人と違う人間でありたいと思いながら、結局は人と同じようなことをしてしまうアタシ。真夜中に完成したちょっと苦いクッキーにため息を吐きながらアタシは明日のことをぼんやり考える。甘い匂いのする手。




恋歌





 視界は歪む、ぼろぼろに零れる涙でもって。ああアタシってなんて単純で、大衆的人間。人と違うところなんてなにひとつない。バレンタインという行事に踊らされ、お菓子を作り、数ヶ月片想いした男の子に告白して、フられて、哀しいから、泣く。なんら変わりない。
 「南にふられた」
 呟くと清純は憐れんだ顔をして眉をしかめて、よしよし、と私の頭を撫でる。優しい動き、仔猫を撫でるみたいに。

 爪の形を整える。サーフボードみたいな爪やすりで。パラパラ。白い爪の粉が落ちる、プリントの上に。ヴィルヘルム2世、ドイツ、フランス孤立、そんな文字の羅列がそこには在った。えー、つまりカイロ、ケープタウン、カルカッタですね、このみっつをえー三角形で結ぶ、それが3C政策と呼ばれるイギリスの政策で、えー、黒板の前で忙しなく歩き回りながら喋り続ける教師。がたがたと震える教卓の音。アタシは。先の丸くなった爪にふっと息を吹きかける。粉が舞う。
 まず下地。ベースコート。次のパールピンクのマニキュアを塗る。爪の先から。周りの席の子が匂いに気付き、ふと顔を上げる。そしてアタシを見やり、すぐ顔を前に戻す。その繰り返し。ムラなく塗り終わるとふ、と息をまた吹きかける。暇だから周りを見渡す。左側、窓。後ろ、壁。前、巻き毛の女の子。右、机に伏して眠る 南。全く、心踊る情景とは言いがたい。窓の外が見えるのは楽しいけれど、ただそれだけだ。
 乾いた爪にトップコート。乾ききる前にラインストーンを、昨日思い付いたように乗せていく、ピンセットを用いて。全く、アタシの机の上は勉強に向いているとは言えない。やすり、多種のマニキュア、ラインストーンのケース、除光液、ウッドスティック。申し訳程度に置かれたペンケースの中にも、ネイルに使えそうなものばかりが詰まっている。ビーズ、レース、絵筆、チャーム。チップを全て乗せると、ピンセットを机に置く。これにて完成。左手を顔の前で広げ見る。うん、なかなか、それはかわいいのだった。
 「あー、シンナーくせえ」
 その時の南の寝起きの一言は、教室中を静まり返らせた。首を捻ると、南と目が合う。そしてアタシは彼に惚れた。

 今でもたまにその話をすると清純は笑う。なにその惚れ方、なんてアタシの気を知りもしないで。でも決してバカにしているわけではないから、アタシも怒る気はしなくて。ただ、脱力している。
 「でも遂にフラれてしまいました」
 「良い方に考えよう、告白出来たってことがの人生にとって大きな進歩になったかもしれない」
 「それ流行ってるの?」
 「え?」
 「誰かにもそう言われた」
 大きな進歩、だなんて。私は月面に着陸したわけじゃない。それなのに清純の、ありきたりなくせに気を利かせた励ましの言葉とこの状況に、じーんときてしまってアタシはまた涙ぐむ。よしよし、清純は、アタシの頭を撫でる。二月の寒空の下、屋上でその手だけが暖かい。
 「飛び降りようかな」
 その言葉は気軽な雰囲気で口から出る。隣で清純は、アタシの頭を撫でるのをやめない。
 「やめた方がいいよ、飛び降りの死体って、あんまり綺麗じゃないらしいから」
 そんな忠告を彼はする。だからアタシは、それを思いとどまるのだった。柵に手を掛ける。一応の、本当に一応としての安全柵。錆び付いてぼろぼろで、アタシの胸の高さまでしかない。誰だって向こう側へ行けてしまう高さ。手の平が冷たかった。
 「綺麗な爪だね」
 清純がふと言って頭を撫でるのをやめ、アタシの手を取った。彼の温かい手で。今日の爪はラメ入りの濃いブルーに、黒のライン。バレンタインには不向きかもしれないし二月の寒さには季節外れだったかもしれない、だけど今日のラッキーカラーが青だったから。
 「先生に怒られないの?」
 「今度塗ってきたら爪剥がすぞって言われた」
 「いってえ」
 清純が想像に顔をしばらくしかめた後、気が抜けたように笑った。
 「こんなに綺麗なのに」
 ねー。幼児みたいな言い方で、彼はアタシに同意を求めた。でもアタシは弱々しく笑うしかなくて。だってなんだか、なにをするにもなにを見ても、南が心のどこか頭のどこかちらついて離れなくて。清純はシルバーのラインストーンを凝視するのをやめ、ふう、とあやす様にため息を吐く。
 「元気出ないね」
 「うん、まあ、そりゃあ」
 「そうだ、カラオケに行こう」
 「カラオケ?」
 そう、カラオケ、清純は言ってアタシの手を引く。
 「どうせ今だって授業サボって話してたんだもん、もうこのまま早退しちゃおう」
 言うが早いか清純はさっさと歩き出す。アタシの手はがっしり清純に掴まれていて、もちろん、ついていくしかなくて。
 「カラオケに行って、どうするの」
 「歌う!」
 「それはそうだけど」
 屋上の扉の所で清純は止まって、振り返った。アタシに向って笑う。にっこり、子供みたいに。
 「俺がの為に失恋バラードを歌ってあげる、いっぱい」
 ああ、それって私欲だ。
 「やめてよ、アタシそんな暗い曲聴いたら、立ち直れなくなる」
 「じゃあ恋に破れた若者達への応援ソングでも」
 「ああ、それならまだ、」
 決まりだね!清純が嬉しそうな声を上げて、アタシの両手を握る。目の前で繋がるよっつの手。内訳はアタシの左手、清純の左手、アタシの右手、清純の右手。その様子にアタシはまたなんだかちょっと涙ぐむ。なんでだろう、単純な、四本の腕からなる四枚の手の平だ。
 「大丈夫?」
 「大丈夫だけど、ちょっと待って」
 空を見上げる。涙が零れないように、曇り空を見上げる。清純は大人しく、忠犬の如くアタシを待っている。両手を互いの胸の前で繋いだまま、アタシ達ふたりはただ黙っている。不思議な光景。
 「哀しいなあ、失恋ってこんなに哀しいんだね」
 思わず呟くとアタシの前で清純はゆっくり微笑んだ。なにかを見守る微笑みだ、神様みたいなやつ。
 「好きです、って言って、悪い、って言われて、それだけで終わっちゃった」
 アタシは呟く。
 「それだけ言って南はどっか行っちゃった、なんでもなさそうに、普通に」
 アタシは呟く。
 「作ったプレゼントも、結局渡せなかったし」
 清純が微笑んでる。いいんですよ、それでいいんですよ、と今にも囁きそうな神様的微笑。清純、と意味のない訴えをアタシは清純にする。塗られた爪を持つアタシの手を取って清純は、穏やかな眼差しをしている。
 「せっかく作ったのにね。無駄になっちゃったね」
 「うん、せっかく作ったのに」
 「それはどうしたの?」
 「持ってる、ポケットに入ってるけど、捨てるよ」
 清純はそっと手を離して、アタシのポケットに手をやった。上着のポケット、そこには、ピンク色の包み。これ?アタシに尋ねる。それ。アタシは答える。
 「いただきます」
 清純は聖者のごとくそう言って、包みを開く。そしてクッキーを、食べた。ぽかんとするアタシに、清純が笑った。
 「だって、捨てちゃうとか言うんだもん、もったいないから俺が食べますよって」
 ひとつの迷いもない勢いで清純はクッキーを食べている。丁寧にでもない、乱暴にでもない、ただ、食べている。
 「おいしいです、じゃあ、行こうか」
 クッキーをくわえて、清純はアタシの手をまた取る。カラオケに、行く。
 「ねえ」
 ちょっと早足で歩きながら、アタシは前を歩く清純に声をかける。クッキーをもぐもぐしながら、清純が振り返る。なに?
 「なに歌う?」
 「なんでも!リクエストしてよ、どうせ、カラオケじゃ歌わないしさー」
 「ラブソングが良い」
 「失恋ものは嫌なんじゃないの?」
 「ラブソング。バカみたいでハッピーなヤツ、リクエスト」
 良いね、清純は笑った。だって今日はバレンタインだもん、と。2月14日。ラッキーカラーは、ブルー。多分、ラッキーパーソンはすぐそばに。






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2008.2.24/2014.6.16加筆修正
千石企画に献上、正式タイトルは「幼稚なラヴソング」