進路という言葉は、ずっと私を悩ませてきた。



別々





 「亜久津ってさ、高校どこ行くか決めた?」
 何気なく訊いたのを覚えている、それは水溜りが道に犇めき合っていたから、8月の半ばくらい。そうだ夏休み中に補習のあった私達ふたりはそうやって、とぼとぼ暑い中を家へと向かっていたのだ。特に理由はなかったはずだ、ただ補習中ずっと教科担当が、こういうものを受けている限りお前たちの進学に関する未来は暗いみたいなことを、言い続けていたからそんな話題を提供しただけだった。
 「は?」
 そう聞き返されたのも、覚えている。
 「アタシは適当に、近い所」
 「近い所」
 「そうなんか、歩いて通えるような」
 「ああ」
 「亜久津は?」
 そして私はまた尋ねた。セミがじりじりと鳴き、水溜まりから蒸発した水分がじわじわ皮膚を攻め、お互い暑いのに、強く握り合った手。それも、覚えている。
 「俺行かないかも」
 「ん?中卒?」
 「いや」
 「中卒ってさ、ヤクザみたいだよね」
 「そうか?」
 「で?中卒ではないんでしょ?」
 「留学」
 「りゅーがく」
 「アメリカ」
 「アメリカ?そっちの学校行ってこと?」
 「多分」
 「へえ」
 亜久津がアタシを見つめた。アタシは亜久津を見上げた。彼は口元を緩ませて、アタシにキスをした。ああ、後ろに誰か、部活帰りの下級生かなにかいがた気がするんだけど。まあいいか。
 「いい度胸だなお前」
 「なにが?」
 「彼氏が国越えてどっか行くのに、へえで済ますところ」
 「そういう番組昔あったよね」
 はいはい、と亜久津がアタシの頭を撫でた。私は、テレビがどうこう言っていられる自分の演技力に驚いていた。本当は、そんなこと呟いていられる余裕なんてないほどの衝撃だったのだ。えーうそ行かないでよと言ったり、そんなのいやだと泣いてみたり、私はしたかった。けれど気付いたらへえだなんて言ってしまって、仁がそれを笑うから、今更になって駄々をこねるわけにもいかず、物分りのいい彼女を演じ続けるしかなかったのだ。今思えばどうせ仁は私がなにを言ったって、自分で決めたことはその通りにやってしまう。行く時は行くしやる時はやるのだ。だったらせめて、私も素直に泣いてしまえばよかったのかもしれない。

 それで今、気付いたら卒業間近になってしまうのだ。あの8月が懐かしい。あの時ならまだ、あと何ヶ月もあるから亜久津と一緒にいられるとか、別れをそんなにも実感せずに済んでいた。私はは毎日亜久津と笑いながら下校してたまに休日遊んだりしててああ幸せだなぁって思っていて、いつか多分来るであろう国を越えた別れだって、まだまだ先の話だし、なんとかなるなどと思っていて。
 けれど、なにがどうなんとかなるんだろうってことなのだ。あの夏「多分」なんて言っていた亜久津のアメリカ行きはいつの間にか決定事項となっていて、その理由はテニスであることを最近になって知って、ああそういえば亜久津テニス上手いもんねと呟いたら、今さらだな、と彼は呆れた顔をした。私は間違いなく彼の恋人だし、彼のことを大好きだと思う。けれど彼がやっているテニスという高貴なスポーツにはあまり関心がない、一度試合を観に行ったけれど暑くて暑くて勝ち負けがどうこうなんてまるで頭に入らなかったし、亜久津という男が、さわやかにスポーツをしているところを間近に見たところでなんとも、彼とテニスを上手く結びつけることができなかった。だから私は、彼がそんなにもあのスポーツに向き合っているらしいことに驚き、まるで彼のことをなにも知らなかったような、そんな気分になる。そして。
 彼がアメリカに行ったら、もう気軽には会えなくなってしまう。私はもう冬すらも終わりそうなそんな時期の休み時間に、そればかり考えている。
 そうしたらなんていうんだろう、きっと私はなにもできない、となってしまうだろう。なにもしたくない、となってしまうだろう。どうにでもなれ、と思い、どうしようもない、と思うだろう。
 もたもたもたもた、解決策も浮かばず、受け入れることも反発することもできず私は、もたもたと取り留めのないいやな感じに見舞われて、気付いたら、廊下にそのまま座り込んでいて気付いたら、授業が始まってた。
 ああ冷ややかな廊下。冷たい雨が降り出しそうな空。結局、あの時亜久津に言った通りの、近場の適当な高校の入試を私は受けた。そして亜久津は、アメリカ留学が確定している。
 泣いてしまいたい。この頃はふとひとりで立ち尽くすことが多くなった。なにもやる気の起きない時間が増えていった。だけど亜久津と一緒に帰る時、その時だけは楽しいと感じ、もしかしてなんとかなるのかもしれないだなんてばかなことを考え、彼と歩いている時だけ、私はふわふわと浮かれていられる。それが今、こうしてひとりになってみるとやはりだめだ。どこにも行かないでとか、そんなのいやだとか寂しいとかつらいとかしんどいとか、今すぐ会いたいとか。そういうことばかり考えてしまう。
 「なにやってんの」
 冷たい廊下に沈んでしまおうか、それができたならどんなに楽かと考えていた私に、平然と遅刻して来た亜久津が声をかけてくる。泣きそうだった。
 「こんにちは」
 「いやいや、平然装ってるけど涙目」
 亜久津はうっすらと笑い、アタシの目の前に座り込んだ。そうだ、亜久津も沈みませんか廊下に。そうしたら私達は永久に共にいられるわけで、そして校舎取り壊しのその日まで生徒や教師に踏まれまくる人生を歩むことになるんですけどいかがですか。もやもやしている私の頭を、亜久津は撫でた。寒くて、握った手。胡坐をかく亜久津、体育座りの私、繋いだ片手。はたから見れば宗教の修行のように思えるだろう。ただの愛の育みだった。
 「お前立たされてんの?」
 「ううん、授業出損ねただけ」
 「ふうん」
 「亜久津は遅刻?」
 「本当は休もうと思ったんだけど」
 軽く、伸びる亜久津。手を握ったままだから、亜久津の腕が上がると、アタシは亜久津に引き寄せられる。
 「に会いたくなったから来た」
 途端、背後の教室からどっと笑い声。先生がなにか愉快なことでも言ったのだろう、すぐに鋭いキヨのツッコミが聞こえ、さらに大きな笑い声。私達はしばらくドアと壁で中の様子が見えない教室の方へ顔を向けていた。ひとつ廊下に出ただけで、それだけでこの教室は確かに私達のものであるのに、どこか他人事のように感じる。風邪で学校を休んだ日に、昼間からテレビで古い再放送のドラマでも見ているような感覚に陥った。
 「もうすぐ会えなくなっちゃうもんね」
 そうして私は他人事のような感覚を抱いたまま、さっきまで自分をあれほどまでに悩ませていた言葉を、自ら口にする。教室へまだ目を向けていた亜久津がこちらを向き、不思議そうな顔をしたので心臓が痛い。
 「寂しいのかよ」
 「当然でしょ」
 「だから涙目?」
 「それもあるし、亜久津が来てくれたから」
 「褒められてる?」
 「そうだよ」
 ふいに亜久津を抱き締めた。甘えたくなった。何故だかわからない、あれほど不快だった煙草の匂いが今、好きになった。
 はいはい、と亜久津がアタシにキスをした。

 それで今、気付いたら私達は空港にいてしまうのだ。あの卒業間近が懐かしい。あの時ならまだ、まだ大丈夫だとか、私は思っていて、廊下に沈むのを取りやめることができた。我ながら、甘ったれていたと思う。けれど今、もう少し、本当に少し、10分くらいすれば彼は行ってしまう。空へ、海の向こうへ、そして異国へ、遠くへ、行ってしまうのだ。
 亜久津が横にいて、やはり手を繋いでくれているのに、私は遂に涙をボロボロとこぼしている。私は例の高校に難なく合格してしまった。そして亜久津も難なく、留学の手配をすべて済ませてしまった。
 「お前と」
 亜久津が、唐突に口を開いた。
 「一緒に行けたらよかったんだけど」
 「そうだね」
 頷く。私も、一緒に行けたらどんなにいいかって、思う、けれどそんなの絶対無理だとも、思うのだ。
 空港の広い窓、外には飛行機がいくつも並んでいて、この中のどれに彼が乗り込み、なんという空港に向かうのか、私は知らない。ここにあるすべてが亜久津を待っている、私のことなんかなにひとつ、待っていないのだ。
 晴天だった。恐らく気流の乱れなんかひとつもないまま向こうへ到着できるだろう。よかったね、そう思うのに、ああなんだかんだいって帰ってきたりしないかなとか、思う私はいやなやつだろう。
 「
 「ん?」
 「3年で戻る」
 「長いよ」
 「高校行ってりゃすぐ経つって」
 「長い」
 涙がまた、床を汚す。泣きすぎ、と亜久津が困った顔をする。私は答えない。涙も拭わない。だって私はずっと泣きたかった、行かないで寂しいとずっと言いたかった。けれどずっと我慢していたのだから最後の最後くらい、素直な私の姿を亜久津に見せつけたって、誰も文句は言えないだろう。
 「ねえ毎日電話してもいい?」
 私は唐突に呟き、
 「別にいいけど、時差考えろよ」
 亜久津が笑う。だから私も、笑うしかない。そうすると少し、気を取り直す。
 亜久津がアタシにキスをした。唇じゃなくて、額にした。どうして最後なのにと私は文句を言うが、なんとなくとしか返事をされなかった。
 「浮気すんなよ」
 「しないよ」
 「ほんとかよ」
 ほんとだよだって好きなんだよ。手を握り直す。はいはい、と亜久津が私を抱き締めた。






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2014.6.3
2008.1.8最終更新のもの、加筆修正
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