ひとりでいると包み込むような穏やかさと、突き刺すような孤独が一時間ごとに交互になって襲ってくる。そのどちらも、アタシを教室へは向かわせなかった。







 アタシは多分尽くしたはずだ、尽くし尽くしたはずだ。そして完璧に満ち足りていた。最愛の人だと思っていた、これ以上の人はいないと。アタシと彼はこのままずっと一緒にいて、少女漫画のように学生恋愛の末 将来結婚するのだと思っていた。喧嘩ひとつなく、ぴたりと息が合い、いつだって幸せで、不穏なものはどこにもないと、心の底から感じていた。けれどそれらは思い過ごし、ただの自惚れ、浮かれた盲目、この関係もありきたりな気の迷いのような学生恋愛であったことが、ああして彼にふられた現実により知らされた。幸せだったのは私の頭の中だけだったのだ。舌の付け根がぴりりと辛かった。
 付き合って一年弱。ふいに終わってしまった恋愛に、初めての交際に、アタシは対応できなかった。こういう時どうしたらいいのかわからなかった。「ごめん別れよう他に好きな人できた」、といつも通りアタシを家の前まで送り届けてからそう言った彼の言葉以降、アタシは今生きているこの世界が信じられない。涙は出て、アタシは自分の部屋の隅でえぐえぐ言ったりもした。けれど信じられない、アタシと彼が別れた。他に好きな人ができたなんて言う。あんなに幸せだったこの一年弱は、なんだったのだろう?こういう時、どうすればいいのだろう。心にぽっかり穴が開いたような気がする時は。虚無感みたいなものを知った時は。友人に電話をして話を聞いてもらうとか?彼にメールを送ってもう一度考え直してもらうとか?それとももの悲しい音楽を聴いて感傷の浸るとか?アタシには対応策が浮かばなかった、だから自分の部屋で、小さくなって泣き続けることしかできなかった。彼とアタシは同じクラスだった、三年生の新学期、それをどれほど喜んだことだっただろう。彼があの時どんな笑顔を見せてきたことだっただろう。それもすべて終わってしまった。明日、どんな顔をして教室へ出向き授業を、受けたらいいのだろう。学校へ行きたくない。アタシは初めてそう思ったし明日なんか、来るとは思えなかった。
 それでも日は暮れ夜は明けて次の一日は始まったし、アタシは学校へ行く。単純な義務感でもって、行かねばならないと。ひとりで登校し、ひとりで靴を履き替え、ひとりで教室へ入った。昨日、結局アタシは誰にも連絡を取れなかった。ふられた、悲しい、どうしたらいい?と女友達に打ち明けられなかった。それなのにもうすっかり、アタシと彼が別れたことは知れ渡っていた様子で、自分の席に着くなり女の子達がわあわあ寄ってきて、ちょっとーだとか物知り顔で肩を叩いてくる。アタシは泣きそうだったがそれを耐え、もう意味わかんないとか言いそうだったがそれも耐え、なんと気丈にも笑顔で大丈夫だよーだとか答えて、HRが始まるのを待っていた。遅刻ぎりぎりで黒板側のドアから彼が、元恋人の彼が入ってくるのをアタシは目にしてしまった。その彼がいつも通りの顔をして、それなのにいつものようには、こちらを見なかったのも目にしてしまった。数秒遅れて担任がやって来て出欠を取る。以上、起立、礼。と担任が声をかけHRが終わった時、アタシはもう義務を果たしたような気がした。学校へ来た、出欠の確認も受けた、こんなにもつらいのに。アタシはえらい、もうここにはいたくない。大好きだった彼がいる教室には、耐えられない。
 一時間目は教室で数学かなにかの座学であったようだったがそれが始まる前の5分の間に、トイレにでも行くような顔でアタシは教室を抜け出し、そしてそこには戻らなかった。昨日泣きすぎたせいかずっと頭の真ん中が痛かったし、かみ過ぎた鼻の下はひりひりとするし、目は腫れていた。教室を抜け出し授業を放棄して、しかしどこへ行けばいいのかわからなかった。とりあえず人のいないところ。そう思うのだがそれがなかなか難しい。美術室は鍵がかかっていた。女子トイレにはC組の不良っぽい女の子達がいたし、理科室は二年生の授業中、屋上になんかはアタシごときが行けるわけがないだろうし音楽室はあのベートーベンの肖像画が怖く、それで保健室には、保健医がいる。どうしよう家には帰れない、無断で早退なんてしてきたら家族がなんて言うかわからない。怒られるのならまだいいが学校でなにかあったのかとか、変に勘ぐられて心配されては困る。そう思いふらふら校内を歩き回り、たどり着いたのは体育館の鉄製のドアの前。いちかばちか、押してみるとそこは開いていて、そして誰も、いなかった。
 やっと、やっとゆっくりひとりになれる。そう思ったのは一瞬で匂いすらしない、静かな体育館の広さにアタシは恐れおののいている。アタシは昨日、ずっと部屋の隅で灯りもつけず小さくなっていた。そうしているのが一番落ち着くように思えた、安全であると感じた。でもここは広いし、明るすぎる。もっとぎゅっと詰まっていたい、こんなだだっ広いところで小さくはなれない。それでもアタシは上履きの底をきゅっきゅと鳴らしながらそこへ進み、気付いた時には、器具庫のドアを開けていたのだ。まるで無意識で。
 そこは薄暗く、湿っぽかった。乱雑に授業道具や部活の備品が積み上げられていて、快適な狭さを作り出している。ここだ、アタシにはここだ。そう思いしばらくその中を検分していた、しっかりとドアを閉めた後、小さな窓から入るうっすらとした灯りだけを頼りに。走り高跳びなんかの着地に使うであろうマットに腰かけたりしていたが落ち着かず、そうなるとふらふらと器具庫の中を動き回わり数分後には、跳び箱を崩してその中に体育座りで収まり、天井を見るでもなく見てぼおっとしていた。明日からここで本を読もう。そう思った。

 恋愛小説なんて読む気にもなれず、アタシは小難しい「十代で読みたい言わずと知れた名作」みたいなものばかりに手を伸ばす。ドストエフスキー、ゲーテ、それとも司馬遼太郎とか。意味なんてわからなくていい、話の筋道なんて気にしていなかった。言葉がするするアタシの中に、入って来てアタシの中にできた、ぽっかりした穴を埋めてくれさえすれば。それらの中のとある一行を読んでアタシは時々泣いていただろう。先人たちのしみじみ身に染るらしい言葉達がそうさせたのではない。ほとばしるような共感を得たわけでも、なにかに気付かれたわけでも、撃ち抜かれたわけでもない。アタシはただ、泣く理由が欲しかったのだ。自分の現状を悲観し、涙する理由が。私は詩や物語に登場するそれらしい言葉の数々をまるで理解しないまま、しかしそれらがさも自分の現状とリンクしたかのように思い込み、書かれていることが全てアタシに向けられたかのように故意に錯覚して泣いていただけだ。アタシは被害者面をし、自分ひとりが正しくかわいそうであるように思い、偉人達を味方につけたかった。教室へは朝のHRの時間だけ顔を出し、あとは器具庫へ向かってペンライトを用い本を読む。それがアタシなりの失恋への対応だった。
 その日アタシは読んでいたユングの自伝が、もう少しでアタシを泣かせそうな気がして急いていた。早く早く早く、アタシの眉間に皺を寄せさせてくれ、鼻の奥をつんとさせてくれ、目に映る活字を歪ませてくれ、かわいそうなアタシをさらにかわいそうにさせてくれ、浸らせてくれ。そういう風に、劇的な(ような気のする)一文を求めアタシは猛烈な勢いでペンライトを走らせ、文字を追い、ページをめくっていた。
 だからアタシはあの時、本当に彼の来訪に気付いていなかったのだ。器具庫のドアが開いたことや足音がこちらへ向かってきたこと、仁がアタシのすぐ近くで立ち止まったことになどまるで。アタシはただ、目の前のユングを追うことに夢中で、ただ泣きたくて、自分とユング以外の全てをシャットアウトしていた。なにしてんの、そんな声をかけられた時でさえ、はっとはしなかった。ユング、アタシ、ユングの心理学、かわいそうなアタシ、世界は確かにそれだけで、その声は遠い宇宙か、異世界から届いたように聞こえていた。アタシは一応顔を上げたが、そしてそこに立っていたのが同級生の亜久津仁であることを認めたが、頭の中は完璧にぼんやりとしていてやあだなんて、初めて使う挨拶なんてしてしまった。わあもこんにちはもどっか行っても、その時のアタシにはなかった。ユング、アタシ、涙、やあ。
 そうなってしまった以上自分の力でそこを抜け出すのはなかなか難しく、だから仁がその後ちらほらと話しかけてきてもアタシは自分の世界ともう少しで泣けそうだという感覚だけに立ち向かい、朦朧としたまま適当な返事をしていた。たまに彼の方を向いたりもしただろうが、その視界には全く現実味がなかった。ねえ今忙しいから、泣きそうで、泣きたくて忙しいから帰ってよ、そういうことさえアタシは言わない。仁は世界の外側にいて、読書の邪魔にもならなかった。

 仁は次のチャイムが鳴るまでアタシのすぐ横にもたれていたように思う、ぽつりぽつりと会話もしたかもしれない。しかしそれはやはり虚ろな記憶で、確かではない。彼がいつの間にかいなくなってからもアタシはユングと向き合っていた。一時、異世界からの声が届いてしまってそれに応えたからだろうか。涙はその後も、出なかった。ふと顔を上げた時、遠くで体育館の鉄製のドアが開いた音が聞こえた。続けて体育教師の履くスリッパが床を弾きぱたんぱたんと鳴っているのも。次はどこかのクラスで体育か。ここに居座り続けて九日、アタシは体育教師が自分の受け持つ授業の二十分前には体育館へ来て、教官室で準備をするシステムを充分に把握していた。出入り口のものとは違う、教官室の木製ドアがぱたりと閉まる音を聞いて、心の中できっかり六十秒数えてからから立ち上がった。次の授業が始まる前に、彼に姿を見られないようにして、ここを出なければならない。
 体育館が使われている間、アタシは大体の場合一階の、西棟端にある女子トイレに身を潜める。一番奥の洋式トイレに。一階西棟にはなにもない、いやなにかしらの部屋はあるのだがそれは暗室だとか、相談室だとか、会議室であって授業中に、使われる要素のないものだ。だからアタシはこれまで、体育館へいられない間ここで読書を続けていたが誰ひとりとして、このトイレを使いには来なかった。
 便座のふたを閉めたままその上に腰を下ろすと、ユングに対する渇望が一時的に失せていることに気付いた。それは九日間本を読みっぱなしであるが所以の目の疲労からくるものであったり、肩の凝りからくるものであったり、ふと自分以外の世界が見えてしまった絶望からくるものであったり、どうにも涙の出ない自分への悔しさからくるものであったりするのだが、そういうものはいつもすぐに消えてしまいアタシは、また読書へ戻っていける。ふうとひとつ息を吐き、閉じた詩集を膝に乗せ目をつむっていた。じんじんと眼球の奥が痛い。首を回すとごりごりと音がする。この詩集もきっと今日中に読み終わってしまうだろう、明日はなにを読むべきか。あの湿っぽい器具庫の中で、跳び箱の中で。
 芥川かな、と思いついた時ふと、先ほどの来訪者を思い出していた。本を閉じてしまったアタシには、その様子を思い起こす余裕がわりとある。あれは確かに亜久津仁だった、同級生の男子で、確かB組の。彼はアタシのことをきっと知らないだろう、これまで一度たりとも関わった記憶がなかった、言葉ひとつ、交わした記憶がない。彼とアタシは違いすぎるのだ、まごう事なき不良である仁と、生徒会長なんてものを望んでやるアタシ。共通の友達みたいなものだってほとんどいないかもしれない。けれどアタシは彼の顔や、名前を知っている。それは彼が一年生の頃から不良で目立つ存在だったから。ただそれだけだ。
 きっと失恋をしなければアタシは一生涯、授業をさぼるなんてことはしなかっただろう。失恋をしなければ教室にいたくないだなんて思わなかっただろうし、跳び箱の中に座り込むなんてこともしなかった。そして仁みたいな男なんかと、関わる機会もなかったはずだ。仁と関わった?このアタシが?それはただの人間同士の接点でしかないはずなのにそれは、アタシの心をわずかにでも動揺させている。きっと素面の、いつものアタシであったなら彼とあんな風なやりとりはできていなかっただろう、彼が隣で立っていることにすら、耐えられなかっただろう。わあ不良だ、亜久津仁だ、そう思った瞬間にその場を後にしたに違いない。アタシは、朦朧としたまま関わったが故に彼を馴れ馴れしくも仁と呼んだこと、そして今も頭の中で彼のことを仁と呼び続けていることに気付き、愕然としている。アタシの世界の偉大さよ、無限の可能性よ。なんて素晴らしく、虚しいのか。思っている内にむくむくとユングへの欲求がわいてきた。アタシは膝の上であたたかくなった詩集を開く。世界はまた始まった。

 家に帰り携帯を開くと毎日、何通ものメッセージが届いている。アタシは学校へ携帯を持っていかない。けれどアタシの友人達はそうでもなくて、授業中だろうとなんだろうとアタシに、メールを送ってくるのだ例えアタシが携帯を開くのが夕方であっても。今日もずっといなかったけど大丈夫?話きくよ?電話してもいい?どうしたの?同じような内容の複数のメール全てに目を通し、元恋人からのメールはそこに一切なく、そういうことを気にしている自分をもはやなんとも思えず、女友達に大丈夫だよとか、返事を返していった。授業をさぼってどこにいるかは書かなかった、毎年毎年不良みたいな生徒が生まれていく山吹の教師達はゆるく、アタシが数日授業をさぼり続けてもなにひとつ言ってこないしHR後に廊下を歩きはじめるアタシを見てもなにも言わない。けれど彼女達は、アタシがどこへいるか知ればそこへ、きっとやって来るだろう教室にいたくない、とりあえずひとりになりたい、しかし複数のメールに幾分心を落ち着けているアタシの元へ。今、アタシはそれを望んでいなかった。ひとりで本を読みたい、自分の世界にいたいのだ。それで多分彼女達が心配してアタシの元へやって来てもアタシの世界にこもるアタシは、まともな対応ひとつできないだろう。朦朧としたまま今日亜久津仁と、やりとりをしたように。

 やはり手が伸びたのは芥川で、アタシはその古臭い言葉を追っている。そうしながら芥川が自殺をしたこと、ただそれだけの事実にアタシはまた、泣かされそうな気がして急いていた。こんなことを書き記した人間が結局のところ自殺している。これを書いていた時にはもうすでにそういうことが頭の中にあったのか?思えば思うほど読めば読むほど、アタシは涙がどんどんこちらへ迫ってきているのを感じていた。
 結婚がしたい、というよりアタシを永遠に愛してくれる人がいてほしい。また一時的な活字への欲を失ったアタシは本から目を離し、向かいの器具庫の小窓を眺めながら漠然とそう考えていた。アタシの将来を示してくれる人、保護してくれる人、明確にしてくれる人がほしい、今すぐに。結婚とはなんたる安定なのだろう。実際は結婚も離婚も簡単に行われていることで結婚相手が最愛の相手であるかどうか、そこに間違いがないかどうかは、確かではない。けれど人は結婚をする時、それを意識する時、その瞬間には確かに相手を最愛だ、マイベストだ、これしかない、と思うのではないだろうか。アタシは今、そういうものがほしい。つい先日まではそれが彼だった。けれどそれはアタシの一方的な思いだったのだ。結婚したいと誰かに思われたい、誰かの良妻になり、主婦になって、愛されてることを実感して日々を過ごしたい。相手もいないのになと、自嘲していると芥川に駆り立てられた。世界へ戻らなければならない。
 その日も仁は器具庫へやって来て、昨日と同じ、アタシの横へ立ちなにやら話しかけてきた。アタシは、アタシの世界に入り込んだアタシは無敵だ、亜久津仁を仁と呼び、こうしてまじまじ顔を拝むことさえできる。芥川、アタシ、それで向こうの世界の仁のはっきりとしない言葉。読書の邪魔にすらならない不良の存在。中学を卒業したら結婚をするとまで、言い切ったアタシの無敵さと無力さといったら。それをへえという返事だけで終わらせた異世界人の仁のどうでもよさといったら。昨日、アタシの名前すら知らなかった仁は今日、アタシが生徒会長であるということを知っていた。それがどうしてなのか、異世界でなにが起きているのか、その時のアタシにはまるで気がかりではなかった。自殺した芥川、世界に閉じこもるアタシ。それ以外はぼやけたなにかで、現実ではなかった。

 ねえどこ行くの?もうやめなよ、と困り顔で尋ねてきた女友達にごめんねとだけ言い、足早に教室を出て西棟の女子とトイレへと向かう。今日の一時間目、アタシのクラスが授業で体育館を使うのは時間割を見て知っていた。だから体育館前でジャージ姿のクラスメート、もしくは元恋人、に決して会うわけにいかず、一番奥の個室で便座に座り込んでいる。回る換気扇の音をしばらくの間そこで聞いていた。もうやめなよ、と言われたところでアタシは教室にまだ残れない。黒板に向かう度に目に入る元恋人の姿に耐えられないし、大丈夫とごめんね以外の言葉を、女友達以外に返せない。そんなものはアタシではない、そんなものは明るい生徒会長ではないし、そんなものを周囲に見せるわけにはいかない。だったらアタシは姿を消すしかないし、自分の世界に入っているしかないのだ。いつか戻れる、きっと戻れる、生真面目なアタシはその内、こうしたさぼりにすら耐え切れなくなって平穏を望み、なんとかしてクラスに戻るだろう、そう思う。けれどそれにはまだ時間が必要で、アタシには今日、乱歩が必要だ、狭い隠れ家も。ごめんねもう少しだから、そう思いページを開き、活字を追っていた。チャイムが鳴ったら器具庫へ行こう、そう思った。
 器具庫にやって来るのは知る限り三度目の仁はその日、えらく疲れた様子でへなへなと壁にもたれ、そしてそのままずるずる床に座り込んだ。彼がアタシの横で、ああして小さくなるのは初めてだっただろう。仁が隣で座っている?信じられず、アタシは異世界の出来事がやや信じられず、自分の世界からあちら側へ、自分が少し引っ張られるのを感じていた。だからだろう仁が、と喋りにきた、と言ったその声はずいぶんとはっきり聞こえた。アタシは朦朧とした意識が、半分くらいそがれているような気がした。けれど残り半分は朦朧としたままで、だから中途半端に仁の言葉に驚きながら中途半端に仁を仁と呼べるまま、彼の目にペンライトの光を当てるという、悪行をやってのけている。仁がそれを痛いと言い、自分が謝っているのをぼんやりとわかっていた、半分芥川に埋もれたまま。眺めた仁は大きな男だ、こんなに彼と近付くのは初めてだっただろう、不良みたいな生き物にこんなに接近するのは。きっと煙草を吸うのだろうし酒も飲むのだろう。アタシみたいに朦朧としたまま、しかし義務感で登校するだなんてこと、一切しないのだろうだるいとか、眠いとかの理由で簡単に学校へ来ないのだろうしそれで、失恋の痛みなんか多少感じても、すぐに違う相手を見つけられるのだろう。対応策の多さと経験の多さと、諦めのよさでもって。「俺今女いない」、聞こえた彼のその言葉が、そのあっさりとした響きが、それを物語っている。恋人なんていつだって取り換えがきくものだと。くらくらとした。
 「お前さ」
 仁が声を出し、それは涼しい器具庫内に響いていた。わんわんと。
 「なに」
 「なんで授業サボってんの?」
 「だから、授業とか勉強とか必要ないの、アタシ」
 「じゃあ学校来るなよ」
 「来るよ、出席日数稼がなくちゃいけないし」
 「うん?」
 仁は理解できなかったのだろうそう訊き返し、アタシは乱歩に呼ばれ、そこに目を落としながら仁に、半分の世界で返事をしていた。丁寧に噛み砕いて。
 「出欠って、朝のHRにいるかいないかで決まるんだけど」
 「うん」
 「HRにさえ出ればあとは教室にいなくても出席扱いになるの」
 「へえ」
 「だからHRは出て、それからずっとここにいるんだよ」
 「ふうん」
 彼はその頷きで説明を聞き終えたことを示したがそこに、納得の色はうかがえなかった。それはそうだろうアタシは自分の世界にいて、仁は異世界にいて、アタシはいつも仁にまともな返事や説明をした記憶がない。いつも適当な、妄想と現実の区別なんかないようなことを喋っている、強気になって。もしかして仁は気付くだろうか、アタシが教室に行きたくないのだということを。結婚も読書の理由も言い訳か、虚言でしかないということを。けれどアタシは今、乱歩に向かっている。乱歩、アタシ、推理、文庫本。世界はそれだけだ、もう半分ではなくなってきているアタシの世界の方が、アタシの中での比率が多い。だから仁がどうとか、彼がどんな考察をしているかなんてその瞬間のアタシには、もうどうでもいいことだった。仁が煙草に火を点けなにかアタシに言っただろうアタシは、またぼんやりと返事をしていた。

 その夜、開いた携帯には誰からのメールもきていなかった。本を読まないアタシにその事実は真っ直ぐに突き刺さり、狼狽させている。昨日まであんなにメールがきていたのに、元恋人からの復縁を願うメールや謝罪文などはもちろんなかったけれど女の子達からの、優しいあたたかなメール、どうしたの?とか今日クラスでこんなことがあったよとか、そういうものはあんなにも、きていたのに。どうして?どうして突然に途切れてしまったのだろうアタシは、もう少しで教室へ戻れそうだったのにこれでは、またあそこへとアタシの距離が遠くなってしまう。会いたくないのは元恋人だけ、他はみんないつも通り、アタシが治まればきっと平穏な日々になる、そう思ってひとりで、自分を落ち着けてきたのに、どうして?
 飽きてしまったのだろうかいつまでも戻ってこないアタシに。嫌気が差してしまったのだろうかなにを訊いても明確には答えないアタシに。呆れてしまったのだろうかたかが失恋でぽかりと穴の開くアタシに。アタシは、事件が起きたからちやほやしてみたがそれがすぐに解決しないものだからと、みんなに捨てられてしまったのだろうかそれとも、これまで全てがあの恋愛と同じように、アタシの一方的な思い過ごしの友情だったのだろうか。共通の友達?そんなものはやはりアタシと仁の間にはいなかったのだ。だって友達が、アタシにはいない。アタシは初めて授業をさぼったあの日以来、初めて活字以外のものに泣かされている。

 なにもかも壊滅したような気がし、それでもお腹は減り、けれどなにを食べても味がしなかった。それをアタシは、本を読まないアタシはおかしいと思える頭を持っていてその日、ポケットにいくつもアメ玉を入れて学校へ行き、HRを受けた。恐れていた通り教室へ入っても誰も、誰ひとりとしてアタシに話しかけてこなかった。そうなることがなぜだかわかっていたアタシはこれ以上傷付かないために、顔を一切上げず、ずっと口の中でアメ玉を転がしていた。朝からいくつをそれを食べただろう、不思議といちご味だけは少しばかり、味がするように感じて何種類も持ってきた中の、いちごばかり、口に運んでいる。
 いじめられているわけではない、もちろん暴力だってないし、なんなら全て偶然でたまたま昨日誰もかれも忙しくてアタシにメールをくれなくて今日だって、話しかけてこなかっただけなのかもしれない。けれどアタシは滅多打ちにされたような気分だった、誰もいなくなってしまったようだった。その日アタシは本もないのに、朝からずっとぼんやりとしていた。このまま戻れなくなってしまったらどうしよう?初めてそう不安に思っている。教室に戻れなかったら、あちらの世界へ戻れなかったら。
 「お前って」
 そう声をかけてきた仁がまるで救いのように思えたのはどうしてだったのだろう。アタシは器具庫にいて、朝から本も読まず、ただぼおっとして、心か頭を痛めていた。けれどやはり空腹を覚え、昼休みのチャイムが聞こえてから持参した弁当を広げ、それを食べていた。味のしないお弁当を。二週間ほど前まではこれを恋人か、それとも女の子達と食べていたのに、そう思うと頭か心は更に痛み、アタシの世界はぼんやりとし続けた。本すら読めない。そのことがアタシを不安にさせ、小さくさせた。義務感はまだあり、学校へは来る。けれどHRだけ出て、器具庫にきて、それで読書すらできないし読書で、意地でも泣こうとする気も起きない。世界が終わっていくような感覚を覚えていた。アタシは幼い頃からしつけられたように音もなく弁当を咀嚼をしながら、けれどもぼんやりと絶望をしながら、それでもそちらを向いていた。やって来た仁の方を。
 「本気でいつもここにいんの?」
 「体育の授業が入ってない時だけいるよ」
 「へえ」
 仁の相槌が聞こえる、いつになく鮮明に、しかしぼんやりと。
 「うまい?」
 「なにが」
 「弁当」
 「ううん」
 昨日と同じように、数秒壁にもたれてから仁はその場に座りこんだ。それでアタシを見ていたかもしれない。アタシは本を読んでいなかった、だから今、痛烈に彼のことを意識している。けれどショックや絶望や世界の終わりにより、ぼんやりともしている。味のしない弁当を噛み続けていた。
 「今日売店やってなくて」
 「うん」
 「飯食いそびれてる」
 そう言った仁をアタシはじっと見た。そうするしかなかった。仁の方もこれしかなす術がないとでもいうように、じっとアタシを見返してきた。アタシは、別に彼にこの味のしない弁当を分けてあげようとは思っていないし、分けてほしいとも彼は思っていなかっただろう。それで決して仁にになにかを伝えようとは思ってはいなかったし、仁も伝えてほしいとも思っていなかったに違いない。アタシはまるで緩慢に、普段では考えられないほどゆっくりとは弁当を床に置き、その上に箸を並べて置いた。制服のポケットに手を突っ込んだ。そして朝から舐め続けたアメの少ない残りを取り出し、仁の方へと差し出して見せる。
 「なに?くれんの?」
 頷いた後、ああでもいちごは捨てがたいと思い、最後のひとつとなったそれを摘み取って左手に包んだ。あげられないのだという気持ちが彼にはわかるだろうか、そんなことわからなくてもいいのだが、大体アタシはなにをしているんだろう。昼食がないという仁を、不良の仁を、痛烈に意識したまま無言でアメ玉を差し出すだなんて、正気とは思えない。はらはらしたアタシを知らないまま仁は、残された四つのアメ玉を見つめていた。「ぶどう」が二個と、「おれんじ」が一個、「サイダー」が一個。しばらく黙った後、彼はそっと口を開いた。
 「俺」
 「なに?」
 「いちごがいい」
 彼がそう告げた言葉に、それ以上の意味はなかっただろう。単純に彼ははいちご味のアメ玉がほしく、しかしアタシが自分のものだと取り上げてしまったから言ってみただけだったのだろう。けれどアタシはその言葉に、仁の、きっとアタシがいちごはだめだよと示した仕草を理解していたくせにそれをねだった仁の、そのちいさな横暴さの愛らしさに撃ち抜かれている。そうユングが、ゲーテが、芥川が成し遂げなかった今を生きるアタシを、撃ち抜くということを仁が、失恋の感傷なんかすぐに切り替えるであろう仁が、アメ玉ひとつを用いて成している。アタシは恐ろしく、黙って仁を見つめ、その後黙ったまま左手を突き出し、彼の手の平に「いちご」を落とすしかなかった。その大きな手の平に。
 「どうも」
 「うん」
 彼が包み開くと湿っぽい、狭い器具庫の空気にいちご味のアメの、甘い匂いが広がった。アタシは彼の隣で撃ち抜かれたまましかたなく「ぶどう」の飴を口の中に放り、残った三つをまたポケットにしまった。それで撃ち抜かれたまま、お弁当を食べはじめた。
 「アメと弁当一緒に食って平気なの?」
 「平気」
 「あっそう」
 包みから現れた毒々しい赤い色のアメ玉を口に放り込むと、仁はそんな返事を寄こした。だってアタシは今いちご以外の味を感じられないのだ、ぶどうと弁当がなんだ、そんなもの一緒だって一緒じゃなくたって、味は変わらない、というかないのだから。そう思うがそんなこと、仁には言えない。アタシは今、まるで無敵ではないのだから。
 「お前さ」
 「なに?」
 「一緒に飯食う奴とかいないの」
 アタシは彼の方へと顔を上げた。頬をもぐもぐ動かしながら。それで首を傾げて見せただろう。
 「友達とか、男とか、そういうのいないの」
 「どうだろ?」
 「どうだろ、って」
 「友達はいないかも」
 「いないのかよ」
 「友達なんて、アタシがむこうを友達だと思ってても、むこうはアタシを友達だと思ってないかもしれないでしょ」
 「ん?」
 アタシの長い言葉に仁はなんだか戸惑った様子を見せアタシはその表情の、繊細な作りに浸ったりと忙しかった。
 「だから、いないかも」
 「なんでそんな暗いこと言うんだよ」
 「だって、確かめようがないでしょ」
 「彼氏は?」
 仁の綺麗な顔が、鋭い目が、アタシを見ている。
 「いんの?」
 「彼氏なんて」
 「なんだよ」
 「いたらこんなところに座ってるわけない」
 ああもうアタシを泣かせないでくれ、そう思えば思うほど涙は出そうで、しかし仁はこちらを見ていなかった。それが幸いだったのかそうでなかったのかわからない。アタシは仁に撃ち抜かれたのだ、確かに彼に揺るがされている。そして仁は、その日を境にぱったりと器具庫へ来なくなった、教室へ戻れないアタシを置いて。

 朝教室へ行く。HRに出て、顔も上げず、終われば器具庫へ向かい、ぼおっとするか退屈しのぎに、本を読んでいる。真夏になり、体育の授業は室内から屋外へ、それともプール授業へと切り替えられた。つまりアタシはこれまで以上に、移動の少ない快適な器具庫生活を得ることができたわけだったが。
 ひとりでいても包み込むような穏やかさはもうなく、突き刺すような孤独にのみ襲われている。しかしそれは決して、アタシを教室へは向かわせなかった。世界は終わった、アタシの世界は終わったのだ。ドストエフスキーもゲーテもアタシを救わない、泣かせもしないし最早呼びもしない。アタシはただ下校時刻まで意識をはっきりさせているためだけに本を読む。かといって家に帰ってもなにもなく、メールもきていない。失恋なんてどうでもよくなってしまった、もっと大きな不安がアタシについてまわった。教室にはアタシの居場所などないのだ、そんなものは元々なかった。そこへいまさら、あれから三週間は経ったいまさら、戻れるはずがない。仁の言った通りアタシには一緒にお弁当を食べる人間さえいない、そして一緒にアメ玉を食べた仁さえあの日から、一度もここには来ていない。開所恐怖症なのかと自分を疑い、ばからしくなって笑いそうになったのも一瞬で、あとは虚しいだけだった。そんな言葉聞いたこともなかったし、それが実在してアタシが患っていたとして、一体誰が心配してくれただろう。アタシは今確実に開けた場所が怖い、初めて器具庫に足を踏み入れた日とは比にならないくらいはっきりと、開けた体育館が怖いし自分の部屋の中央にいるのも耐えられない。教室の広さに毎朝震えている。アタシはぎゅうぎゅうに詰まっていたいとあの日から強く思う。部屋の隅、ベッドの横。それとも器具庫の中の跳び箱の中。それだけがなんとか息のできる場所でそれ以外は、アタシにはひりひりと痛かった。誰かそばにいてくれと、数分ごとに願っている。けれどアタシには誰もいなく、それは叶ったりしない。アタシは孤独にひれ伏し、なにを食べても味がせず、いちご味のアメ玉を頼りに、本を読んでいる。涙も出ないまま。
 その時がらりと器具庫の扉が開く音がした。じゃりじゃりとなにかが擦れる足音も。アタシはそれを本を読みながら、しかし意識的に聞いている、初めてのことだった。その相手が、元恋人であるとか女の子達であるとかしびれをきらした教師であるとかを、アタシは望まない。安心したいと思った。自分が仁を待っていること、そのことに気付いた時じわり、唾液が溢れ出した。









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2014.10.7