきっとべたべたなのに。ああ耳元で彼の、呼吸の音が聞こえる。くすくす笑っているのも。
 「なに?なんで笑ってるの?」
 「なにされても平気とか言うから」
 「平気だよ毎晩ああやって押し倒されてても抵抗しないでしょ」
 「それもそうか」
 「でね、さっき起きた時、赤也は吸血鬼なんじゃないかと疑ったんだけど」
 「なにそれ?」
 「別に吸血鬼でもいいと思ったよ」
 「あー、でも俺人間だし」
 「血とか。全部吸われても赤也だから、いいかなって」
 「ふうん」
 返事をした赤也はふいに立ち上がって、私の腕から逃れた。まだ触っていたかったしちろちろと、蛇の舌のような具合で私の指を、触っていてほしかったのに。触っていたい、そう言いたいが、赤也はどうせ私の言うことを聞かない。彼はこちらを向いて、ベッドに膝をつき、ふうと息を吐いて座り込んで、私と向かい合った。その時確かに目が合ったけれど、逸らすしかなかった。恥かしかったわけでも、嫌だったわけでもない。酸っぱかったのだ、私の恋する赤也はその視線すら、酸っぱい。
 「、目、逸らした」
 「うん」
 「なにされても平気って言ったよな」
 「言った」
 赤也がそっと右手を出して、アタシの左下瞼に触れる。まるで健康診断の時の、内科医のような手付きだった。瞼の裏側が見えるように指をずらしていく。私はされるがままだ。
 「長い睫毛だね」
 「初めて言われたけど」
 「じゃあ多分、俺が初めて気付いたんだよ」
 酸っぱい。それでも私は歯を食いしばり、こちらを見ろと迫る赤也の顔を見つめる。 赤也は笑い
 「なにされても平気って言ったよな」
 と念を押した。どうしようもなく酸っぱくて、目を逸らす。それから「言った、」と私はまた言う。
 「こっち見ろよ」
 「だって酸っぱい」
 酸っぱいってなに、と赤也は笑わなかった。彼が黙って舌を出したのを、目の端で捉える。彼がこちらを見ろと言った、言う前から私にそうするよう詰め寄っていた。けれど私はそれができず、酸っぱくて、彼の舌が意図するところがわからず、また下を見た。
 「痛い、」
 その時、ざらりとした熱い赤也の舌が私の眼球をなぞり、私はそう声を漏らすしかなかった。目に沁みてならない唾液が目尻から溢れ、私を濡らしていく。
 それはどうにもならない痛みだった、じんじんと痛くて痛くてもう、痛み以外今、ここにになにがあるんだろうというくらい、痛い。舌の表面のあのつぶつぶのざらざらが目に食い込んでスタンプみたいに、痕を残していったような感じがあった。私の眼球には今、細かい凹凸が付いているんだろうか、赤也の舌の模様と同じものが、まるで勲章のように。
 平気だと、私は確かにそう言ってそれは強がりでも忠誠心の表れでもなくただの本心だった。けれど体は痛みから逃げようとし、私の頭は勝手に赤也から離れていく。彼が、そういう私をあっさり逃がすはずもなく私は、両手で頬と後頭部をがっしりと挟まれ頭をひとつも動かせなくなっていた。こうにも痛いのにしかし涙が出なかった。涙腺が多分、やられてしまったのだろう舌に、赤也というものに。
 「痛い、ほんと痛い」
 何故か三度も私の眼球を舐めた赤也が、それでも四度目に突入しようとしていたのが見えた。痛い。その内気持ちよくなるのかもしれないと思っていたがそれは痛い。痛いのに、だけど言えないのは、「やめて」の一言だった。

 「あ、ごめん、血出てる」
 途中から数えることもできなくなった。何度目かのそれを終えた時、痛みに痙攣する私の顔からそっと離れて、赤也が言った。その声はなんだかひどく嬉しそうで、おどけたように出した舌にはしかし、私の血でなんてついていなかった。
 左目は。私の左目はかなり視界不良になってしまった。黄土色のもやもやにわれていて、中心がだけがかろうじて見える程度。赤也の顔もその中で、かろうじて見えている。失明したら?そう思ったが、彼が私の右目を残してくれたことに気付き、感謝の念すら浮かんでいた。
 「、ほんとなにされてもいいんだ」
 「うん」
 いいこいいこと褒められてそっと、鳥肌が立つくらい甘ったれた口付けされた。多分これが欲しくて、私は左目を視界不良にさせ、ひりひり痛めている。左目に触れてみても、感覚がなくなっていて触れているのかどうかよくわからない。それじゃあと瞼を下ろそうとしたけれど、どうしたら瞼を下ろせるのかを忘れていた。
 目の前の赤也が酸っぱくて、右目だけに意識を集中し、窓の外を眺めてみる。黒というよりは濃紺色をした夜空に、間抜けにも満月が浮かんでいた。
 「見て赤也、満月」
 「ごめん、俺狼男でさ、」
 「なに?」
 「満月見ると吸血鬼になれるの」
 「狼男なのに?」
 「そう、いいでしょ」
 「いいね」
 呟いて満月を見つめていると、赤也が左目から流れ出る体液を舐めた。私はその赤也の姿を、逸らさずに見つめることを強いられている。酸っぱい恋をしながら、やかましい音楽に取り巻かれながら。


満月


 

私の左目は真っ赤に充血し、翌日しかたなく学校に眼帯をして行ったら、けらけらと赤也に笑われた。










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2006.10.9最終更新のもの、2014.9.29加筆修正
おともだちにリクエスト頂いて書きました