ていうか彼は、どういうつもりなのだろうか。私の三時間を、返せ返せ返せ、いや無理だけど。





 毒猫





 今年の私の誕生日は月曜日で、学生である私達がその日を盛大に祝うには少し時間が足りないように感じた。中学生である仁と高校生である私がそれぞれに学校へ行き、それぞれ部活なんかを終わらせて家に帰って着替えて、それからどこかで待ち合わせをしてデートに出かける、なんていうのはあまり気乗りしない。それだったらと仁は、その前日の日曜日に遊ぼうと言ってくれたわけだ、しかも口約束じゃなくしっかりそういう旨のメールが届き、私はそれをちゃんと残してある。だから仁、私裁判を起こしたらきみに勝てるんだよと、ほくそ笑んでみてもむなしいだけだ。
 待ち合わせは駅前広場の時計台の下、午後一時に。私はいつもの通り約束の五分前にはそこに到着し、仁はまだいなかった。けれど仁というのはほとんどの場合遅刻か、ぎりぎりセーフくらいで現れるので、その時は気にも止めなかったのだ。私は目の前に巨大な時計があるというのに腕時計で時間を確認し、手鏡を開いて化粧をチェックし、明日また一つ年を取ることに感慨深くなったりしてみた。仁は一向に現れない。おかしいな?なんかへんだな?そう思っている内に三時間が経ち、さすがの私も怒り心頭、ふざけんなよ!と思ってみたりしかし仁の身になにか起きたのではと心配したりし、携帯を見ても彼からの連絡は一切なく、そうこうしている間にもどんどん今日という日が終わっていくことにはたと気付いて、力が抜けた。
 というわけで私は自宅に戻ってきた、約束だとかそういうのはもうどうでもよくなってしまった。大体最初に約束を破ったのは仁であり、私は悪くないのだという思いが渦巻いていた。私からは絶対連絡を入れない、そう思いながら床に体育座りをして自作のチャーハンなどを食べながら携帯を足元に置き、仁からメールか電話が、そして謝罪の言葉があるのをひたすらに待っている。
 玉ねぎを噛み締めると妙に甘く、ああこれは新玉なのかもしれないとひらめいたがでもそんな時期ももう終わったはずだ。とにかくおいしい。自分で作ったチャーハンをおいしいと評価するのはなんだか気が引けるが、こんなに甘い玉ねぎを使えば大方のチャーハンはおいしく出来上がってしまうだろう。玉ねぎはいい、血もサラサラになるし、しかし犬や猫にこれを食べさせるわけにはいかない。確か死ぬのだと聞いた。なんでも彼らにとって玉ねぎは毒なのだ。かわいそうだおいしいし血液サラサラなのに、などと考えているといつだか、「猫みたいだね」と仁を表現してやったことがあるのを思い出す。当の仁は「どこが?」と真顔で聞き返してきて、私はいやあなんとなく、だなんててきとうな返事を差し出したのだけど。真剣に考えてみるにふらふらとどこかへ勝手に行ってしまうところだとか、気付いたら寝ているところだとか、初めて会う人間をやたら警戒するところだとか、機嫌が良い時だけベタベタしてくるところだとか、それに私が恋人であることをまるで尊重せず我が道を行きまくりなところだとか、もはや仁はただの猫である。
 けれど私の猫はいなくなってしまったのだ。また勝手にどこかに行ってしまった。こっちが慌てたり心配したり、最悪の事態を想像したりして落ち着かない気分でいるのもつゆ知らず。チャイムが鳴り、だからそうやって人が心配してたっていうのにふらふら呑気に帰ってくるところも猫そっくりだと、私は思い、立ち上がらない。
 恐らくこれは仁だろう、こんな時間に我が家のチャイムを鳴らす人間というのは気違いか仁しかいない。気違いであるなら会いたくないので私はチャイムに応答しないし仁であるなら、今更なんだよという気分が高まりまくっているので同じく応答しない。だから私は立ち上がらず、チャーハンの甘みに酔っている。ああおいしい。ピンポーン、間抜けなチャイムが何度か鳴ったが、私はそれでも立ち上がらない。居留守万歳だ、この、本当はすぐにでも玄関へ向かえる状態であるにも関わらずそれを無視するという、背徳感から生まれる悦びはクセになりそうだ。世界は私の合意がなければ動き出さないかのような、そんな気分になる。そしてチャーハンはおいしい。
 次に聞こえたのは振動音だ。私はスプーンをくわえたまま、自分の足元にある携帯を見つめていた。そう携帯がメールの受信を私に知らせるために震えて、フローリングに擦れて低い音を立てているのだ。夜にひとりで聞くような音ではない、とても愉快だとは言えない音だ。しかし差出人が仁となっているとあれば、そう怖くもない。けれど今は、納得がいかない。
 居留守してんじゃねえよ
 結局開いてしまったそのメールを優に五分は眺めてから、私はやっと立ち上がる。スプーンを口から出し、皿に載せ、それを床に置き、連絡遅いんだよばーかと内心思いながら玄関に向かうかたわら、壁にかかった鏡で自分の顔をチェックしてみる。ああ私はなんて不思議な髪形をしているのだろう、お昼にあれだけ気合いを入れて整えた意味がない。努力はすべて消えてしまった。玉ねぎの毒のせいであろうか、あんなにおいしいのに?そして私は人間なのに。
 「いらっしゃい」
 ドアを開けると仁がいた。ああ仁はなんて不思議な髪型をしてるのだろう、なんであなたに前髪があるのか私は知りたい。髪下ろすとこんな風になるだなんて思いもしなかった、不良っぽさというか、近寄りがたさというか、そういうのがまるで消えてしまってただの美少年風になってしまうだなんて。惚れ惚れしそうではあるが。
 「出るの遅い」
 とはなんて生意気な。じゃああんたは
 「来るの遅い」
 だ。仁は「うるせえ」と呟き、まるで反省の色がうかがえない。なんて生意気で、偉そうなやつ。じゃあといった感じで我が家に侵入してこようとする仁を防ぐため、私はドアの前で体を広げる。仁はきょとんとした顔をしたが、来るのが遅い、ああ本当に遅いのだ。無事でなによりだった、不慮の事故だとかに巻き込まれていなくて本当によかった、それは本心だ。けれど私の、待ち合わせで待った三時間と、自宅でチャーハンと共に連絡を待った三時間。合わせて六時間。小学校で朝の会から帰りの会まで行えてしまうその時間を仁は決して返してくれない、その時の私のむなしさみたいなものもわかってはくれないだろう。
 「
 「呼び捨て?」
 「さま」
 「いつも通りに呼んで」
 「先輩」
 「なに」
 「家、入れて」
 「どうして?」
 「どうしてって」
 「約束破ったのはそっち、なのにその態度はどうして?」
 「先輩、恐い」
 「怒ってんの」
 「そうなんだ」
 そうなんだって。そんな反応をされては私は思わず声が出ない。仁が私の頭を撫でている。ああもうどうして「はいはい落ち着いて」みたいな接し方を私がされなきゃいけないのだ。悪いのは仁だ、100%仁で、私には怒る権利があるはずだ。それを加害者である仁に、何故なだめられなければならないのだろう。
 「やめてよ」
 「あーもうなんでそんな怒ってんの」
 「仁はさ」
 「うん」
 「謝るって事を知らないよね」
 「別に、知ってるけど」
 「じゃあ謝ろうとしないよね」
 「俺、悪い事した?」
 「自覚ないの?」
 「あるけど」
 「でしょ」
 「だって先輩、俺一時とか寝てる」
 「一時って約束したのは仁でしょ」
 「ですよね」
 ばかにしてるのかと言いたいくらい、突然に仁が自分の非を認めたために、私はめまいがする。いくら真剣に怒ってみたってのらりくらりとかわされて、唐突に全肯定なんてされ、それで「もう水に流しませんか」なんてだるそうに私を抱き締めて、そのまま玄関に入ってきて、強引にドアを閉められたりしたら、私はこの男に勝てる気がしない。だめ押しのようにキスなんてされてしまった日には。
 「誕生日おめでとうございます」
 「いや明日だし」
 「あ、そっか」
 早まった、なんて呟き仁は私を離す。そして暑いっすね、だとか言いながら靴を脱ぎ、私を置いて勝手に部屋に上がってく。ああ仁、私はあなたには負けてしまう、いつもそうだ。いくら怒り心頭であろうとあなたがそういう風に接してくるのなら、なんでも許せる気がする。かわいくてかわいくてしかたがないのだ、かわいいだなんて形容詞は似合わなすぎて、口には出せないがいつもそう思う。それは年上の余裕だろうか、それともただこの男に夢中であるからだろうか。

 仁は我が物顔でソファーに座り、テーブルに二つ並んだリモコンを見つめ、テレビをつけるかと思いきやオーディオの電源を入れた。あの中に今どのCDが入っていて、例えば差し込まれたiPodにどんな曲が入っているかを仁は知らない。それなのに適当にボタンを操作し、CDを再生させた。昨日買った、ずいぶん古いらしいブルースを少し聴いて、この曲好きかもと感想を告げてくる。
 「それ昨日ジャケ買いした」
 「なんて人?」
 「知らないよ」
 答えて私は床に座り込む。ソファーがあるのにどうしても床に座ってしまうのは冷たい床が好きなのかもしれないしソファーのフィット感が嫌いなのかもしれないし、仁の隣に座るのが恥かしいのかもしれない。
 食べかけのチャーハンを、また口に運ぶ。この短い時間でそれは若干冷えてしまった。
 「俺も食いたい」
 アーティスト名がよほど気になったのかもしれない、私のCDラックをあさってた仁が、こちらを振り返って子どもみたいな声を出す。
 「仁は駄目だよ」
 「は?先輩まだ怒ってんの?」
 「違う、仁は食べたら死んじゃうから」
 「それそんなにまずいんだ?」
 「玉ねぎ入ってるもん」
 「俺玉ねぎ大丈夫だけど」
 「だけど、死ぬんだよ」
 「なんで」
 「仁は猫だもん」
 「なにそれ」
 伸びをする。仁の疑問は無視してしまった。理由もなくいじわるになって食べ物を与えない私を仁は黙ってみていたが、その内「まあいいや」と言って勝手に冷蔵庫から缶ビール出して飲み始めた。
 「先輩も飲みますか」
 と訊かれて断った。何度言ったらわかるのだろう、私は酒を飲まない。けれどこうして不定期に、それともかなり遅刻してここにやって来る仁のために、わざわざ買って来ては冷蔵庫に入れて冷やしておいてやっているのだ。ありがとうとかないの?突然の私の指摘に、いただきまーすと答えた仁は、素直ではない愛くるしい猫だ。

 仁は結局、だらだらとその後も音楽を聴いて、ビールを飲んで私と喋って、少しだけ甘えて、決して謝らず、私の機嫌もうかがわずいつもどおりに過ごし、それで、日付が変わる前に帰ってしまった。普通、一緒に誕生日を迎えるものなんじゃないのこういう時って、特に今日のあなたというのは私とのデートをすっぽかした大罪を負っているのだからせめてそれくらいの気遣いは必要なんじゃないの?と心底思うが口には出さない。自由気ままな仁と一緒にいたからか私はすっかり毒気を抜かれ、そんなわがままみたいなことを言うのはなんだかみっともないように感じたからだった。
 あーあ、ひとりで迎える何度目かの誕生日だなあと思ってお風呂に入る準備をしていた時、ふと時計を見るとちょうど零時で、次に聞こえたのは振動音だ。そう携帯がメールの受信を私に知らせるために震えて、フローリングに擦れて低い音を立てているのだ。夜にひとりで聞くような音ではない、とても愉快だとは言えない音だ。しかし差出人が仁となっているとあれば、そう怖くもない。そして今は、納得がいく。
 おめでとうございます
 すぐに開いてしまったそのメールを優に五分は眺めてから、私はやっと自分が喜んでいることに気付く。ああもうなんでメールなんだ、せめて電話してきて、口で言ってくれりゃあいいじゃないかと、思うがしかしかわいくて、恨む気も起きない。





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2014.6.2
2007.3.17が最終更新になっていたもの、加筆修正
友人のお誕生日に宛てたもの