学生の本分もここに来ている意味も全部、忘れてしまうような。



乾燥





 朝練の途中、先輩は今日もおはようございまーす、とコートに入って来た。彼女はいつも少しだけ遅刻気味で(朝に弱いらしい)眠たそうな目をしている。毎日毎日遅刻をするので、段々と「遅刻」だという意識が部員間で薄れてしまって、今では誰も注意しない。忍足先輩なんて「今日は早いなあ」なんて声をかけた、遅刻に遅いも早いもあるかよ、と思う。
 「忍足、喋ってないで動け!」
 そうやって。跡部先輩に注意されたにも関わらず忍足先輩はにっこりと笑ってはいはい、と言うだけだ。憧れはしないが、ああいう笑みができればいいのにと思う。そうしたらどれだけ、物事がスムーズに運ぶのだろうかと。
 「おはよう若くん」
 忍足先輩に負けず劣らずのにっこりをして、先輩が靴紐を結んでいる俺に言った。
 「おはようございます」
 そうやって。靴紐から目を離さずに小さく言うことしか俺にはできない。 だから、忍足先輩みたいに笑えたらいいのにと思う。あの笑顔で挨拶を返せたら、先輩との差は迅速に縮まることだろう。
 「今日も一日がんばろうねー!」
 ふざけた調子で先輩が言う、遅刻してきたくせにだ。注意はされない、跡部先輩まで笑ってしまっていたから。どうやら先輩はテニス部のマネージャーながらアイドルらしいと、気付いたのはごく最近だった。
 先輩は影があるようなないような、そんな不思議な雰囲気で周囲を巻き込んでしまう。いくら緊迫した試合だって先輩が一声「がんばれ」を言えば自分達は勝ってしまうし、どんなにひどい怪我をした選手だって先輩が「大丈夫?」と聞けば笑顔で「はい」と言ってしまうし、監督に怒られていたって誰かが試合に負けていたって先輩がなにかを言えば部員達が笑う。前に更衣室で向日先輩と忍足先輩が笑いながら、先輩は宇宙人で、地球外知的生命体だからあんな風なんじゃないかと言っていた、それでもいいと、俺は思った。
 朝練はすぐに終わる。更衣室で着替えずに、部活バッグを背負って校舎へ向かうことにした。こんなに早い時間の教室には誰もいない、だから更衣室が混み合っている時、特に三年生でいっぱいの時は教室で着替えることにしている。先輩が向日先輩と、けらけら笑って楽しそうに話しているのが見えた。彼女は向日先輩と仲がいい、クラスも一緒らしくて、朝練には遅刻するが放課後の活動時間には絶対に遅れない彼女は、よく先輩と一緒になってテニスコートまでやって来る。たまにお似合いだ、と思うしたまに離れろ、と思う。先輩と向日先輩は二年生の時に付き合ってたことがあったとかないとか、そんな噂をよく耳にする。ただの友達なのだとそれに対して二人は口を揃えて言うのだが、あの仲のよさを友達として表してしまっていいのか、とまた向日先輩が憎い。ぴったりくっついて笑い合って動こうとしない二人を追い抜いた。あの輪の中には入りたくない、できれば、二人だけで喋りたい。けれど部室なんかで彼女と二人きりになる機会があっても、決まって俺は素早くその場を逃げ出してしまう。恐かった。二人きりが恐いのではなく、会話のないその沈黙が恐かった。つまらない人間だと思われるのが、もうそういう風に思われているのかもしれないがそれをさらに露呈させてしまうのが、恐かった。
 「若くん!」
 先輩の声が後ろから追って来たので、驚いて振り返った。彼女はまたお得意のにっこりをして
 「リップ、落としたよ」
 はいどうぞ、なんて俺の手に俺のリップクリームを押し付けた。先輩の細くて白い手は冷たくて、ただただ女らしい。唇が乾いているのに気付いたけれど、塗らずにそのままポケットに押し込むことしかできなかった。

 授業中、三年生の教室からはよく笑い声が聞こえてくる。 先輩の声が混じっていないかといつも耳を澄ますけれど、聞こえない。もしかして彼女は声を上げて笑うタイプではないのかもしれないし、よく笑うクラスは先輩のクラスではないのかもしれないし、もしかして先輩は教室では全く笑わない人なのかもしれない。とにかく先輩の声を聞けるのは部活の時間しか俺にはないのに、その時間でも積極的にはなれないのだから、どうしようもなく話せない。けれど部活だ。テニスをしにそこへ行くのに、どうして彼女と接触を図ることなんかを、真剣に考えなければいけないのだろう。浮ついてんじゃねえ、そう思うのに授業には集中できず、窓の外を見つめていると  「日吉が余所見とはめずしいな」
 と英語教師に教科書で頭を叩かれた。俺は。今常に余所見しかしていないだろう。

 その日の放課後、彼女はやはり向日先輩とコートまできた。救いだったのが二人きりではなくて、忍足先輩も後ろにいたことで、でも結局彼もあの笑顔を持ち合わせているから、穏やかにはなれない。
 「若くん今日も早いねー」
 という先輩の言葉に
 「はい、」
 としか答えられなかった。
 誰か知らない三年生と打ち合いをすることになった。あまりにも弱い部員の名前は、覚えられない。俺が目指すのは上であって、自分の下にはあまり関心を抱けないのだった、下の者に追い抜かれたらまた自分が抜かせばいいだけで、そんなものにどうしていちいち目を配らなければならないのだろう。例えば相手が跡部先輩とか宍戸先輩とか忍足先輩であったなら俺は
 「ユウスケ頑張れ!」
 先輩の声が聞こえ、ああこの人はユウスケという名前なんだと理解した瞬間に、足が重くなった。
 気が付いた時に、右膝を地面に突いていた。痛くはない、けれど脹脛が重い。ユウスケという三年生が突然のことに驚いた様子で、ボールを打ち返すのをやめてしまった。何故こんなことになったんだろうと考え、先輩がユウスケ先輩を応援したから相手の自分はこうなったのだと、答えはすぐに見つかった。大丈夫かよ、とネットの向こうの彼が声をかけてくる。首を横に振るしかなかった。
 打ち合いは中止。ユウスケ先輩は俺ではなく鳳と試合をすることがすぐに決まり、俺はコート脇のベンチに移されて、先輩に応急処置された。重い脹脛ではなく、痛くないのに血が出ている膝の手当てだった。
 「残念だったね、勝ってたのに。いきなりどうしたの?」
 先輩が脱脂綿に消毒液を染み込ませて俺に聞いた。彼女は、自分の能力に気付いていないのだ。だから先輩が応援したから、なんて言うこともできず、脹脛が重くなって、とただ状況を説明する。
 「ふうん、疲れてたのかな」
 染みるよ、と言った先輩。脱脂綿が膝にそっと触れたけれど、膝は一向に痛みを覚えない。もしかしてこれも先輩の不思議な力のせいなのかもしれないし、ただ俺がおかしくなっただけなのかもしれない。痛みのないまま、血でしか表せない赤い液体が脱脂綿に移っていくのを見ていた。
 「絆創膏貼るね、ピンクのにしてあげようか?」
 にっこり。笑って先輩が言う。俺は、なんでもいいですよ、と言った。
 彼女との差が縮まればいいと思う。もっと気軽に話しかけられたらいいと思う。簡単に「怪我したんで診てください」と言えるようになれたらいいと思う。彼女がもっと早く朝練に来ればいいと思う。もっと近くにいられる時間が、増えたらいいと思う。けれどそんなこと、口にできない。
 「あ、若くん」
 先輩が顔を上げる。目が合ってしまう、どこか違うところを見たかったのに、目を背けられなかった。
 「唇、カサカサだよ。血出てる」
 先輩が俺の下唇に触れた。先輩の爪は長すぎて、ぐいぐい押す度に俺の傷を更に深めてしまったが、けれどそのことに、彼女は気付いていないようだった。
 「先輩」
 「ん?」
 「痛いです」
 「ああ、ごめん、」
 先輩はやっと自分の爪に俺の血が流れていることに気付き、それを見やった後、そっとその血を舐めてしまった。そして自分のジャージのポケットから、甘い匂いのする女子が使うリップを取り出して
 「これ、効くからあげる」
 とにっこりを差し出し、俺に言った。使いかけでごめんね、だとか付け加えて。どうやら彼女は、間接キスとかそういうのをまるで気にしていない様子で俺に、自分の使いかけのリップを使えと言っているようだった。
 「ありがとうございます」
 ポケットに貰ったリップを押し込む。さすがに今彼女の目の前で使う自信はなかった、大体彼女がいなくなったとしても俺は、あれを自分の唇にあてがうことはできないだろう。ポケットの中のリップが、二つになってしまった。
 「あ、あと若くん」
 「はい」
 「先輩、じゃなくて先輩って呼んでよ、さんでもいいけど。他人っぽくて嫌いなんだよね」
 ふふ、と笑う。俺は言葉を返せずに、彼女の瞳をぼんやりと見つめていた。ポケットに手を突っ込んだままだった。
 「よし、手当て終了、おつかれさま」
 先輩が立ち上がる。ぎゅ、と伸びをした。立ち去ろうとする先輩を
 「先輩、」
 と呼び止める。
 「これ、効かないけどどうぞ」
 今朝まで。自分の使っていたリップクリームを投げ渡すと
 「ありがと」
 と先輩が笑って言った。とてもその顔を見ていられなくて、下を向く。膝には、ブルーの絆創膏が貼られていた。







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2014.6.24
2007.12.15最終更新のもの、加筆修正
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