あれ、きみはどんな顔をしていたんだっけ。



星空





 6時間目の、授業はなんであろうとだるい。xとyの絡み合い、一向に=は続き、答えは見出せない。長い長い式、絡み合う数字達。6と9と24は3で割られ、小さな数へと姿を変えた。
 どうして右辺を0にしなくちゃいけないんだとかどうして移項しなければいけないんだとか、私はあまり考えない。こうしないと二次方程式が解けないからこうしているだけで、別に深く考える必要はないのだ。
 あーあ、と思い窓の外を見つめる。澄み渡る青空、暑い。美しい芝生、暑い。耳を澄ませば先生の声、うざい。隣のクラスの席替えの音、羨ましい。私の今の隣の席の、男子。
 私は日々この男からなんとか逃れようとか、なんとか構われないようにしようとか、必死になっている。顔も性格も体型も好みじゃない。早く席替えをしろ!と担任に念じたところで超能力を持ち合わせていないので通じるはずもなく。
 「なあ
 「え?」
 さっきまで窓の外を眺めていたはずだったのに。気付いたらぼんやりとして、目を開けたまま眠っているような、そんな状態になっていたようだった。それは気持ちの悪いことではない、そういうふわふわが永遠に続くのであれば私はそれを案外あっさり受け入れるだろう、だからそういう状況を、はっと壊してしまう隣の男子の声なんていうのは、嫌いだ。
 「なに?私当たった?」
 「や、当たってへんよ」
 私の隣の席の、忍足という男はへらへらと笑う。だから私はこの男が苦手なのだと思う、まるで、女はこういう風に笑いかければいいのだろうとわかっているかのような、そんな雰囲気が全面に感じとれるからだ。それは私の偏見かもしれない、モテる男に対するただの憎しみであるのかもしれない。しかし、苦手だ。
 「なあ最近彼氏とどうよ」
 「うるさい、静かにしてよ」
 「自分はよそ見してたくせに」
 また、へらへらと笑う。うざい、うざったい、大体、私と彼氏がどうなっているかなんて、この男には関係がないはずだ。それでもちくりと胸が痛いのは、彼氏とどうかなんて言葉に焦りを感じるのは、もしかしてそれをわかって忍足は私にそんな質問をしてくるのかもしれないとか、思うともう、うざい。
 「うまくいってないんやろ」
 「うまくいってるよらぶらぶだよ」
 「そんな見栄張らんでええって」
 やーだーもう侑士うるさーいと、彼にそう言って怒ったように甘える女の子達を私はよく見る。私はそんなこと、できない。彼のふざけた、しかしちくりと刺さる言葉に冷静に、しかし方向違いに答える術しか持たない。私はもしかして、うまくいっていないのかもしれない、だからといって、殊忍足に対してそれを認めてしまったら私は、打ちのめされてしまう。
 忍足の声はよく響く、どれほど些細なおしゃべりであろうと彼の声はよく通る。静かな、教室中に眠気の漂う6時間目となればなおさらだ。数学教師が黒板からこちらを振り向いて、忍足に目を向ける。
 「じゃあ問6、忍足」
 「ええ?」
 私を見て、問い詰めるように促すようににやにやとしていた忍足は間抜けな声を出し、黒板へ目を向けると自分のノートを見返した。なんやねんもう、と呟く彼をあーあ、と思いながら私はまた外を見る。雲が風に吹かれ、山吹の方へと流れていく。亜久津は。
 亜久津は今どこにいるのだろう。アタシを置いてどこへ消えたのだろう。一人旅、だなんて柄ではない。他に女ができたんじゃないの、と誰だかに言われたのを、振り払う、振り払う。そうかもしれない、そうなのかもしれないが。それを事実かもしれないと受け止めるにはまだ早い。
 「まいなすご」
 忍足が言い、「授業中に喋っているから間違うんだろー」と、教師がしてやったりな言い方をしている。つまり不正解だったのだ。あーあ、と思いながらアタシは空を見る。同じ空の下に亜久津がいるとはわかってるけれど、そんなものはなんの励みにもならない。それは私が亜久津を知っていて、これまで何度も触れていて、それで私は亜久津の彼女だからだ。どうして彼女なのに、同じ空の下にいるからだとかいって、様々を我慢しなければならないのだろう。彼女である私は同じ空の下にいるよりも、もっと有意義でロマンチックな仁とのやりとりを既に知っている。例えば空気にしたって私と亜久津は同じ空気を吸っているが、空の話となんら違いがない。空気だなんて誰もが吸っているのだ隣の忍足も、あの教師も、亜久津の友人も吸っているだろう、ああ違う。亜久津は空気というよりも、煙草を吸っていそうだ、煙草、あの手付き、
 「お前なあ、ちょっとは助けてくれるとかないんか」
 教師から開放されてまた、忍足が私に話しかけてくる。私はそれをシカトした。忘れかけていた亜久津の顔を、やっと今煙草というヒントと共に思い出せそうだったのに、忍足のせいで全て消えてしまった。台無しだった。
 「なんや不機嫌やなあ、大丈夫か?」
 大丈夫じゃねえよ、私は思うが、答えない。会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい、黙っているとそればかりが浮かんでくる、顔も思い出せなくなってしまった亜久津を私は確かに欲しっており、会いたい。有意義でロマンチックで温かなやりとりをしたい、空や空気ではまるで物足りない、欲張りな私を作った男に会いたい。自分の熱中しているものを病気だ、と言い切ってしまう大人が私は好きだ、けれど私が亜久津に焦がれるこの気持ちを、病気だと表現したら途端にそれが安っぽく、ちっぽけなものに感じてしまうのは何故だろう。
 「頭痛い」
 「は?うそやん」
 忍足が言う。嘘だ、頭なんか痛くない。けれど私はそれを、本当だということにしなくてはならない、今すぐに。
 「保健室行く」
 「マジか俺もいきたいわあ」
 「あんたが言うとやらしいんだよ」
 立ち上がる。はあ?と怪訝な顔をする忍足を私はまたシカトし、真面目な顔を作り上げると黒板に数字書いてる数学教師に声を出す。
 「先生。頭痛いんで、保健室行きます」
 「おお?大丈夫か?」
 振り返った彼はそれだけ言ってアタシが保健室へ行くことを許した。もし私が亜久津に関する病気なら、私の想いがうまく通じない時は私の演技力を加速させるだろうし寂しさを増加させ、なにもかも無気力にしてしまう。例えばこういう風にあと20分も我慢すれば終わる6時間目を、途中放棄させるくらい。教室を出る時、忍足がまた当てられたのを確認する。

 保健室のベットの布団は重い。頭から被って、ポケットに忍ばせておいた携帯を開く。驚くことに、着信が3件。マナーモードにしておいてよかったと思いながら詳細を見てみる。
 1件目は誰か知らない人で、2件目は亜久津で、3件目は非通知。2件目以外を削除して、登録された「亜久津」の文字を見つめる。12秒で切ってしまっている、その相変わらずな諦めの早さにほとしつつ、喜びつつ、寂しくもなっている。
 すぐにこれに出られたらよかった。時間を見ると数学がはじまる直前で、その時私は忍足に、ノートを見せてとせがまれていたことを思い出し、後悔する。彼氏とどうだなんて、気軽に聞きやがって、私は、忍足にノートを見せたりごたごたと口を利いたりしないでただ、いつも通り黙って携帯さえいじっていれば亜久津からの電話にあの時、出られたのに。なにが彼氏とどう、だ、ぶっ壊したのはお前じゃないかと、私は布団の中で彼を恨んでいる。
 かけ直したい、そう思うのにここで電話をかけるわけにもいかず、こそこそとメールを打った。
 今学校だから電話できなくて 会えませんか
 気付いたら敬語。気にせず送信。あとはひたすら待つだけだ。
 携帯から目を離さない。けれど授業直前の、30分も前の着信だったから、亜久津は返事をくれないかもしれない。しかしくれるかもしれない。その可能性を捨てきれない限り私は、病気だ。落ち着かず、いそいそと布団を出てベットの上に胡坐をかいた。
 保健医がパソコンのキーボードを叩く音がする。時々椅子のキャスターがほんの少し回転する小さな音も。真っ白なカーテンで締め切られた、私のベットの周り。光を遮断しきれないこのカーテンは少し心細いが、しかし私と彼女にある確実な仕切りに、妙な安心感を抱く。
 きらりと光る、携帯のランプを私は見た。ああ亜久津だ。しかし注視した画面は予想に反し、メールの受信ではなく着信を知らせている。今学校にいるのだと私は確かに教えたのに、電話はできないと確かに教えたのに、それなのにかかってきた、亜久津からの電話。メールだってちゃんと打てるくせに、彼の連絡の主体は電話だ。それはいいことだ、声が聞こえるのは嬉しいことだ。けれど今は保健室で、保健医はすぐそばにいる。
 でも私は耐えられない、また仁に12秒で切られてしまう着信をこの目で見届けてしまうことに、耐えられない。切られて、それで放課後になってからこそこそと、トイレかどこかで私から折り返し電話をかけた時、きっと仁は出ないだろう。その繋がらない電話の、呼び出し音を聞いて私はなにを思うのだろう。考えるのをやめて、応答マークを押していた。
 携帯を耳に当てがったが喋れない。仕切りがあるとはいえ音なんて筒抜けであろう保健医との距離に、声が出ない。切られてしまうだろうか。
 「今どこ」
 懐かしい亜久津の声。そしてメールの内容をまるっきり無視した質問だ。学校だって教えたじゃん、学校だって。電話できないと、私は確かにそう書いた。息を飲む。
 「おい」
 「、はい」
 切らないで。その思いから咄嗟に答える。仕切りの向こう、キーボードを叩く音が止まった。
 「野々村さん?なにか言った?」
 保健医の不思議そうな声がする。それは遠くから、亜久津は耳元に。
 「いやなにも」
 「は?お前何言ってんだよ」
 「や、ちがくて」
 「野々村さん?」
 気が変になりそうだった。心臓が妙に冷静に脈打っているのを感じていた。電話を切りたくない。亜久津と話したい。しかしこれ以上亜久津に応答すれば、彼女は不審がって様子を見にくるだろう。携帯の没収、それだけは避けたい。
 私はひとつ息を整えると、携帯を通話画面のまま制服の袖の中に隠し、白いカーテンを開け、上履きを履いた。デスクに向かってまた打ち込みの作業に戻っていた保健医が、顔を上げてこちらを見ている。
 「あの、よくなったので教室に戻ります」
 「大丈夫なの?」
 大丈夫です、簡単に言い、なにか言いたげな彼女に目もくれず早足で保健室を出る。失礼しました、を言わない。言う暇などない。
 廊下に出て涼しい空気を吸った瞬間に、携帯を取り出した。すがるような気持ちで見た携帯の画面は、まだ通話中の、経過時間をこつこつと刻んでいた。
 「亜久津」
 「なんだよ」
 不機嫌な、それでも確かな亜久津の声は、そこから聞こえた。
 「ねえ私今学校で」
 「知ってる」
 「そうだから電話」
 「会いたいんだろ」
 「え?うん」
 「4時に山吹」
 「ん?」
 切られる。通話終了の電子音が聞こえたはずでいつもなら、それに打ちひしがれたりもするのだが今日は、ただただ亜久津の声の余韻に浸る。まるでうっとりと。久しぶりに与られた彼の欠片に、私の頭の中はぼんやりと暖かくなる。あの声、も横暴さも、全てが愛しい。

 9月の夕暮れは寒い。こういう時ばかりは制服のスカートを短くしている自分をばからしくも感じるがそれでも、その方がかわいいのだから我慢するしかない、これから亜久津に会うとなればなおさらだ。
 煙草に火を点ける。アタシの体に吸い込まれる、ニコチンとタールが混ざった害しかない煙は、完全に私の体を蝕んでおり私は最近これが必要でしかたなく、学校を出ると何度でも摂取しないとどうにかなりそうな習慣がついてしまった。ゆっくりと煙を吐く、それは白く濁り、あらぬ方向へと吹かれ、あっさり消えていった。この煙には地球を温暖化させる原因となるなんらかの物質が含まれていると化学教師に教わった、それなのにその煙を吸っている私や亜久津は、自分立ちの体温が徐々に下がっているのを感じている。
 空を見上げる。濃紺の空に点々と星があるようにも、月が出ているように見えた。三日月なのか満月なのか、乱視を患う私にはぐちゃぐちゃになって見え判断がつかない。眼鏡は持っているが、一度眼鏡をかけている時に亜久津に会って、キスをしようとした彼にそれが邪魔だと、言われてからかけるのをやめてしまった。ゆっくり、ゆっくり目を細めていくと、空に浮かぶのが三日月なのがわかった。
 寒い9月の空が私を見下ろしている、早く4時になってくれさえすればいいのだが。いい加減、下校中の山吹生にじろじろ眺められるのも嫌になってきてしまった、こそこそとあれ亜久津の、と言われているらしいのを、聞こえないふりをしてやり過ごすのも疲れてしまった。亜久津の彼女だと、そう言われるのは構わないのだが変な噂ばっかり言いやがってああ、私は吸いたくもない2本目の煙草に火を点し、すぐに捨てた。
 ねえ亜久津。私は、自分の恋人である彼を心の底で、問い詰めている。ねえ私は利用されているんじゃないよね、他に彼女みたいなものがいっぱいいて、そのひとりが私であるなんてことはないよね、ねえ私達は、付き合ってるんだよね、ちゃんと付き合ってるんだよね、噂は、あなたがただあまりに逸脱していて、ぶっきらぼうで冷たいから周囲に勘違いされていて、そういうところからくる風評被害みたいなもので、事実なんかじゃないよね。問い詰めてみるが、もちろん答えは返ってこない。
 また空を見上げたのは決してぐちゃぐちゃの、判断がつかない星や月に対する探究心からではなくただ、零れそうになった涙をとどめておきたかったからだ。亜久津、遅い。
 「なにしてんだよ」
 懐かしい、声。遂に視力がどうこうではなく、目が潤んでしまってはっきりと見えなくなった星空から目を離す。亜久津は乱視の私でもはっきりと見える姿形で、そこにいた。
 「星が綺麗だから」
 嘘だ。けれど私はそれを、本当だということにしなくてはならない、今すぐに。だってまさか亜久津が全然出てきてくれないし、4時にならないし、心配だったしで、涙が出そうだったから顔を上に向けていたとか、言ったら彼はなんて顔をするだろう。ほし?亜久津が不思議そうに上を見たから、私もつられてまた顔を上げる。ああ亜久津がいる、なにも、失踪なんてしていなかったような体でここにいて、空なんか見上げているのだ。嬉しくて嬉しくて、涙がまた出そうになって、堪えた。
 「俺、目悪いから」
 なにも見えねえ、亜久津が呟き、私と同じだねと言いそうになって、それでは嘘がばれてしまうから口をつぐんだ。けれど亜久津がその後すぐに
 「てかお前も目悪かっただろ」
 なんて当然のように言うから、私の視力の強弱なんていう最低につまらないことを覚えていた彼に、私はもう文句なんて言えない。
 「よくなった」
 私は言い、ふうん、と亜久津は素直に返事をした。
 よくなったのだ、どうでもよくなってしまった。噂だとか視力だとか他の女だとか、いなくなったとか帰ってこないとか連絡もないとか、隣の男子とか彼氏とどうとかうまくいってるとかいってないとかそんなもの、どうでもよくなってしまっただって今、亜久津に会えたのだからもう、全てよくなってしまった。
 手を繋ぐ。寒い、私達には歪んでしか見えない星空の下で、手のひらだけが温かくなった。ここで、こうして生きていくしかないのだと、彼といると強く思う時がある。キスをした、
 「煙草吸っただろ」
 まるでうっとりと余韻に浸るアタシに、一言、亜久津が、






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2014.6.7
2008.1.8最終更新のもの、加筆修正