恋愛を甘酸っぱいだなんて例えたのは誰だろう。生臭い体液の味しかしないのにと、亜久津の舌を感じながらばかみたいなことを考えた。








          玉兎








 「さっきアドレス変えたんだけど」
 ぴかぴか光る携帯のランプを、不審げに見つめる亜久津に呟くと咳がでた。うつ伏せのままこほこほと息を吐き出すと背中が上下して、きっとあたしは釣り上げられてアスファルトに叩き付けられた魚みたいな様子だっただろう。ねろねろと潤っていたらいいのに、そう思うけれどあたしはきっと乾いている、ただの乾燥肌を患っているせいで。
 体の表面だけならまだしも、今のあたしは咥内さえ乾ききっている、それはきっと亜久津のことをべろべろ舐めたからだし唾液の交換をし過ぎたせいだし息が上がるほど、亜久津があたしに攻め寄っているからだ。もう喉がからからで、だから咳がでる。それでも、あたしは声を上げるのだ。頬に押し付ける枕が気持ちいいのはどうしてだろう、乱暴に上からあたしを押さえ付けている亜久津のその腕の圧迫が、ひどく気持ちいいのは。
 「後で見せてあげるけど、すごい勢いでこのアドレスは存在しません、みたいのが返ってきてて」
 振り返ると自分の肩越しに亜久津の顔が見える、その顔があたしの気持ちの悪い形をした肩の表面とはまるで正反対に熱く、潤っているのはあたしが女で亜久津が男であることに密接に関係しているように思える。こめかみのあたりから現れた汗が頬を伝い、顎にまで垂れた時に亜久津はゆっくりと首を傾げる、不審げに、それでもあたしを押さえ付けながら。
 「なんか。つまりみんなアド変してもあたしに、」
 アドレス、と言い切る前に亜久津の腕がふっと離れてあたしの両肩の前へと手の平が差し込まれ、教えてくれなかったってこと、と言い終わる頃にはあたしは仰向けになって亜久津と向き合っている。どうしてそんなに暑そうなの、と頬に手を伸ばしてみたけれど指先がそこに触れる前に手首を掴まれ、可哀想なあたしの腕は亜久津の乱暴な腕によってベットに押し返される、亜久津があたしの首の横の辺りに顔をうずめて強く動くので、あたしも声を出すしかなかった、全く喉が渇ききっているのに。
 だから携帯のランプが光ってるのは送信先が見つかりませんでしたっていうエラーメールが溜まってるからなんだよ、
 そういうようなことを伝えようと思って開いた口を手の平で塞がれ、あたしはあたしの言葉があたしの体の中の水分と共に、また胸の奥へと戻っていったのを感じ少しだけ喉が潤ったような気もする。耳元で。
 「黙ってろ」
 と亜久津が言う。黙っていたらあたしはいってしまうだろうし亜久津もいくだろう、そうしたらこの、生臭い体液の味がする恋愛の確認作業が終わってしまう、切り離されたくない、そう思うけれど亜久津は多分いきたいのだし、あたしもそうだしなとはたと気付いて喋るのをやめた。やはり恋愛は。甘酸っぱくなんかない。

 玉のような汗をかいている亜久津の首が美味しそうに見え、水分補給を思いながらリンパのあたりを丁寧に舐めているとくすぐったい、と頭を振られた。亜久津があたしの隣でうつ伏せになっている、背中を上下させて、でもそれはあたしのそれとは違い随分ゆっくりで、優雅だった、孔雀とか。熱帯雨林の巨大な木の上で昼寝をする黒豹だとかを思わせるような。でも、と寄せた口に自分の唇を乱暴に押し付けて亜久津はあたしの頭を撫でた。まるであやされているみたいだなと思うと力が抜けて、また枕に押し付ける顔は亜久津を向いていた、亜久津の顔も、ぼんやりとあたしに向いていて。
 「とにかく浮気とかじゃないから安心してね」
 そう言うとはあ、と聞き返される。携帯のこと、というとああ、と頷いて欠伸をした。
 「亜久津、ずっと携帯の方見てたから」
 「なんか。光ってんなーと思って」
 「そんな。UFOじゃないんだから」
 「なんだそれ」
 亜久津は笑う。でも決してばか笑いはしない。嘲笑か、ふっと消えるような冷めた笑い方しかしない。それを不安に思ったことはないし別に、あたしは多分こういう-20℃の朝みたいな亜久津が好きなのだ。
 「あたしあんまり携帯鳴らないでしょ」
 「てか一回も聞いたことない」
 「まあサイレントだから」
 「じゃあ鳴るわけねえじゃん」
 「そう、でもまあ実際メールとか電話とか一切こないわけ」
 「ああ」
 「だから。ランプ光ってて亜久津びっくりしたのかなーと思って」
 「なんか、これ光るんだとか思った」
 そんな感想を漏らしてまた欠伸をする。目を閉じて口を開いて、頬に入った縦皺は彫刻のように美しく、弧を描いた瞼のラインは猫みたいで愛らしくまた、開いてあたしを見つめる目は雨上がりの地面然り、潤んでいた。
 「嫉妬とか。心配とかしない?」
 「俺、」
 「なあに」
 「あんまり誰がどうとか、興味なくて」
 「うん?」
 「誰がに連絡してきたとか、」
 「うん」
 「例えばお前が浮気してるとか聞いても、あ、そう、で終わるんだけど」
 「え、なにそれ変くない?」
 「変くない?って言葉が変じゃね?」
 「あれ?そうかな」
 「初めて聞いたわ、そんなん」
 そう言って亜久津は笑って、あたしの頭をまた撫でる。大きな手の平はその内あたしの頭をソフトボールかなにかみたいに、引っ掴んでバッターボックスの方へぽいっと放ってしまうのではないかと思う時もあるけれど、それはそれで運命なのだから仕方ないかな、とあたしは幾分なにかを諦めている、亜久津が、今こうしてあたしと一緒にいてくれていることだけで神かなにかに感謝しなければいけないのにこの先だって、幸せにずっと一緒にいたいと願うだなんて贅沢過ぎる。
 「でもお前のこと」
 好き、とこれまでの言葉を補うかように亜久津が言う。あたしはそれを信じている。どうしてあたしは亜久津の言葉をこういう風に、まるで無垢な子供のように正面きって信じ込むことができるのだろう。生臭いこの恋愛とそれは深く繋がっているに違いない。
 「あたし」
 顔を寄せると腕を伸ばして亜久津はあたしをぎゅっと抱き寄せる。体をくっつけたあたし達は熱を帯びていて、亜久津は汗に潤い、あたしはからからに乾いている。目を閉じて足を絡ませていたりするとあたしは強く、自分と亜久津が全く正反対のものであるのだと感じる。月と太陽のように。太陽側の生き物である亜久津はきっと、そんなこと微塵も感じとっていないだろう。
 「なんか。わりとショックで」
 「なに?携帯?」
 「そう、だってこれって完全に切り捨てられたってことじゃん、普段顔合わせてる学校の子達に」
 「でも別に、仲良くもないような奴等だろ」
 「うん、メアド知ってても絶対あたしからは連絡したりしないんだけど」
 「うん」
 「でもなんか、不要です、って言われた感じ」
 亜久津が背中を撫でているのは泣くのを促しているからだろうか、話を切り上げろという合図だろうかそれとも、もう一回したいのかもしれない。それでもいい、亜久津と真っ向からぶつかりあっている時だけあたしは全てを、亜久津以外の不安や後悔や恐怖や、幸福すらも、全て忘れられる、擦り付けた額の先には亜久津の鎖骨があって、それにあたしの皮膚がくっついて引っ張られ、頭蓋骨がぐりぐり中で動くのを楽しんでいた。
 「わかってるんだけど、あたし性格悪いし、口悪いし、たまにひっどいことするし」
 「うん」
 「だから仕方ないなあって普段は思ってるんだけど、多分心の底から、あたしが悪いって」
 「うん」
 「でもなんかこういう風に。証拠品みたいな感じで突き付けられると、うわあってなって」
 「お前最悪だもんな」
 「そう、さいあくだよ」
 顔を上げるとくすくす亜久津が笑っていて、決してそこには悪気がなくて、どうして亜久津のことをあたしは許せるのだろうとか同じようなことを考えて、亜久津が好きだからだ、と当たり前のことをさも人類最大の発見かのように気付いたふりをする。今でも信じられないのは亜久津があたしと付き合っているという現実についてだった。好き、付き合ってと言った亜久津の言葉をあたしは真っ向から信じて真っ向から喜び、真っ向から受け取った。多分これが亜久津以外の男だったならまずその告白を疑い、最終的にはその男の人格を疑っただろうそれほどまでに、あたしは自分が誰かに好かれる人間ではないと自覚しているこういう風に、メアドをみんなに教えてもらえていない今日がそれを物語っている。あたしは亜久津を信じている、そして彼の全てを許している。多分先に惚れたのはあたしの方なのに、あたしなんかに自ら気持ちを告げてきた亜久津の、失態とも言える行為をあたしは許している。本当ならばあたしが亜久津に告白して無様にふられる、それが正しかったのに。
 指先を何度も何度も軽く、亜久津が背中に這わせるので唸るような声が出た。多分それが、はじまりの合図だったのだろう。亜久津が一度あたしをぎゅっと抱き締めそしてそのまま、転がるようにあたしの上に覆い被さる。汗のすっかり消えてしまった顔を見上げながら重力に任せられた髪の毛を両手でサイドに撫で付けていると、キスが降ってくる。
 「お前みたいな女最低だよ」
 亜久津がそう言った。
 「本気で惚れるのなんか、俺くらいだって」
 確かに、亜久津がそう言ったのだ。月が出ている。静かで熱い秋がきた。「喉渇いた」。あたしはぽつりとそう答える。









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2013.1.27
不死鳥シリーズ、
大変仲良くさせてもらった、七兎さんに提案いただいたタイトル