眼鏡デビューというものをします。





  眼科





 眼科の先生は、妙に綺麗な顔立ちのおじさんだった、案の定眼鏡をかけていた。右、左、上、下、右斜め下、示された円の切れ目を答えていくテストで上から二段目がなんとか見える、その程度の視力。
 この三年間、春の視力検査のたびに保健医に眼科に行け眼鏡を作れと言われるのを、何度も何度もシカトしてやり抜いて来たけれどいい加減うざいし、クラス替えをして席が後ろから二番目になったとたん、黒板が未知の緑色の板へと変わってしまい、面倒で面倒で行かなかった眼科を遂に今日、訪れることになった。そして土曜に行けば良いのに、と渋い顔をする母をなんとか言いくるめ平日の午前11時、総合病院の眼科の待合所で私は大人しく長椅子にかけている。
 隣のブースの泌尿器科に比べ、眼科は物凄く混んでおりしかも一人一人の診察や検査が長いため学校を遅刻するのに恰好の時間潰しとなってくれた。この調子でいけば、私が病院を出られるのは午後だ。そうなると授業はもうほとんど残ってない。むしろ学校に行かないで済むなんてこともあるかもしれない。これを狙って私は、わざわざ平日を選んでここに来たのだ。たった一日、学校に行かないだけで随分と気が楽になるなんて、どれだけ学校に追いつめられてんだ、私。

 右、上、あー見えません、そんな視力検査の後に、決してエロくもなんともないナースが私の元にやって来て、謎の目薬(使用理由を説明されたはずだけど覚えてない)を両目に二滴ずつ点していった。また10分後に点しますねえ、そんな柔らかい声を眠い頭でぼーっとしながら聞き彼女が去ったあと、10分の間 雑誌でも読もうと持参したファッション誌を鞄から取り出して開いた途端、あのナースは私の目になにをしたんだ!と、軽いパニックに陥った。私は確かに視力を弱らせつつあったが、まさか雑誌の文字が判読できないほどへなちょこだったわけではない。
 つたない記憶を冷静になってたどってみるに、恐らく先ほどの目薬は私の視力をこうしてへなへなにする効果があるのだろう、それが今後の診察にどう影響されるのかはわからないが、なにか必要性があるに違いない。そうか世の中にはそんな目薬も存在するのか。道理で雑誌の文字はおろか写真も見えないし、足元もかすむし、顔を上げて周りを見渡すけれどどの患者も残像にしか見えないし、あのナースは私の目になにをしたんだ!と改めて考えると私の為に目薬を点しただけだったりする。
 まあでもこういうのもなかなか楽しいものだと思うしかない。赤い服を着た人はただの赤い塊で、上の方が少し黒くてその下は肌色、ゆっくりと動く妖怪のようだ。軽やかに診察室から出てきたナースも、甲高い声を上げ患者の名を呼ぶ真っ白い妖怪だ。私の前を通って行った茶色いのも多分、人間なのだろうが今は妖怪でしかない。愉快だった。
 しばらくの間 変わった世界を楽しんでいたが、よく考えると周りを見渡してほくそ笑む私はもしかして随分と変な風に見えるんじゃないかと気付いてしまい、赤い妖怪は、私を見て嫌な顔してるんじゃないかとか、なんとなくその表情まで想像出来てしまって、私はきょろきょろするのをやめて視線を雑誌に戻した。ぐちゃぐちゃのパレットみたいにしか見えない雑誌にそれでも、視線を戻した。暇だった。
 目を閉じていずれ買うことになるであろう眼鏡を想像した。眼鏡は嫌いじゃない。便利だし、おしゃれだ。知的な印象だって生み出せる。眼鏡を作るにあたり私は悪い気がしない、浮かれもしないが、楽しみではある。それなのに私が視力低下の一途をたどったこの三年間、眼科へ寄り付かなかったのはただ単に面倒臭かったからだ。きっと自宅や学校ですぐ検査や診察ができて、眼鏡もカタログかなにかを見て「これが良い!」と選べばすぐに現れてくれる、そんな22世紀的システムがあれば私は、「眼鏡が必要です」という紙を学校で貰って来た次の日から、眼鏡デビューを決め込んでいたはずだ。
 けれどまあまだ22世紀にはなりそうもないし、こうやって眼科に来るのは面倒だったけれど、学校をさぼれるのだからいいものだ。こんな視力を一気に下げられる魔法の目薬というのは予想外だったが。10分、というのは意外と長く、時計も見えないまま時の流れを待つのはある種の不安を抱かせた。

 「隣、いい?」
 声がして、袖を引っ張られた。驚いて目を開け顔を上げると、白い妖怪が隣にいた。妖怪は私の隣の席に座りたいのだと申している。なるほど、眼科がいつまで経ってもに混んでいるのに、無神経な私が隣のスペースを鞄置き場として利用してるから、その鞄を退かして座らせてくれよ、ということなのだろう。だがしかし、私は申し訳なさよりも勝る苛立ちを抱えている。
 「ごめんなさい、どうぞ」
 などと一応言ってはみるが。そして鞄だって自分の足元に下ろしたりするが。
 私はいきなりため口の白い妖怪にややカチンときている。彼(声で判断するに男だ)の袖の引っ張り方も乱暴なものだったから、手首が少しピリピリ痛むし。なんて馴れ馴れしいやつなんだ、確かに私は悪かったが、乱暴なものいいをされれば落ち込みもし怒りもするのだ。
 私は視界がぼやけている事を悔やんだ。彼の顔を脳裏に焼き付けて、いつか仕返しでもしてやりたいくらいだった。それができなくてもせめて、この無礼者の顔くらい拝んでおきたい。けれど悲しいかな今、彼は白い妖怪で人間ではない。私が人間を見れるようになるのは、この目薬の効果が切れたらだ。それがいつになるのかは私にはわからず、悔しい。
 そうだ、顔を思いっきり近づければ見えるかもしれない。ふとそんな思いが浮かぶ。彼は驚くだろうが顔を確認した後すぐ、目薬のことを話せばいい、まさかてめえの顔脳裏に刻みたいから顔近づけていいっすか?なんて前もって言えるわけもないのだし、私が彼の顔を確認するにはそれしかない。なにを意地になって隣の男の顔なんか見てやろうとしているのか、私にもよくわからなかったがでも腹は立つし、暇だし、いつも簡単にできていることがあんな二滴の目薬で不可能になってしまうのは癪だった。
 自分の手を顔の前で動かす。15センチ近づければ、平常にものが見えることが分かった。15センチ、150ミリだ、隣の妖怪に顔を近づければいい、ただそれだけでいい。それで言い訳をすればいいのだ。さあ人間を見よう、妖怪じゃなくて。
 雑誌を閉じ、足元の鞄に乱暴に詰めこむ。ページが折れてしまったかもしれないが私には今その確認がとれない。隣の白い妖怪が、ふと私を見たような気がしたけれど、気にしない。妖怪へ体を向けると、とりあえずその状態で目を凝らしてみた。なんとなく、あの肌色から察するにやはり相手もしっかりとこちらをを見ているのがわかる。きっと、変なやつだと思ってるんだろう。だけど、これからもっと変な事するのだ。そう思って身を乗りだすと、なんとむこうも近付いて来た。なんて好都合なやつ、飛んで火にいる夏の虫。私は変なやつだろう、けれどこいつも変なやつだ、おあいこじゃないか、プラスマイナスゼロだ、それにしてもなんで私に近づいてくるのだろう、さああと5センチか、という時、目薬のせいだろうか私は突然目が潤み、長い瞬きをした。
 唇が。目を開けた時、彼の顔は既に遠くにあった。垣間見た顔は、片目が四角く白かった。いやそれよりも。
 唇が。今の感覚はなんだったのか。たった今長い瞬きの間に、私の唇に触れたのはなんだったのか。察しはつく、察しはつくが、信じられない。
 「可愛くねえ顔」
 確かに私は目が悪い。けれど聴力検査はいつも楽々パスしている。耳は良い、100%悪くない。なのに、周りから一切音が聞こえないのはなぜなのだろう。私は耳さえも悪くしてしまったのだろうか、今この瞬間に?それとも、誰も喋っていないのだろうかみんな、固まってしまったのだろうか。それなのにどうして、妖怪の声だけが響いたのだろうか。
 「え?え?うそ、ありえない!」
 我に返った私の声に妖怪は反応を示さなかった。それでまた少し腹が立つ、だってこの男といったら確かに私にキスをした。キスをした、それも初対面の相手に、キスをして、それで無視かよ!なんてやつだ。問いつめようとして、彼の袖をさっき彼が私にやったように、至極乱暴に引っ張ってやろうとしたら
 「10分経ちましたよー、目薬また点しますねえ」
 と柔らかいあの、エロくはないナースの声がして、いや今ちょっと大事なんで人生の山場なんでとか、言う前に上を向かされて両目に二滴ずつ、また視力を奪う目薬を点されて、遂に涙みたいに目薬は頬を伝い、周りを見渡すとさっきよりもっと妖怪でぐちゃぐちゃで、あのナースは私の目に何をしたんだ!という疑問がまた生まれた。目薬点しただけだっての。
 とりあえず頬をごしごしと擦り、薬品です!と主張全開の匂いを放つそれを拭き取っていると
 「あはは」
 乾いた笑い、そう妖怪の笑いが、隣から聞こえた。

 「あれ?眼鏡は?」
 次の日寝坊をして慌てて学校へ行くと、私の顔を見て清純が不思議そうな顔をした。
 私は昨日結局学校へ行かなかった。病院を出たのは14時を過ぎた頃だったし、嫌な事もあったし、残り僅かな授業を受ける為に学校へ向かうほど出来た人間でもなかったので、目薬の効果全開のまま、視界不良の中帰宅した。
 「まだちょっとかかりそう、しばらく目薬使って様子見てから眼鏡作ろうって」
 「えー?昨日結局来なかったからさっそく眼鏡作りに行ったかと思ってた」
 「残念だったね」
 ほんとだよ俺めっちゃ楽しみにしてたよー?という彼の残念な声に笑いながら鞄の中身を机の中に詰めこむ。昨日の雑誌が、入れっぱなしだった。
 「ていうかね、私の昨日の大惨事を聞いてくれる?」
 「えーなになに?」
 大惨事と聞いて清純がとたんに笑顔になった。なんで笑ってんの?人の不幸は蜜の味だよー。私は素直な彼に素直になれず、喋る気をなくす。
 「やっぱ話さない」
 「なんで!教えてよ!ふざけんなばかー」
 腕を軽く叩かれる。それでも清純は笑っている。「その笑顔やめてよ!」「地顔だよ!」、言い合えば言い合うほど私はあんな無様な昨日の自分を彼に話す気にならない。だってどうせ再度笑われるだけだ。
 「もうわがままだなあ、だから惨事なんかに見舞われるんだよ、亜久津なんかさ、人徳積みまくりだから超幸せだよ」
 「は?あんで亜久津が出てくるの」
 「だって昨日かわいい女の子と、出会い頭にちゅーしたとかなんとか言ってて」
 「え?」
 「しかも病院で!見せつけてんじゃねえよって感じじゃん」
 清純が困ったようにくすくす笑い、私は固まった。目薬の効果なんてもうとっくに切れているのに、彼が妖怪に見えたのだ。
 「待って、亜久津はなんで病院行ったの?風邪?」
 「あー、知らないっけ。あの子一昨日 目、怪我したの」
 「目」
 「血まみれでさ。それで昨日は朝から病院、部活だけ出勤」
 「目、って、それ、もしかして眼帯とかしてたりする?」
 「うんがっつり。めっちゃ血出てたもん、なんですぐ病院行かなかったんだろうねそれが男らしさなんかなー」
 てか病院で会わなかった?と清純がなんでもなさそうに言った。私はなんでもなさそうに固まりながら、昨日私の目の前から離れていった白い妖怪の片目が、四角く白かった事を思い出していた。
 私は近々、学校で白い妖怪の正体を拝めそうだ、付属して無礼者のご尊顔も。袖どころじゃ済まない、襟首掴んでやる。






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2014.5.31
2008.1.3が最終更新になっていたもの、加筆修正