「誕生日に雨なんて」
しんとした放課後の教室の窓から曇天を見上げ、私は小さく呟いた。
雨宿
「雨嫌い?」
小さく呟いた私に同調したのかそれとも声も出すのも億劫になってしまったのか、隣で一緒に空を見上げていた仁もそう、囁くように尋ねてきた。
「なんか。気分悪いじゃん」
「へえ」
「仁は雨好き?」
「別に」
教室の窓は大きく、だから私は必要以上に雨の存在を視覚的に知らされているような間隔に落ちいる。蒸し暑いからと開けた窓からざあざあという雨音まで聞こえるし、なんて本格的な雨なんだろうかと私達はこうして、唖然としているわけだ。
「傘持ってる?」
「まさか」
「だよね、でもこれじゃ帰れないし」
「傘なんか傘立てにいくらでもあるだろ」
「やだよそんなの」
生徒玄関前に並べられた傘立てに入っている、誰がどう使ってたかもわからない傘を盗み、用いて帰るなんて私には考えられない。そんなのとても、気持ちが悪い。ぞわぞわとするどうせ、柄を持ってこちらへそれを向けて差してくれるのは仁なのはわかっているのだが。ああもしかして私は、それらしい理由をつけてただ、帰りたくないだけなのかもしれない。気付いたがしかし、もう少し一緒にいようと口にできるわけでもなく。
「止むまでいるのかよ」
「うん、でも、止むかな」
「止まなかったら泊まりだな」
呆れた調子で仁は言い、その場にぺたりと座り込んだ。どうしようもないので私もそれに倣い、座った床はひんやりとしていて、太股に鳥肌がを立たせている。そこを手のひらでさすってやっている間に仁は煙草を吸い始めていた、音もなく。仁と付き合って知ったのだが、喫煙に音は伴わない。煙を吸い、煙を吐く、けれどそれはただただ無音だ。
「けむたい」
思わず、言うけれどいつもいつも、仁はそれを気にかけたりはしないのだ。いやだってそんなん知ってて付き合ったんだろ、といった態度で。
「ねえ煙草っておいしいの?」
「それ訊くの何回目だよ」
「だって教えてくれないから」
「じゃあ自分で吸ってみろって」
「いやいいよそういうのじゃないし」
吸いかけの、半分ほどの長さになった煙草がこちらに差し出され、仁は真面目な顔をしている。私はそれを頑なに拒み、吸わない、と言ってオレンジ色の先端なんかを睨みつけている。そんな、くだらない無言のやりとりは数秒続くのだが、いつもそれは先に飽きれるか根負けするかした、彼の口元へと戻っていく。
仁は教室であまやどりすることを許諾した、けれど私達にはやるべきこともない。途端に暇を意識し、仁は喫煙中、喋ることも特に浮かばない。私は仁の鞄をあさりはじめる、まったくの暇つぶしで。彼はそのことを咎めることもなく、ぼおっと窓の外の空を見上げていた。仁の鞄の中に授業道具はない、ノートも教科書も、ペンケースすらなかった。音楽を聴く小さな電子機器だとか予備の煙草のパック、いつから入っているのかぼろぼろの100円ライター、用途不明のこまごまとした危険物が雑然と詰められていてそれなのにふわり、いいにおいがしたりするのだ。
「なんか、なに?すごいいいにおいする」
「うん?」
「なんだろ、マリン系?」
「香水?」
疑問符ばかりの言葉を交わし合い、互いの姿を目視することもないまま私は鞄をあさり続け、仁は煙草を吸い続けていたことだろう。においの根源は、香水は確かに彼の鞄の中から見つかった。アクアブルーの液体が薄っぺらい瓶の中でもう残り少なくなっている。フタはなし。鞄の中どこかで転がっているのかそれともなくしたのか、わからないがそれを取り出して鼻を近付けると強く、においを感じた。
私はなにも考えないまま咄嗟的にその香水を自分へと吹きかけている、仁が興味なさそうにそれでもこちらを見ているのに気付いていた。仁が自分の所有物に対してほとんど強い関心を持たないことを私は知っている、例えば自分の香水を誰かが断りもなく使っていようと、自分のジッポがいつの間にか友人の手の中にあっても、素知らぬ顔をしている。けれど彼はふいに自分の体を、触られることをひどく嫌がるのだ。
「仁と同じにおい」
と私はそんななんでもないことを言ったのだが、おかしなことに彼は小さく笑っていた。
私はその後自分の鞄も同じようにあさり、今日の昼休みに友人にもらったキットカットを発掘し、それを仁とふたりで食べた。常温に置いておいたそれは割っても軽快な音がひとつも鳴らず、割れたというよりぐにゃりと半端に折れただけだった。けれどチョコレート菓子であることに変わりはないと、どろどろしたチョコレートと乾いたウエハースが口の中で混ざるのを感じていた。喫煙を取りやめた仁も同じようにそれをかじり、あまいと一言、文句を言っている。その声と重なるように窓の外、雨音が強くなる。うわ最悪じゃん、と仁がまた呟いた。
「こんなの止むのかよ」
「さあねえ」
空を見る、相変わらずの曇天。雲に覆われた空を見てるとなんだか、本当にその上は青空なのか不安でしかたがなくなり、うんざりとして隣の仁を見た。それは決して私を不安にさせない。若干苛立った様子で振り続ける雨を眺める彼の横顔、その耳たぶにいくつもの穴が開いている。今日の五時間目、彼は付けていたピアスを全て、山吹一厳しい社会科教師に没収されたのだ。
「ピアス、返してもらってないの?」
「うん?」
「なんか穴だけ開いてるのって笑えるね」
「そう?」
仁は本気でそうだろうか、と思っているような顔をして自分の穴だらけの耳たぶに触れる。左耳に、左手の指で。その仕草がひどく羨ましく、私もそこに触れたくて、触ってもいい、と私はきちんと彼に尋ねた。ふいに体を触られることを嫌がる仁に。仁は私を頷くことで許可を示し、私はそっと仁の耳たぶに触れていた。穴だらけの耳に。
私の耳にピアスはない。私は自分の体に穴を開けるような度胸を持たない。それは私の知らない感触だった、耳たぶの中でへこんだピアス穴は、つまむとごりごりと固くなっているのがわかる。どうして?その理由がわからず、その感触が愉快で、私は彼の耳に触り続けている。
「くすぐったい」
彼が。そう言うので私は楽しくなってしまい、遠慮がちだった指先に力をこめ、乱暴にその耳たぶを撫でている。途端に仁が笑い出し、そのかわいらしさに私は一瞬で圧倒されてしまう。
「くすぐったがりなの?」
耳たぶから手を離して確認作業のように尋ねると。仁はほんの少し潤んだ目でアタシを見、
「うん」
と言うのだ。私はぞわぞわとしている。その仁のすべてに。
「は?」
仁が。何食わぬ顔で私の耳に触れてくる、私は別に自分がいつ誰に触られてもほとんど嫌悪感を抱かないのだが。しかしその時鳥肌が立ったのは仁の指が冷たかったからで仁の指がするりと、優しくアタシの耳の縁を、なぞったからで。
「あれ、お前平気?」
「平気、だと思う」
「なんだ」
つまらなそうに仁はアタシの耳から手を離しひとつ、間を置いた後。素早く私の脇の下に手を入れてくる。不意を突かれた私は森の野鳥のような悲鳴を上げ、身をよじりながら自分の腕の下でうごめく仁の指から逃れようとしたのだが、抵抗虚しく座ったまま後ろに倒れ、挙句頭を床に打った。こん、と軽い音が頭の中に響く、仁はやっと私をくすぐるのをやめ、覆い被さるように倒れた私の顔を覗き込んでくる。その顔は楽しそうに、中学生に相応しいそれで、楽しそうに、笑っていた。
「平気とか言ってなかった?」
「平気じゃなかった」
「だよな、涙目だもんお前」
「うん、」
負けを認め、潤んだ目を擦る。なぜだか涙が止まらない。けれどいつもいつも、仁はそれを気にかけたりはしないのだ。いやだってそんなん大した理由じゃねえだろ、といった態度で加えて、アタシの上から退いたりも、しないのだ。雨音が聞こえない。ゆっくり、ゆっくりと、なんの合図もなしにアタシ達は動いた。ゆっくり、ゆっくりと、唇を合わせた、仁の唇も。冷たかった。けれど鳥肌は立たない。どうしてだろう仁と粘膜を合わせる度に、私の皮膚は体は、弛緩していくような気がするのだ。
体を起こすとイリュージョン、とでも言いたくなるくらいに空が晴れていた。青空はやはり存在して、雲の上にきちんと在って、それで目が痛くなるくらい光っているのだ。窓に付いた水滴が反射してキラキラとしてそれに、私は目を細めている。空には。
「誕生日に虹なんて」
隣の仁がふざけてそう言った。空に虹ができていた。小さくて短くてとても七色あるようには見えないけれど、
「虹好き?」
「別に」
私の質問につまらなそうに仁は答え窓の外へ目を向けたまま
「誕生日おめでとう」
と呟いた。鳥肌が立った。雨は止んでいた。空は晴れていて、虹もまだ消えたりしない。
「帰ろっか」
私は小さく呟いた。手を繋いだ。その時、私達は確かに同じ匂いで、
---------
2006.7.12/2014.10.10加筆修正
ここへ遊びにきてくれていた方のお誕生日に宛てたもの