アタシは泣いている。この世界で、ひとりぼっちで。終り行く世界の中、終り行く生命の中で。



    桔梗



 どうしてこの男がアタシを好きになったのか、それはもう謎というより神秘に近い。彼はいつも遅刻して登校してきて、授業中も休み時間も寝て、たまに思い出したように授業をサボってひとりで体育館裏で煙草を吸っているような、そんな人だった。大概の中学生の男の子達がするようなふざけた遊びとか、集団でつるむとか、ガキっぽい反抗とか、そういうことをしない人でしかしどこだかの高校生達と遊んでるとか、居酒屋で知らない綺麗なお姉さんとご飯を食べてたとか、そういう噂が絶えない人でありだから亜久津が、同級生と恋愛をするなんてアタシは、思っていなかった。
 けれど亜久津はある日あろうことか、アタシに告白をしてきた。いつかの木曜日の夜に知らない番号から電話がかかってきて、登録し忘れた女友達か誰かからだろうと思って出たアタシは、「あ、出た」。という男の声にびっくりし、「あ、はい」、などと敬語で答え
 「俺、亜久津だけど」
 と亜久津が電話越しに言って、それで初めて相手が亜久津だと気付き、くらくらとした。アタシは亜久津と仲がよかったわけではなく、話したことすらほとんどないようなくらいでもちろん、声だけで亜久津を判別するとかそんなこと、できないくらいの関係であったからなんで亜久津がアタシに電話なんかしてきたのか、まるで意味がわからなくてそれでその後、
 「付き合ってほしいんだけど」
 と亜久津が言うわけだけてだアタシは、え、え、え、と「え」を三回くらい呟いてしまって、
 「あ。電話でごめん」
 とか律儀に亜久津は付け加えるのだけれどいや電話だろうがメールだろうが直接だろうが、亜久津にそんなこと言われたら誰だって え、とか言うよとか思い、黙ってしまった。
 「お前、俺のこと知ってる?」
 お互いしばらく黙った後、心配になったのか亜久津が訊ねてきてアタシは、やっとしっかりした言葉を発する機会を得ることができた。
 「あ、うん、知ってる、一緒のクラスの」
 「そう」
 「あの、いっつも寝てる」
 「ああ、そうかも」
 「うん、ね、てか、なんでアタシなの?」
 「好きだから」
 「あ、うん、それはわかるんだけど、えっと、」
 「前から好きだった、お前は知らなかっただろうけど」
 「うん、知らなかったけど、あの」
 「お前いっつも友達?といるから、声かけにくいなーって思って、電話したんだけど」
 「ああ、そうなんだ、」
 「返事は」
 「え、返事って、ちょっと待って」
 「なに」
 「ほんとに、アタシ?」
 「そう、お前。お前でしょ」
 「ああ、うん、です」
 「うん、お前。付き合って」
 「あ、うん、あの」
 「あ。今 うん って言った」
 「ええ?」
 「言ったよな」
 「言った、言ったけどえっと」
 「ありがと、明日な」
 こうして電話は切れた。アタシは付き合ってほしい、の答えに「うん」、と言ったつもりはなかったのだけれど電話は切れてしまって、それにわざわざかけ直してお断りするのなんてこともなんだか、心臓が痛くてできず、結局翌朝を迎えてその日も遅刻して来た亜久津にメアドなんかを訊かれ、目を真ん丸にした清純に
 「わー亜久津がちゃんと喋ってるー」
と騒がれ
 「俺の彼女」
 と亜久津に紹介されてしまい取り返しの付かないことになってそれでも、メールや電話を繰り返す度にアタシはお断りなんでできず、メールや電話を繰り返す度にアタシは亜久津を好きになっていき結局、もう一ヶ月になる。

 「
 「なあに」
 「今日暇?」
 「うん、なにもないよ」
 まだまだ暑くて日も暮れない、そんな放課後一緒に下校しながら手も繋がずに、アタシ達はぽつぽつと会話をする。
 「俺の家、来る?」
 「あ。いいの?」
 「うん」
 「わ、初めてだね。誰かいる?」
 「いない」
 そっかーと言ってアタシは暑いなあなんて思いながら歩いている。亜久津は暑いとかすら、それすら考えていないような風で歩いていた。そして、人通りの少ないアタシの家路とは違う初めて歩く道へと進みしばらくした時、亜久津がアタシの手をぎゅっと握ってきた。だから、わあとか、アタシは思わず声を出すのだ。
 「初めて。手、繋ぐのも」
 「そうだっけ」
 「うん、いいねー嬉しい」
 「そう」
 「でも、暑いね」
 「うん?」
 亜久津は山吹の、半袖の夏服を着ない。いつも私服の薄手の長袖を着ている。アタシはといえば半袖になった制服を着てスカートを短くし、なんとかクールビズに励んでいる。繋いだ手は熱い、暑い。それでも幸せだった。

 初めて訪れた亜久津の家は繁華街を少し越えた所にあった。それはちょっと高級そうなオートロックマンションで、エントランスは冷房が効いていて涼しかった。この時間にありがちな、幼い子供の笑い声とかご近所さん同士の井戸端会議とか、買物帰りの主婦とか、そういうものが一切なく、涼しくてしん、と静かだった。まるで集合住宅とは思えぬくらい。
 「静かだね」
 そう言ったアタシの声も決して大きくはなかったのに、そこにはうるさいくらいに響いた。
 「ここ、基本夜働いてる奴らが住んでて」
 「へえ」
 「だから、まだみんな寝てる時間」
 ふーん、と言ってエレベーターに乗る。亜久津は六階で降りて、アタシはそれに従った。降りた先もやはり静かで、何枚かのドアを通り過ぎながら黙っているアタシと、亜久津の足音が広いそこにかつかつと響いていた。なにか話しかけようか、そう思っていた時に亜久津は一枚のドアを選び、慣れた手付きでその鍵を開け、アタシをそこに通してくれる。表札はなかった。お邪魔します、ドアを抜けた時そう呟いたけれど返事はないし、これまで同様そこも静かだった。
 人の家のにおいとか。初めて踏む床の素材だとか友人宅とはまるで違う玄関の飾りっけのなさだとか埃ひとつない部屋だとかにアタシはいちいち関心を持ち、彼はそれを大した感慨も持たないように見つめていた。「暑かったね」。亜久津の家はアタシ達が入ってくるまで誰もいなかったはずなのに涼しく、そう過去形で言うしかなかったアタシに亜久津は頷き、洗面所を指差した。ありがたや、そんな気持ちで汗ばんだ手を洗っている内に亜久津はどこかへ消えてしまい、この家の水はどうしてこんなに冷たいのだろう、と驚嘆しているとすっかり部屋着に着替えて洗面所へと戻ってきた。相変わらずの薄手の長袖、下はスウェット。
 「着替えたの?」
 「俺制服嫌い」
 「アタシも。すっごいださいよね?」
 「うん」
 「ほんとは今すぐ脱いじゃいたいんだけど」
 「変態かよ」
 亜久津は鼻で笑いこっちと言って、アタシを自分の部屋まで連れて行く。そこはベットとクローゼットとコンポと、テーブルとソファだけの部屋だった。広く、中学生らしからぬ物の少なさで、落ち着いていて、それで例のごとく涼しいのだ。ソファに座って煙草に火を点けた亜久津は二度ほど煙を吐き出す余裕を持っていたかもしれない。なんて整頓された部屋なのかとドア付近で立ち尽くしていたアタシに、座れば、と唐突に言った。アタシは。彼の彼女であるアタシはまさかその場に座り込むわけにもいかず、がくがくと不慣れな感じをまるで拭い去れないまま亜久津の隣に座るしかなかった。彼は。アタシの彼氏である亜久津はとりあえず落ち着こうとか思ってふう、なんて息を吐いたアタシを見遣りそっと顔を寄せて、キスをした。触れるだけの軽いキスを。それでもそれは、煙草の香りがした。
 アタシは心臓を恐らく数センチは縮めたまま目のやり場に困り初めて入る亜久津の部屋を観察していた。ガラステーブルの上には灰皿と、乱雑に置かれた雑誌、車用の芳香剤、いくつかの煙草の箱。壁にはイギリスの古いバンドのポスターが一枚、ベットの上には薬の箱と、携帯の充電器と、信じられないことにコンドームが無造作に置かれていたりする。隣の亜久津は、濃い煙を何度かに分けて吐いていたがその仕草には、落ち着きを超えたものが感じられた。
 「眠い?」
 「俺?」
 「うん」
 「少し」
 「学校であんなに寝てるのにね」
 「俺夜起きてるから、昼は大体眠くて」
 「そういえばメールの返事夜にならないとこないもんね」
 「あ。悪い」
 「いや、大丈夫」
 無造作に灰皿に煙草を押し付け火を消して、亜久津は目を閉じてアタシの肩に頭を乗せた。それは整髪料のにおいがした。アタシは手を伸ばして、なんとなくセットを崩さないようにその頭を撫でていた。今日初めて家に来た、さっき初めて手を繋ぎ、キスというのも今のを入れたって数えるほど。あの夜の電話から付き合いだしたアタシ達は、しばしば一緒に帰宅していたしほぼ毎日メールをしていたし電話でだって、満足にやりとりをしていたが肌と肌とでいえば、その程度の接触しか持ってこなかった。アタシはだから今、初めて彼の頭を撫でている。なにがそうさせるのか、アタシにはわからなかった。彼の家がそうさせるのか、初めて繋いだ手の喜びがそうさせるのか隣の、アタシに身を寄せてくる部屋着の彼がそうさせるのか、わからなかった。けれどアタシは、そうする他なかった。
 「寝るの?」
 その質問の返事はなくて、でも首だけ、縦に振って見せられた。そうすると亜久津の耳がアタシの肩に擦れて、ひどくくすぐったかったりするのだが。
 そのまましばらくアタシは動けず、灰皿の中で、火を消しきれなかった煙草が少しずつ少しずついぶっていくのを見ていた。それはゆっくりゆっくり、綺麗な煙草の形の真っ白な灰になり少しずつ少しずつ、燃えていく。
 「やっぱ暑い」
 こんなに涼しいと感じる室内でそれなのに気だるそうに亜久津はそう低く唸って、アタシの膝の上に頭を移した。こちらを見上げる力強くて真っ直ぐな目に、アタシはくらくらとしている。まるであの木曜の夜の電話の時のように。アタシは真剣に亜久津の額を撫でていた。彼はというと獣のように、欠伸をしている。
 「寝てもいい」
 「あ、うん」
 そう結局あの時のように、アタシは彼が言う決定事項のような言葉を受け取ると、それを処理できないまま「うん」と、言ってしまうのだ。寝ちゃうの?ほんとに?アタシのこと家に呼んだのに?、返事をした数秒後にはそんな疑問で頭がいっぱいになるのだけれどそれではもう遅くて、ゆっくりと上体を起こすとソファに浅く腰掛けたまま亜久津は、慣れた動きでシャツを脱いでしまう。どうして脱ぐの?、そんなことアタシには訊けない、彼の上半身がすっかり空気にさらされてしまった後に浮かんだそんな疑問なんて、改めて提示できるわけがないのだ。アタシは、その時に初めて亜久津の首から下の体を、白い肌した、筋肉の付いた彼の体を見たのだけれどふと目を遣った、その瞬間思わず、息が止まってしまった。
 「それ」
 「うん?」
 亜久津はアタシを見、アタシの目の先に視線を移し、ああ、という顔をして、その火傷痕だらけの左腕を右手で撫でながらアタシの顔を覗き込んだ。暑いとかすら、それすら考えていないような風に。
 「気持ち悪い?」
 「うんと、びっくりした」
 呟きながら垣間見た右腕や背中なんかにも同じような、痛々しい痕があってアタシは。その先の言葉を失っている。
 「
 低く言って亜久津は、見るな見るな見るなと念じながらも、目を逸らせずその痕を見ているアタシを、ゆっくりゆっくり、抱き締めた。耳元で亜久津の息が聞こえる。耳の裏にまで痕を見付けてアタシはぎゅっと目を閉じて、腕を伸ばして強く強く亜久津を抱き締め返した。苦しいくらいに。
 「これガキの頃に親にやられて」
 「親」
 「父親。もうほとんど覚えてないし今は母親しかいないけど」
 「うん」
 「怖い?」
 「大丈夫、痛くない?」
 アタシは所々痕に触れる背中をそっと撫でながら訊き
 「全然」
 亜久津は言って、アタシの耳に口付けた。幸いなことになにひとつ痕のない耳に。
 亜久津は山吹の、半袖の夏服を着ない。いつも私服の薄手の長袖を着ている。彼は青白くて、いつも涼しげで、寒がりなんだろうそれともアタシ達のようなガキくさい中学生とは違い暑さなんて感じないんだろうと、アタシは勝手に思っていた。けれどその彼がこの涼しい部屋で暑いと言い、服を脱ぎ、それでその肌には、きっと火のついた煙草を押し付けられたであろう痕がある。
 「なんか。人に見られたらああだこうだ言われるから」
 「うん」
 「外出る時はできるだけ隠してんだけど」
 「うん」
 「でも暑いし、なら別にいいかって思って」
 「うん」
 「つか、どうせやったら見えるし」
 「あはは」
 アタシはその時きっと若干無理をして笑っただろう。彼はきっと、それを見抜いただろう。それでも亜久津はゆっくり頷いて、アタシの頭を撫でるのだ。それから唇にキスをした、今度は、舌を入れて深く深く。

 「初めて?」
 アタシの制服を丁寧に、もう恥ずかしいから自分で脱ぐよとか、言ってしまいそうなくらい丁寧に脱がしながら亜久津がふと呟いた。
 「うん」
 「わかった」
 「えっと。亜久津は」
 「初めてに見える?」
 「見えない」
 なんだかおかしくて、笑ってアタシは答えたのだけど。なんかごめん、と言って亜久津は額に唇を押し付けてきた。初めてはいつ?、アタシは段々と露になる自分の肌に緊張しながらそんなことを訊ねる。手持無沙汰のような気持ちで。
 「覚えてない」
 無表情に亜久津は言って、アタシの腰の下に腕を入れ体を浮かせると、これまでの丁寧さはなんだったのかというくらい乱暴に、はぎ取るようにアタシの制服を脱がせてしまった。それは、ベットの脇にくしゃくしゃのまま落とされていった。
 そしてまた丁寧に。亜久津はアタシに声を上げさせた。アタシのひとつずつを試すようにゆっくりと。亜久津の獣のような唇や、火傷痕だらけの腕がアタシに触れて暑くて、熱くて、アタシは小さな声をその度に上げている。
 「痛い?」
 指をそっと入れて亜久津は耳元で囁いた。少し、とアタシは答える。余裕のかけらもない掠れた声で。
 「そう」
 「でも、」
 「入れていい」
 「あ、うん」
 「大丈夫俺そんなでかくないから」
 「そんなの。比べる対象がないからわかんないよ」
 言うと亜久津は眉を寄せて困ったように笑いさっきの、信じられないことに無造作に置かれていたコンドームに手を伸ばす。
 「ちゃんとするんだ?」
 「なんで」
 「え?なんか意外で」
 「好きな女は大事にするの、俺は」
 ふざけて真面目な顔を作った亜久津は言って、アタシの脚を広げさせる。
 「怖い?」
 「たぶん」
 訊いた亜久津と答えたアタシは一瞬黙り込み、その後ずいぶんと長い時間、舌を合わせていたように思う。ああそうかこういうキスだってアタシは初めてだなあとか、他人の舌の味にぼんやりしていたアタシの手に、彼の手が触れた。アタシ達は二回目の、手を握り合うという接触をする。それもとてもしっかりとした。
 「
 「うん?」
 「力抜け」
 「うーん」
 ゆっくり、息を吸って吐く。熱い熱い体が、触れ合っている。
 「名前呼んで」
 「亜久津」
 「な、ま、え」
 消え入るような声で亜久津が囁き、ああこの人は本当にかっこいい人なんだって、ひとりで、つるまず、同級生とは思えなくて、どこか危なっかしくて、でもそこにこの一か月、めちゃくちゃに惹かれたんだって、理解して、呼ぶ、
 「仁」
 、とその声で仁はアタシを呼び、入ってきた。繋いだ手を強く強く、握っていた。俺、
 「ずっとお前とこうしたかった」
 痛さと愛しさが相まって、アタシはなんだか泣いていた。仁の腕があり、傷があり、体があり心があり、夏と、涙と、息遣いがあった。
 アタシは泣いている。この世界で、ひとりぼっちで。終り行く世界の中、終り行く生命の中。今だけは仁とふたりで。














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2009.8.21/2014.10.2加筆修正
桔梗の花言葉は変わらぬ愛だそうです