せっかく一緒に帰ろうって誘って、珍しく許可貰って私、結構嬉しくて校門で待ってるんですけど、ねえ、亜久津くん私、かれこれ30分は待っているんですけど、あなたは一向に現れないのですが どうしたことでしょうか。もう周りに誰もいないんですけど。ちなみにいうとさっき担任に「早く帰れ」などと注意までされてしまったんですけど どうしたことでしょうか。あなたの靴がまだ下駄箱にあったの、私ちゃんと見ました。ちゃんと見て、それからずっとここで待ってます。あなたは上履きのまま私を置いて帰ってしまいましたか。そんなばかだったのでしょうか、あなたは。困ってます、一緒に帰りましょう、ね、ね、ね。
 もしかして、という言葉が過ぎったのはなかなか来ない亜久津にいい加減ウンザリして、もう帰ってしまおうかなんて考えた時。もしかして喧嘩好き(に加えてかなり喧嘩っ早い短気)な彼のことだから、校舎内か校舎外か知らないけどどこかでまたクロマニヨン人もびっくりの原始的なやりとりでもしてるんじゃないか、もしかして、私のこと忘れて?
 まあいい、いいのだ。いつものことだ。一緒に下校するという約束を忘れられるのなんて、よくあること。それにせっかくのデートをしょうもない理由でさぼられるのも、よくあること。亜久津から誘ったくせに、本人来ないってのも、よくあること。そんな時私は決まって、ばかなんだか計算してんだか天然なんだかよくわからない、そんな亜久津を、探しに行く。
 だってわりに合わないのだ、こっちは数十分前からドキドキしながら初恋の時のような初々しい感情で亜久津来ないかな亜久津来ないかな亜久津来ないかなって待っていたというのにそれを突如忘れられて、私の数十分を返せ!って話。だから、その数十分を返してもらうことはできないからせめて、どうせなら最後まで付き合ってもらいますよって、私の家まで送ってもらいますよって、彼を探しに、彼を迎えに行くのだ、今日も今日とて。




   喧嘩




 山吹の裏庭は小さく、東棟の陰にひっそりと存在するため校舎内からそこを確認することはほとんど不可能で、不良のたまり場と化している。そこで血が飛ぶ。飛ぶというより、舞うに近いのかもしれない。
 亜久津の唇が切れて、制服に数滴垂れていったのが私には見えた。さっきまで大勢いた男の子達が、徐々に亜久津にのされていって、残りはただ一人と亜久津だけ。先に倒された男の子たちは哀れにも、二人を囲むように伏してる。顔がぱんぱんに腫れているのや鼻血が出ているのや赤紫の痣ができているのを見て、ずいぶん亜久津が非道に感じられた。足元の砂利が乱れている、点々と血。こんな事して何が楽しいんだろうだとか考えていたら、亜久津が相手に一発殴られた。ああ痛そう、そう思った瞬間に亜久津が相手の腕を掴んで鳩尾を蹴った。もっと痛そう、などと思った瞬間に蹴られた男子は血か胃液か分からない液体を吐いて、気持ち悪い、なんて思った瞬間に亜久津が手を離したからその場にばたりと倒れた。鈍い音がして、砂利の上に彼が崩れ、砂利のこすれる音がする。
 予感的中。女の勘はすごいと言うが、それは私にも当てはまるしなにも浮気発見だけに作動するものでもないらしい。ていうかもうこれは彼女の勘っていうやつだ、ということは勘ではなくただの普段の動向を見ての判断でしかないのかもしれない。とにかく、亜久津はやっぱり大好きな喧嘩をしていたのだ、上履きのまま。
 亜久津が息を吐いて、いましがた倒れた男の子の頭を踏みつけた。ゆっくりゆっくり漏れる彼の呻きを聞きながら、彼がそれに浸っているのが見て取れた。亜久津はたぶん残忍な男だ、サディストというかわいらしいものであったならよかったが、彼はただただ残忍である。その内踏まれる男の子が呻き声も上げなくなってしまい、亜久津はつまらなそうな顔をして彼の顔面を蹴り上げ、ふいに私の方を向いた。きっとこの残忍な男は喧嘩に夢中で私がこの場に居合わせていることに気付かなかったのだろう。素直に驚いた顔をして、私を黙って数秒見つめた。だから私も見つめ返すしかない、唇の血が目立つことに感慨深くなりながら。
 「いつからいたんだよ」
 遂に亜久津は口を開いた、切れた唇は見ているだけで痛そうなのにそんなことひとつも気にしないで喋るものだから、じんわり血がにじむ。今にもあふれ出るかもしれない。
 「えっと、この人のした時くらいから」
 私の一番近くに転がっていた男の子の頭を軽く蹴って見せる、残虐な彼を見ていた私は若干感化されてしまっていたのだろう、人の頭を蹴るだなんて初めてだった。人の頭って重たいんだな、とつま先の感覚に感心していると、その子の目が虚ろに開き、思わずうわあなどと声を上げてしまう。私に歩み寄って来た亜久津が苛立たしそうに彼の頭をもう一度蹴ると、かわいそうな彼はまた目を閉じてしまった。
 「ねえ一緒に帰るって約束したの覚えてる?」
 「悪い」
 そう、つまり覚えてないのだ。私は立腹しない。もう、とすら言わない。そういうところには慣れてしまったし、女なんて、みたいなスタンスで日々を過ごす亜久津に惚れているのも私なのだから諦めもつく。大体先に帰られなかっただけまだロマンチックですらある。
 亜久津が口の中の血をべっと吐き捨て、行くぞとでも言いたげに私を見て歩きだした。どうやら今から一緒に帰ってくれるらしい。それは大変いい知らせだった。良かった良かった。けれども。
 「帰る前にその血まみれの体どうにかしてほしいんだけど」
 「いいだろ面倒くせえ」
 「面倒だけど怪しいじゃん、血まみれの人と一緒に歩いてる私」
 「自分かよ」
 「じゃあ血まみれの亜久津」
 「じゃあって何だお前」
 その汚れたの大きな手が、するりと私の頭を撫でた。鉄の匂い。やはり耐えられない。

 私は亜久津の先に立っていざなうように校庭に設置された水場を目指す。あそこの水はどうも汚そうだし錆の匂いがして本当は嫌なのだけど、今からまた校舎に戻るのはもっと嫌だから目指す他ない。太陽が痛いくらい照りつけてくる。畜生、私たちに何の恨みがあってこんなに暑いのか。熱気のせいで亜久津の血は瞬く間に乾き、ぱらぱらと粉になって落ちて行くだろう。けれど振り返って見た彼の唇はまだまだ出血中、山吹の制服は白いから血が目立つなあなんて、考えるとやはり早く水をかぶせてやりたい。
 なんとなく私も亜久津の隣に並んでしゃがみこみ、手を洗った。暑い日だったために、蛇口をひねって流れ出たその水ももちろん生温かったけれど、汗ばんだ手を洗うには十分だった。風が吹くと、表面上はひんやりとする。体の芯は暑くて暑くて仕方がなかったが、これが夏なのだし、そういう時期は一時だし、恨みを忘れよしとするしかない。亜久津は心底、ほんと心底面倒くせえって態度でその手や腕を洗っていたから、綺麗にすべてを洗い落とすまでに結構な時間を要した。乾いた血はなかなかしぶとく、彼の皮膚を離れようとしない。躍起になって爪を立ててそれを削ぎ落としたりするものだから、皮膚に赤い痕が残ってどっちにしろ痛々しい。
 「そういえばさー、亜久津って喧嘩そんな強くないんだ?」
 「は?お前殴ってやろうか」
 「いや違うって、さっき見てたら結構殴られてたから」
 「それがなんだよ」
 「私のイメージでは亜久津って一発も殴られないで相手を倒しちゃったりするのかなーって」
 亜久津がため息を吐く。風が吹き、私の手は一瞬ひんやりとする。流れ出る水の当たって跳ねる音が響いていた。
 「大概のやつは相手を殴った瞬間に満足して一瞬気が抜ける」
 「うん?」
 「その瞬間に殴ってやろうと思って、わざと殴らせる」
 「そうなの?」
 「そーなの」
 なにそれ頭脳派じゃん?私は言い、うっせえ、と亜久津は言った。
 「でもわざと殴られてこんな血まみれは嫌だなー」
 「知らねえよ」
 「喧嘩楽しい?」
 「めっちゃ楽しい」
 かなり大げさに彼はそう返事をした。けれどそれがまるっきりの嘘ではないことを私は見抜き、くらくらとする。
 「あれだよね、残酷な人間だよね亜久津って」
 「別にいいだろお前には加減してんだから」
 「なんで?」
 「は?」
 「なんで加減してくれてるのかなーって」
 「だってお前いじめても楽しくねえもん」
 「なにその言い方。好きだから、とか言うところじゃん普通」
 「なんだよそれ」
 「喧嘩してるより私といる方が楽しいとか、好きだから私には優しいとか、言うじゃん普通」
 お前めっちゃ欲張りだな。亜久津は言い、大層険しい顔をして見せた。なにを言うか、約束をすっぽかされようとどれだけ待たされようと、結局迎えに来て探しに来てそれで体を清めてあげる私に、これ以上なにを我慢しろというのか、たまには甘やかしてくれたってよいではないか。そう思うのに仁には伝わらず、彼の視線はまた面倒くさそうに、自分の手元へと戻っていった。

 「これで満足か」
 六度目の「ひんやり」を堪能していた私に、亜久津が腕を差しだして言った。血は綺麗に消えてる。亜久津の血も、相手の血も。だけど痕が残った、自分の爪で残したあの痕が。
 「うーん、まあよしとしましょう」
 彼の綺麗な手をなぞりながら言う。亜久津が「早く帰りてえよ」とか自分が散々好きなことやっていたうせにに言うものだから、ついつい面白くなって顔を上げた。私が見たのは案の定落ちていない、拭いもしていない彼の唇の血だった。
 つまり腕ばかり重点的に、しかし無気力に洗っていたことがそこに表現されていた。結局のところ彼は血を落とす事の重要さも、意味も分かっていない、私が言うから洗っただけで、私が言うから面倒だけどそれをやってやっただけで、けれどその行動に彼自身は必要性を感じていないから、それは限りなく適当な作業になってしまい、唇の血になんて当然気付いていないわけで。
 「亜久津」
 「ああ?」
 まだかよ、と言いたげな声を彼は出す。
 「まだだよ」
 「は?」
 「血が残ってます」
 「どこ、」
 「ここ」
 だるそうな、小さな子どもみたいな彼がかわいくて仕方なく、だから私はその唇を舐めた。血の味で、鉄の味。彼の血は私と同じ、至って普通の味しかしない。残虐であるないに関わらずそこは平等だ。
 「、はしたない女」
 「失礼だなあ」
 「はいはい」
 「よし帰ろう!」
 口の中に残る血の味を飲み込んで立ち上がる。亜久津も立ち上がって乱暴に蛇口をひねり、ずいぶんと無駄遣いをしてしまった水をやっと止めた。彼は潤わない、切れた唇を親指でなぞって、言う。
 「俺やっぱお前のが楽しい」、いまさらすぎるその待ち望んだはずの発言も、あんな行為の後ではしたなく聞こえた。





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2008.1.3/2014.5.30加筆修正