「若くんってさー、毎日難しい顔して、なにか怒ってんの?」
 「むずかしい」ではなく「むつかしい」と言った彼女をなんだか可愛いな、なんて思いながら
 「どういう意味ですか?」
 と俺は答え、先輩は「ほら、それ」だなんて、難解な返事をくれた。日差しがジリジリと首の後ろを焼き付ける。



孤高





 「それって?」
 「ああ、そのブッキラボウな言い方も怒ってるように見えるし」
 直接の答えになってない、と思いながらそうですか、と俺は答えた。先輩はあの不思議な力のある笑いを少し見せて、不思議な人だなぁ、と俺に言った。不思議なのは先輩の方だって、自覚はまだないようで。
 彼女は相変わらずなりふり構わずテニス部全員を惑わす不可思議なオーラを振りまいているし、部員達も魅了されっぱなしだ。それに朝練の遅刻も直っていないし、向日先輩とも仲のいいまま。俺も相変わらずで先輩に笑い返すことも、気の利いた言葉をかけることもできない。別に構わないかな、なんて思い始めて、こうして先輩に言われた六回目の「怒ってる?」にも冗談を返せずにいる。
 「ー、そんな日吉にばかり構ってんなよ、めっちゃ痛いねんけどー」
 少し離れた所から忍足先輩の声がする、見ると、忍足先輩が怪我をしたみたいだ。先輩は忍足先輩の言葉を素直に飲み込んで、今行く、と笑って、俺の元から離れて行った。どうやら俺の捻った足首を冷やすことなど、忘れてしまったみたいだ。熱いコートの上、ビニール袋に不必要なほどつめ込まれた氷は一気に溶ける。溶けた水は地面に染み込み、コートの色が俺の足元だけ、濃くなっていく。少し離れた所で、忍足先輩と先輩の笑い声が聞こえ、俺は自分で自分の足を冷やす気になれず袋を地面に置きっぱなしにして立ち上がった。不完全に冷えることもできない捻った足首が、悲鳴を上げた。聞こえない振りをした。
 ラケットを持つと全てを忘れられる気がした、先輩のことも、向日先輩のことも、他の部員のことも。 コートに立つと全てを忘れられる気がした。先輩のことも、向日先輩のことも、他の部員のことも。というか、忘れなければいけない気がした。 勝つ為には全てを振り払わないといけない気がした。先輩のことを考えているといつの間にか時間が過ぎて、結局なにもしていない場合が多い。もし試合中にそんなことが起きたら、と思うとゾッとする。 向日先輩の忍足先輩も跡部先輩も宍戸先輩も、みんな、先輩に夢中ではあるけど。夢中ではあるけど俺みたいに先輩の事ばかり考えているわけではないのだろう、やるべき時にやるべきことをこなしているのだから、そうに違いない。まずいな、と思った。早く先輩から抜け出さないと俺は、
 「日吉ぼさっとしてんじゃねぇ!」
 跡部先輩の声が飛ぶ。無理だった。結局俺は先輩に捕まってしまっているのだ。彼女は俺の頭の中でいつでもちらついて、離れない。きっとこれも彼女の不思議な能力の一つなんだろうと、先輩のせいにして誤魔化し、走り出す。抜け出すことなんてできない、忘れることなんてできない、これは多分、「好きだから」。

 日誌を書くのが苦手だ。というより、文章と文字を書くのが苦手なのだ。今日なにがあって誰が誰に勝って明日はこういう練習がしたい、頭の中でなら限りなく浮かぶのにそれが、ペンを持って日誌に向かってみると表現できずにぱったりと消える。いつだか宍戸先輩にも笑われた気がする、最低二時間はかかる俺の日誌記入作業を。それでも俺の鈍筆は改善されない。日誌を開いて10分にして今初めて「記入者」の欄に「日吉若」と書いたところだし、次の「天気」の欄に書くべきことが思い出せない。天気、天気、天気、三度頭の中で呟いて次に出てきたのは「先輩」で、俺は病気なんだ、先輩から発せられる不可思議なオーラにやられた、性質の悪い病気なんだ、と被害妄想をしている。
 部室にひとり、電気を付けてペンを片手に膝の上に日誌を置いて、頭を働かせようとしてもあまり役には立たない。 余計なことばかり、どうして俺に日誌が回って来るんだとか足首が痛いとか先輩がどうだとか、そんなことばかりが浮かんでしまう。ちらちらと時々、部室の照明が消えたりついたりしていて、目に悪いような気がし、この件を備考欄に書くべきか迷っている。そうしたら先輩が、細い体のが重たい脚立を用務室かどこかから背負って借りてきて、ここの電灯を交換したりするのだろうか。それは不憫なように感じ、書くことができない。
 窓の外を見る、真っ暗で、多分こんなひどい居残りをさせられているのは俺だけだ、俺が悪いのだが。そして、天気、天気、天気。思い出せず、雨、と書いた。
 「うわあ、若くんだ」
 真っ白な日誌から目を離し、顔を上げると部室のドアを開けた先輩。俺は思わず、また顔を日誌へと伏せた。
 「なんだ若くんがいたのか、あたし、部室の電気消し忘れたんだと思ってわざわざ戻ってきちゃった」
 綺麗な顔を綺麗に緩ませて先輩が笑う。俺はすみません、と言った、冷やしきれなかった足首が疼いていた。若くんって日誌書くの遅いよねー、明るく言い放って先輩が俺の隣に座った。先輩には重さがないのか、椅子は微動だにしない、音も立てない。彼女の肘が俺の体に、当たる。シャーペンを持つ指が微かに震え、彼女が俺の隣に座っている事実に動揺している。
 「書くの手伝ってあげる」
 「、ありがとうございます」
 「でも一緒に帰ってね」
 「は?」
 「ホントは岳人達と帰ってたんだけど。電気消してくるって言って先に帰らせちゃったんだ」
 「えっと」
 「だから若くん一緒に帰ろう?」
 俺は。返事もできず黙ってシャーペンの先を見つめた。 芯を出しすぎていたようで手が震えた拍子に日誌に当たり、ぼきりと折れ、あらぬ方向へととんでいってしまった。隣で先輩が「うわー若くんの反応つまんなーい」と言った。笑っていなかった。
 「一緒に帰りましょう、」
 彼女が。笑わなかったのが俺にとってはあまりにもつらくて、というか彼女が笑わないなんていうのは初めてのことで、もしかして俺は彼女に殺されるんじゃないかとか、もしかして明日地球がなくなってしまうんじゃないかとか、もしかして俺は彼女に嫌われたんじゃないのかとか、役に立たない頭は変なことばかり考えてしまい、即座にそう答える。
 「今日雨じゃなかったよね?」
 俺の膝から日誌を取り上げて、先輩がくすくすと笑いだした。
 結局日誌を書き終わったのは22時近くで、我ながら間抜けだ、と思った。先輩は最初の3分だけは真面目に日誌を書くのを手伝ってくれたが、それ以降は「飽きたー」なんて言い、遊び出した。おかげで俺はちゃんと自分で日誌を書かなくちゃいけなくなったし、先輩の言葉に反応しなくちゃいけないしで、作業はさらに滞ってしまう。先輩というのは成長期の仔猫みたいに、なにかにいちいち反応しないといけない生き物のようだった。俺の髪を無理矢理逆立てたり、せっかく片づけたテニスボールをひっぱりだしてきて投げて遊んだり、明日のメニュー表に落書きをしたりして、その度に笑って、「見て見て若くん」だなんて幸せそうに言うものだから。やめて下さい、なんて俺には言えなくて。結局日誌を書き終わったのは22時近くで、我ながら間抜けだ、と思った。

 「若くんってさあ」
 ふたり、真っ暗な中並んで歩きながら先輩が声を出す。俺は自分の靴の先を見つめていた。
 「ちょっと変だよね」
 先輩に言われたくないです、と俺は呟いた。彼女は「えー?なんでなんで?」だなんて大変不思議そうに、俺の発言に疑問を抱いている。
 「若くん。あたしが一緒に帰ろうって言った時、即答しなかったじゃん」
 それは俺が先輩の事を尋常じゃなく好きだからですよ、なんて言えず。下を見たまままだ黙る。目の端で先輩が俺を見つめているのを、捉えているが、顔を上げない。
 「そういう人って初めてなんだよねー」
 彼女が感心したように言うのを聞いていた。知っているのだろうか先輩は。自分のその宇宙人みたいな能力を。
 「すみません」
 なんだか彼女の言い方が、私の力に屈しないだなんていけないやつだ、とこちらを咎めているように感じられ、謝らなければならない気分になり俺はそう言った。それなのに先輩は笑うのだ。あの、不可思議なオーラ全開の声で、すべてを魅了するかのように、なにもかもを自分のものにしてしまうかのように。くらくらした。
 「謝ることじゃなくて。あのね、あたし、若くんにちょっと興味持ったよ」
 「そうですか」
 「今まではほら、ただの後輩って感じだったんだけど」
 「そうですか」
 はあ、と息を吐いたのは俺で。どういうことだかよくわからないけれど、即答しなかった故に宇宙人の魔の手を逃れたはずの俺は宇宙人に、先輩は俺に興味を持たれたのだった。  これで少しは向日先輩みたいになれるかな、なんて心の片隅で思いすぐ、軽い自己嫌悪に陥っている。
 「あ。そういえば若くん」
 街灯の下に差し掛かった時、先輩が立ち止まって言った。
 「足、大丈夫なの?」
 自分の足首を見る。あの時、部活中に彼女に手当てされていた時は大した怪我には見えなかったのだが今、俺の右足首は気味の悪いくらい赤く腫れ上がっていた。だけど痛い、とはもう思っていなくて。先輩が心配したせいかもしれないし、あまりにも悪化しすぎたせいかもしれない。
 それよりも今はもっと他のことに気を取られていて。我に返ると。さっきから俺達は手を繋いでいたことに気付く。

 翌朝の朝練も先輩は遅刻をしてやってきた。コートに入って「おはようございまーす」と言う。その瞬間コートに張り詰めていた部員同士のライバル意識と緊張が、ふ、と途切れた。誰かが先輩へ「お前メニュー表に落書きしただろー」と怒鳴り声を上げ、先輩が眠そうな顔のまま可愛く笑うから、つられて部員達も笑う、いつもの風景だ。
 俺は。昨日の足首の腫れが収まらず、ひとり筋トレにいそしんでおり、その輪には入れない。腕立て伏せ237回目をカウントした時、汗が地面に落ちた。それはコートに染み込み、広がっていく。陰った小さな点が何だか、俺自身の表れのようで不思議な気分になった。
 「おはよう若くん、足、大丈夫じゃないんだね」
 先輩の明るい声が頭の上から聞こえ、俺は汗の染みを見つめたまま小さくはい、と言った、声が枯れてしまっていた。ぱたぱたとせわしない、いつだって軽快彼女の足音が去って行くのを聞いていた。おはようという挨拶も済んだ、怪我の具合も尋ねた。俺の返事ははいとだけ。だから彼女がこの場に留まる理由はもうなくて、その足音になんの問題もないはずだった。昨日言った興味を持ったという感想にも大した意味はなかったのだろう、単なる宇宙人の気まぐれだ、手だって。繋いでいた手だってあの後いつの間にか離してしまったし。
 日差しが俺の首の後ろをジリジリと照り付け痛い。 肩も二の腕も昨日の足首みたいに悲鳴を上げ始め、それでも俺は情けない、と俺自身に叱咤して腕立て伏せを続けている。それに意味があるように思い続けなければ、やってなんていられないだろう。それで少なくともこういう単純な運動は、日誌を記入することよりも容易に集中できるし、先輩が向こうに行ってしまったことや自分がろくな返事もできなかったことなんかを、あまり考えずに済む。 天気、今日は晴れ。覚えてみたけれど今日は日誌当番じゃない為に意味はなかった。
 わあ、というすがすがしい声がして、その直後に俺の頭は水浸しになった。目の前の地面が水で覆われる。それは太陽の光を受け反射し、キラキラと輝いていた。なんて綺麗なんだろう、だとかは決して思えず伏せるのをやめ、顔を上げた。青いバケツをさかさまに持ってにっこりと笑う先輩が、そこにいるのだ。
 「、先輩」
 「暑そうだから、水かけてあげた」
 「余計なお世話です!」
 あははは、と先輩が笑い声を上げた、あの、不可思議なオーラ全開の声で、すべてを魅了するかのように、なにもかもを自分のものにしてしまうかのように。見ていたのだろうかそれとも彼女のわあという声に気を取られたのか、部員達が四方八方でこちらを笑いはじめているのを感じ取り、俺は髪を伝い落ち目に入ってくる水に嫌気が差していた。暑そうだから?それでトレーニング中の、怪我までしている俺の、頭の上からバケツ一杯分の水をぶっかけるだなんてまるで、意味がわからなかったのに。それでも犯人の先輩に悪気なんてひとつも知らないみたいに、満足そうに俺を見下ろしていた。

 「若くんが怒鳴ったの初めて見たー」
 ベンチに座る俺の頭でタオルを広げ、それをわっと被せながら先輩が言った。俺は髪を拭きながら思わず
 「怒鳴るに決まってるじゃないですか」
 と本音を打ち明けた。晴れたある平凡な朝が突然、晴れているのにびしょ濡れな朝に変えられてしまったのだ。ばしゃ、というバケツから水が流れ出してコートではぜたあの涼しげな音が耳の奥に残ってなかなか離れない、暑そうだったから、と彼女は言ったけれどあんなぬるい水をかけられたところで涼しくなるはずもなく、ユニフォームが体に張り付くし髪は顔に張り付くし、ベタベタとして気持ち悪いが悪かった。それなのに先輩は「良いことをした」と言いたげな顔で俺の隣に座っている。
 「なんか。若くんの人間らしいところを初めて見た気がする」
 「なに言ってるんですか」
 「若くんってなんだか、いっつもひとり抱え込んで黙々となんかして、無口な気がしてたから」
 「そんなのどうだっていいじゃないですか」
 「あ、また大声だした」
 「先輩がそうさせてるんだって気付いて下さい」
 あはは、と彼女が笑う。
 「笑いごとじゃなくて、」
 「水、気持ち良かったでしょ?」
 「あんなのいじめですよ」
 無意識に、隣に座る先輩の顔を見る。彼女はまだ満足気に笑っていた。
 「あたし、いっぱい喋る若くんの方が好き」
 あ、照れ笑いしてる。俺を見て先輩が笑顔で言って、俺は俺の表情を疑った。







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2014.7.1
2007.12.15最終更新のもの、加筆修正