今日はなにを聴いて帰ろう。そう考えただけで側坐核がかなり淫乱な具合に刺激される。




    垂涎




 委員会の集まりをさっさと切り上げ教室に戻ると、仁がひとり椅子にかけて窓の外を見ていた。四月にこのクラスが始まってから何度か席替えが催されたが彼の席はずっと一番後ろの窓際で、それはつまり不正だった。座席番号が配られたペラペラの紙を片手にクラス中が席移動を始めても仁は物言わぬ威圧感をまとってその席に居座り続ける。それを見た「窓際一番後ろ」の紙を得た人間は多少驚きや不満の表情を抱きつつ、普段から授業態度も悪ければ愛想笑いひとつしない仁に真正面から「そこきみの席じゃないんだけど」だとか苦言を述べられるはずもなく、ことごとくすごすごと、ぽっかり空いた「本来仁が座るべき」席へ向かうことになるのだった。仁は王様ではない。もてはやされてもいない。言うなればこのクラスで「幅を利かせている」、幼稚なわがままを貫くことで。
 「部活行かないの?」
 声をかけると仁はかなり緩慢な動きでこちらを向いた。西日が射し、色素の薄い髪がきらきらと光った。
 「だるくなった」
 「じゃあ帰ればいいのに」
 それもだるい。仁は言い、それから黙って私を手招いた。頭の中には、これから聴くべき音楽が延々とリピートされている。これから家までの大して長くはない道のりを歩くための音楽が、"またしがつがきたよ"と。もうとっくに春は終わったが、それでも。私は欲求に素直にひれ伏す。校門を一本出れば耳元で始まるそれを想像しただけで首から上を淫乱な気分にするがまま、恍惚と手招く仁に近寄っていく。
 「あれ見て」
 なあに?机に手をつき仁が指差した窓の外へ目を向ける私のその横顔に、じゅっと音を立てて彼は唇を押し付けた。頬でも唇でもない、真ん中のあたりに。ラブとライクの間くらいの、エロと健全の間くらいの相手のアクションというものはすべからく、こちらに判断の全てを任されたような、そんな気分になって、脳神経細胞をぶるぶると震わせる。黙って仁の顔をまじまじ見返した私のリアクションは、きっと彼の望んだものとは違ったのだろう。仁はとても美しく眉間に皺を寄せることができる。それから、とても性的に首を傾げることも。日の光に照らされる彼の瞳の色素がごく薄いことは、これまでに何度も確認しているが毎回新鮮に感じた。「えろいこと考えてた?」、仁はそう言った。
 「私が?なんで」
 「そういう顔してる」
 うっそだー。言おうとして、頭の中で流れ続ける音楽のことを思った。夕暮れの中イヤホンを耳にはめて歩きながら聴けると思うと途方もなく興奮する今日私のための音楽。刺激された側坐核は容赦なく、私の表情までそういうものへ変化させたのかもしれない。色っぽい?。そう言って仁の前の席へ座った私の側頭部を掴むようにして自分の方へ引き寄せ今度は、判断を丸投げしない正式な口付けがあった。仁は音を立てない、丁寧なキスができる。いつでも熱い舌を簡単に私の中へ入りこませることもできる。そんな気はさらさらない私に、声を漏らすよう仕向けることもできる。それで最後に、これでおわりっと言い聞かせるような軽い音を立てることも。
 「足りない?」
 圧倒的に酸素が不足しているのに薄い呼吸しかできなくなる私をいつも、仁は余裕をもった顔でぎゅっと見つめる。「足りない顔してる?」「これじゃねーって顔してる」。仁のその解答は正しくて、私はこれから聴けるであろう音楽に欲情していたのだから、もしかしていまだに不足を訴える表情をしていているのかもしれない。「仁じゃないものにむらむらしてる」、呟くと彼は舌打ちをし、こちら側へ乗り出していた体を後ろにそらし、面倒くさそうに伸びをした。宙に伸びた手の平が脱力し、指がかすかに揺れている。卑猥な手を持った男だといつも思う。指が長くて、手の平をパーの形に開いた時に円形ではなく長方形になる。無駄な肉が一切ついていなくて、ごつごつとした関節が男であることをしきりに訴えてきて、ただただ触りたくなる。この指が私の内臓の奥深くを撫でたし、これからもその機会が巡ってくる。そう思うと、目の下がじわじわと熱くなる。そんなこと言ってお前、と仁は目を細め口を開いた。
 「顔赤いけど」
 なんで?、そう言って親指で私の頬を摘むように擦った仁は不敵に見え、深く刺激的だった。ねえじゃあ一緒に帰ろうよ、気付けばそう口をついていたのだから私の欲求は、音楽よりも仁に采配を振るったのだ。





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2019.04.13