失敗だ。ああもう本当に失敗だ。眼科に行って散々な目に遭った日の夜、私はひとり毒づいていた。





  眼帯





 あの待合所での大惨事の数分後、私はやっと診察室に入ることを許された。視力検査を行ってくれたのとは違う、こちらは本当にただのおっさん先生(だがしかし眼鏡)が私を待ち受けており、今すぐ眼鏡は作れないから、という旨を伝えられた。これから一週間、寝る前にあの魔法の目薬を点して視力の回復を図る計画が勝手に、私が妖怪に襲われている間に立てられたようだった。そうして一週間後に眼科に来て、また検査をしましょうとのこと。
 私ははいはいとかなりいい加減な返事をし、薬局で目薬を処方してもらうことを約束し、診察室を出るとかすんだ視界のまま、妖怪だらけの待合所に一切目をくれずそこを立ち去った。二度目の点眼の後、隣の白い妖怪は一度笑ったきりなにも言わなくなってしまった。かといってそこを離れるわけでもなかったし、彼の元にナースがやって来ることもなかった。私はその妖怪に訊きたいことがたくさんあった、問い詰めたい気持ちでいっぱいだったし、罵りたかった。それにこの無礼者の面を是非とも拝んでやりたかった。しかし私は目薬効果全開だし、こんな輩に自ら話しかけてやる優しさはない。そして私からなにかアクションを起こして、更なる悲劇を招くのはごめんだった。だから私達は、隣同士に座ったまま、ただただ私の名がナースに呼ばれるまで、微動ともせず黙り込んでいた。

 そしてその夜の私の大失敗。魔法の目薬は「寝る前に」、点すものだったのだ。医者や薬剤師が説明した通り。
 しかし私は失敗した。寝る前っていうのはもう本当に寝る手前、寝る寸前、寝る直前。今から寝る!布団に入る!だから点す!このタイミングだった。このタイミングが大切だったのだ。だって、少しでも早めに点眼したら、世界は妖怪だらけになる。妖怪だらけになるならまだしも、今みたいな状況になる。
 メールの呑気な受信音。私の周り、妖怪の世界。歪む世界、霞む世界、定まらない世界。妖怪はいい、まだましだ。喋ればいいし触れることもできる。あー今ちょっと視力が人類最下位でして、なんて気軽に説明ができる。
 しかしメール。読めない。私は結構まめな性格だから、友人をいくつかのグループに分けてそれぞれに違う受信音を設定しているが、今鳴ったその音に、まるで聞き覚えがないことにも参ってしまう。恐らく、私と頻繁にやりとりをする相手ではないのだろう、つまり込み入った内容でもとり急いだ連絡でもないはずだ。大したメールではない。
 開いた携帯、光る画面、眼前15センチに近づけてもまるで解読できない小さすぎるメール文字から目を離し、携帯を投げ出すと電気を消して布団にもぐりこんだ。もう知ーらないという気分だった、この魔法の目薬を点されてからというもの私は大忙しだったのだ、これ以上のごたごたは無用だ。眠るしかない。

 ああ失敗した、なんてことだ。
 翌朝、目薬のもやもや効果はとっくに終わり視界は正常に戻っていたが私はまたひとり毒づいていた。寝坊だった。昨夜視力を奪う目薬と、鳴った携帯、病院での出来事に決して冷静でなかった私は、うっかりアラームをセットするのを忘れたようだった。ベッドから飛び起き、慌ただしく髪をとかし、歯を磨き、制服を着ると、教科書の入れ替えもせず鞄を持って家を出た。携帯をポケットに突っ込んだ時に昨夜のメールをふと思い出したが、そんなものうきうき確認している暇はない。学校で見ることにして、走り出した。
 そして。遅刻寸前で教室に到着した私を清純が出迎え、彼は亜久津がどうのこうのと言い、私はあの忌々しき妖怪の正体が彼であったと気付いてしまう。なるべく冷静に。眼帯ってさあめっちゃ不便だよね?だとか言っている清純に対しなるべく自然に、そう思いながらああとかうんとか頷いていたのに体の芯が次第に冷えていき、人様の体温を覗き見る能力でも備わっているのかもしれない清純は、私の異変にすぐに気付いた。
 「あー、なんか俺、ひらめいちゃったんだけど」
 「なによ」
 「ふたりとも朝から病院。しかも眼科。いくら亜久津でも見ず知らずの子にいきなり手を出したりはしないじゃん?」
 「うるさい、声大きいよ」
 「ふうん、へえ、じゃあそういうことなわけ?」
 「どういう想像してんだか知りませんけど、多分そういうことだよ」
 「あはは、亜久津キス上手いの?」
 「ど下手!」
 思わず怒鳴る。けれど清純はまるで気にする様子もなくうけるーと大笑いするものだから、窓辺で雑談していた男子グループがこちらを不思議そうに見た。その中に亜久津はいない。
 私は昨日、あれほどまでに執拗に、白い妖怪の顔を見ようとしていた。バカ野郎の面を一目見てやろうと。それが亜久津であったなら、私はそのバカ野郎の面を既に知っており、目標は達成されたというわけだ。仕返しだって同じクラスなのだから容易い、チャンスはいくらでもある。けれど引っかかるのは、結局のところ私にキスをしたのが亜久津であった、という事実だった。
 まあまあ新しい恋というのも楽しいものだよね、とお気楽な清純を軽く無視し、気晴らしにと携帯を開けた。昨日と違う、ちゃんとした画面を見た。待ち受け画面は今日も変わらない。歪んだり霞んだり定まらなかったりしない、いつも通りの、縦長の四角。そこにメール1件、というメッセージが表示されている。ああそうだ、これを確認してやらないと。
 「亜久津おはよー」
 その言葉自体はいつもとなんら変わりないものだった、清純という男は大体の場合、相手の名を呼んでから、挨拶をしたり質問をしたりくだらない話をはじめたりするものだ。けれど今日のそれは、「あくつ」というその部分を妙に強調したもので、思わず携帯から顔を上げた私を見て、清純はにやりと笑った。
 「うるせえよ」
 低い声。だるそうで、眠そうな、清純を非難する声。「隣、いい?」。昨日の声が蘇る。畜生、やはりお前か片目真っ白の妖怪は。だって亜久津は、たった今教室に入ってきた亜久津はやはり、眼帯をしている。妖怪と同じ方の目に。なにかの間違いであったらよかったのにとどこかで祈ってはいたが、それは見事に打ち砕かれてしまった。
 亜久津がそのまま清純を構うわけでもなく、他の誰かに挨拶をするわけでもなく自分の席(窓側の一番後ろという特等席)に向かっていく姿を見て、私は腹を立てていた。恐ろしいことに私はめらめらと怒りを抱いたのだ、昨日といい、今日といい、どうしてこうも自分勝手に、自分のペースを乱さずに生きてそれで、人のペースを乱しているくせに何食わぬ顔をしていられるのか。私は結局メールのチェックもできなかった携帯を持ったまま、立ち上がったそして、足早に窓辺へと向う亜久津の袖を、ぎゅっと掴んだ。
 亜久津はすぐ振り返って、私を一瞬睨みつけて、その後やや驚いた顔をした。そういう、とりあえず人を睨んでおこうみたいな姿勢にも納得がいかない。なんなんだよ、と言いたげな顔も。
 「おはよう」
 とりあえず、挨拶をしたが。亜久津はというとうん、と小さく答えただけだった。おはようをおはよう以外の言葉で返されたのは初めてだった。そして彼の左目は白い眼帯に覆われている。
 「ちょっと聞きたいんだけど」
 「なに」
 「昨日、私に何してくれた?」
 「ああ」
 まるで今思い出したように目を少し大きく開いた亜久津はさっき私を睨みつけてきた男とは別人のようだった、つまりなんていうかとても男の子的だった。それでその後にやりと笑うものだから、私はくらくらとする。
 「いきなりあんなことするとか、頭おかしいよ」
 「そうかもな」
 言葉では半ば認めた亜久津は、しかし笑っていた。ああ腹が立つ。
 「ひどいよ」
 「別によくね?昨日エイプリルフールだったし」
 「意味不明なんだけど」
 「ていうか、あんな近いんだから逃げるだろ普通」
 「だって目、見えてなかったから」
 「なんで」
 「そういう目薬があるんだよ、検査に使うんだよよくわかんないけどさあ」
 「だから抵抗しなかったのかよ、俺こいつばかじゃねえのって思ってた」
 笑う亜久津、めらめらと怒る私、きっと清純は私達の後ろでにやにやしているに違いない。「最低!」口から出たのはそんな罵り言葉で、まるで気にしていない様子の亜久津は表情ひとつ変えず「でも昨日ちゃんと俺だったって教えてやっただろ」、と穏やかに言った。知らない。そんなことは知らない、教えられていない。
 「知らないよ、聞いてない」
 「は?」
 亜久津が途端に険しい表情をしたので、男の子的な要素は消えてしまった。彼は私の顔を数秒見た後ちらり、私の手の中の携帯に目を移した。
 「ちょっと貸せ」
 「は?」
 言うが早いか亜久津は左手で私の手首をがっちりと掴み、空いた右手で携帯を抜き取った。私はというと片手首を掴まれたまま、情けなく声を上げるしかない。
 「強姦の次は泥棒!ほんと最低!」
 「誰も強姦なんてしてねえだろうが」
 遂に後ろから清純の笑い声が聞こえだした、しかし私は振り返る余裕がない。亜久津はその手を逃れようと、または携帯を取り返そうと体を動かす私をまるで気にせず携帯を操作しはじめた。
 「返して!」
 「ちょっと待て」
 背が高い亜久津が自分の頭上で携帯を操作しているとなると、私はそこに腕が届くはずもない。片手は掴まれたままだし、さながら哀れなノミだった。
 「お前、ほんとばかだな」
 「なにが!あんたに言われたくないんだけど!」
 ああもううるせえな騒ぐなよ、亜久津は呆れたように言い、私の目の前に画面を開いて見せた。離してよ、私はその場から逃げ出そうとしたが、亜久津が私の手首を離さない。見ろよ、そんな風に、なんと同級生に向かって顎で指図する。むかつく、むかつくのに私は、画面を覗きこむのだ。
 「ごちそーさま」、その短いメールの受信時間23時45分、日付は昨日になっており、差出人はあくつとなっていて、そしてそれに私は見覚えがない。だからつまりこのメールはあの、点眼後のくにゃくにゃの世界に届いた例の一通なのだろう。
 「え。なにこれ」
 「な、教えてただろ」
 「そうだけど」
 「ちゃんと携帯見てれば朝からそんな騒がなくてよかったのにな」
 「うるさい、ていうか。なんであんたなの」
 「なんでってなんだよ、喜べよ」
 「喜べるわけないでしょ」
 「ああそうなの?」
 亜久津が携帯をまた操作しはじめるのを見て、例によって私はまた騒ぐのだが、今度は返事もされなかった。
 おれのことすきなんじゃないの
 さっきのメールの返信画面に、今打ったばかりらしいのその言葉が追加されていた。冷たかった体の芯が、今は熱くなっていることに私は気付いた。
 「ふざけないで」
 「顔赤いけど」
 首を傾げる彼の表情は、今度は妙に色っぽい。ころころ変わる妖怪め、どんな面だと昨日は散々気になったのにこんな面をされていたら、たまらないのだ。
 「返して」
 「はいはい」
 力なく伸ばした私の手に、亜久津は素直にそれを落とした。携帯は、亜久津の手に握られていた携帯は妙なくらい温かくなっており私は、それを知ってとても恥ずかしくなった。
 チャイムが鳴り、少し遅れて担任が教室に入ってきた。おまえら席つけよー、そんな一声がかかり、私と亜久津含めたクラス全員が、のろのろと各自の机へ向かう。亜久津が素知らぬ風に自分の席へ向かっていくのを目の端で捉えた。私は自分の席に着き、点呼で名前を呼ばれるのを待ちながら机の下で携帯のあの画面を、もう一度眺めていた。
 おれのことすきなんじゃないの
 その文字を、消す。いただきますって言わなきゃだめだよ。遠回しに、伝えられるのはそれだけで私はそれを、一息に亜久津に返信した。

 今夜は失敗しない。
 私は目薬を足元に置き、ベッドに座って携帯を見ていた。ごちそうさま、いただきますって言わなきゃだめだよ、私達のはじまりはそれであり、今朝の私の返信から数時間、家に帰り夜になってから、亜久津のメールが返ってくる。
 みえてるとおもってた 見えてなかったよ あやまる? そういうことじゃないよ ていうか好きなんだろってきいてんだよ 好きだったらどうなるの? つきあえるじゃん 付き合いたいの? てかきょう誕生日 誰が? おれ エイプリルフールは終わってんだよ うそじゃねえから そっかそれでエイプリルフールのことはどうしてくれるの、責任とってくれたりとかするの? なにが 私初めてだったんだけど あやまる? そういうことじゃないよ だからやっぱりつきあいたいんだろ俺と じゃあそれでいいよ じゃあってなんだよもうねむいんだけど 知らないよそんなの わかった なにが? 責任もってしあわせにするからつきあってください お願いします まかせろ 任せる うん 誕生日おめでとう
 その送信から10分、待ってみたが3分間隔でやりとりしていた彼からの返信はそこで途絶えてしまった。多分、亜久津は寝たんだろう。自分勝手に、自分のペースを乱さずに生きてそれで、人のペースを乱しているくせに何食わぬ顔をしていられる人間なのだから仕方ない、そういう男に好きなんだろと随分と上から言われて、ああそうなのかもしれないと思ってしまったのは私なのだから仕方ない。とにかく亜久津は寝たのだ。だから私も、目薬を点した。






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2014.6.1
2008.1.3が最終更新になっていたもの、加筆修正
お誕生日に書いたもののようなのですが、直してから、4月2日ってまだ春休み中じゃん、と思いました