ああ随分と長かった、あの日から今日まで。解放され、追い出され、また詰め込まれてそして今日、また解放され追い出されるのだ。そして私は、



貴方





 「なんかほんと、入学式がつい最近のつもりだったのにー」
 わらわらと集まって円になり、おかしいくらいにに寄り添って、高い声でクラスの女子が語らっている。あーわかるわかるあたしもそうだもんと同意し合い、なんかおばさんみたいじゃない?と下品に笑い声を上げ、それを背中でピリピリ感じながら私は、自分の席で身を縮め耳を塞ぎたくなるのを必死に堪えてる。
 このクラスの、いや学年の、むしろ学校内の、女子のほとんどは私のことを嫌っている、嫌いで嫌いでしかたなくて、憎くて憎くてどうしようもなくて私のことを悪人か犯罪者か裏切り者と認知していて、私のことを粛清として殺したいとでも思っているのだろう。そのことに対して私は、寡黙を貫き反抗をしてはならないさだめにある。
 私がいけないのだ。私が悪いのだ。私は悪人なのだ。私は犯罪者で、私は裏切り者で、こういう仕打ちを受けるのが当然なのだ。景吾と付き合っているから。

 「毎年毎年ねえ、みんなそう言うのよ早かったとかあっという間だったとか。一年生の頃なんかあと三年もあるーって言ってたのに」
 クラスメート全員の受験が終わった今、時間割を見ればこれまで通りに数学とか国語とかの科目が書かれてはいるが、それはただそう書かれているだけでほとんどの場合、授業は行われず教科担任との雑談の時間となってしまっている。中身のない形だけの授業か、卒業式の練習、卒業アルバム制作の為の学級会ばかりが執り行われるこの開放的な空気の中、私だけがベテラン女英語教師の言葉に疑問を抱いていた。そうなのか?と。
 本当に私の三年間は短かったのだろうか、「あ」っと言う間にひゅん、と過ぎてしまっていただろうか?そんなはずがない。私の三年間の、特に最後の一年は、景吾と付き合ってからの一年はとても長く、気怠く、鬱蒼としていた、確実にそうだった。今でもその全貌をありありと思い出せるくらい、それはつらかった。大体にしてこの一年、一日自体がとてつもない長さに感じ、その次の日だって同じように長く、学校に行かなければいけない五日間が永遠に感じ、早く早く早く休日になりますようにと祈っていた気がする。きっと時間の経過が早く感じる事が出来るのは時間を、毎日の時間を楽しく過ごしていた人間だけだ、このいつも朗らかな教師とか、後ろで私を笑っている女子とか、上の空の男子とかつまり、私以外の、みんなのことだ。
 「ていうかマジきもいんだけど」
 後ろでさわやかな黒い声がする。このクラスの女子は明るい。団結だってする。とても仲がいい。私を取り残して。私に制裁を加える為に日々、結託している。だからとてもさわやかに、私を非難するのだ、授業中、休み時間、放課後、全ての場面で。明るい彼女達が私以外の人間を悪く言うのを聞いたことがない、だから、きもいとかうざいとか頭おかしいとか、そういう言葉が発せられる時それは、全て私に向いている。
 「昨日また跡部様と帰ってたんでしょ?ありえないんだけど」
 「調子乗ってんじゃねえよって」
 「早く別れればいいのにねー景吾くんもどうかしてるよー」
 「跡部様が変なんじゃなくて、あの子が変なんでしょ?とりつかれてんだよ」
 「そうだけどさあ」
 聞こえてますけど。
 鳥肌が立つ、きれいな可愛い声でまるで歌うように告げられる私の悪口に、私は鳥肌を立たせている。彼女達にとって景吾は絶対であり、その絶対と付き合っている私は異質であり、吹き出物か、厄介な湿疹か、なかなか取れない瘡蓋程度の存在であり、早く消えれば良いのにと日頃願われている。
 早く。早く卒業式が来ればいいと思った。こんな毎日はもう嫌で、こんな教室はもううんざりで、こんな陰口はもう耐えられなくて、早く早く早く、彼女達のいない所に行きたいと思った。早く早く早く、景吾とだけ遠くの高校へ行きたいと思った。つらいつらいつらい。授業が長い。休み時間が長い。ランチタイムが時間が長い。学校での時間が長い。早く早く早く。家に帰りたい。景吾と一緒に帰りたい。ずっと家にいたい。学校に来たくないいたくない。でもだけど。
 学校に来ないと景吾に会えないし、学校に来ないと一緒に帰れないし、世の中ってどうしてこうも上手い具合には、できていないのだろう。

 チャイムが鳴って授業が終わり、教室は居心地が悪いからと、まだ誰もいない女子トイレに駆け込んだ。個室に入って鍵を閉めると突然手持無沙汰になってしまい、ポケットから携帯を出して確認すると確かに、景吾からメールが一通、「国語の教科書貸して」。
 景吾が忘れ物をしたなんてなんだか笑え、「机の中に入ってるから持っていっていよ」という返事を打って、息を吐く。本当は。
 本当は景吾の教室まで持って行ってあげたい。本当は景吾に手渡ししてあげたい。それで忘れ物をした景吾を笑ったり、もう授業なんてほとんどないようなものなんだから教科書いらないんじゃない?と言ったりして、ふわふわした休み時間を過ごしたい。けれどそんなことをしたら私は、女子によって死刑に処されてしまうだろう。それが怖くて、私は校内で彼氏である景吾に、ほとんど近付かないでいる。
 早く卒業したい、私はまたそう考えている。そうすれば私と景吾は同じ高校に行き、私はこんな目に遭わなくて済む、だって私達の行く高校にあの女子達はひとりも進学しないのだ。きっと夢のような生活が待っているだろう、だから早く。
 もう一度息を吐いた時。静寂を切り裂いてトイレのドアの開く音がした。私は瞬時に身を強張らせ携帯を閉じ、息を潜めていた。
 誰かが入って来たようだ、恐らくこの高い、美しい声は私の席の後ろの子達だろう。いつもは休み時間は大体教室に留まって美容の話をしたりペットの話をしたり成績の話をしたり私の罪の話をしたりしているのにどうして今日は、トイレに来たりするのだろう。
 あははは、という笑い声。なにが楽しくて笑っているのかはわからない、その美しい笑い声に、その声に確かに悪魔を感じ、怖い怖い怖いとアタシは同い年の女の子に怯えてる。
 どうしてこんな風に怯えなくちゃいけないのだろう。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないのだろう。初めはみんな仲が良かったのに、私を含めて、跡部くんかっこいいよねって毎日、笑い合ってたのに。どうして付き合った途端にいじめられて、どうして付き合った途端に裏切り者にされて、毎日毎日休み時間の度に彼女達を恐れここに引きこもらなくちゃいけないのだろう。
 好きだから告白するのは当たり前のことで、告白して両思いになったら付き合うのは当たり前のことで、恋愛ってそういうものだってみんな、知ってるはずではないかあんな風に少女マンガを読むのだから、あんな風に恋愛ドラマを見るのだからあんな風に、彼のことを見ては頬を赤らめるのだから。
 どうして仲間外れにされるのだろう。どうして景吾を追いかけたり、はたからみてきゃあきゃあ騒いだりするのはよくて、どうして景吾と付き合うのは不可とされてしまうのだろう。みんなも好きなら告白をすればよかったのだ、私なんて見てないで今この瞬間に、私の方がいい女だから付き合ってと言えばいい、そうされる方が、私はずっと楽だし正々堂々表を歩ける。あれが、彼女達なりの女心で、恋愛なのだろうか。私をいじめて景吾を崇拝するのが。
 つらいつらいつらいと無機質な便器に目を落とすと、頭の上から笑い声と共に、バケツごと水が降ってきた。

 またチャイムが鳴り、声を潜めて笑っていた女の子達が忙しくトイレを出て行く音を聞く。その音が廊下に広がり、段々、段々と小さくなるのを確認し、自分の息遣い以外の音が周りから消えた途端、私は大声を上げて泣いた。
 熱い涙が狂ったみたいに頬を伝い、無機質な冷たいトイレのタイルに泣き声は反響し、頭の中がモヤモヤと煙りはじめている。水が、ひたひたと髪から滴る水が、しとしとと服から滴る水が、じとじとと髪を濡らす水が、べたべたと服を濡らす。汚いトイレの個室、降ってきた水と降ってきたバケツを傍らに、大泣きしながらうずくまっているなんて一体、なにをしてるんだろう私は、なんて生活を送っているのだ。
 悔しい。悲しい。苦しい。つらい、つらい、つらい。濡れた制服を着ていると寒く、けれどタオルなんて。そんな気の利くものは持っていないし、保健室に行ってこんな中学生活の終末に、いじめられてることが公になって大騒ぎになるのも嫌だしけれど、教室には戻れない。どうしようもない、どうしようもなく寒い、寒い、寒い。
 「あ」。私はずきりとこめかみを痛ませたあと、手にもっていた携帯に目を向けた。その画面は暗かった。恐る恐る電源ボタンを何度か押してみたけれど、反応はない。死んでしまったようだった。
 なんてことを。なんてことをしてくれたのだろう一体どういうつもりなのだろう。私が、なにをしたっていうのだ携帯を水没させられるくらいのことを?涙で真っ黒な画面がかすむ、濡れた袖で顔を拭くけど意味はない。ぽたぽたと降ってきた水に涙も落ちる。それは波紋を描き、ゆっくり、ゆっくり広がっていく。

 どれくらいの間、そうしていただろう。涙の伝っていた頬が痒い、爪で引っ掻くと痛く、目を擦ると瞼までもが痛かった。授業が始まり静まり返った女子トイレで、冷たさを失った制服の繊維の中の水。私の髪はじっとりと汗ばんでいる。こんなところにいつまでもいられるものか。ひとりになって強気になった私の頭が鳴っていた。
 教室にも保健室にも行けない、だけどずっとこんな所ところでうずくっているわけにもいかない。私の居場所なんてこの残り少なくなった学校にはない。
 帰ろう、そう思った。もう無断早退してやろう、そう思った。立ち上がるとずきり、心臓が痛かった。
 静まり返った廊下をこそこそと歩く、三月は寒い、おまけに私はずぶ濡れだ。すぐに体は震えだし、みっともなくも歯ががちがちと音を立てた。壊れた役立たずの携帯をそれでもポケットにしまい、震えながらも果敢に私は  生徒玄関へ向かって階段を降りている。靴下も上履きも濡れ、階段を降りる度にぐちゃぐちゃと間抜けな音が鳴り、私の歩いた跡には水がぽたぽたしたたっていることだろう。水の足跡を、悔しさいっぱいに残して階段を降ている。
 ぐちゃぐちゃと耳障りな、ぐちゃぐちゃ、はしたない音。足に力を入れるとキュ、と高く靴底が鳴り、かと言って弱めると自らの水で転びそうになる。ああこんな濡れた制服で、この寒い三月の屋外に出たとして、私は健康を保っていられるのだろうか。家まで無事に帰れるのだろうか。けれど教室には戻れない、もうここにはいられない。その時。
 相変わらずぐちゃぐちゃと、情けない私の足音と並ぶようにもうひとつ、遠く遠く階段の上の方からカンカンと乾いた足が、階段を下りてくる音がする。早く。逃げなきゃと。私はぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ音を立てまくって階段を下りるがカンカンカンカンと、それは私を追ってきた。こんな授業中に誰が、誰が下りて来ているのかでも誰にしたって、見つかったら私は終わりだ。例えその誰が私を教室に連れ戻されなかったとしても、どうしたのって声をかけなかったとしても、それがあの女子達であったとしても、違ったとしても、誰かに、こんな無様に濡れた姿を見られた途端、私は終わりだ。早く。どうして?どうして下りて来るのか。どうして今、この時でなければならないのか。
 ずるずると滑りながらもあと一歩の所で転ばずに、なんとか階段を下りきることに成功したが。ぐちゃぐちゃと私のの足音が早まる度に、カンカンと比例して上からの足音は早まった。泣きだしたい、どうして下りて来るのか。泣き出したい、どうしてそんなに早いのか。溢れてきた涙を袖で拭う。やっぱり意味はなく、目の周りが湿っただけだった。
 あああ、転ぶ、もうこれ転ぶ、と頭の中で思いながらも生徒玄関へ向かう私は、ぐちゃぐちゃで。
 「?」
 その声に「あ」。鳥肌だ。
 靴底が高い音を立て。私は振り返る、怯えながらそれでも振り返る。
 「なに逃げ回ってんだよ」
 悲鳴も出ない。私の喉の奥でぐるぐると何かが鳴った。目頭が熱い。目の奥も熱い。
 一番会いたい、それなのに一番会いたくなかった人に会ってしまった。それで、安心してる私は一体。また泣き出しそうな私は、一体。
 「景吾」
 景吾はけーご、じゃねぇよと言って笑いながらカンカンと階段を流暢に降りてきて、立ち尽くす私の前で立ち止まった。景吾を見上げるが目を見ることはできず、目の下のほくろなんかに、ぼんやり目を向けていた。
 「え、なんでそんな濡れてんの」
 私は言葉に詰まったが。景吾はあまり気にしない様子で深追いもせず
 「透けてんだよ」
 と私の濡れた制服に苦言を呈しただけだった。
 彼は気付かない。私がどんなに体に傷を作ろうと、こうやって水浸しになっていようと、イジメの事実や、その原因が自分の人気だということに、一向に気付かない。そしてそれでいと、私は思う。
 彼に。抱きついてしまいたいと思った。だけどそれができないのは。学校という環境の呪縛。
 「なんでここにいるの景吾」
 「別に」
 「授業は?」
 「俺は授業なんか出なくてもやっていけんだよ」
 「そうだよね頭良いもんね」
 「お前に言われたくねえよ全国模試1位女」
 と景吾が私の濡れた頭に、軽く叩くように手を置き
 「に教科書借りようと思って教室行ったのに、お前がいなかったから」
 と言ってやわらかに微笑んだ。
 「やる気失せて。ふらふらしてたらお前が階段下りてくの見えて」
 「うん」
 「お前が逃げるから。必死で追いかけた」
 「ごめん」
 「ごめんじゃねぇよ」
 「だってこんな水浸しなの、誰かに見られたくなかったし」
 気付かない景吾を目の前にして。それを口に出すと涙が出そだった。
 なんでこんなひどい目に遭ってるんだろう、どうしてこんな姿を景吾に見られなきゃいけないんだろう、景吾は私のこういう場面に出くわしてもなにも気にしない顔をするし、やはり気付かないけれど。そんなことは知ってるけれどこんな姿を、好きな人に見られるのはつらい。
 俯くと。私の言葉が不愉快だったのだろうか景吾は低く唸って私の両腕を引っ掴み、そのまま後ろの壁に私を押し付けた。痛い。痛いのに悔しくも悲しくもない、だって相手は景吾で、私の彼氏で。
 景吾がアタシの耳元に口を近付け
 「俺にはお前の全部見せてくれたって構わないけどな」
 なんて囁くから。鳥肌が。
 冷え切った耳朶をじくりと噛まれ、ドキドキしてるうちにキスをされ、私から離れるといつも通り不敵に、景吾は笑った。
 「もう帰んの?」
 「うん」
 「じゃあ俺も帰る」
 景吾は。私の彼氏はそう言って、ひとつの躊躇もなく私の手を引いた。ぐちゃぐちゃという足音と、カンカンという足音が交じり合い、共に生徒玄関へ向かっていくのを私の噛まれた耳は、確かにとらえていた。

 小学校の卒業式と、こんなにも状況が変わってしまうとは思いもしなかった。一緒に泣く友達のいない私は、卒業アルバムの裏表紙に誰からのメッセージも書いてもらえなかったし、思い出話に華を咲かせられなかったし、そして楽しかったことをなにひとつ思い出せないでいる。泣き笑い大声で友情を確かめ合う女子達は今日、私を構う気にもならないらしい。妙に楽しそうに笑い合う男子達。いつも通りに私に、見向きもしない。
 「このクラス、40人全員で過ごした3年間は、私達の大切な宝物です」
 と、卒業式の壇上に上った私達のクラスの会長がそう答辞を読んでいた。40人の中にアタシは入っているけれど、40人と言った会長の頭には私なんて入っていないだろう。
 「私達は母校を忘れません」
 と、卒業式の壇上に上った景吾が学年代表として卒業生挨拶を読んでいた。私はすぐにでもこの学校と、この学校での出来事と、この学校の生徒達を忘れたいと思っていた。
 進学する高校別に生徒の名前が呼ばれ、私と景吾だけが名前を呼ばれた瞬間このまま、景吾と一緒に消えてしまいたいと思ったけれど。あと一時間でも我慢すればそうすれば、消えずともふたりでいられるのだここを立ち去ることができるのだと思い、私は周囲の女子から送られる痛いくらいの視線に、耐えていた。
 卒業式も、クラスのくだらないHRも、じんわり目を潤ませた担任の挨拶も、花束贈呈も、終わった。みんなわらわらと下校していく、仲の良い友達と群になって、笑ったり泣いたりおしゃべりしながら、互いの姿をカメラに収めたりしながら、みんなわらわらと満ち足りた顔して最後の下校をしていく。きっとこの学校は最高だったとでも考えながら私と正反対のことを考えながら、そうしているのだろう。もっとここにいたかったとか、三年間なんて早かったとか高校入ってもたまに遊びに来ようとか、ありきたりなことを考えながら。私は。
 私はやっと終わった、と安堵している。やっと卒業した、と安心している。もうここに来なくていいのだ、この一年のような生活をもう送らなくていいのだ、かわいい声の悪口に耐えなくていいのだ、と私は思いながら、誰もいなくなった教室に残り、窓からみんなが校庭を抜けて飾られた校門をくぐってどこかへ消えて行くのを見届けている。
 散々だった。これからは、景吾とだけ。ひどい目に遭った。けれどこれからは、景吾とだけ。
 大きく伸びをする。後ろの席の女子も、仲がよかった女子も、跡部様親衛隊も、なにもかも、もう全部ごめんだった。卒業おめでとう、なんて。本当におめでとうという感じだ、むしろ、卒業ありがとうと、私は言いたい。
 いつか。中学校の頃すごくかっこいい子と付き合っていて、女の子みんなを敵に回しちゃって大変だったとか、中学校の頃は全然友達いなかったけど、やっぱりいないと寂しいものだったとか。大きくなった私は考えたりするのだろうか。いつか。さん中学校の時に意地悪ばっかりてごめんねとか、跡部様親衛隊の子に同窓会で言われたりするのだろうか。その時私はううん全然いいんだよ、みんな景吾好きだったよねなんて、笑い返せるのだろうか。
 どうでもいいや、と私は思った。未来なんてどうにでもなるし、しかしわからないのだから、だったらどうでもいいやと、私は思った。
 さあそろそろ帰ろうかなんて。思ったその時にがらりと教室のドアが開いて、私は思わず身構えた。まるでパブロフの犬、私の中学生活での訓練のたまものはきっとこれだろう。誰かわからない人が近付いてきたことを察した時の、私の情けなさといったら。その怯えといったら。
 「
 振り返る。あのびしょ濡れの時の、階段での時と同じようにそこには、景吾がいた。なに食わぬ顔でもって。
 「景吾」
 「けーご、じゃねぇよ。ずっとここにいたわけ?」
 「いた」
 「探したじゃねえか。ばか」
 景吾はてくてく歩いて教室に入ってきて、それでも笑う。私の方へと歩み寄り、さきほどまでの私と同じように窓から、みんなの下校を見つめた。
 「前から思ってんだけど」
 「なに?」
 「お前。なんでいつもひとりなの?」
 悪気なんて。わずかにもない様子で景吾が尋ねた。景吾はなにも、ここまできても気付いていない。私がひとりだった理由も、私がいじめられていたことも、その原因が自分だったことにも。それでもいいと、私は思った。
 「知らないよ」
 つらかった、つらかった、つらかった、つらかったと。過去形になっているのが、嬉くて。ふたりきりの教室で安心して、涙が出て、卒業したから泣いてるんじゃないよと小さく景吾に言い訳しながら、やっとやっと、彼に抱き付ける。わけわかんねーと呟いた、鈍感な貴方。



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2006.3.21/2014.6.30加筆修正