音楽が止まって会場が明るくなった瞬間に、疲れはどっと現れる。会場内にゆっくり外へ出て下さい、というアナウンスが流れ、なかなか前へ進まない出口への順番を待っている時、人波に揉まれながら、汗臭さの中、疲れは余計に広がっていく。  通常では考えられない量の水分を摂ったのだけどライブ中にぴょんぴょんと、飛んだり跳ねたりしていたから全然、トイレに行きたくはなくて、だけど今すぐこの汗まみれのTシャツを、雨に濡れた後みたいにぐっしょりと色の変わったTシャツを、着替えたい、とだけ思って、それでも人混みは嫌いだから他人の汗の匂いや、異常な体温や、中身のないライブの感想話なんか、触れていたくもなくて、だからアタシは出口への長い長い、なんだか不気味な、生命力に溢れていながらも、疲労感いっぱいの同じ目的だけで集まった人々の列を受け流して、最後の最後に会場を出ようと思っていた。
 ステージでは早速スタッフが機材を片付けている。落し物を伝える声が肉声で伝わる、なにかを探す声、誰かを探す声、下らない笑い声、また場内アナウンス。私はだらだらと、空き始めた会場を見渡す。もう少し、もう少し人を受け流そう、そう思ってふと後ろを振り返る。男が、落ちていた。









          東錦








 男は仰向けだった。顎先が天井を向くくらい頭を目一杯に上に向け、露になった白くて長い首が、息をする度動いていた、はあ、はあ、はあ、はあ、喉仏が、動く、動く、動く。目は苦しそうに閉じられていた、額には汗で張り付いた前髪、右手は己の、首と同じく呼吸の度に動く腹の上、左手は投げ出されて、私と同じ、ポカリスエットのペットボトルを握っていた。はあ、はあ、はあ、息をしている、体中で、たまに痙攣だってする、びくびくと。私はそれを見ていつかテレビでやっていた臨死の野生動物を思い出してしまって、半開きになっている息を吐き出す口から不思議な鳴き声でも発せられるんじゃないかって、わりと気にしていたのだけどそれはなく、男はただ仰向けで右手を腹、左手をペットボトル、顎を真上に向けた、荒々しく息をする、人間だった。はあ、はあ。
 私は一体、どうすればいいのだろうと真剣に考えた、周りを見渡したけれど誰もこの男には気付いていない、みな自分がいち早くこの蒸し風呂のような、暑い会場から出ることに必死で、活気はあるのだけど死んだような目を持っていて周囲は薄暗く、スタッフは機材を片付けていたり、少し楽器の音を出してみたり、なにか冗談を言って笑ったりすることに真剣で、だからこの男に気付いたのは私だけだった。
 男は異常な早さでもって、短く呼吸をしている、はあ、はあ、はあ。腹の上に当てた手が痙攣しているのか、それとも手を当てた腹が痙攣しているのかわからないけど震えていて、だけど目はなんだか、今は気持ち良さそうに閉じられている。こめかみから流れて斜めに頬を伝う汗、腕に纏わり付く汗に、誰かの髪の毛、服の繊維、肘に青痣、たまにぎゅうっと握られるペットボトルは確かに脆くて、彼が息を吸う、その度にべこっと凹む、中身はほとんど入っていなかった。口の中では真っ赤な舌が、だらりと生息していた、動くこともない、だけど、ぬらぬらと濡れて光っているのだ。
 私は、コインロッカーを利用した方は左側出口をご利用下さい、というアナウンスを聞きながら男に近寄った。しゃがみこんで、どうすればいいかわからず、本当は額に手を当ててみようか迷ったのだけどそれができずに、黙っていた。はあ、はあ、はあ、男の、早い呼吸。丈夫な呼吸器を持たない子どもが長距離走をした後みたいな、ライブでどれだけ騒いだって、終演からこれだけの時間が経って、息を整えられていないのはおかしいだろう。病気なのか、体が弱いのか、なんなのか、わからずに私は、男を観察している、白い歯とかを。
 呼吸と痙攣以外微動だにしなかった男がその時、初めて動き、首を横に傾けた。首から下げられていた銀色のネックレスが、キラリと光る、会場の光を浴びて、汗に濡れ。息をしている、荒く早く。左手のボトルを握る手が、その度に薄く筋を出す、みみずでも入っているみたいに。
 「大丈夫」
 私はその時やっと声をかける、倒れていることや、呼吸のことにではなく左腕に、みみずが入っているみたいだったから大丈夫か、と。男は聞こえていなかったみたいにはあはあいって、痙攣させ、目をぎゅっと閉じている、濡れたTシャツが、体中に張り付いて髪の毛は、綺麗で、男がまた動く、頭を、さっきと同じように正面に戻して、その瞬間だけ一瞬息を止めて、はあ、はあ、と。
 そして、男は薄らぼんやりとした瞳を開けた、ゆっくりと、だけれど確信的に。そして大して明るくもない会場のライトに一度、目を細め、そしてまた開く、体液で濡れた瞳を私に向ける。男は、口元だけで、笑った。
 「大丈夫なの」
 男はまだ、笑っている。俳優みたいな笑いをした、モデルだとかミュージシャンみたいな笑いじゃなくて、とても俳優的な笑い、作ってるくせに不自然じゃなくて不自然じゃない感じが逆に不自然な、そんな笑いをした。私の目をじっと見ながらも、笑った半開きの口からはまだ苦しそうな息が漏れる、ひゅーひゅーと秋の風みたいな音だ。
 「飲む?ポカリ」
 私は、彼も持っているのを承知で何故だか自らのベットボトルを差し出してみたその中は、彼よりも少し多いくらい、水分が残っていたのだけれど。彼はそれを見つめてただ、笑っているから私は判断し兼ね、だけれど、会場で配られたドリンクホルダーからボトルを外し、キャップを左回しにして開け白いキャップを、なんだか薄汚れた床に置き、飲み口を、仰向けの半開きの彼の唇にそっと押し付けた、中身が一気に伝わないように。彼はそこだけ乾いた唇でもって飲み口のへりを咥えたから、私はボトルを傾けて、中身を押し流す。ゆっくり、ゆっくりと、白濁した水分を。男は同じくゆっくりそれを飲んだ、たまに、息をしたり、止めたり、耐え切れずに微かに咽たり、うん、と唸ったりしながら飲み込むのだ。潮時がわからずいつまでも流し込む、彼だっていつまでも飲み込むのだけれど、突然飲む気も失せたのか舌で喉を封じ、反応に遅れた私は、白濁した液で彼の唇や頬を、濡らしてしまう。慌ててボトルを彼から離した。
 キャップを閉めようと左手で床を探った時、ボトルを持った右手を、彼の腹の上にあった右手が掴み私は彼に引き寄せられ、バランスを失って彼の口元に耳が近付く、彼は幾分落ち着いた呼吸をしていてはあ、はあ、という音を私の鼓膜に響かせながら小さく、掠れながらも潤った声でもって、私に囁くのだ、
 「今夜泊めてよ」

 南の足取りは覚束なく、たまに私にぎゅっと寄り掛かる、私は、そんな南を一生懸命支えながら、家まで歩いた、真っ暗な夜道だ。
 痙攣は治まったし息も落ち着いた。彼は訊ねた私に「南」という名前を告げた、それが上の名前なのか、下の名前なのか、はたまた本当の名前なのかすら私にはわからないけれど南は南、と名乗ったので私はそうだと信じるしかなくて、街灯を眩しく思いながらも私は南に、、という名前を告げた、南は嬉しそうに、私を呼ぶ、あの半開きの笑いで、
 家に着いて南をシャワーに入れた、母がまだ起きていたけれど、南を見てもなにも言わない、おかえり、おやすみ、と言っただけだ。ふらふらしている南は服を脱ぐのも上手くできなくて、私は脱衣所で彼の服を脱がせた、いまだに湿ったままのTシャツと、しっとりしたGパン、彼はも一緒に入ろう、と私の腕を掴んだけれど私は断った。
 「どうして」
 「だって、南は彼氏でもなんでもない」
 「だって早くシャワー浴びたいでしょ」
 「でも」
 その時南の私の、腕を掴む手の平が痙攣した、私は一気に不安になった、彼がもしかしてこの風呂場の中でさっきと同じように、倒れたらどうしようなんて、一気に不安になったのだ。
 この男は危ない、ひどく不安定なのだ、事情は知らないが、強くそう思う。私は腹を決め自分の服を脱ぐ、濡れたTシャツとか、汗で気持ち悪いスウェットとか、下着とかを。半開きの口で、あの笑いをした南は、震える腕で私を抱き締めてなにをするかと思えば私に口付けて、背中をまさぐった。やめて。そう言うと大人しく引き下がって、濡れた目でもって私を風呂場へと誘う、震えの止まった腕で引き寄せて。
 熱いシャワーを浴びて自分の汗や他人の汗や、誰かの髪の毛や汚れなんかを洗い流している時、南はずっと私の後ろに立ってぴったりとくっついていた、腰を抱きながら。背中に感じる南のそれを私は特に意識しないことにした、私だって南だって、同じような人間だ、ほんの少し違うだけ、男か女か、風呂場で倒れられて半開きの口にシャワーの水をたっぷり溜めながらびくびく痙攣されてるよりはずっとましだろう。
 「南も」
 シャワーを浴びさせようと前に押しやると、お願いだから俺にくっついててくれない、と南が言う。
 「どうして」
 「どうしても」
 言うので私は南がしていたように、南に後ろからくっついた、固い腹筋に指が触れる、男の体って、みんなこんな風に筋肉を持つのだろうか。経験が乏しい私に、その答えは出てこなかった。
 「
 汗と汚れを一通り洗い流して南は振り向く。シャワーを、止めていないので私の顔にもろに水が跳ねたけれど目を細めることも背けることもできなかった伝う水が、南の頬を伝う水が涙に見えてしかたがなかったのだ。
 「髪、洗ってあげる」
 じゃあシャワーを止めて、呟くと南はちゃんと従ってシャンプーのボトルを手に取り中身を手の平に溢す、真っ白くて、どろっとした液体を南が手の平ですごくすごく卑猥に溶けて、それは私の髪の毛で泡を立てる、化学的な匂いを放って。
 南の長くて柔らかな指は私の頭皮や頭髪を規則正しく撫でていく、額の側から、うなじまで、耳の裏から、即頭部、根元から、毛先まで、白い液体は真っ白い泡になり、私の頭を包む、南の私の、目じゃなくちょっと上を見つめる真剣なその瞳が、私は好きだと感じた。
 「気持ちいい?」
 「うん」
 私と目を合わせて、南は笑う、半開きの口の、おかしな笑い。そして泡だらけの手でもって、私の口の中に指を突っ込んだ、膨れ上がった泡と、苦味、口内を掻き回す南の指、苦しくて、唸って、逃れようと後ろへ体を動かすと南は私の腰を支えて、乱暴に風呂場のタイルの上へ私を寝かせた、シャワーのお湯を出して、また体中をシャワーの雨に打たれながらシャンプーを飲み込みそうになって堪える私の顔を南はずっと見ていた、笑っていた。
 「ねえ、いい?」
 南の指が口を離れ、私の下半身に伸びる、ほんの少し触られながら私はだめ、と言った。南は名残惜しそうに私の中をしばらく触っていたけれど、私が声も上げずに睨みつけていると、ふいに笑ってそれを止めた。そしてその指を、舐めてしまった。

 トイレに行く、と言っても南は離してくれない。私をベットの上で後ろから抱いて、行かないで、と呟くのだ、耳元で。背中に当たる腹筋がたまに、びくびくと痙攣する、南をひとりにさせるのは心配だ、今だって痙攣してる、いつ倒れるかもわからない、息は落ち着いているけれど、だけどトイレに行きたいのだ、私は。
 「じゃあ俺も行く」
 そう行って南はついてきた、ぴったりくっついたまま。トイレに入ろうとする私に、ドアの前に南を置いて行こうとする私に、南はぴったりくっついて離れない、ちょっと待ってて、そう言ったけれど黙って笑って首を振る、やだやだ。
 「じゃあ、私、南に色々出してるところ見せなきゃいけないわけ」
 「そう」
 「だめ」
 「お願い」
 「南のお願い、今日何回目」
 「お願い、」
 南は一拍置く。そして、笑顔を消し去って、真面目な顔して私を見るのだ。
 「離れたくない」
 ため息を吐いて、私は南を許諾した。

 今度は、南が私の服を脱がせる。私は倒れもしないし、痙攣もしない、だけれど南が脱がすのだ、元々こういう成り行きだったに違いない、男と女がいる、夜である、ふたりきり、南は私の体をまさぐるし、私だって似たようなことを南に返す。舐めて、舐められて、触って、触られて、声を出して、引っ張って、動かして、はあ、はあ、という南の息も、会場の時とは違うもので真っ暗な私の部屋の中、ベットの上、私達は繋がった、世界中で誰もがするように、そして南は私の中で痙攣するのだ、全く違った意味合いで。
 避妊をして、と私は息も切れ切れ遠回しに言ったけれどそれは口だけで、別になにも気にしてはいなかった、南だって承知で、それに彼は避妊具だとか、そんなものを持ってはいなかった、彼の持っているものは脱衣所で確認したのだけどポカリのボトルに、チケットの半券、わずか458円の小銭だけだった。
 痙攣が治まっても南は私から離れなかった。抜け出しもしなかった、繋がったまま、私を上から抱き締めたのだ、ゆっくりと息をして、と名前を呼ぶから私は南の頭を撫でた。
 「ねえ、南はいくつなの」
 「なんでそんなこと訊くの」
 「なんとなく」
 半開きの、半開きの笑いをして、南は私の質問に答えなかった。
 「体、大丈夫」
 「なにが」
 「ライブの時、倒れてたから」
 「うん、大丈夫」
 やっと私から抜け出してそれでも私を抱き締めたまま、俺さ、と南は言葉を続ける。
 「いつでも誰かとくっついてなきゃだめで」
 「ふうん」
 「人の体温が好きなんだよすぐ寂しくなって」
 「うん」
 「ライブハウスって便利じゃん、人とくっついてるしかないでしょ」
 「そうだね、でも」
 「そう今日のライブは激しかったから、ちょっと疲れて」
 「体弱いの?」
 「体?」
 ふいに南はまた笑い、そっと私に口付ける、上から、上から。体なんて。そう続ける。
 「もうしか俺に触れない」
 「どういう意味」
 南はまた答えない。寝なよ、疲れたでしょ、そう私に言って、ゆっくり目を閉じて、それから私の上から退ける、横に並んで体をくっつけたまま息を吐く、静かな呼吸音。
 「なんか昔、世界から」
 「うん?」
 「離れたいとか。思った時があって」
 「うん」
 「で、思った通り離れちゃって」
 「南って不思議だね」
 「うん。でも人肌からは離れられないっぽい」
 「誰でもいいの?」
 「ううん、がいい」
 「ふうん」
 「今日から俺はきみのもの」
 私の頭を触れるか触れないかくらいの微妙な間隔で撫でた後、一度強く私を抱き締めて南は寝息を立てはじめた。眠るのか、そう思うと私も一気に眠たくなってそっと目を閉じた、目の裏側に、様々な色が見えて、赤だったり青だったり黄色だったり緑だったりと小さな光がぱちぱちと瞬き、それを確認しながら私は眠りに落ちていった、深く深く、その合間に、私が南のものなのではなく南が私のものなのだと言った南のことを、ずいぶん昔の出来事のようにちらちらと思いだしていた。

 翌朝目覚めた時南が隣にいたことを、私はすごく不思議に感じていた。ライブ会場で倒れていた男を拾い、泊めてと言われたから簡単に泊めて少し、介抱して、交わり、眠った。当然一夜限りの男だと思っていたから朝起きたら隣に彼はいないものだと思っていたけれど、それでも南は横にいて、あの時と同じ様にほんの少し苦しそうに目を閉じながらそれでも荒い息や、痙攣はせずに、眠っている。
 時間を確認するのも億劫で、私は初めて自らの意思と力でもって、隣の南をぎゅっと抱き締めた。南はそこで目を覚まし、ゆっくりと目を開け、カーテンの隙間から零れる朝日だか昼の光だかに目を細め、またゆっくりと瞼を開き、私を見つめ、半開きの、口角を上げて、笑う。
 「おはよう、どうしたの」
 「南がまだ隣にいるからびっくりしてた」
 「どうして。行きずりだと思ってたの?」
 「当然でしょ」
 「のものって言ったじゃん」
 甘えてくる猫みたいに私に頭を摺り寄せて、あろうことか南は「にゃーん」と鳴いて見せた。私が笑うと、なあに、と確信をもって南は尋ねる。
 「ねえ、南の家ってどこらへん」
 「ないよ」
 「ないの?」
 「うん」
 「帰らないの?」
 「だって家がないから」
 「じゃあ、なに、ずっとここに居座るするつもり」
 「そうだよ」
 「だめだよ、そんなの、無理」
 「行きずりのつもりじゃなかったよ」
 「あ、違う、帰ってほしいとかじゃないんだよ私たぶん南好きだし」
 「ありがと」
 「でも無理だよ。うち普通に親とかいるし」
 「大丈夫」
 南は頭を上げて私の耳元で囁く。
 大丈夫、誰も俺のこと見えないから。
 すっと宙に浮いた気がした。でもそれは勘違いで私はベットの上に横になっていたし、南だって隣に寝たままだ。
 外の光が眩しかった、どうしてだろうライブ会場のどんなに強いスポットライトよりも、遠い太陽の自然の光の方がずっとずっと、眩しい。
 「昨日の質問に答えてあげる」
 「なに」
 「俺の歳」
 「うん」
 「今年でじゅうはちだよ、」
 そのはずだった。
 最後の一言だけ強く放って、南は半開きの口で笑う。彼は世界を離れた男。だけれど人肌から離れられない甘ったれで、恐らく優しくて、ただただ不思議で、時々疲れて痙攣や、呼吸困難を起こすのだ。寂しがりの、18歳になるはずだった、体を持たないこの南というものが今、私のものになる。








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2008.10.13/2014.9.29加筆修正
三年前に死んじゃった南くんが守護霊になってくれたらいいなってはなし