バレンタイン。大昔にローマで殉教した主教聖バレンティヌスの記念日。ローマでの異教の祭りと結びついて女が男に愛を告白する日となる。そしてそれがいつの間にか日本で、女の子が男の子にチョコレートを贈る、恥かしいくらい青春な日となるだなんて大昔のその、偉い人は絶対、予想していなかっただろう。
大体にしてこのクラスの、騒ぎたてる女の子の誰かひとりでもその偉人を知っているのだろうか。
甘 恋
クッキーと、ブラウニーと、トリュフと、ケーキと。一個100円のコンビニで手に入る固形チョコ、一個1000円のデパートお得意のバカ高いチョコ。去年よりも幾分増えた袋の中身を見て俺は少しため息を履いた、細心の注意を払って誰にも聞こえないように。
大体、チョコレートなんて好きじゃないのだ。板チョコ一枚食べただけで気持ち悪くて死にそうになるし、チョコレートケーキなんて人生で一度だって食べた事がない、ミルメークだって許せない。だけど今日こうやってそう今だって、
「キヨ、はい、プレゼント!」
なんて中身の知れたプレゼントを女の子に、嬉しそうな顔して渡されてしまうと、
「わ、ありがとー」
なんて俺も嬉しい顔を作って答えてしまう。我ながら、吐気のする演技力である。机の両脇にユニクロの大きい紙袋を提げてぐったりしている俺を見て、無遠慮にも亜久津は笑った。
「その量。お前どうすんだよ」
「わかんない。食べたくないけど、地球を守る為にゴミを増やしたくないし」
再度笑った亜久津は当たり前の様に手ぶらだ。この男はプレゼントなんて全部断る、演技なんてひとつもしない。ただ断る、いらないと、きっぱり、さっぱり。好きでもない女の子達に物をもらうのが気分悪くてしかたないらしいのだ、俺と違ってチョコレートであろうとなんだろうと、甘い物が好きなくせにである。もらえるだけもらってしまえばいいのに、どうせこういう男は、ホワイトデーにお返しをしなくたってそれはそれで、かっこいいとかなるんだから。
優しく健気で可愛げあるキャラで定着してしまった俺になんかは、そんな対応は絶対にできない。渡されれば、受け取る。受け取ったら、お返しをする。最高に億劫な方程式は間違いなく出来上がっておりそして、俺はそれにのっとるしかない。
女の子を可愛いな、思えたのもほんの少しの間だけだった。そのほんの少しの間に手当たり次第、女の子にちょっかいをかけたのが失敗だったのだろう、女の子は完璧に計算されたドミノ倒しのように俺の手の落ちていく。ぱたぱたぱたぱたぱた。それが面白くてどんどん、指先でちょんと押しまくっていると気付いた時には、俺の周りは見渡す限り、倒れたドミノでいっぱいになってしまった。倒れたドミノはB級映画のゾンビみたいな虚空な目で俺を見上げる、きよすみくんきよすみくんきよすみくんきよすみくん!寒気がしてもうやめようと、ちょんとドミノを押すのを遠慮したのだけど、一度始めたドミノは俺の知らないとこおろで次々と倒れていってしまった。ぱたぱたぱたぱたぱた。止めようと手を伸ばす、だけど、あまりに速度が速すぎて追いつかない。止まらぬドミノ。永遠に生み出される倒れたゾンビ達。それに埋もれる、息苦しい俺。その結果の、今日2月14日。
「彼女は元気?」
「別れた」
なんとなくした質問に、亜久津は単純な返事を返してきた。ほんの一週間前、俺と彼とその彼女で、三人一緒に遊んだはずなのに。背が高くて、年上で、髪の綺麗なナントカさん。別れた、だなんて。
「じゃあお前今年完璧にゼロなわけ?」
「うらやましいだろ」
亜久津が薄く笑う。誰にも、なにももらわず一人で過ごすバレンタイン。そうなんて、うらやましい。思えば、こいつだって結構たくさんのドミノを倒したはずなのにどうして、俺みたいな事態を招いていないのだろう。ずるい。
「ねえ、俺と人生とっかえっこしない?」
「するか、バカ」
「それかこの紙袋一つもらって」
貴方が落としたのは金の紙袋?銀の紙袋?プレゼントでいっぱいの紙袋を両手で持ち上げて見せるが、亜久津は相手にしてくれなくて、俺、帰るわ、と上着を取りに行ってしまった。はあ、とまた聞こえないようにため息。
五時間目の休み時間、周囲を見渡してみる。わいわいと騒ぐ教室中の女の子達、彼女と別れた亜久津。散々手を出しておいて、まともな彼女なんていたことのない俺を笑えばいいのだ。女の子はほとんど全てが席を立ち、あちこちにプレゼントを配って歩いている。今日だけ妙に声のトーンが高い。男子もなんだか浮き足立っていて、気味が悪い。ただ一つだけ。いつもと変わらず窓際の一番後ろの席の女の子だけが、静かに本を読んでいる。バレンタインなんて知らないという顔で。俺はまた、ため息だった。
あーあ。呟くのも面倒で、俺は数秒目を閉じた。ゆっくりまぶたを開けても目の前の状況は変わらない。放課後。やっと帰れると思って階段を降りていた俺、手摺りに袋の一つを引っ掛けて中身を階段にばらまいてしまった俺、衝撃でもう片方の袋も手から離れて同じく階段にばらまいてしまった俺。
目の前にはぐらぐらする急な下り階段と四方に飛び散ったプレゼント。放課後の遅い時間で、人がまったくいなかったのが幸いだった。これで周りにたくさん人がいたのなら、俺はまたあの明るいキャラで、場を取り持たなければならなかっただろう。今は、ゆっくりと階段を降りる。一番遠くに飛んでしまった袋を拾いに行く。プレゼントを詰め込み過ぎてぼろぼろになってしまったユニクロの袋。気を利かせた南がくれた袋だったが、こんなかわいそうなことになってしまった。
のろのろ、プレゼントを拾い集める。別にきびきび明るく振舞う必要なんてない、そのことが気を楽にする。むしろもうこのまま放置して帰ろうかとすら思ったくらいだったが、そうしたら明日から俺は学校に来れなくなってしまうだろう。
「なんかの殺人事件みたい」
声がして俺は振り返る。すっかり素になっていたから、オーバーに振舞うのを忘れてた。わ!びっくりした!なんて、俺は言えない。
「殺人事件?」
階段の上に立っていたのは同じクラスの女の子だった。唯一、今日をいつも通りに過ごした女の子、あの、窓際の席で本を読んでいた女の子だった。
「バラバラ殺人事件。チョコレートの」
にこり、と笑って彼女は足元のプレゼントを拾い始めた。とてもしなやかな動きで。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女はいくつかプレゼントを拾うと、俺の足元に置いた袋に中身を入れていく。丁寧に、中身が壊れたりしないように。そしてまた、プレゼント拾いに専念する。俺もプレゼントを拾う、そして、袋に投げ入れる。がさがさがさ。
「こんな時間まで何してたの?」
「図書委員。当番だったから」
「ほんと、大変だね」
女の子は俺の労いに微笑む。そしてプレゼントを袋に入れる、丁寧に。
「清純くんは?」
「あ、いいよ。呼び捨てで」
「清純くんはなにしてたの?」
呼び捨てにする気はないらしい。自分で呼び捨てして、なんて言っておきながら俺は、彼女に対して好感を持つ。馴れ馴れしい子は決して好きじゃない、ドミノ倒しの時に知った自分の好みのひとつだった。一定の距離感、それが俺の好きなもの。
「俺はね、女の子にちょっと呼び出されてて」
「ふーん」
簡単に頷いて女の子はプレゼントを拾っている。感想、なし。
なりゆきとして俺と彼女は教室へ戻った。そしてふたりでプレゼントの山の包装を解いていくのだだって、バラバラ殺人をなんとか始末し終えた時、彼女がお腹減ったな、と呟いたので。冗談で「これ食べようか」なんて袋を指して言ってみると意外にも彼女は乗り気になって、食べよう食べよう、なんて笑うものだからもう、そうする他なかった。
なんら関わりのないただのクラスメートの女の子と、それぞれの想いが篭ったプレゼントの中身を調べていく。なんだか仲の良い男友達とおもしろがってチョコを山分けしたいつかを思い出して俺は気分が良かった。嫉妬も下心もなく、ただ単純な空腹と、興味だけで包装紙を丁寧に剥がす彼女は新鮮だった。
「凄い。私これ食べよう。チョコレートケーキだ」
大きめなチョコケーキを発見して、彼女は嬉しそうに一緒に入っていたフォークを手に取った。うん、食べな、と俺は言う。ありがとう清純くんがもらったのにね、と彼女は言い、しかし遠慮なくケーキにフォークを突き刺した。一口、食べる。
「おいしい、これ手作りかな」
「そうなんじゃない?」
「清純くんも食べる?」
「俺、チョコレート苦手で」
抹茶シフォンをちぎって食べながら俺は答えた。ふーんと女の子は返事をしてまた一口ケーキを頬張る。彼女の一口は、爽快なくらい大きくすぐにケーキはなくなった。
「喉が渇いちゃった。さっきゼリーあったよね?」
女の子は開封済みのプレゼントを見渡してフルーツゼリーを発見し、スプーンがなかったのでそれもフォークで食べてしまった。ぬるいけどおいしい、そんな風に笑う。
「そのゼリー、よくぐちゃぐちゃになってなかったね」
本当だね。彼女は綺麗にゼリーを片付けながら返事をする。
「あんなに派手に飛んでたのにね」
「うん、あれにはびっくりした」
「またばらまかないように私がたくさん食べて減らしてあげる」
「うん、助かる」
彼女はよく食べる。見ていてこっちが気持ちい良いくらい、よく食べる。体重なんて気にならないんだろうか。それにしてもよく、痩せている。
「なんか、君って」
「私、っていうんだよ名前」
「ああ、そうなんだ、ごめんね名前知らなくて」
「なんか清純くんが謝るのっておかしい」
ゼリーを綺麗に食べ切ってさん、が首を傾げた。下の名前を知りたかったけれど訊けなかった。俺が清純くんなんて呼ばれていて、呼び捨てを拒否されたというのに彼女の下の名前を訊くのは、馴れ馴れしいだろうと俺は思う。
「で、さんって、なんだか男友達みたい。失礼かもしれないけど」
「ああ。よく言われる」
生チョコレートを食べながらさんが答えた。それは結構形崩れが酷くて、だけど彼女は食べちゃえば全部同じ!とフォークでそれを口に運ぶ。素直に爽快に。
「それで、女の子的にはそう言われるのってどう?ショック?」
「え?どうして」
「だって、私は女の子として見られてないみたい、とか思わない?」
「女の子って見られるより友達って見られる方が私は嬉しいけど」
きょとんとしてさんは答える。普通、女の子って大方そういうのを気にするんじゃないんだろうか、俺の知る女の子達は全員がそれを気にしていたように思ったのだけれど。私だって女の子だもん!とか、私だって生まれたくて女に生まれたんじゃないもん!とか。そういうことを常々口にしたりして。
「あ。じゃあさ、好きな男の子にそう言われたら、どう?」
「私好きな子できたことないから」
なんだか、愕然とした。さんみたいに普通に可愛くて、お喋りができて、健康的な女の子が、
嘘でも誇張でもなくただ正直に恋をしたことがないなんて言うのだ、愕然とした。
例えばいつかのドミノ倒しの時みたいに、甘く「素直になりなよ」なんて言って、「ホントは清純が好きなの」なんて泣き出すようなこと、さんはしないだろう。本当だよ、とまたきょとんとして答えるに決まってる。恋を知らない女の子。
「清純君はいっぱいしてるんだね、プレゼントいっぱいだもん」
「ううん、されてるだけ」
首を横に振る。目の前のたくさんのお菓子。鼻の奥が痛い、肩が凝るような あいのかたち。
さんはまた次のプレゼントを手に取る。俺を気遣ってかチョコレート味のお菓子ばかり食べてくれる。チョコレートマフィン。
「なんかの本で読んだんだけど」
ああ本いっぱい読んでるもんね、俺は答える。うん、さんはマフィンを食べながらの、もごもごとした返事を寄こした。
「それでね、愛されてばかりの人は愛されることがいやになるんだって。その他大勢の愛されたい人達の気持ちなんか知る由もなく」
「ふうん」
「そして突然、人をめいいっぱい愛してみたくなる。図々しい話だって作者は言ってた」
マフィンにおいしいおいしいを繰り返してさんは笑う。
「私はまだ愛とか恋とかよくわかんないから、あんまり理解できなかったんだけどね」
まだ愛とか恋とかよくわかんない。健全たる中学三年生の女の子からこの言葉が、嘘偽りなく発せられる。俺はとても晴れやかな気持ち。どこかのなにかの本の作者、その通り。なんだか、愛する事に疲れてしまった、俺は、愛を知らないこの子を愛したい。
とりあえず、今度さんの下の名前を知ることを決める。そしてもう一度、呼び捨てで呼んでもらうことに挑戦する。それは馴れ馴れしいとかじゃなくて、親しみの合図。
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2008.2.16/2014.6.16加筆修正
千石企画に献上、正式タイトルは「見出した幸せ噛み締めて」