目の前の女の子の言葉を俺は信じられなくて。ごめんね、と言うのが精一杯でもう、女の子が泣いたのか苦笑したのかどうだったのか、全く覚えてない暑い夏の出来事。ごめんね、そして、彼女は、消えた。




雨傘





 突然降り出した雨の中、古びた煙草屋の小さな張り出しテントの下、雨宿りをするずぶ濡れの女の子。なんて、魅力的だろう三流ドラマみたいだった。学校を出る時にちょうどこんなどしゃぶりがはじまって、大した罪悪感も抱かず生徒玄関で盗んだ傘を差して歩く、俺と亜久津。傘を持たない、Yシャツの透けた女の子は困り顔で濡れた前髪をそっと、人差し指で分けている。
 「幽霊?」
 隣の亜久津が、失礼な事を呟くのが聞こえた。女の子の耳に届いていないかと不安に思って彼の堅い背中を軽く叩き(「いってえ」)、煙草屋に駆け寄ると傘を差し出した。背後で亜久津の呆れたようなため息がある、もちろん女の子にではなく、俺に向けたものだろう。
 「
 声を掛けると女の子は、驚いたように顔を上げた。そして俺の顔を見て気を許したように、微笑んだりもした。
 「こんにちは」
 「ひさしぶり」
 「うん。ひさしぶりだね」
 例えば俺が試しににこっと笑うとも同じ様ににこ、と笑う。唇と唇の間から白い歯が覗くような笑顔で。歯磨き粉のCMみたいに。
 「知り合い?」
 隣に並んだ亜久津がにじゃなく、俺に訊く。その声には全く、感情が篭っていなくてただでさえ雨で寒いのに、少し腕に、鳥肌が立つ。ぶつぶつ。
 「中一の時同じクラスだったんだよ」
 「は?」
 「で、夏休みの後くらいに転校しちゃって。もう山吹にいないんだよ。覚えてないでしょ?」
 全然。つまらなそうに相槌を打つと亜久津は、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。女の子の前で許可も取らず煙草を吸いはじめるなんて、俺からしたらただのタブーであるが。もう火を点けてしまった彼になにを言ったって絶対やめたりしないから、なにも言わなかった。はというと彼女も彼を記憶している風でも、しかし怖がる風でもなくただにこにこと、煙が上っていくのを見ていた。「傘なくて困ってるんでしょ?」、ざあざあ傘を打ち付ける雨の音を聞きながら、反対方向に自由奔放なふたりの間に俺は割って入った。煙を見上げていた彼女は笑顔を顔に残したまま、俺を向いた。
 「うん、忘れちゃって」
 「じゃあ俺のに入れてあげるから一緒に帰ろ」
 「はあ?」
 苛立った声を上げたのは亜久津だった。
 「別に亜久津の傘使うわけじゃないからいいじゃん」
 「先帰るわ」
 そう一言。相談も反対も意見も受け付けない声色で言うと亜久津はさっさとその場を離れ、歩きだした。あーあ、と思っている俺とぽかんとしているが煙草屋の前に取り残された。一切振り返らず、歩みを緩めない彼の背中はどしゃぶりの雨の中、気持ちのいいくらいどんどんと、小さくなっていってしまった。いいの?しばらくして、が独り言のように呟いた。
 「あいつ予定乱れるの極端に嫌ってて」
 「あ。そうなの」
 「別にのせいじゃないし、いつものことだから、気にしないで」
 「不思議な人だね」
 そんな風に。彼女は俺の不良の友人を表現する。こわいとか。自己中とか無愛想とか表現される他ない亜久津のことを不思議、と言ったのはが恐らく初めてだろう。それを聞いた俺の方が不思議な、ぼんやりとした気分になる。様々な人の様々な評価を受けて人間はまた、変わるのだ。
 「まあいいや、帰ろう」
 「いいの?」
 「いいよ、全然」
 「ありがとう」
 そう言って、俺が持ち上げた傘の下へ、素早く入ってきたは濡れた髪を持ち、濡れた制服を着て、濡れた肌が、近くて。俺は少しだけドキドキする、ひとつの傘の下、俺と彼女と雨のにおいが混じる。悪くない、悪くないにおいがして。
 「家まで送るよ、って言おうと思ったんだけど引っ越しで転校したんだから家変わってるよね?」
 「うん、そうなんだけど。おばあちゃんたちがまだこっちに住んでて。顔見に来た」
 「そうなんだ」
うん、小さくは言って、俺を見上げ、に、と微笑む。じゃあおばあちゃんのところまで送るよ、俺はやや冷静さを失いながらそう言って、歩き出した。ありがとう、そう彼女は言って足並みそろえて俺の横を歩いてくる。傘の下は、狭い。
 「最近こうやっていきなり雨が降るよね」
 「うん」
 「の今の学校って、遠いんだっけ」
 「ううんそんなに。電車で三駅、って感じ」
 「へえ、どこ?」
 尋ねたけれど、は黙って首を横に傾げただけだった。言いたくないのか。俺はなんだか悲しい気持ちになる、なんでだろう。ざあざあと雨の音、その中に俺たちの歩く小さな足音。水たまりをうまく避けたつもりなのに、踏んでしまった水の音。染み込む水、濡れる俺の靴の中、手に持つ傘の柄さえも湿っているように思えるのはなぜか。
 「雨って好きじゃないんだ」
 「ほんと?まあびしょ濡れだしね」
 「なんか、山吹にいた頃を思い出すから」
 「そうなの?」
 「そうなの」
 頷いて、理由を言わない彼女。きゅ、と結ばれた唇、真っ直ぐ前を見る目。彼女がなにを考えなにを思っているのか、当たり前だけど俺にはわからない。
 そういえば、あの時もそうだったのだ。俺を目の前にして彼女は、緊張も興奮も不安も何も感じさせない目をしていた、唇はきゅ、と結ばれていて。そういえば、あの時もそうだったのだ。雨が降っていた、ざあざあうるさくて、その中で俺は彼女の言葉を聞いた。清純、そう俺を呼んで。解かれた唇、そういえば覗いていた白い歯、耳に届く言葉、清純、私、好きです。付き合ってくれる?心臓が変なテンポで動きだして、目の下が痛かったのを覚えている、そしてこれはなんなんだろう一体なんなんだろうと疑心暗鬼になって、あほみたいに彼女は可愛くてなんだか申し訳なくて、俺は確かに嬉しくて、嬉しくてでも、なにを思ったのかごめんね、そう言ったのだ。「若気の至り」、めずしく難しい言葉を使って、南がその時の俺を表現したことがある、そんな言葉で収まるものだっただろうか。
 「そういえば俺、」
 「やめて」
 静かな、さっきまでとなんら変わらない声で、が俺の言葉を制止する。優しく、優しく。
 「言わないで、あのことを思い出してるんだったら、なにも」
 「でも俺、」
 「言わないで」
 「やだ」
 子供みたいに言うと、俺は隣のの手を握る。強く。強く、は動じない、でも、小さく首を横に振っている。
 「いまさら、掘り返さなくたっていいよ」
 「そうじゃなくて、」
 「私みじめだもん」
 「そういうんじゃない、あの時のごめんねはそういうごめんねじゃなくて」
 強く、言うとは黙った。あの目で、遠くを、遠くを見ている。握る手だけが、暖かい。
 「ねえ、ごめんねっていう言葉は、返事にはならないと思うんだ」
 隣のは黙っている。黙って、濡れて頬に落ちてくる髪を、空いた手で耳に掛けている。
 「そう思わない?」
 「どうだろう」
 「だってね、考えて。付き合って下さいに対してごめんなさいって言葉は、なんの返事にもなってないよ」
 「だから?」
 「だから、」
 言葉を飲み込む。静寂が訪れて、いつの間にか足も止まる。耳を澄ませば、雨の音、ざあざあ。それだけ。
 「ねえ、俺のこと、まだ好き?」
 さっきからなんて、子供じみた言葉ばかり出てくるのか。でも俺にはその言葉しか浮かばなくて。直球勝負、お、ピッチャー、賭けに出ましたね、そんな感じ。  「嫌い」
 打たれました、やはり、打たれましたね、ええ、直球でしたからね、そんな感じ。そっかあ、とか、そうだよねえ、とか、そんなような返事をしようと思ったんだけど声が出ない。恐る恐る隣の、びしょぬれのを見る。 少し背の高い俺を見上げ、無表情だったが突然、ぱっと意地の悪い笑顔になった。
 「嘘だよ」
 目を細め、真っ白い歯を見せて、が言う。ちょっとからかってみたくて、なんて、口元を手で押さえ、笑う。
 「あー、びっくりした、俺、」
 「嫌いなわけないよ」
 「あ、うん、そうなんだ」
 「ごめんね、なんて意味のわからない返事で、私が清純を諦めると思う?」
 さっき、煙草屋の前で会ってから初めて、が俺の名前を呼ぶ。中一の時のあの、暑い夏みたいに。
 「じゃあ、あの時の返事を、言います」
 「どうぞ」
 「いいよ。俺も好きです」
 にこり、笑う。歯磨き粉、という単語しか、頭に浮かばない。






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2007.9.1/72014.6.16加筆修正
千石企画に献上、正式タイトルは「嫌いだという嘘」