その時別になにか特別な理由があったわけでもなくて、だからお前に会うつもりで来たわけでもなかったのだけれど。







 次の授業が一体なんであるかもわからないままただだるく、眠く、誰であろうと教師の顔など。見たくもなくて。そうなるともうどこかへ行って授業をさぼるしかなかった。そういう成り行きだった。
 けれど美術室はどこかのクラスが授業で使っていたし、男子トイレには恐ろしいテンションの千石がいたし、第二理科室にはおそろしくくたびれた様子の南がいて、屋上は寒い、保健室は嫌いで、音楽室鍵がかかていた。今日の俺ってほんと冴えねえとか、くだらないことを考えながらだらだら歩きまわるのも面倒くさくなってきた頃、たどり着いたのは体育館の巨大な鉄製のドアの前。ためしに、それを開くと中には誰もおらず、しんとして空だった。
 やっと、やっといい場所を見つけた。そう思ったのはたった一瞬で目の前に広がる体育館に無人の体育館は匂いすらせず、えらく静かで、ここにひとり、たたずんでいるのはずいぶんと居心地が悪いように思えた。開所恐怖症?そんなものがあるのかは知らないがとにかくそんな病を自分の中に小さく感じて気付いた時には無意識で、そう無意識で体育館のワックス効きまくりの床を進み器具庫の扉を開けていた。その中は暗く、少し涼しくて、窓はあるが小さくしかも色の付いたガラスであったからまるで日光とは無縁の場所であり、湿っぽかった。けれどここは狭い。それだけで、もう十分なのだあのだだっ広い体育館の隅で煙草を吸ったりするのはきっと気が滅入る。ドアを後ろ手で半分ほど閉めてから中に進んだのは居心地のよさを増そうとした結果だろう、薄暗さは自堕落の味方になる。ドアは器具庫の中央に設置されていたようで、両側に4メートルずつ程度のスペースがあったが人ひとり、歩ける程度のスペースを空けて雑然と物が積み上げられていた。右側にバレーのネット、バスケのスコアボード、体操部なんてないのに平均台。左側は跳び箱やマットが何枚も。俺は、さぼりに来ただけの俺は別にどちらに曲がってもよかった。どこかで、座り込むかしてだらりと一時間でも過ごせれば。だからその時俺はまったく気分で、そう気の向くまま、左へ曲がったのだ、跳び箱とマットの方向へ。
 器具庫の床は砂っぽく、歩く度に上履きの底がじゃりじゃりと鳴る。薄暗い中に聞くその音はやや不気味なような気もしたが、一体自分は何を踏んでいるのかと好奇心がわき、歩きながら足元を見ていた。そうすると視線の先に、跳び箱の一番上の段、手を突く為のクッションのが付いてるあの部分。あれが落ちていた。
 誰かが蹴り倒して遊んだりしたのだろうか、それとも昨日部活で体育館を使った連中が雑な用具のしまい方をしたとか、さっきここを授業で使った学年がてきとうな仕事をしたとか。けれどそんなこと俺にとってはどうでもいいことで直してやる義理もなく、目線を更にその先の床に移すと次は二番目の、2と数字の打たれた木枠だけの段が落ちている。誰だか知らねえけど仕事が雑すぎるだろ、それともこんなものばらす遊びが流行ってるとか?とくだらなさを究極に感じふと目を上げると、重なった、3から5までの数字が打たれた木枠だけでできあがった跳び箱の中に、女が入ってるのを見つけてしまった。
 それは恐らく異様な光景だっただろう。まるで日常ではない。恐ろしさよりも気持ち悪さ、ホラーではなくシュールとか。けれどそんなシュールを目撃した俺の頭がなにを感じたかといえば、RPGで魔法の剣だとかを発見した時のあのやったぜ!的な音楽が流れただけであり、そんな自分に飽きれていた。
 女は木枠だけでできた三段の跳び箱の中に座り込んできっちり納まっていて、肩からその上がこちらから見え、まるでダンボール箱の中に捨てられた犬か猫のようだった。右手に小さいペンライト、左手に分厚い本を持ち、ただ黙々と、そう黙々と、それを読んでいるようだった。右手が上下に動き、活字を追っていき、しばらくするとその手で器用にページを捲りまた活字を追う。
 「なにしてんの」
 とその時、俺がどうして声をかけたのかそのあたりはよくわからない。そうでも多分それは衝動的、そう単に衝動的だったのだと思う。声でもかけてみるか、という気もないまま勝手に口が動いていたのだ。それは暗く狭い器具庫内によく響き、ほんの少しだけ跳ね返った。
 女は。捨てられた動物のような姿勢の女は俺の声に手の動きを止め、顔を上げ、首を捻り顔だけをこちらに向け、目を細め俺を見つめた後
 「やあ」
 なんて言った、無表情に、そう言ったのだ。
 「だから、なにしてんの」
 それはあまりにまぬけな質問だったかもしれない、見ればわかんだろ、みたいに。けれどそれはあまりに妥当な質問でもあった、こういう場面に出くわした人間は十中八九こういうことを尋ねるに違いない。女は俺を真っ直ぐに見つめたまま
 「読書」
 と言った。それも同じようにあまりに間抜けで、妥当な回答だった。
 落ちている跳び箱のパーツをひとつ跨ぎ、そちらに近づくが。女は素知らぬ顔で、何食わぬ顔で、俺を見ている。ペンライトがキラリと光る。薄暗い中それは目に痛い。
 「いってえ」
 「なにしてるの?」
 と女は俺に例の質問をぶつけた。その声もまた響き、ほんの少し跳ね返る。そうしてから俺に耳に届いてくるのだ。
 「別に。なにも」
 「ふうん」
 答えながらもうひとつの木枠をまた跨ぐ。女は気に留める様子もなく、俺を見ている。遂に女が納まっている跳び箱の横に俺は並んで、その後ろの壁にもたれた。
 「お前、誰?」
 「さあ誰でしょう。教えないけど、あなたは仁くん」
 女は俺の名前を知っていた。仁くん。俺はその時初めてこの女に会ったも同然の状態だった。少なくともこれまで三年間、この女と会話をした覚えはないしその姿を見たこともなかったと思う。だから仁くんとか、そんな風な呼ばれ方をされる筋合いはなかったはずだ。けれどこの女は確かに、そうやって俺を呼んだのだ。跳び箱の中から。
 「お前はなんていうんだよ」
 「なにが?」
 「名前」
 「
 女は真面目に答えたが、やはりそれは俺の知らない名前だった。年下だろうか、でも同学年の人間全ての顔を覚えているわけでもないし名前だって全員分は知らない。。頭の中で繰り返してみたが俺の持つ記憶とその名前は、まるでリンクしなかった。黙っていると女はまた本に目を落とし、ペンライトの光を頼りに活字を追いはじめる。
 「おもしろい?そんなん」
 「なにが?」
 「本」
 「おもしろいよ」
 「なんの本?」
 「ユング」
 「なにそれ」
 「人の名前」
 壁にもたれたままほんの少しだけ、本を覗き込んでみたけれど細かい字がびっしり、上下二段になって書いてあるだけだった。
 「そんなん見てたら眠くなる」
 「そうなんだ」
 女の心地いい声が響いた。

 次の日、俺はどうしても眠かった。しかも次の授業は数学で、その担当教師というのは今年4月に初めて顔を合わせた時からずっと俺を目の敵にしていて、うざったく、もう授業に出る気なんかひとつもわいてこず、昨日と同じくどの教室も使用中だったり先客がいたり鍵がかかっていたりしたものだから、体育館に、空の体育館の中にある器具庫に行った。期待通りというか案の定というかはそこにいて、しかもご丁寧に昨日と同じ跳び箱の中に納まり、ペンライト片手に本を読んでいた。は今日髪の毛を頭のてっぺんでまとめていた為に薄暗い中その細い首と白い肌とうなじが見え、俺は目を擦っている。
 「ユング?」
 こんにちは、なんて話しかけるのも変だと思いだけどなにしてんの、なんてまぬけで妥当な質問ももうできない。だからとりあえず昨日が言ってた人の名前とやらを口にしたのだ、また読んでんの、みたいに。は顔を上げ、綺麗な形の唇を綺麗に開き、声を発した。
 「ううん、芥川」
 「あくたがわ。羅生門の?」
 「鼻の」
 わがわからなくて、それ以上は訊かなかった。は俺をじ、と見つめて昨日とは違い、ペンライトを右手でくるくると回して見せた。ライトの先が回る度に、光の筋が薄暗い器具庫内を一瞬だけ照らす。だから今日も、目が痛い。
 「昨日の本は、」
 もう読み終わった?と言いながら目頭を押さえる。ライトの光が目に入り、痛かった。
 「うん」
 ごめん目に当たった?とが続ける。俺は肯定も否定もせず、目頭を押さえるのをやめた。まだちかちかしている目を開けてみるとは、ペンライトをくるくる回すのをやめていた。
 「お前さ」
 「なに?」
 「授業さぼってていいの?」
 「仁に言われたくない」
 「いや。だってお前会長だろ?」
 「あれ?なんで知ってるの?」
 千石に聞いた、と言うのもなんだか悪い気がして、別に、と答える。はというと訊き返したわりにその件を気にしていないのか、まるで無垢かのような顔をしている。
 「会長が。いいのかよ、授業サボって、しかも二日連続」
 「二日連続じゃないよ、十日連続」
 「いいのかよ」
 「いいの」
 「なんで」
 「アタシ将来お嫁さんになるから。勉強必要ないんだ」
 「高校は?」
 「行かない。中学卒業したら結婚する」
 「誰と」
 「それは未定」
 真顔で言うが俺には妙におもしろくて、だけど笑うのもどうかと思うと笑えずだから、とりあえずへえとか、そんなことを言っていた。
 「だからここで本読んでんの?」
 「そ、結婚したら本読む暇なくなりそうだもん」
 平然とした、女の心地いい声が響いた。

 もう病的にだるくて、千石に早退を誘われたけどそれも億劫で、寝不足と昨日の飲酒で重い体をなんとか動かし着いたのは今日も、体育館器具庫。昨日や一昨日と同じように捨て猫か捨て犬みたいには跳び箱の中にいて、今日もペンライトと本を持ち、活字を目で追っていた。けれど今日、俺が声をかける前には、俺の方を見た。
 「元気?」
 「うん」
 その返事を聞いてから俺は床に散らばる跳び箱を跨ぎ、が納まる跳び箱の横に行き、壁にもたれたのだけどどうにもしんどく、そのままずるずる後頭部を壁にぶつけながら座り込んでいくしかなかった。は俺のその様子を、いつもよりほんの少し大きく目を見開いて、見ていたように思う。
 「眠い」
 「寝たら?」
 「今日はなんの本?」
 「乱歩」
 「また。難しいの読んでんの」
 目が閉じかかる。向こう側の壁を睨みつけたりして堪えるが、瞼が重い。
 「眠い」
 「寝たら?」
 「寝るかよ俺と喋りにきたのに」
 言った途端に目の前が真っ白になる。それは昨日よりもずっと痛く、思わず手のひらで目を覆った。のペンライトが不意を突いて俺の目を直撃したようだった、しかも一瞬じゃなくて、しばらくの間。
 「くそなんだよいってえな」
 「寝そうだったから」
 手を離し、眩んだその目で横を見る。は一瞬俺をほんの少し緩んだ顔で見つめた後、またペンライトを当ててきた。もう目が覚めたとか、言うまでそれをやめなかった。
 「失明したらどうしてくれんだよ」
 「眠そう」
 「寝不足」
 「女の子と遊んでたから?」
 「なにその安直な発想、笑える」
 「違うの?」
 「俺今女いない」
 「そう」
 を見る。も俺を見ていた。目が合うなんてこと、この三日で何度もあったことだろう。けれどその日のそれがなにやら新鮮に感じたのは何故だったのか。ペンライトの強い光を受けたせいかもしれない。
 見つめ合う。昨日や一昨日とは違って今日は、座り込む俺達の目線は初めて、同じ位置だった。その時、初めてまじまじとの顔を見た気がしていた。
 「お前さ」
 声を出す。それは涼しい器具庫内に響く。わんわん、と。
 「なに」
 「なんで授業サボってんの?」
 「だから、授業とか勉強とか必要ないの、アタシ」
 「じゃあ学校来るなよ」
 「来るよ、出席日数稼がなくちゃいけないし」
 「うん?」
 俺は理解できず訊き返し、本に目を落としてがそれに答えた。丁寧に噛み砕いて。
 「出欠って、朝のHRにいるかいないかで決まるんだけど」
 「うん」
 「HRにさえ出ればあとは教室にいなくても出席扱いになるの」
 「へえ」
 「だからHRは出て、それからずっとここにいるんだよ」
 「ふうん」
 だったら別に。HRに出て速攻家に帰って、自分の部屋で本を読んだっていいわけだし大体にして、授業も勉強も必要ないなら出席日数稼ぐ必要もないだろって、言おうとも思ったがそんな長い言葉を紡ぐのもひどく億劫で、結局それを俺は言わなかったそれに、女の言うそれがなにかの言い訳でしかないことをぼんやりと感じていた。
 「なに読んでんの」
 「仁はさ」
 「うん?」
 「いつもそうやって聞くけど、本好きなの?」
 「字見てると眠くなるって言っただろ」
 「そっか」
 「で、なに読んでるの」
 「源氏物語」
 ふう、と息を吐く。今まで何気なく、そう何気なく遠慮していたのだけど今日は、病的にだるくて我慢とか自制のできない今日は、ポケットから煙草とライターを出し火を点けて吸った。白い煙が薄暗い器具庫の中に立ち昇った、細く、細く。隣のは顔を上げる様子もなく、活字を追っていた。源氏物語とやらを。
 「煙草平気?」
 「吸ってから聞くのも変じゃない」
 「ああそうかも」
 「平気」
 大体の女は、俺が今まで付き合った女というのは煙草を妙に嫌う奴ばっかりだった。臭いが嫌いだとか吸ってる人は格好悪いとか、言われる度にじゃあどうして俺と付き合ったんだと思ってきた。一人か二人、煙草を吸ってる手が好きだとかなんだとか、言う女がいたかもしれない。けれどそれはそれで煩わしかった、干渉しないでくれ。俺はいつも自分の喫煙についてそう思っている。
 「吸う?」
 「いらない」
 何食わぬ、平然とした、女の心地いい声が響いた。

 めずらしく四時間目までまともに授業出たその日、昼休みになると空腹を覚え、南か誰かに一緒に昼飯食おうと言われたけれど売店が休みで、弁当なんてものを持っているはずもなく、だから昼食を持ち合わせている南なんかの横にただ佇むだけの三十分を思うとあまり気が進まず、けれどどこか、行く当てもなくやはり、気付いた時には勝手に、器具庫に向かっていて。ガラリと扉を開けいつも通りに左に曲がると、床にはふたつのあの木枠。完全体ではない跳び箱の中にはいて、器用にも跳び箱の角にペンライトを置き、今日は弁当を食っていた。右手に箸、左手に弁当箱、赤い色をした。
 「お前って」
 声をかけると。は音もなく咀嚼をしながら、こちらを向いた。
 「本気でいつもここにいんの?」
 「体育の授業が入ってない時だけいるよ」
 「へえ」
 それ以外の時間はどこでなにをしているのか、訊いてみようかと思ったけれどそんなこと、結局俺には関係のないことで、だから訊かなかった。その他多くのどうでもいいことをこれまで、口にして問うてきたのに。
 「うまい?」
 「なにが」
 「弁当」
 「ううん」
 昨日と同じように、数秒壁にもたれてからその場に座る。これほど近付いてもの咀嚼の音は聞こえなかった。
 「今日売店やってなくて」
 「うん」
 「飯食いそびれてる」
 そう言った俺をはじっと見た。だから俺もじっと見返すしかなかった。別にが弁当を分けてくれるとは思っていないし、分けてほしいとも思っていなかった。別にになにかを伝えようとは思ってはいないし、伝えてほしいとも思っていない。は弁当を一旦、跳び箱内の床に置き、その上に同じ色をしたプラスチックの箸を置き、自分の制服のポケットに手を突っ込んだ。 煙草でも出すのかと思ったが拳にして出したその手を、俺の前で広げた時その手のひらには、アメ玉が五個。
 「なに?くれんの?」
 頷いた後、は自らの取り分らしい「いちご」と表記してあるアメ玉を左手で摘んで手のひらの中に隠してしまった。残された四つのアメ玉を見つめる。「ぶどう」が二個と、「おれんじ」が一個、「サイダー」が一個。
 「俺」
 「なに?」
 「いちごがいい」
 にそう告げた言葉に、それ以上の意味はなくて単に、単純に、俺はいちごがほしくて、けれどが自分のものだと摘まんでしまったから言ってみただけだった。は黙って俺を見つめ、その後黙って左手を突き出し、俺の手の平に「いちご」を落とした。
 「どうも」
 「うん」
 包みを開く。無機質な、それでも湿っぽい器具庫の空気にいちご味のアメの、甘い匂いが広がった。俺の隣では「ぶどう」の飴を口の中に放り、残った三つはまたポケットにしまった。そしてまた、弁当を食べはじめる。
 「アメと弁当一緒に食って平気なの?」
 「平気」
 「あっそう」
 包みから現れた毒々しい赤い色のアメ玉を口に放り込むと、いちごの、いちごだけれどいちごじゃない味がした。化学で作り出したいちご。果汁1%未満、そんな感じで。
 「お前さ」
 「なに?」
 「一緒に飯食う奴とかいないの」
 が、俺の方へと顔を上げた。頬をもぐもぐ動かしながら。それで首を傾げて見せた。
 「友達とか、男とか、そういうのいないの」
 「どうだろ?」
 「どうだろ、って」
 「友達はいないかも」
 「いないのかよ」
 「友達なんて、アタシがむこうを友達だと思ってても、むこうはアタシを友達だと思ってないかもしれないでしょ」
 「ん?」
 初めて聞くの長い言葉に俺はなぜだか戸惑ったりその声の、声の響きに浸ったりと忙しかった。
 「だから、いないかも」
 「なんでそんな暗いこと言うんだよ」
 「だって、確かめようがないでしょ」
 「彼氏は?」
 の綺麗な顔が、大きな目が、俺を見ている。
 「いんの?」
 「彼氏なんて」
 「なんだよ」
 「いたらこんなところに座ってるわけない」
 しん、とした、何食わぬ、平然とした女の心地いい声が響いた。

 それからしばらくの間、あの器具庫には行かなかった。 というか俺は、その間学校に来てすらいなかったのだそれは、と三度目に会ったあの日の夜あの女にはいないらしい「友達」何人かで集まって酒飲み、翌朝俺は二日酔いに近いものを患っていて学校に行く、そのことがことさら面倒に感じ家で寝たままでいて、そうやって一日学校を休むともうまるで登校する気なんか起きない日がだらだら続き、だからあの日からしばらくの間、俺は勝手に学校を休んでいたのだ。それで今日久し振りに学校に来て、かなりしつこい説教を担任から受けた後 一時間目と二時間目、律儀に授業に出てみたりして、眠りもせず、ずっと自分の机の木目の数を数えたりしていたのだがそれでもやはり授業を受けているのはただただしんどく、眠いし頭痛くなってきたしもうこんなん受けられねーとふっきれ、ひさしぶりに、そうひさしぶりに器具庫へ行った。
 体育館はその時も、授業が入っていなくがらりとして誰もおらず、俺はまた開所恐怖症なんて言葉を思いながらも歩き、器具庫の扉を開けた。中は暗く湿っぽく、入ると足元がじゃりじゃりと鳴り、それでも左に曲がった、意識的に、そうこの時ばかりは意識的に。
 床に転がっていた跳び箱のふたつのパーツ、キラリと光るペンライト、「読書」をする跳び箱の中の女の影、それはなぜか俺をひどく、安心させたりしたのだ。
 へと近付くじゃりじゃりという俺の音、それに気付いたは顔を上げ、俺をじっと見つめた。整った顔をして、何食わぬ顔をして、憮然として。それで、形のいい唇を開き
 「もう来ないかと思ってた」
 と、初めて、初めては自ら俺に話しかけてきたのだ。
 「ひさしぶり」
 「うん」
 「なに読んでんの」
 「ゲーテ」
 壁にもたれ、本を後ろから覗いてみる。そこには日本語ではない文字が連なっていた。ああもう、そう思いながら煙草に火を点ける。
 「お前、外国人?」
 「日本人」
 「そう」
 「仁、今までなにしてたの?」
 「俺?学校休んでた」
 「ふうん」
 「知らなかった?」
 「うん」
 「誰かに訊いたりしなかったのかよ」
 「なんで、そんなことしなくちゃいけないの?」
 「俺がいきなり来なくなって寂しいとか。思ったりするだろ」
 「別に」
 「なにそれ冷た」
 「仁」
 「なんだよ」
 「座りなよ」
 座りなよ、と言われたら座るしかなく。煙草を口にくわえたまま俺は冷たい床に座り込む、 の隣に。
 「で?」
 「なに?」
 「座らせて、どうする気」
 「別に、なにも」
 「なにもって」
 「隣に仁が座ってる方が、落ち着く」
 「それ、告白だろ」
 「アタシ。開所恐怖症なのぎゅうぎゅうに詰まってないといやで」
 開所恐怖症。そんなものあるかどうかもわからない、俺の頭の中で何回か繰り返された言葉がの、口から今確かに発せられた。お前も?とは俺は言わない。俺も。とも俺は言わない。
 「だから跳び箱に入ってんの?」
 「そう」
 「なんで開所恐怖症?」
 尋ねてすぐ、そんなもの理屈じゃないかと思い直している。俺にしたってなにか凄まじい理由やトラウマみたいなものがあって体育館の開放感が嫌だったわけじゃなくただ、なんとなく、本能とか生理とかそんなものから、だだっ広い体育館を避けたのだ。けれどは俺の質問を聞いて初めて本をぱたんと閉じ、床に置き、俺の方を向いて、俺の方に体を向け、跳び箱の縁に腕を乗せて、口を開いた。
 「ふられたの」
 ふられたの。そんな、よくわからない言葉をは俺に告げている。ふられたの?
 「なに?」
 「だから、ふられたの。もう結構前になっちゃうけど、その時付き合ってた人に」
 「へえ」
 「誰かに訊いたりしなかった?」
 皮肉っぽく、冗談めいて、が言う。俺は黙って首を横に振っていた。まるで参ってしまっていた。
 「その人に会いたくないから、授業出てない」
 「ああ、そういう理由?」
 「ここに入ってぎゅうぎゅうになってると、安心する」
 「ふうん」
 「失恋の感傷的な気分も紛れるし」
 「うん」
 「仁が隣にいるともっと安心する」
 「俺もその中入ってやろうか」
 「無理じゃない?仁おっきいもん」
 ふわり、とが笑った。初めてが俺の前で笑ったのだ。ペンライトはこちらを向かない。それなのにばちりと、目の奥が痛い。
 「
 「なに?」
 「まだその男のこと好きなの」
 「ううん、どうでもいいんだけど。会いたくないだけ」
 煙草の煙が広がる、器具庫の中、崩れた跳び箱の横で。息を吐く度にそれは広がり、ゆっくりと上に昇る。
 「結婚は」
 「するよ、お嫁さんになる」
 「相手は」
 「まだ」
 はあと息を吐いた。白い煙は相変わらず広がり、次第に上に行く。
 「あ」
 が思い出したように言い、ポケットに手を突っ込む。そして、手の平いっぱいのいちご味のアメを俺へと差し出した。
 「仁、あげる。アタシ仁のこと待ってた」
 が笑う。平然と、が笑うのだ。
 初めてここに来た時、別になにか特別な理由があったわけではなくてだから、お前に恋をするつもりがあったわけでも、なかったのだけれど。








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2006.5.6/2014.10.4加筆修正
跳び箱の中でお弁当、というのを友人の友人が幼い頃やっていたと聞いて